ただしい場所へと届くまで

折り鶴

 ただしい場所へと届くまで

 あいつのことで、おれが憶えていることといったらほとんどなくて、しかもそれは、とりとめなく、他愛もない、たやすくこぼれてゆきそうな、そんなことばっかりであるというのに、あらゆるひとときに浮上してきてはおれのどこかをひどく揺さぶる、だからいつまで経ってもあいつのことは忘れられない。

 浅香結生。あさかゆう。その五文字の響きがあいつの名前で、同級生はみんな彼のことを、浅香あさか、と名字で呼んでいた。数人の下級生から、浅香先輩、と憧憬を込めたような声音で呼ばれているのを聞いたことがあるし、上級生から、浅香、と親しげに呼ばれているのを聞いたこともある。つまりはおれの知る範囲の周囲の人間はみんなあいつのことを名字で呼んでいたんだけど、実はあいつは自分の名字が嫌いで、たまたまそれに気づいたおれが、結生ゆう、と名前を呼ぶと、どちらかというと素っ気なくて表情の変化に乏しいあいつが、目を見開いて、そのあと一瞬顔を歪ませて、それから咲いたばかりの花のように笑った。照れたように頬にかかる髪をいじって耳にかけた、そのときパーカーの袖から覗いた手首の骨が異様にきれいだったことは憶えている。かかりきれずにまた頬に落ちた黒い髪の一房から、なぜだかまるで目が離せなかったことも。


 二十歳になったからみんなで集まって酒を飲もうぜ、おまえぜったい前から飲んでたやろみたいなやつからメッセージが来たのがはじまり、そんなありふれた同窓会だった。高校卒業から約二年、積もる話というほど話はとくに積もってもいなくて、だいたいが彼女できたか彼氏おるんか、まあそういう話題になるわなみたいな感じの話で半個室というらしい中途半端な襖で仕切られた空間は満たされていた。

 とはいえ久しぶりに会う友人たちと馬鹿話をするのはそれなりに愉快で、馴染み深い関西弁ばかりの怒涛の喋りにつられてどんどんグラスが空いていく、そして二十歳になったばかりのおれたちはいまいち自分の限界値をわかってなくて気がつけばトイレから出てこないやつがいたり座敷で寝ているやつがいる。

 家族を見ていてなんとなくそうなのだろうと察してはいたけれど、どうやらおれはわりとアルコールに耐性がある人間のようだった。他のお客さんに謝りつつトイレに突っ伏しかけていたやつを引き摺りだして水を飲ませて、野郎はまあべつに寝てるだけならええかと思ったけど女の子ここで眠ってるんはまずくないかなあと気を揉みつつだけど起こしたところでどうしたらいいかわからないので女子の介抱は女子に任せることにする。

 そんななか、座敷の隅でひとり淡々とビールを飲んでるやつがいて、慣れたように手酌でビールをぐ仕草に目をひかれた。痩せた身体に、肩より少し下、心臓のあたりまであるつややかな黒い髪。髪に隠れてはっきり顔が見えないせいはあるけど、いやでもこんな子クラスにおったっけ? 骨張った手がグラスを持ち上げて口元へと運び、なかの液体を喉へと流しこむ、そのときに首もとをおおっていた黒髪が流れ白い喉仏が覗いて、ようやくそいつが誰だかわかったおれは思わず「あ」と間抜けな声を上げていた。

「浅香?」

 半分問うように呼べば、そいつ、浅香はグラスを口から離し、涼しげな目を少し細めてこちらを見た。わずかに考えるように顔を傾げて、それから「有原ありはら?」とおれの名前を呼ぶ。

「そうそう、正解、有原やで」

「久しぶりー、おまえ変わらんなあ」

「みんなに言われるわ、それ。浅香はなんというか、あれやな、ちょっと雰囲気変わったな」

「ああ」言いながら、左手の人差し指でくるくると自身の髪を巻きとった。「これ?」

「うん、それ」頷きつつ、細い、それでいて関節の目立つ長い指に絡みつく髪を見ているとなぜだか背筋がぞわりとして、誤魔化すように店員を呼んで浅香と同じビールを注文する。ざっと周りを見渡すと、すっかり眠っているやつはいるけど、本気で体調がやばそうなやつはどうやらいないようだったので、介抱から離脱して浅香の隣へ移動する。

