それは女物のパンツ

朝宮ひかる

それは女物のパンツ

私は見てしまった。


そう、それはとある1月1日の元旦の日

私には二人、とうの昔に成人した息子がいる。

年始は何かと忙しいと上の息子が言うものだから年末は家族で集って過ごそうなどと思い立ち、就職が決まり実家から離れて暮らす長男の地域で宿など取ってゆっくりしようかと計画したとある年の1月1日、私は見てしまった。


ところで、長男が今暮らしている地域は日本の真ん中くらいにあるのだが、人間の人柄はいいと言えるか疑問だが、なにせ景観は素晴らしい。街並みも割と美しく寺や美術館、文化遺産なども狭い範囲でひしめき合いそれらの地域を散歩するだけで何か素敵なものに触れた気になる。


家屋の屋根や壁に色制限があるらしい。統一された色の建物が並ぶ。

ここではコンビニエンスストアでさえ、出店するときは自前のオリジナルカラーを引っ込め、この地域が許す色彩で看板などを作らなければならないらしい。


そんな素敵な街並みのその片隅の一角で暮らす長男の部屋で、私は見てしまった。


なぜ見てしまったのか。

私も少し悪い。部屋を長男が借りたとき、合鍵を渡されていたし、以前に長男が暮らしていたアパートには引っ越しの際にお清めと称し、家族総出で暮らし始める前に掃除などしていたものだから、まだまだ手のかかる息子ね。などと思っていたし、そんなものが置いてあるなど夢にも思わなかった。


私は割と食べるものや使う食材にうるさいたちである。

やはり人間というのは食べたものから作られており、何を摂取するのか、どのような味付けで舌の上でおいしさを感じるのか などと考え料理することが好きだ。


自分で漢方について学んだ時期もある。東洋医学は面白い。趣味で薬膳茶なども作っている。薬膳茶と一言で言っても使う材料により効能も異なり、これを語ると割と朝までかかってしまうかもしれない。


最初は自分で飲んだり、振舞ったりしていただけの代物だったが、「近所づきあいで買ってみたら割と良かったから(何が良かったのかは知らないが。)次もお願い出来ないかしら。」などと言ってくださる近隣の方にお金をもらって作ったりしている。材料費にちょっとだけ手間賃を乗せて、そこらへんの雑貨店で売っている包装紙に包んで売るだけの質素なものだが割とウケが良く、小銭稼ぎになっている。


最近はコロナ茶などと呼び、殺菌作用のある茶葉を混ぜたものを「どうですかー?一度いかがです?」などと言い、住んでいる地域の日頃お付き合い程度に会話をするエリアの主婦に勧めてみたら、私の予想を上回る反響を呼び、自分が予想していた以上の注文をもらってしまったので、暇な時間はいそいそとコロナ茶を作っている。


ある一定の家庭を預かる主婦の(それも割と私と同じ年齢くらいの。)中には病院などでもらう薬に頼らずハーブや薬草などのオーガニック製品や日々の生活習慣の改善で病気などをなんとかしたいと考える人間が少なからず存在する。(と、私は勝手に思っている。)


そういう性質の人間は「水」「口に入れるもの」にこだわるものが割と好きなようだ。

あああ、そんな話をしていたら思い出した。年末に差し掛かる前にお願いされていた柴田さんの奥さんから頼まれた薬膳茶を作り忘れている。家に帰ったらやらなければ。


いやそれは「今気にしなければならないこと」の1番ではない。

柴田さんの家のお茶が薬膳茶になるか、それともそれ以外の急場しのぎのお茶になるかは私にとってそんなに重要な事ではない。


私にとって今重要なのは、この見てしまったものの為に抜かしてしまった私の腰と、そして見てしまった後の私と息子の在り方についてだ。


とにかく今、私は腰を抜かしてしまったと同時に、この現実を一人では抱えられる気がしない。帰京し、一緒に旅館で宿泊していた次男を呼ぶか。


なぜ夫を呼ばないのか。夫は少し「一般的な感覚」が乏しい節がある。いや、そんなことを言ってしまうと「変人」に映ってしまうかもしれないがそこまでではない。普通に仕事をし、普通に家庭を大切にし、普通に今までやってきた。


「普通・普通」と連呼しているが実は私も普通の定義がよく分からない。なんとなく一般的な家ではきっとこうだろうという予想を元に言葉を発しているだけで、定義を理解したうえで説明しているわけではない。逆にいうと「普通とは何か。」を本当の意味で説明できる人などいるのだろうか。私は一介の主婦だから、もしかしてそれを理解せずこの歳まで来たのかもしれない。

