第二話 黒い影、白い手

 昼休み。円椛と凛子はお弁当を持って中庭のベンチに行こうとしていた。中庭のベンチは円椛と凛子のお気に入りの場所であり、いつもそこで昼食をとっている。


「中庭のベンチ、すごいいい場所なんだけど、夏とか冬とかは無理だよね~。さすがに熱すぎるし寒すぎる……」


「夏と冬は教室で食べればいいじゃん」


「いや、そうなんだけどさあ……。教室で食べると視線が気になっちゃって落ち着かないんだもん」


「視線?」


「え~⁈ 円椛、気が付いてないの⁈ 教室にいるとき、すごい見られてるよ⁈ 男どもに‼」


「……なんで?」


「円椛が可愛いからですぅ! 綺麗であんまり笑わない、ミステリアスな女の子って、男からしたら高嶺の花で、憧れの的なんだから‼」


「え、私、そんなに笑わない?」


「そこじゃない‼」


 そんな風に話しながら中庭までたどり着いた二人は、聞こえて来た男の大きな笑い声に驚いて立ち止まった。


「おい! こいつ泣いてんぞ‼」


「うわっ。キッショ」


「男のくせに泣き虫ですねぇ~」


 中庭で太った男子高校生を取り囲み、いかにもヤンキー風な三人組の男子たちが笑っている。太った男子は泣きながら、頭を抱えていた。


「うわ……円椛、先生呼んで来よう?」


「……」


 三人組は太った男子をボールのように蹴りながら笑っている。凛子が「ねえ……」と円椛の服の袖を引っ張った。


「……うん。凛子、先生呼んできて」


「え?」


 凛子の手を振り払うと、円椛は三人組に向かって歩き出した。凛子が止めようと手を伸ばしたが円椛の手はそれをすりぬけて行き「ああ! もう!」と言いながら、凛子は先生を呼びに行く。


「ぶっさいくな面、向けてんじゃねーよ‼」


 三人組の一人が足を振り上げ、太った男子の顔面を蹴り上げようとしたその時、円椛が持っていた水筒のお茶をぶちまけた。


「うわあっ‼」


 お茶をかけられた男子が情けない悲鳴をあげ、振り返る。三人組の視線を浴びてもなお、円椛は顔色一つ変えなかった。こんなクズ共に怯える必要もない。三人組は唐突に自分たちの前に現れた女子に驚いた様子だったが、相手がか弱い女子だとわかると顔色を変えた。


「おいおい、なんだよ」


「目障りだからどっかいってくんない?」


「ああ? おまえ年下じゃねーか。痛い目見る前にどっか行きな」


「俺らもか弱い女子に手上げるのは嫌だしな」


 相手が自分より下だとわかり、ニタニタと目障りな笑顔を浮かべる。つくづく最低な奴らだ。


「馬鹿じゃないの? 弱い者いじめしかできないような情けない奴らのくせに」


「ああ⁈ おまえなめてんじゃねーぞ‼」


「おい‼ なにやってんだ‼」


 聞こえて来た怒鳴り声に三人組が動きを止める。凛子と、呼ばれてやってきた教師が走ってきて、三人組が舌打ちをしながら逃げ出した。教師が三人組を追いかけていく。円椛は一人取り残され、ぽかんとした表情を浮かべている太った男子に近づくと、手を差し伸べた。


「大丈夫?」


「え……あ、ありがとうございます……」


 男子は少し頬を赤らめながら円椛の手を取って立ち上がった。


「円椛~‼」


 その時、後ろから凛子が円椛に飛びついてきた。


「馬鹿ぁ‼ なんでそう、いつも自分から飛び込んで行っちゃうの⁈」


「ご、ごめんって……」


「馬鹿‼ 馬鹿‼」


 騒ぎを聞きつけた生徒や教師も集まってくる。凛子は「面倒ごとに巻き込まれる前にいこう!」と円椛の手を引いてその場から二人で逃げ出した。


    ◇


 昼休みの騒ぎに巻き込まれることなく、その後はいつも通りの平穏な学校生活を送っていた円椛は、放課後、部活動がある凛子と別れ、学校を後にしようとしていた。夕日で照らされた廊下を進み、祖母のことを心配しながら歩いていく。家から出ないように言ってはいたが、そのことを忘れて出て行ったりしていないだろうか。


 その時、後ろから誰かに羽交い絞めにされ、抵抗もできないまま、円椛は教室の中に引きずり込まれた。力任せに放り投げられ、床に倒れる。目の前に立っているのは、昼休みのいじめっ子三人組だった。