「有原、そういうとこほんまに変わらんな」

「え? なにが?」

「……ううん、なんでもない」

 微妙に噛み合わないやりとりの直後、お待たせしましたー、の朗らかな声とともにビール瓶とグラスが運ばれてくる。注いだるわ、と浅香は店員に頭を下げてから瓶を手にすると、器用におれのグラスに液体を注ぎ入れる。おれはただ、浅香の伏せた目と、かなり飲んでいるだろうにそれをまったく感じさせない白い頬と、帷のような黒い髪をなんともなしに眺めている。

「よっしゃ注げた」

「お、ありがと」

 おれも注ごうか、と言おうとしたら言う間もなく浅香はさっさと自分のグラスに瓶の残りを注ぎ足してしまった。乾杯、とふたりで軽くグラスを合わせる。こつ、と控えめに響いたグラスの音が、誰にも聞かれていなければいいのに、とそんなわけのわからないことを思う。

「元気にしてた?」

 ひとくち飲んでから、浅香はおれにそう尋ねる。

「うん、元気。浅香は?」

「おれも、元気かな」

 元気元気げーんき、と妙な節をつけて歌うように答えられた。無表情で言うもんだから、ちょっと怖い。浅香は言い終えると、箸を伸ばして、皿のすみっこに余っていた軟骨揚げをつまんで口へ放りこむ。

「髪、伸ばしてんの?」

 おれが訊くと、浅香はんー、とちょっとくちごもってから教えてくれる。

「伸ばしてるっつか、気づいたら伸びてた」

「あー、爪と髭と髪って知らんうちに伸びるよな」

「そうそう、爪は切るし髭は剃るねんけど、髪は放っとったらなんかここまで伸びてん」

 そういうわりには、浅香の髪はきちんと手入れされているようにきれいだった。高校生のころ、同じ教室にいたころの浅香の姿を思い出す。出席番号が前後で、おれは浅香の後ろ姿を眺めていることが多かった。黒い詰襟と、あのころはまだ無防備に晒されていたうなじ、骨の突起。そうだ、浅香はハンドボール部で、おれたちの高校のハンド部は屋内外両方で活動していて、で、しょっちゅう屋外で活動をしていたから、いまと違ってわりと日焼けしていたような気がする。そして、首にわずかにかかる程度だった黒い髪は、昔からやっぱりさやさやときれいで、だから、そんなに特別に手入れしなくてもこいつの髪はきれいなのかな、と思った。

「有原はさ、大学でもバスケ続けてんの」

「いや、大学ではやってない。でも、社会人サークルに混ぜてもらって続けてるよ」

 小学生、十歳のころからおれの生活の一部であったバスケットボールを、大学にいっても続ける気は、はじめはなかった。それが一人暮らしにも慣れてきてなんというか生活というのか周囲のすべてに慣れきってしまった六月の湿ったある日、急にボールの手触りが恋しくなった。雨の日の体育館は、湿気を吸収したコートの床が、いつもよりシューズの音を高く鳴らすことも思い出した。ちゃちいフローリングに接した裸足の踵が、頼りなく哀れに思えてきて、廊下と一体化した狭い台所で、おれは途方に暮れていた。

 次の日、さっそく大学の体育館を覗いてみたけれど、そこはつよい焔をずっと絶やさず燃やし続けてこられた人間ばかりがいる空間で、おれの入る余地などまるでなかった。部活はそういった雰囲気で、ならサークルならどうだろうと曜日と時間を変えてまた体育館へ足を運んだのだけれど、そこにはからっぽのコートがあるだけで、偶然近くにいたやつをつかまえて聞いたところバスケサークルとは名ばかりの飲み会サークルであるらしかった。そういったことを大学でできた友人に話してみたら、じゃあ大学とか関係なくネットで社会人サークルとか探したらいいんじゃない、と言われておれはそんな手があったのか、と比喩ではなく膝を打った。

 そんなこんなを適当に省略しつつ浅香に話すと、浅香は「そうか、そういう手があってんな」とぽんと両手を合わせ、あの日のおれと似たような反応をしたので、思わず少し笑ってしまう。