その「普通」を研究してきた人になら、何らかの明確な答えを用意できるのかもしれない。そういう人は単純にすごいと思う。だって私には出来ないのだから。


おっと、話が逸れてしまった。私の悪い癖である。ついついテーマやキーワードからその先の話が頭に浮かんでしまって元々話していた話が霞むところがある。本題に戻そう。


私の夫は、対外的にはよくできた夫、父親に属すると思う。家事などを手伝える性質ではないが、私の料理に文句も言わないし。しかし夫の一般的な感覚が乏しい点をここで説明するのは私にとって難しい。その後の時系列で読者が察してくれることを祈る。


とにかく私は夫か次男かという選択肢の中から次男を呼ぶことを選択した。

呼ばれて長男の家に来た次男は私と同様非常に驚いていた。


なぜ驚くのか。

二つの意味があるだろう。


一つ目は、長男は今三十代半ばであるのだが、生まれてこの方女っ気が一切漂ってこなかった。私が知る中では高校時代に留学で外国へ行き、たまたま同時期に留学していた他校の生徒に留学先で告白され、留学先で1日だけ公園など歩いてカップル気分を味わい(極めて淡い感じの。)その後は2年だったか3年だったか、文通をするだけの交際(ペンフレンドというのではないだろうか。しかし本人の中で「彼女」という定義であるらしいので否定する理由もなく、そういう事になっている。)を、してきたきりである。


その後、4年制大学へ行き、大学院へと進んだ。

大学院は何やら大学からさらに発展して勉強したい分野があるとかで少し前まで女子大学であった大学の大学院に行った。

余談であるが我々夫婦は一応、彼の思った通りの進学を叶えてあげられる経済力があった。それは一重にこの夫の稼ぎによるものであるし、そういった子供の教育という方向性に対して私達夫婦の間で諍いがなかったことを当時を振り返り、私はよかったと思っている。


女子大と名が少し前まで付いていただけあり、やはり在学生は女性の比率が圧倒的に高かった。ここなら地味メガネの(こういう表現をしてしまって、すまない息子よ。)女関係に冴えない長男も彼女の一人も出来るだろうと思っていたが、現実は厳しいらしく、仲良くなるどころかゼミのお嬢さんと大喧嘩をして、その後つまらない大学院生活を送ったらしい。


しかしこの頃の彼を私はよく知らない。

突然一人暮らしがしたいと言い出し、昼は非常勤の高校教師として働き、夜は大学近くのファミレスでバイトをしながら生活費と家賃を賄うと言い始め、本当に独り暮らしを始めてしまった。私はどちらかというときっと過保護な方なのだろう。

彼に一人暮らしが務まるわけない。人並みに己を律して生活していくなどできないだろうと思い反対したが彼の決意は固かった。しかも一人暮らしが始まってからというもの盆や正月など何かの節目以外には滅多に実家に顔を出さなくなった。気になり電話やメールをしてみるものの干渉されるのが嫌らしくそっけない態度で二言三言会話をしては終わってしまうという有様で、気にはなるものの彼自身が構ってほしくなさそうな気配をぷんぷんと漂わせているのにそれ以上の干渉をしていいものか私には分からなかったのだ。


なので、連絡を絶えず取るというような間柄でもなくなり、病気などせず一応は元気で暮らしているという事を知れるだけでまぁいいかという気の持ちようであったために、日々どのような交友関係の中で暮らしているのかあまり知らなかったのだ。


しかし心配とは裏はらに、それも良かろうと思う気持ちも当時あった。

家に居れば私は私なりに彼の振る舞いに気がつき何かにつけ口に出して指摘してしまう節があったし、彼もそれを鬱陶しく思っていたのだろう。放っておいてくれなどと私に度々言っていたように思う。家族というのは難しい。少し前までそのやり方で何事もなく過ごしていても子供の成長に伴い従来のやり方や在り方は反抗を招き、また新たな在り方や接し方を模索しなければならない時が来るようだ。いつまでも子供のままでいればいいものを加齢に伴い一丁前な口をたたくようになる。なら自分でやってみなさい。世間はそう甘いものではないし、それを身に染みて分かればいい。という気持ちも少なからずあったように思う。


