第一章 SDJO養成所支部

第一話 正義感

 部屋に鳴り響いた目覚まし時計のアラームの音に、ベッドの上で眠っていた玄霧円椛くろきりまどかが目を開けた。あまりのけたたましさに乱雑に時計を掴み、アラームを止めて時間を確認する。午前、七時。今日は平日。高校に行かなくてはならない。


 カーテンから覗く朝日の光に数回目を瞬かせて、大きく伸びをしながら起き上がると、小さくあくびをして自室の扉を開けて外に出る。部屋の外に出て、円花が階段を下っていくと、一階のリビングから声が聞こえた。


「円椛ちゃん? 起きたの?」


 声と共にリビングの扉から顔を覗かせたのは、祖母、薫子だった。


「おはよう、おばあちゃん」


「顔を洗ってきなさいな。朝ごはん準備して待ってるからね」


 優し気な笑顔を浮かべる薫子に「わかった」と答えて円椛は脱衣所に入っていく。

洗面台に映る自分の姿を見て、寝ぐせの一つもついていない、母親譲りの長い黒髪と切りそろえられた前髪に櫛を通した。勝気でつり目がちな黒目と縁取る長いまつ毛は、周囲の人々から若いころの母親と瓜二つだと、小さいころから言われていた。その母親の顔は、今はもう、アルバムに収められた写真でしか見ることはできないけれど。


 薫子に言われた通りに顔を洗い、リビングに入ると、鼻歌交じりに味噌汁を温めている薫子を横目に、円椛は和室の奥の仏壇の前に座った。仏壇に飾られた写真に写っているのは、今は亡き、円椛の両親の姿だ。


「おはよう。お母さん、お父さん」


 警察官であった父と、身体が弱く病気がちで、それでもいつも楽しそうに笑っていた母は、円椛にとってヒーローだった。


 悪い人を捕まえ、周囲の人から褒めたたえられる父の姿は、幼かった円椛にとって、アニメや漫画に登場する正義のヒーローに違いなく、円椛はそんな父のことが大好きだった。そして、そんなヒーローを隣で支え続ける母の姿も、円椛にとってはヒーローであったのだ。母はもともと身体が強い人ではなかったが、芯のある強い女性だった。


「円椛のお父さんはねぇ、正義のヒーローで、円椛とお母さんをいつだって守ってくれるのよ」


 母は父のことが大好きで、「お父さんは正義のヒーロー」というのが母の口癖だった。誰が見ても仲睦まじい夫婦であり、良き父と母だった両親が大好きで、その幸せは永遠に続くと思われた。父がこの世を去ってしまうまでは。


 強盗が入ったという通報を受け、いち早く現場へと向かった円椛の父は、家の中でいまにも犯人に殺されそうだった、まだ幼いその家の娘を庇い、強盗に刺されて殉職した。周囲から褒めたたえられたその死に様は、まさに正義のヒーローの名に恥じない、とても勇敢なものだったが、残された円椛と母の悲しみは深かった。


 それでも、母は涙を見せることなく、円椛の目を真っすぐ見つめ、力強く言った。


「円椛も円椛の正義を信じて生きなさい。お父さんはお父さんの正義を貫いて死んだのだから。それがどれほど小さいことでも、それで救われる人がいるから」


 そんな強い母も、もともと身体が弱く、さらに心労が祟ったのか、父が死んだ翌年に、父を追いかけるように死んでしまった。


 残された円椛はまだ幼く、ひとりで生きていくことなど到底不可能であったため、母方の祖母である薫子が、円椛のことを引き取った。


「今日は帰りにケーキ屋さんに寄って、二人が好きなケーキ、買ってくるね」


 仏壇の写真に向かって微笑み、円椛はリビングに戻って、キッチンで泡を吹いている味噌汁の鍋を見た。慌てて薫子の姿を探すが、リビングにはいない。


「おばあちゃん! 鍋から離れるときは火を止めないとだめじゃない!」


 鍋の火を止め、吹きこぼれた味噌汁を布巾で拭く。するとパタパタという足音と共に、薫子がリビングに戻ってきた。


「あらあら……止めたはずなんだけどねえ……」


「……気をつけてね。本当に危ないから」


 薫子は申し訳なさそうに「ごめんね」と眉を下げている。昨日もそうだった。鍋に火をかけたままフラリとその場を離れ、円椛が気が付かなければどうなっていたかわからない。いや、昨日どころの話ではなく、最近、同じようなことが続いていた。


 おそらく、薫子にはアルツハイマーの症状が出てきている。認知症だ。物忘れがひどく、一瞬だけ、円椛が誰なのかわからないこともあった。病院に連れていき、医者から「認知症かもしれません」という診断を受けたが、薫子はそのことも忘れているようだった。


 まだ高校生の円椛には、認知症を疑われている祖母を施設に入れてあげるだけの財力もなければ、薫子以外に身内はいないため、どうすることもできない。円椛は祖母にバレないように小さくため息をつくと、ダイニングテーブルに朝食を運び、食べ始めた。


「そうだ。今日は二人の結婚記念日よね? ケーキを買ってきてあげないと」


 にこやかにそう言った薫子を、慌てた様子で円椛が止める。


「いいよ、私が帰りに買ってくるから。おばあちゃんは家にいて。前も言ったけど、私がいないときに家から出ないで。危ないよ」


「あら……そう……わかったわ。円椛ちゃんが言うなら、そうなのよね」


 薫子はあまり納得していない様子で、自分の言った言葉に円椛の胸がチクリと痛んだ。自分では認知症であるという自覚はないのに、孫に危ないから家から出るなと言われる祖母はいったいどんな気持ちなのだろう。孫のことを酷い奴だと思っていてもおかしくない。