「ほんでも、よかった。嬉しいわ」

 おれが話し終えると、そう言って浅香はグラスを勢いよくあおり、それからハミングというのかちいさな声で鼻歌を歌い出した。表情こそ変わらないものの、なにかに喜んでいるのは確からしく、なぜかわからないおれは訊く。

「なんで?」

「おれ、有原がシュート打ってるん見るの好きやったから。なんか、ちゃんと、ただしい場所に届くような感じがして」

 浅香はそう言うと、グラスをテーブルに置いて壁にもたれ、畳に投げ出した足先をぱたぱたと動かした。それはずいぶん子どもっぽい仕草で、まっしろな頬の向こう側で、こいつは案外酔っているのかもしれない。そしておれはといえば実際に酔っているのかどうかはともかく、浅香の言葉に酔ったような気分になっているのは確実で、再び高校生のころの浅香の姿を反芻する、それがもういったい今日何度目の行為なのかはわからない。

 ときどき、部活の練習場所が隣になることがあった。浅香がおれの姿を見ていたことがあったように、おれも浅香の姿を見ていたことがあった。ハンドボールというスポーツのことはよくわからないが、浅香がうまい選手なのだろう、というのは一目でわかった。

 ぶっきらぼうなわりに面倒見がいいのか、よく後輩の練習に付き合ってやっていて、愛想はないけど妙に真面目で、準備や後片付けを率先してやっていた。だから後輩に慕われていて、先輩には可愛がられていた。そういえば、おれたちの学年の男子ハンド部は浅香ひとりだった。浅香は、教室でも、学園祭の劇で使うはずの小道具がひとつ足りないことにいちはやく気づいて我らが三年二組のピンチを回避したり、クラスのほとんどが塾だなんだで帰宅していくなか居残りして黙々と体育祭の応援旗を塗り進めたり、かと思えばクラス対抗リレーで三人抜きを成し遂げたりしていて、みんなの人気者——というのは少し違うな、そうだ、一目置かれる、という言葉がハマるやつで、おれ、有原がシュート打ってるん見るの好きやった反芻の合間に浅香のさっきの声がリフレインしてきてたぶんおれはいまちょっとおかしい。

「浅香は大学でハンドやってるん?」と酔いをさますために尋ねると「いやおれ大学いってない」と意外な言葉が返ってきた。

 ほんとうに意外だった。浅香の当時の成績は特に知らないが、定期テスト後に前に座る浅香にわからなかった問題を訊くとだいたい正解が返ってきて、悪くない成績だったはずで、有名な国立大学に受かったと風の噂で聞いていたから。

「入学金、払い忘れたんよなあ」

「……え、まじで」

「まじで」

 じゃあ一月のこの時期って大学受験するんやったらこんな飲み会きてる場合やなくないかとかいやでもそれやったら去年は受験せんかったんやろかとか違うもっと別の可能性が頭に浮かんだ瞬間、

「大学はいけへんと思う」

 と、曖昧な言葉をきっぱりとした声で言われておれの思考がぴたりと止まる。

 投げ出した両脚を引き寄せて座り直し、浅香は周りを見渡して「みーんな遠なってもうたなあ」と呟き、それからグラスへと手を伸ばす。

 グラスが浅香の唇へ到着する直前、幹事の「はいはいはいみんなそろそろお開きやでほれ起きろ!」の大声で浅香の動きがびくりと止まる。その瞬間におれは浅香の右手からグラスを奪い取る。

 長い髪を揺らして首を傾げた浅香に「飲み過ぎ」と咎めるように言って、おれは取り上げたグラスの中身を一気に飲み干した。そうはいってもたいした量は残っていなかった。仕返しとばかりに「相殺したるわ」と言われ、おれのグラスの余りは浅香が飲み干した。意味ないやんけ。みんなで集まろうとメッセージをよこした幹事は手際良く寝ているやつらを起こしていっていた、おれはこれをありふれた光景だと思っていた。