とはいえ先ほど述べたように、盆や正月など節目の休日には実家に帰郷していたし、女性の影もないように思えたので、もうこやつは女の人とは無縁の星のもとに生まれてしまったのであろう。(なにせ9割がた女ばかりの大学院に行っても彼女どころか女友達の1人さえ作ることが難しいと見えるし。)まぁ今どきは「おひとり様」とか「独身貴族」などの言葉も当たり前のようになり、私も昼のバラエティや夜の10時ごろに観るニュースなどで目にしたことがある。そういう生き方も私たちの若いころは、そんな人間は変人扱いか、何かしら人格その他一見では分からないところに何かしらの欠落があるという目で見られたものだが、今の時代は「普通」なのだろうと半ば諦めとも悟りとも言えぬ心境に至っていた。


そういった長男であったため、なおさら驚いたのだろう。

まさか彼の住む部屋にそれがあるとは夢にも思わなかったのだ。


二つ目の理由はそれがあった場所である。


なぜそこにあったのか、正直今でも私には分からない。

仮にその部屋に存在していたにせよ「在る場所」というのがある筈だ。

どのようなものでも存在そのものに加え、そのものが存在する場所やあり方というものがある筈だ。いわゆる「らしさ」的なものだと思う。

「らしい」「らしさ」というのは文法上、助動詞という仲間になるらしく、動詞などとは異なりそれ単体では意味を成さず、何かしらの言葉の続きに付いて初めて言葉として成立するらしいのだ。そういった意味ではアレは私が見てしまったその時、あれらしくない場所に存在していたように思う。


なぜそんな曖昧な言い方をするかというと「らしさ」の価値観は人それぞれだろうと思うからだ。例えば私が赤い口紅を見て口紅らしい色だなと思ったとする。しかし誰か他の第三者からすれば、いいえ、赤い口紅など口紅らしいとは思えない。ビビットなピンクこそが口紅だ。又は、ラメがギラギラと混じっていなければ口紅じゃない。マットかグロッシーかそれが全てだ。そんな価値観も存在するだろうと思うからだ。

ちなみに私は古い人間なので、やはり赤く少しばかり潤いを装え、ケースは黒色が口紅だろうというイメージがある。今どきは様々なメーカーが多種多様に色んなケースに入れた色んな色の口紅を展開しているが、やはり私の中で口紅といえば黒いケースに少し艶のある真っ赤な口紅こそが口紅だと思う。他の色やデザインを否定しているのではない。あくまでも私の中での口紅のイメージはこうだ、という話だ。

落ちないことが良い。というのも実は頷けない。

かの有名なココ・シャネルは「口紅は、落ちる過程にこそ、ドラマがある。」と名言を残したそうだ。確かに一理ある。

こんな人生で片手の指ほどしか恋愛などというものを経験せず半世紀もとうに過ぎた私でさえ共感するのだからそういった価値観もあるのだと思う。だから、落ちないことが本来口紅の意義なのかは疑問だ。


話が逸れた。

今は口紅より息子の部屋で私が見てしまったアレと、それを見て抜けた私の腰が問題だ。

どこにあったのか。そう、それはこたつの上にあったのだ。

まさかそれが女っ気の一切ない(と思っていた)人生を歩んできた息子の部屋のこたつの上にあるなどとは想像もしていなかった。

していなかったが故に、家族で過ごす年末の旅館をいそいそと先にチェックアウトしてしまった長男の部屋に、事前に一報入れるなどという配慮も思いつかず(今から思えばすればよかったかもしれないが、その時私の脳裏にはその考えは浮かばなかった。)どうせ、たいして正月らしい食べ物も食べてないだろうし、離れて久しい実家の味が恋しいだろう。私が自分で削り出してやった鰹節と、我が家が毎年お世話になっている味噌の量り売りをしている近所の味噌屋が売っている正月用の紅白餅を差し入れかたがた家に帰る前に部屋においていってやろう。などと一人暮らしをしている長男の借りているアパートの部屋のドアを開けるその時までは思っていたものだからアレを見た瞬間、あられもない声を出して尻もちをついてしまった。


今から思えば、ドアを開けた瞬間に、息子のものであろうスリッパと明らかに息子の足のサイズより小さいサイズの色違いのスリッパが仲良さそうに並んで置いてあった時点で気づくべきだったかもしれない。

紺色とグレーだった。どこで買ったか知らないが、その色選びに落ち着きを感じる。ここでキティちゃんの健康サンダルなど置いてあったものなら、少し警戒していたかもしれない。


