第2話 血の輪

 6月の夜は短い。午前4時を前に空は白み、通りを歩く人影も区別できた。その頃にはすでに、明智光秀あけちみつひでのおよそ3000名の兵によって本能寺は取り囲まれていた。


 ――ドンドンドン――


 門をたたく音がして寺の小僧が走った。


「このように早く、どなたさまで?」


「明智光秀の家臣、斎藤利三さいとうとしみつと申すもの。毛利もうり討伐に向かう主君に変わって織田信長様にふみを持ってまいった。口上こうじょうもあるゆえ、お通しくだされ」


「織田の殿様は、まだお休みでございます」


 寺の小僧でも信長は怖い。万が一、使者を通して機嫌を損ねては、何があるかわからない。


「戦の勝敗は一刻を争う。時をかけて何かがあれば、お主が責めを追うのか?」


 戦を持ち出されると小僧には抵抗する理屈がなかった。む無く、くぐり戸をあけて見ると斎藤利三と名乗った平服の男と供の者2名が怖い顔をしてそこにいた。


「取り次ぎまする。しばしお待ちを……」


 小僧が言いかけたところ、使いの男たちは無理やり押し入り、かんぬきを外して南門を解放してしまった。


「それ!」


 彼が声をあげると、鎧兜よろいかぶとに身を固めた戦支度いくさじたくの兵たちがガシャガシャと武具を鳴らして駆け込んで来る。


 恐ろしさのあまりに小僧はその場で腰を抜かし、声もあげられなかった。


§


 南門から本堂付近まで広がった騒ぎは、客殿まで届いた。


 誰かが喧嘩でもしているのか?……表の騒がしさに蘭丸は目を覚まして身体を起こした。


「蘭丸……」


 隣の部屋から信長の声がした。彼も異変に気が付いたのに違いない。


「様子を見てまいります」


 蘭丸は真っ白な小袖一枚をはおり、静かに廊下に出て騒ぎのする方に向かった。


「兄者、あれを」


 書院の外側にいた坊丸が指した先には、桔梗紋の旗指物が揺れている。


「明智殿が……」


 明智光秀が間近にいることはわかったが、何のためにやって来たのか、咄嗟とっさに想像出来なかった。明智が信長に従って10年ほどにしかならないが、信長は明智を信頼して使っていたし、彼もそれに応えるように従順に見えていたからだ。


 とはいえ、旗指物の周囲で小競り合いが起きているのは間違いなかった。刀の切り結ぶ音がする。……おそらく謀反なのだ。しかし、なぜ?


 答えを得ないないまま、蘭丸は坊丸を連れて寝所に戻った。


 信長は既に派手な単衣を身にまとっていて、「顔を洗う」と廊下に出た。


 蘭丸は長押に掛けられた十文字槍を取った。多数の者と戦うことになるのなら、刀より槍の方が頼りになる。槍を小脇に挟み、主人の刀を手に取ると後を追った。


 信長は便所にいた。出入口には目を怒らせた坊丸が控えている。もちろん、怒りの矛先は明智光秀。彼に主の刀を預けた。


 便所の中から豪快な放尿の音がする。


 騒ぎを前に、なんと豪胆な主よ。……蘭丸は頼もしさを覚えた。


「これは謀反か?……ならば、何者」


 便所から出てきた信長が問う。


「明智殿でございます」


 片膝着いた蘭丸が応えると、「是非に及ばず」と信長は言った。それが明智の気持ちを知っているという意味なのか、相手が明智では自分の運命は決まったということなのか、蘭丸にはわからなかった。