「昼休みぶり~」


「……なにか用?」


「え? この状況で怯えたりしないの? 肝座ってんねぇ」


 ニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべる三人組を睨みつけ、逃げようとした円椛は、二人係で押さえつけられた。


「⁈」


「おっと」


 大声をあげようとして口を塞がれる。強い力で押さえつられ、円椛は身動きが取れなくなった。恐怖を覚え、暴れ出す。このままじゃ、襲われる。


「声上げんなよ。あんたのせいでさ、公衆の面前で恥かかされてんの」


「っ……」


「よく見たら可愛い顔してんじゃん。そのまま大人しくしとけよ」


 円椛が近づいてきた男子の股間を蹴り上げ、男が悲鳴を上げた。円椛を押さえつけている二人が円椛の足を押さえつける。


「てめえっ‼」


 股間を蹴られた男子が円椛に殴りかかってくる。誰か助けて。円椛は、そう、強く願った。その瞬間。


 円椛は全く知らない場所に立っていた。


「……え……」


 驚きで声をあげる。先ほどまでの教室は消え失せ、一面真っ白な世界が広がっている。白いキューブ状の箱のようなものが宙に浮かび、中央には真っ白な大きな木のようなものが立っていた。木の枝に生い茂っている葉の一枚一枚は、色とりどりの色に淡く光っている。


「……ここ……は……」


 あたりを見回しても円椛以外の人間はいない。そして、円椛の身体も時折ノイズが走るように揺らいだ。手は透けていて、真っ白な地面が見えている。まるで、幽霊のようだ。


「縺雁燕縺ョ縺帙>縺?」


 聞こえて来た不気味な声に振り返り、円椛が目を見開く。後ろから、真っ黒な人影のようなものが三体、円椛に迫ってきていた。


 その姿はまるでゲームの『バグ』のように揺らぎ、ノイズがはしるようにザザッという音が鳴る。黒いキューブのようなものが身体から発せられたかと思うと消え、それを繰り返していた。姿は定まらず、定期的に人ではない何かのように変わる。


「ひっ……」


 その不気味な姿に円椛が後退る。円椛が一歩動くと、白い地面から白い光が発せられ、点滅して消えた。


「諤悶′繧」


「諱舌l繧」


「縺雁燕縺輔∴縺?↑縺代l縺ー」


「な……なに……」


 円椛がそう呟いた瞬間、三体の黒い人影は一斉に円椛に襲い掛かってきた。円椛は悲鳴を上げ、人影から逃げ出す。本能的に『あれ』に捕まってはいけないと感じ、必死に人影から逃げようとするが、恐怖で足がもつれ、円椛はその場で転んだ。人影は目にも止まらぬ速さで円椛に迫ってきて、伸ばされた手が円椛に触れる。


「蜉ゥ縺代※縺サ縺励>?」


 その声は、小さな女の子の声のように聞こえた。


 次の瞬間、円椛は瞬間移動したように、人影から離れた場所にいた。中央にある大木のようなもののすぐそばに座り込んだ状態で呆然としている円椛の元に、人影たちが向かってきているのが見える。


 その視界の中に、宙に浮かぶ白い光の玉のようなものが現れ、円椛が目を見開いた。


「縺ュ縺、蜉ゥ縺代※縺サ縺励>?」


 白い光から発せられる声は、まるで頭の中に直接響き渡るような不思議な声で、小さな女の子が悪戯気に笑っているような声だった。


「……なに……」


「蜉ゥ縺代※縺サ縺励>?」


 白い光の後ろからは、三体の人影が迫ってきている。その様子に円椛が青冷めた。このままでは、奴らに触れられ、取り返しがつかないことになると、頭の中で警戒音が鳴り響いている。


「助けてっ‼」


 気が付けば、口をついてその言葉が飛び出していた。人影たちはすぐそばまで迫ってきている。たどり着かれるのは時間の問題だ。白い光はクスクスという笑い声をあげてかと思うと、小さな子供のような手に変わり、円椛が手を取るのを待つように、円椛の前に両手を差し伸べた。


「縺倥c縺、縺昴?霄ォ菴薙r遘√↓鬆よ斡」


 その声がなにをいっているのかはまったくわからなかったが、円椛は迷いなくその手を取った。そうする以外に助かる方法はないと確信していた。円椛が手を取ると、小さな手は弾けるように円椛の身体に吸収されていった。