偏見かもしれないが、キティちゃんの健康サンダルを愛用する女性というのは、私の中では元ヤンか現役ヤンキーな女性をイメージしてしまう。髪は長髪でおおむね金髪、根元から5センチ、いや、10センチかもしれない。そこだけは地毛です。(いわゆるプリンというやつか。)日頃はキティちゃんのサンダルを履いて謎の犬の大きな刺繡の入ったセットアップのジャージで過ごしている女性の愛用靴こそキティちゃんサンダル。そんなイメージを私は抱いている。


なぜ染め直さないのか、この答えはいまだに謎である。染め直す金がないのか。いや、その染め直さないというところに何かしらのアイデンティティがあるのかもしれない。ポリシーなのかもしれない。だからと言って道行く道中で出会ったとして、出合い頭に聞けるわけもない。聞いた途端「なんやこの気持ち悪いおばさんは。」と思われるだろう。


しかしあまりにも女っ気のない人生を歩んでいた息子に女の気配などあるわけなかろうという思い込みがあり、お客さん用かもしれないしなぁ。(来る人が身近にいるのか少し疑問だが。)などと楽観視して奥へと入ってしまった。あの時の私の楽観さを少し今反省している。それもそうだ。息子もいい歳だ。三十も半ばに差し掛かり、急に住み慣れた地域を離れ、なんの由縁も無い場所で再就職先を探し、住まいを探して暮らすと言った。その時点で今から思えば何らか外的な要因が働いていたのだろうと思う。


楽観とはいいことでもあるが、時にあまり良くない事態に遭遇することもある観念だと思う。私は私のポジティブで、物事を深く考える前に行動するこの性格を好ましく思っているが、時にこういう事態に遭遇することが人生で一切なかったかというと噓になる。

今回は少し反省した。なぜなら我が家の家族の問題だけでなく、その見てしまったアレを所有している女性が、この世界に少なくとも一人は存在しており、まさか自分のあずかり知らないところで己が所有していて尚且つ何らかの事情により息子の部屋に置いてあったアレをまさか他人に、更には相手の親に見られるなどとは夢にも思っていなかったに違いない。私も腐っても女だ。それを思うと心中は穏やかでないのは察する事ができる。


自分に置き換えてみたらどうだ。私が仮に旦那の親に己のアレを自分のあずかり知らぬシチュエーションで見られてしまったとする。顔から火が出る思いだろう。しかも発見現場はこたつの上だ。なぜそこに?収納一つできない女か。あああ、考えただけでも顔から火が出そうだ。


しかし私はその光景を見た瞬間、驚き腰を抜かすとともに笑い転げてしまった。こんなに大声をあげて笑ったのはいつぶりだろう。確かに私は笑い上戸だが、新年の幕開けに相応しい笑いのネタであったことには疑いようがない。

しかも、あの女日照りの我が長男の部屋にである。桑田真澄が引退を表明した時でさえこんなに驚きはしなかった。応援で呼んだ次男も見た瞬間笑い転げていた。そんなにも我が家にとってはビックなニュースであったのだ。夫は離れた場所にいたので、リアルタイムでそのニュースを電話で報告したのだが、写真を撮って画像として送って来いと言った。いや、それはちょっと違うだろうと思って断った。


私の中で記憶に残ることと、記録に残すことは、大きく違う。そんな画像を送ってしまったものならどのような形でも当事者であるアレの持ち主のお嬢さんを傷つけてしまうかもしれない。それは笑える話にならないし、そのお嬢さんに好意を抱いているであろう息子を傷つけてしまうかもしれない。そういう心理的な配慮が私の夫は少し足りない。

それが、私が助け舟を夫に求めず、次男に求めた理由でもある。


次男はすぐ駆けつけてくれた。自分の中だけでは処理しきれない事象を他の誰かと共有できるのは素晴らしい。それを見たとき、ああ、兄さんも春が来たんだなぁなどと笑いながらこぼしていた。そう、我々家族にとってそれを見たこと自体はそんなに悲しい出来事じゃない。むしろ良かったな、何よりだなと思えるものであった。


しかし置かれていた場所が問題だ。

なぜそこに置いた。仮に持ち主である女の方が置いているとしよう。それはどういう心境でそこにおいてしまったのだ。そのこたつ机の前にはテレビが置かれていた。と、いう事はテレビを付けるとき、いつもアレが真っ先に目に入るだろう。気にならない女なのか。


自分に置き換えて考えてみよう。やはり食卓の机の上や、日頃慣れ親しんだリビングの机の上にそれがポンと置いてあったなら気になるだろう。収納すべき場所にしまえばいいのではないか。なぜしまわない。