 信長は手水鉢から水をすくうと、ざぶざぶと豪快に顔を洗った。


 蘭丸は懐から手ぬぐいを出して信長に差し出した。


「攻めろ、蘭丸」


 信長の命令に「ハッ」と僅かばかり頭を下げって立ちあがる。


 顔を洗った信長が、坊丸から刀を受け取った。


 そこに信長の槍を持った力丸が駆けてくる。


「明智殿、謀反!」


 力丸の声はひっくり返り、信長より高い声になっていた。


「わかっておる。落ち着け」


 信長が呵呵と笑った。彼は己の運命より3兄弟の行く末を案じた。


「蘭丸、坊丸、力丸。血路を開け。そして岐阜まで駆けろ」


 信長は全力を尽くして故郷に帰れと命じたのだが、3兄弟は信長の逃げ道を作れと解釈した。


「ハッ!」


 3兄弟は、それまで菩薩のようだった美しい顔を鬼に変えた。


「東門に出る。坊丸、並んで道を拓け。力丸は殿の背後を守れ」


 蘭丸は弟に命じると信長を囲んで移動を始めた。


 本能寺は堀と塀に囲まれている。外から中に入り難いように、中から表に出るのも難しい。堀に飛び込んだら上がる時に討たれるだろう。逃げるには、門から出て橋を渡るしかなかった。


 4人は客殿内を通り抜け、東の廊下に出た。そこにはすでに明智方の兵がいて、信長の僅かな護衛兵が渡り合っている。槍や刀の切り結ぶ音がそこここから聞こえた。


 鎧兜をまとっているのが明智方の武将たちで、平服でいるのが信長の護衛の者たちと、薄明りでも見分けはつけやすい。蘭丸と坊丸は、現れた明智方の雑兵を3人ばかり突き殺した。突かれた兵が叫び、血しぶきが吹くと注目を浴びる。


「そこに見えるは右府うふ、織田信長様でござるな。首を頂戴いたーす!」


 1人の武将が雄叫おたけびをあげて駆けてくる。その後に、数人の雑兵がいた。


「寄るな、下郎」


 蘭丸は負ける気がしなかった。その十文字槍は、集まる武将や雑兵と数号交えるだけで次々と突き殺した。彼の中ではいつも、「攻めろ、蘭丸」と信長の声が轟いていた。


 しかし、殺せば殺すほど、敵の数は増える。


「南無法蓮華経、我に主君の血路を開かせたまえ」


 蘭丸は念じながら戦い、1人、また1人と敵を殺した。1時間もせずに蘭丸の白小袖は赤く染まり、槍は敵の血で滑った。アドレナリンの満ちた肉体も疲労を覚えた。


 本堂や浴堂からは火が出て、空を赤く染めている。立ち上る炎で朝日が作る影が薄くなると、逃げるのはますます難しく感じられた。


 蘭丸が振り返ると、坊丸や信長の顔にも疲労が見えた。


 外で戦っては少数の自分たちは不利。しかし、客殿もいつ延焼するかわからない。それでも蘭丸は決断した。


「中へ」


 蘭丸は坊丸ばかりか信長にさえ命じて、一旦、客殿内に下がった。身体を休め、息も整えたかった。


 あちらこちらで上がった火の手のために、建物内に飛び込もうと考える敵は少ない。実際、その時は既に客殿にも延焼していた。


「息を整えたら飛び出し、一気に門まで走るぞ」


 蘭丸は弟たちに向かって言った。


「であるか……」


 信長が応じた時、背後のふすまが蹴破られ、1人の武将が姿を現した。


「我は斎藤利三が配下、安田国継やすだくにつぐ。尋常に勝負、勝負!」


 名乗った安田は、いきなり坊丸めがけて槍を突く。槍は、坊丸の右腹を貫き背中に抜けた。傷ついた肝臓は大量の血をふきだし、安田の顔を染めた。


「坊丸……」


「兄上!」


 蘭丸の声は力丸の叫びに飲みこまれる。


 坊丸の身体が泥人形のようにズルズルと崩れて床に横たわった。


「ひゃひゃひゃ、小童こわっぱ、討ち取ったリー」


 勝利に酔った安田が全身に力をみなぎらせていた。


「次はどいつや」


 そこではじめて彼は、目の前にいるのが信長だと気づいた。


「織田殿か?」


「いかにも」


 信長の返答は落ち着いていて、怒りや恐怖の色がなかった。立ち姿もアヤメの花でも眺めているようで、とても敵に対峙する姿勢ではなかった。


 一方、安田は、信長の放つ威圧感に緊張し、顔色を青くした。


「エイッ!」


 安田が威圧を振り払うように槍を突いた。それに対し、信長は動かなかった。


 ギーンとぶつかった金属同士が鳴り、火花が飛んだ。安田が繰り出した槍は、蘭丸の十文字槍と激突してあらぬ方に飛んでいた。


「兄のかたき


 叫ぶ力丸の槍を、安田はひょいとかわしたが、刹那、ドンと衝撃を受けて弾け飛んだ。無言の蘭丸の槍が腰骨を突いたのだ。


 蘭丸は転んだ安田に向かって進む。


 可愛い弟の仇だ。何度、槍を突き立てても怒りと恨みが治まることはないと思った。――人間五十年……夢幻の如く……一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか――頭の中を信長の声が過る。