 それでもかまわない。祖母を危険な目に合わせるぐらいなら、嫌な奴でもいい。せめて、ちゃんとした施設に入れてあげられるようになるまでは、円椛が祖母を守らないといけないのだ。


「行ってきます。おばあちゃん、本当に外に出ちゃだめだからね」


「わかってるわ。行ってらっしゃい。気を付けてね」


 笑顔で送り出してくれる薫子に後ろ髪を引かれながら、円椛は家を出た。


    ◇


 いつもの通学路を歩き、朝の街の涼しい空気が頬を撫でる。横断歩道にたどり着き、信号が青に変わるのを待っていると、円椛の隣に大きな荷物を持った老婆が歩いてきて、信号が青に変わり、大きな荷物を重そうに持ち上げて信号を渡ろうとしている。


「大丈夫ですか? 持ちますよ」


 荷物を持ち上げるのに苦労していた老婆に円椛が声をかけると、老婆は「あら」と柔らかく微笑んだ。


「まあ、ありがとうね。でも、学生さんも学校に遅れたら大変でしょう?」


「大丈夫ですよ。私も渡りますし、このぐらい、どうってことないです」


 円椛は老婆が持ち上げようとしていた荷物を持ち上げる。思いのほか重い。この荷物をここまで待ってきた老婆は、なかなかにパワフルだ。


「ありがとうねえ」


 老婆は嬉しそうに笑顔を浮かべ、円椛はその表情に嬉しくなる。薫子も円椛が何か手伝いをするたびに嬉しそうに笑顔を浮かべていた。横断歩道を渡り終えると、老婆が「ありがとう。ここまでで十分よ」と言ったので、荷物を老婆に手渡す。


「優しいのねえ。本当にありがとう。これ、お礼よ」


 老婆が飴を円椛に手渡す。なんだか小さい子供扱いされているようで気恥ずかしいが、ありがたく受け取った。何度も礼をしながら去っていった老婆を見送り、円椛は学校に向かって歩き出す。


「まーどか‼」


 唐突に後ろから飛びつかれ、危うく倒れそうになる。振り返り、円椛は自分に飛びついてきた人物の顔を確認した。


「凛子……危ないでしょ」


 飛びついてきたのは高校の友達である澤田凛子。茶色がかった髪をポニーテールにし、持っているスクールバックにはジャラジャラとキーホルダーが付いている。いつも明るく天真爛漫で、クラスのムードメーカー的な存在だ。


「見ておりましたぞ~? また人助けなんてしちゃって! うちの円椛はいい子ですな~!」


「ちょっとやめてよ」


 容赦なく髪をグチャグチャにしながら頭を撫でてくる凛子を引き剥がし、円椛は髪を整えた。


「いや~! 円椛は可愛くて優しくて本当に自慢の友達!」


「……いったいどういう魂胆なの?」


 いつも以上に自分をほめちぎってくる凛子に不信感を覚え、円椛が眉を顰める。凛子は円椛の顔色を窺うように、上目遣いで言った。


「いやあ、そのですねぇ……可愛くて優しい最高の友達である円椛さんにお願いがありまして……」


「なに?」


「あの……昨日の課題写させてください‼」


 両手を合わせて頭を下げる凛子にあきれて、円椛がため息をつく。いつもこんな感じで凛子は円椛を頼ってくるが、円椛の答えはいつも変わらなかった。


「いや」


 ピシャリと言い放ち、凛子を置いて歩き出す。


「あー‼ ちょっと待って‼ 今回は本当にさぼったとかではなく、昨日は用事があって時間がなくて‼」


 凛子は慌てた様子で円椛を追いかけ、腕に縋り付いた。


「お願いぃ……!」


「……あのさぁ。いつも言ってるけど、私はそういうズルいことしたくないし、させたくないの」


「いいじゃん! みんなやってるよぉ‼」


「みんなやってたらやって良いわけじゃないし、仲がいいから許されるなんてこともない。ちゃんとやってきてる子に悪いと思わないの? 私みたいに」


「うぐぐ……円椛は本当にいい子ちゃんなんだから! 言ってることは全部正しいんだけどさ、そんなんじゃ疲れない?」


「疲れない。私は自分の正義を信じてるだけ」


「むう……でも、間に合わなかったら今度こそ怒られるよぉ‼ ねえ、お願い‼ 今回だけは見逃して‼ ね? ね⁈」


 なにを言っても諦めそうにない凛子にあきれ果て、もう一度大きくため息をつく。だが、今回は本当に困っているらしい凛子の様子を見て、少し可哀想になった。まあ、もとはと言えば、すべて凛子の自業自得なのだが。


「……答えは教えないけど、手伝ってあげる。それならギリギリ間に合うんじゃない?」


 円椛の言葉に凛子が目を輝かせる。


「本当⁈」


「……まあ、教えてもらうのはズルじゃないし……」


「大好き‼」


 凛子がまた円椛に飛びついてきて、倒れそうになったのをなんとか持ちこたえた。その後、学校に着くまで凛子はいつも以上に上機嫌で、楽しそうに話していた。


 円椛にこんなに気さくに話しかけてくるのは、クラス内でも凛子ぐらいだ。別に嫌われているわけでも、避けられているわけでもないが、仲良く話しながら登校するような友達は凛子ぐらいしかいない。


 円椛自身、自分にはどうにも近づきがたい雰囲気があるのだとよくわかっていた。幼いころからズルいことや間違っていることが大嫌いで、なんでも真っすぐに生きようとする性格は、周囲からしてみると真面目すぎて近寄りがたい。いってしまえば、馬鹿真面目なのだ。


 だが、円椛はだからと言って自分の信じていることを曲げるつもりはないし、幼いころ母と約束した「自分の正義を信じる」という約束を破るつもりもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る