次に仮定すべきは息子の方である。

ますます何故置いているという気持ちが膨らむ。例えば何らかの洗濯物と共に洗ってあったとしよう。しかしその他の洗濯物は置いていない。アレだけがこたつの上に置かれていた。一体なぜだ。アレを愛でるためか。そんな子に育てた覚えは…と思ったが確かに陰気なところがある息子だ。好きな女性ができ、こじらせていても不思議じゃない。(仮定だが)たいした恋愛経験や生身の女性とリアルな恋愛をしてこなかった我が息子を受け入れ、(精神的にも肉体的にも)仲良くしてくれている女性がこの世に存在しているという証明でもあるのだから何よりじゃないか。我々親とて、どう頑張っても子供よりは早く死ぬ。その先の人生を一人で過ごすか、はたまた二人で過ごすかによって人生の充実度は大きく異なっていくだろう。それを思うと邪険には出来ない。


なにせ元女子大の大学院でも(友達・彼女の如何によらず)気配の気の字もなかった男だ。これが最後の人生の春かもしれない。あまり咎めて、不仲の素になるわけにはいかない。しかしこたつの上に置くのはどうだろう。見られると思っていなかったか。だとしても誰かが急に訪ねてきたとして、招けるくらいの節度はいつも維持してほしいと願う。


しかし私には前述した可能性の他にもう一つの可能性を疑っている。

それはもしかして私の息子がアレを履いているのではないか、という可能性だ。

そういう趣味の人間が社会に存在していることを知識として私は知っている。まさか我が子がそのような性癖や価値観を持っているとは思わなかったが、実在しているそれらの人物にも勿論親がいるだろうし、女の股から生まれてきたはずだ。


私が若かったころはそういった事は公にすることが恥ずべきことという価値観が存在したが、今はジェンダーレスやLGBTという概念や在り方が社会的に認められてきたのだろう。公言する人も少なからず存在する。なにせ私は暇つぶしにティックトックを時々見ている。投稿したりはしないが、誰かが投稿している料理やデザートのレシピ動画を見るのが好きだし、薬膳茶を作っていたり漢方に傾倒のある人の動画を見るのも好きである。しかしティックトックはランダムにおすすめ動画を紹介するので、時々女とも男ともつかない人間の動画を見たりする。女性らしい男性や男性らしい女性、はたまたどちらともつかない中性的な誰かも数多く存在しているのだろう。日本は広い。


そう思うと、我が息子がそうであったとしても何ら不思議ではない。今思えば確かに昔から女々しいところやなよなよしいところがなかったと言えば噓になる。料理の手伝いなどもよくしれくれたし、夫や次男が鬱陶しそうにしていた漢方の話や薬膳茶の話などもふんふんと嫌な顔一つ見せず聞いてくれていた。最近では引っ越し当初に家電を買い替えるということで家電製品の店に行ったらしいが、どうしても炊飯器はガスがいいらしく(我が家がガス炊飯器なので。)現地で電話をかけてきて、炊飯器のメーカーを質問されたほどだ。


考えてみれば、男性らしいかと言われれば首をかしげるエピソードばかりだが、まだ本人に聞いたわけではないので断定はできない。しかしこれはデリケートな話だ。もしかしたら今日までの三十数年に渡るまぁまぁましな親子関係に亀裂が知るかもしれない。


私も一応、身近な人の話を聞くくらいの情報源だが、家族にも色々な在り方があり、決して我が家よりも皆友好的に暮らしているかというとそうでもなく、中には家族が離散してしまっていたり、相続問題などでいがみ合っていたりしているケースがあることを知っている。

それを思えば我が家は、まぁ色々と細かい衝突などはあったにせよ息子は二人とも何らかの年の節目には実家に顔を出すし、連絡を取ろうとすれば取れる間柄なのだし、そんなに悪くないんじゃないだろうかと勝手ながら思っている。


そんな関係性の息子にアレの事を問いただすのか。問いただしたところで納得する回答を返してくれるだろうか。しかし聞かずにはいられない。なにせ高校の彼女(で、あるかペンフレンドであるかは謎だが。)から起算し、実際そうであれば十数年ぶりの春だし、仮に彼の性癖だとすれば、親としてそんな彼を受け入れなければならないだろうと思うからだ。


そんな考えが頭をよぎる中、私は自分の携帯電話を取り出し、長男の電話番号に電話をかけてみた。

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