「え……?」


 人影はもう目の前まで迫ってきている。もうダメだ。円椛がそう思ったその時、目の前に一人の男子が現れた。


 円椛はもう驚きで声も出ない。その男子は妙な恰好をしており、黒色のマフラーに付いた大きな猫耳フードを深くかぶっていた。たなびくマフラーの両端には黄緑色の肉球がついていて、派手な黄緑色のパーカーを着て、履いている黒いタイトパンツにも同じような黄緑色のラインが入っている。


 その男子は円椛に気が付いた様子で振り返る。フードから覗く薄いベージュのマッシュルームヘアーと端正な顔立ち。黄緑色の美しい瞳と目があって、男子は円椛を見ると信じられないと言うように目を見開いた。


「なんで……」


 男子が呟いた瞬間、すぐそばまで迫っていた人影が一斉に襲い掛かり、円椛が悲鳴を上げる。


 だが、影は円椛の目の前にいる男子に手を伸ばした瞬間、弾けるようにして消え失せた。


 次の瞬間、円椛はもとの教室に戻ってきていた。自分の身に起こっていることが信じられず、ただ茫然と目の前の光景を見つめる。円椛を襲っていた男子三人組は気を失って倒れていて、円椛の目の前には、先ほどの不思議な空間で見た男子が手を差し伸べていた。


 円椛と同じ高校の制服を着ていて、ブレザーの下には猫耳フードのパーカーを着ている。首につけているヘッドホンには猫の顔の模様が描かれていた。


 黄緑色の瞳が円椛を真っすぐ見つめていて、円椛は何も言えずにただその目を見つめ返した。なにが起こっているのかまったく理解できない。この男子が助けてくれたのだろうか。この人数を倒して?


「……起きてる?」


 男子が円椛の顔を覗き込む。その声に我に返り、慌てて距離を取った。だって、怪しすぎる。


「あなた……誰……?」


 円椛と同じ制服を着ているが、こんな生徒は見たことがない。他学年の生徒かと思ったが、こんなに目立つ格好をしている生徒を知らないことがあるのだろうか。


「俺は……」


「ねえ、僕そろそろ引き上げた方がいいと思うんだけどぉ……おや?」


 教室の中にもう一人男子が入ってきた。濃い青色の髪に黄色い瞳。黒いヘアターバンを巻いており、円椛を見て不思議そうに首を傾げ、ヘアターバンの下から出している左側の前髪の束が揺れる。


 耳に大量のピアスをつけ、唇にもピアスがついている高身長の男子は、円椛の目の前にいる男子と同じく円椛の高校の制服を着ているが、ブレザーは着ておらず、ネクタイも締めていない。だが、高身長でモデルのような体形のその男子の着こなしは様になっていた。


「わあ、可愛い子じゃん! よかったねぇ、君。僕たちが間に合って」


 高身長の男子は子供のような無邪気な笑顔を浮かべる。困惑しきった円椛はなにも言えず、ただ二人の男子を見つめていた。


 訳が分からない。先ほどまで自分を襲おうとしていた三人組は床で伸び、不思議な空間で恐ろしい化け物のようなものに襲われたかと思えば、目の前には不思議な二人組。脳みそがまったく追いついていない。


 円椛が呆然としていると、高身長の男子は「ああ、そうじゃなくてぇ」と猫耳フードの男子を見た。


「そろそろ行かないと騒ぎになるよぉ。ほら、行こっ! じゃあね、カワイ子ちゃん」


 高身長の男子が猫耳フードの男子を連れて教室を出ていく。教室から出る直前に、猫耳フードの男子が一瞬円椛の方を見て目が合った気がしたが、円椛がなにか言葉を発する前に二人は出て行ってしまった。


「あ、待って!」


 円椛がようやく立ち上がり、二人のことを追いかけようとしたが、足がもつれて上手く立ち上がれず、その場でよろめいた。身体が思うように動かせない。足音はだんだん遠くなり、二人は行ってしまったようだ。


 おかしな夢を見ていたような感覚だった。今起こったことすべてが現実ではなく、夢だったのではないかと思う。だが、自分の手を見て動かしてみても、それはまず間違いなく自分の手で、いま自分がいるのは現実なのだとわかった。


 その後、騒ぎを聞きつけてやってきた生徒や教師に三人組は連れ出されて行き、円椛は多くの人に心配されたが、なによりも早く家に帰りたかった。すべてのことが上手く理解できず、ただ一人になりたかったし、身体も精神も酷く疲れていたのだ。


 家に帰った円椛はいつものように祖母に声をかけることもなく、自室のベッドに飛び込んで、深い眠りについた。

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