 薄い雲を貫くほどに、月の光が冴えた夜だった。帰り道のその空のことは、いまでもよく憶えている。澄み切るほどに冷えた空気のなかを、おれは浅香とふたり歩いていた。

「おまえ寒ないん?」

「んー、ちょっと寒いけど、家すぐそこやし」

 浅香はコートを着ずに、パーカーのポケットに手を突っ込んで歩いていた。浅香の家はここから歩いて数分のところにあるそうで、おれは実家に帰るため地下鉄の駅を目指して歩いていた。並んで歩いていた時間は、たぶん、十分にも満たない時間だった。

 この街には、大きな川が流れている。川を跨ぐ橋を渡りきれば、おれと浅香の歩く道は別れる。その橋が見えてきたと思ったところで、浅香はポケットから両手を出すと突然走り出し、ひょいと身軽に橋の欄干に飛び乗った。

 おい、と焦って呼び止めたおれに、大丈夫、と浅香は軽く返し、両手を広げてバランスを取ると、平均台の要領で欄干の上をゆっくりと歩く。

「浅香」

 おれはなんだか、泣きたいような気持ちだった。欄干はそれなりに幅があって、ふつうに歩いていれば、確かに大丈夫なのだろう。それでもおれは怖かった。浅香の下を追って歩きながら、何度か、浅香、と呼びかけた。浅香は返事をしてくれなくて、おれと目を合わせようともしなかった。ただ、静かな街を見据えていた。

 数度目の呼びかけのあと、髪をなびかせ空を仰いだ浅香の姿に、なんの根拠もないがひとつの仮説が閃めいた。

 ひょっとすると、浅香は、自分の名字が嫌いなんじゃないだろうか。

結生ゆう

 その、心地よい音を持つ彼の名前を呼ぶと、ようやく浅香はこちらを向いた。

「……名前、憶えててくれたん」

 うん、と頷くと、浅香は目を見開いて、そのあと一瞬顔を歪ませて、それから咲いたばかりの花のように笑った。見上げた浅香の向こうには、薄い雲のあいだに白い光を纏った月があった。かつてなくきれいな月だった。

 浅香は、照れたように頬にかかる髪をいじって耳にかけた。パーカーの袖から覗いた手首の骨のかたちはきれいで、でも、あまりにも頼りなく細かった。かかりきれずにまた落ちた黒い髪の一房が頬の横で揺れる、それに釘付けになっていると、浅香は欄干を飛び降りて、立ち尽くすおれのところまで歩いて来た。

「……びっくりした」

 それだけ言って、おれは浅香のことを抱きしめる。腕の中で、浅香が名前呼んでいい、と訊いてくる。いいよ、と言って髪を撫でると、澄晶すみあき、と浅香はおれの名前を呼ぶ。名字は鎖やから嫌い、おれの名前な姉ちゃんがつけてくれてん、でももう二度と会われへんしやからもう誰もおれのこと名前で呼ぶひとおれへんと思ってた、そう言う浅香の声は震えていたけど泣いてはいなくて、いつのまにか視界がぼやけているのはおれのほうだった。なあ澄晶はさ、澄晶のこと澄晶って呼ぶひと何人おる? その問いにおれは答えられない。答えられるわけがなかった。

「おまえ、ほんまに大丈夫なん」

「うん、元気元気」

 やっぱり噛み合わない答えを返され、浅香はおれの腕から離れていく。澄晶あったかいな、つかやっぱふつうに寒いわ、と言うので、おれは自分の首からマフラーを外して浅香の首に巻いた。長い髪をどうしようかと悩んで、けっきょく髪の上からマフラーを巻くことにした。結んだあとに少し髪を引っ張って整えるまで、浅香はされるがままだった。

「マフラー巻くとき髪って邪魔やな、やっぱ切ろかな」

 そんなとぼけたことを言ったあと、浅香はあーあなんで生きてたら髪と爪と髭伸びんねやろどうせやったら背伸びればいいのに、とどうでもよさげにぼやく。

「ええやん、おまえおれより背高いやろ」

「そんな変わらんやん」

 そうは言うけど、やっぱり浅香のほうが少しおれより背が高い。その証拠に、触れる程度に唇を重ねた一瞬、おれの顔はわずかに上を向いていて、離れた瞬間うすく目を開けると浅香の長い睫毛がよく見えた。