 槍を右肩の上に振りかざし、穂先を安田の顔に向けた。


「助けてくれー!」


 安田の絶叫を聞いた。


「命乞いだと?……ふざけるな!」


 何と人間の勝手なことよ。……蘭丸の槍を握る手の力が抜けた。集中力も途切れた。


 その時だ。どかどかと足音を鳴らして人が集まってくる気配がした。


「蘭丸、潮時じゃ。ワシは奥で旅に出る。お前は岐阜へ帰れ」


 そう言うと、信長が隣の部屋に姿を消した。腹を切るというのだろう。蘭丸は察した。


「安田殿、いかがした?」「叫ばれたのは、お主か? 尋常ならぬ声であったが……」


 仲間に声をかけられた安田が慌てていた。


「違う。お、織田だ、信長だ」


 彼が、信長が隠れた襖を指さした。


「ここは通さぬ」


 蘭丸は両手を広げて阻んだ。集中力が戻っていた。隣で、同じように力丸が槍を構えた。


「小僧、退け!」


 鎧武者が3人、雑兵が6人……。その内の一人、安田は手負いで戦力外だ。


「我こそは森可成が遺児、成利なりとし……」


 蘭丸は名乗りを上げると一気に武将1人と雑兵2人を突き殺した。力丸も雑兵1人をやった。


 ――攻めろ、攻めろ、攻めろ……、頭の中で信長が命じていた。


 槍と槍、刀とがぶつかり合う音と建物が焼けて火がぜる音がうるさく鳴った。


「デイ!」


 蘭丸が武将の太ももに槍を突き立てて動きを止め、その首に力丸の槍が届いた時だった。


 ――ズン――


 その衝撃は一瞬だった。動けないと思っていた安田の槍が背中を突いていた。蘭丸の意識が飛び、身体がゴロンと床に転げた。


「兄上!」


 力丸の声も蘭丸には届かない。その力丸に雑兵2人が左右から襲いかかった。


「無念……」


 力丸も血まみれになり、人形のように床に崩れ落ちた。その上に、燃えた天井板がばらばらと落ちてくる。


「安田様、火の手が回っております。はよう、外に……」


 雑兵が安田の肩を支えて外に出て行く。


 ……暑い。……蘭丸は灼熱地獄で信長に責め立てられているような感覚を覚えていた。そうして瞼を持ち上げて現実に戻った。世界が燃えている。熱気で視界はゆがみ力丸の姿は見えない。敵の姿もなかった。


「殿……」


 呼んだところで返事はない。


 当然だ。すでに腹を切っているだろう。逡巡するような殿ではない。


 蘭丸は床をズルズルと這い、信長が隠れた隣の間に向かった。すでに襖は燃え落ちていて、行く手をはばむものはない。信長を思えば、燃え盛る火の熱さなどなんでもなかった。


 その部屋の中央に血だまりがあった。そこで信長が腹を切ったのだろう。その証拠に、血だまりは座っていた場所を取り巻くように輪を描いており、尻のあった場所は汚れていない。まるで金環日食のようだ。


 不思議なことに、部屋のどこにも遺体が見えない。


「殿は転生されたのですなぁ。さすが、魔王でござる。この蘭丸も……」


 何としても転生を、……蘭丸は念じた。欠けた太陽がほどなく元に戻る様子が脳裏に浮かんだ。嬉しかった。そうして笑いながら火の海にのまれた。


 1582年6月21日、和暦では天正10年6月2日早朝、本能寺は焼け落ちた。


 明智光秀は信長の遺体を探させたが、いくら探しても骨のかけら一つ見つからなかったという。一方、森蘭丸は、安田国継の手によって討ち取られたと記録が残っている。

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蘭丸、最後の夢 ――信長転生―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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