 橋を渡り終えるまでのみじかいあいだ、おれたちは手を繋いでいた。浅香の手は冷たくて、骨張っていて、手のひらだけがほんの少しやわらかくてあたたかかった。

 マフラーありがとうな。大事にする。そう言って浅香は振り向きざまに手をひらひらさせて、それから二度とこちらを振り向くことなく歩いていった。黒い髪のかわりに、灰色のマフラーが揺れる。ありふれた映画や小説のように、それが浅香の姿を見た最後になった。


 浅香の両親が起こした事件とその顛末についてを、おれは同窓会から約二ヶ月、まだ寒い三月の春の日に、あの街から遠く離れた上石神井駅の下宿先で知った。

 そのニュースは瞬間SNSのトレンドに上がり、あっという間に流れて別のニュースに書き換えられた。いくつか報道を読んだけど、そこにはおれのほんとうに知りたいことは記されていなかった。浅香の髪はもう伸びない、それだけがよくわかった。

 絞死だった。こたつコードで首を絞められたらしい。浅香の身体にはわずかに抵抗したような痕があったそうだ。歳の離れた浅香の姉は、一年前に亡くなっていた。

 最期の瞬間、浅香はなにを思っていたのだろう。

 おれはそれを、ボールをリングに向けて放ちながら考える。ボールは弧を描きそらを飛ぶ。おれ、有原がシュート打ってるん見るの好きやった。なんか、ちゃんと、ただしい場所に届くような感じがして。

 ぜんぜん、そんなことはなかったのに。

 あの日おれがするべきだったことは、浅香の首に髪の上からマフラーを巻くことではなくて、あのパーカーを剥ぎ取って痩せた身体にあった無数の傷を確かめることだった。浅香の身体には日常的に暴力を振るわれた痕があったという。あのきれいな手首のすぐそばに、刻まれた悲鳴があったのだ。

 わかってる。それすらも傲慢な思い上がりであることは。

 あの日のおれにできたことは、詰まるところ、なにひとつとしてなかったのだろう。整った顔をした浅香が、親のために生きるためにどんな手段で金を稼いでいたのか、それもぜんぶおれは両親の仕送りで成り立つ下宿先の部屋で、スマホに表示されたニュースを通して知った。自分のバイトの稼ぎといえば、せいぜい日々の小遣い程度。あいつが心臓に届くまで髪を伸ばしていた二年間、おれはただ、なまぬるい場所で、日々をやり過ごしていただけだった。

 それでもせめて、もっと、名前を呼べばよかった。あのときどうしていちどきりしか名前を呼ぶことができなかったのか、それはいまも何度考えてもわからない。卑怯なおれは、無意識のうちにあいつが置かれている環境を察しつつ、それでいて目を逸らした、そういうことなのだろうとは思う。なにもできなくても、名前を呼ぶことくらいはできたはずだったのに。ただしい場所へと届くまで、なにか言葉を投げ続けることは、できたかもしれないことだったのに。

 事件を知った直後、明らかに様子がおかしかったらしいおれを心配して、サークルのひとたちは変わるがわる、仕事帰りに下宿先を訪ねて来てくれた。

 澄晶、なにか好きな食べ物ある? そう言いながら、狭い台所に立つ背広姿のやさしいひとたちの前で、おれは泣いた。ちゃちなフローリングに佇むおとなたちは、みんなあたたかそうな靴下を履いていた。思い返すと、子どものように足首をぱたぱたと動かしていた浅香の靴下は、ずいぶんと擦り切れていたのだった。報道によるとそもそも浅香は十九歳で、お酒を飲んでいい年齢じゃなかった。あいつの誕生日もおれは知らなかった。

 澄晶、と名前を呼ぶ声がする。ただ年齢を重ねるだけじゃなく、きちんと、おとなになりたいとつよく思う。投げ渡されたボールをおれは、ゴールへ向かってただしく届けようとする。ボールはゆるやかに指先を離れ、回転しながら弧を描く。その放物線の軌道は、どうしようもなく淀んだこの世界のなかの数少ない、もっとも美しいもののひとつであるはずだ。そうであるのだと、信じたい。ボールはただしくゴールへ届き、白いネットを刹那に揺らす。あの日の結生の揺れる髪を、おれはいつまで経っても思い出す。

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