石のマリア

如月姫蝶

石のマリア

「あたし、新しい心臓が欲しいな」

「私は、いつものおクスリを。数年来品薄だったから、そろそろいい商いをさせてもらわないとね」

「儂は、こちらの核ミサイルをもらおう。ちょうど、リュックサックで運搬できるようなコンパクトサイズのものを探しておったんじゃ」

「ならば我々は、残った空箱を頂くとしようか……」


 新幹線に乗車した女に、車掌は、恭しく一礼した。

「多目的室へご案内致します」

「恐縮です」

 多目的室とは、二人ほどで使用できる個室の座席である。優先的に使用できるのは、身体障害者とその介助者だ。

 しかし、女は、スーツにスニーカーという出立ちで、すたすたと歩く。身体的に不自由というわけではない。

「どうか、お気になさらず。空いてさえいれば、授乳や着替えのためにもお使い頂く個室ですので。先日など、ご親族の骨箱をお持ちのお客様をご案内したこともありました……あ」

 車掌は、例えが悪かったかもしれないと、女の顔色を窺った。

 女は単身だ。赤ん坊を連れているわけではない。ショルダーバッグを提げている他、両手で大切に携えている荷物は……骨箱、でもない。

「これは、市販のクーラーボックスですよ。中身はプライスレスですけれど」

 特に気分を害した様子も無く言った彼女を多目的室へと通すと、車掌のほうが恐縮した様子で、「ご用がありましたら、乗務員にお申し付け下さい」と、もう一度頭を下げてから立ち去った。

 女はいわゆる移植コーディネーターで、彼女が「プライスレス」と表現したものが、ドナーの肉体から切り出された移植用の臓器であるということを、車掌は事前に知らされていたのである。

 移植用の臓器は、緊急車両によって運搬されることが多いのだが、今回は、届け先の病院の立地の都合上、新幹線を利用することとなったのだ。

 女は、ドアを閉じた多目的室で一人になると、「着替え」を行った。自身ではなく、クーラーボックスのファスナーに手を掛けたのだ。

 手早く、手際良く、つるりと一皮剥いた。実は、クーラーボックスは二重に重ねられており、その外側のほうを剥ぎ取ったのである。そして、剥ぎ取ったクーラーボックスを平たく折り畳むと、ショルダーバッグに仕舞い込んだ。

 ただし、平たくするには限度があった。念のため冷却剤に偽装した袋が、末端価格は億単位という白い粉の詰まった袋たちが、剥ぎ取られ折り畳まれたクーラーボックスの内側に貼り付けられていたからだ。

 女は、ショルダーバッグを肩に掛け、トイレへの廊下を歩いた。すぐに別の乗客とすれ違ったが、車両が揺れ、体が触れ合った。

「あら、失礼」

「こちらこそ」

 二人は、挨拶を交わして、反対方向へと別れた。だが、それ以前に、瞬く間の手品のように、全く同じデザインのショルダーバッグを交換したのである。

 女は、多目的室へと戻ると、一つ溜息を吐いて、口角を上げた。

 副業の運び屋としての任務は、これで片付いた。後は、誠心誠意、移植コーディネーターとして、移植を待つ患者の元へと臓器を送り届けるまでである。


 聖教会せいきょうかいトリニティー病院は、昭和初期に設立された総合病院だ。「聖トリ」と呼ばれ、地域住民に親しまれている。宗教的なバックボーンを持つ私立病院であり、エントランスホールには、白い石のマリア像が安置されているのだった。

「どうか……どうか、娘の命をお守り下さい」

 声に出して石像に祈っておいて、男は、自嘲気味に鼻を鳴らした。小田切信吾おだぎりしんごは、そもそも聖母の信者ではない。幼少期に世話になった施設で信仰を強要されたため、すっかり嫌気が差してしまったのだ。

 妻子が交通事故に遭い、聖トリに救急搬送されるなんてことがなければ、こうして白い石像の前に立つこともなかったろう。

 小田切は、スマホを手にして、職場に架電した。父でいるより、刑事でいるほうが気が楽だった。

『ああ、小田切さん……今日くらい、仕事を忘れて、娘さんに付き添ってあげてはどうですか?』

 応答した後輩たる葛西かさいは、提案するように言ったが、その声色は非難がましかった。

「娘はもう、手術室に入った。手術が終わるまで、俺にできることなんて無いんだ。

 それに、妻子が世話になった病院だからこそ、評判が気になるんだよ」

 小田切は、妻子が搬入された後に、聖トリに纏わる悪評を聞き及んだ。曰く、「聖トリは、密輸品を転売する拠点となっている」のだと。この病院が、第二次世界大戦直後に、闇市場の物資の流通に関わっていたというのは、知る人ぞ知る昔話だが、その「伝統」が、令和の現代まで受け継がれているというのである。そこで、職場の後輩に無理を言って調べてもらっていたというわけだ。

「小田切さん、だから、とても事件化するレベルの話じゃないですって。聖トリは、労使間で揉めに揉めてるから、悪評が立ちやすいし怪文書も出回るんでしょう。コロナの患者を大勢治療した見返りに、病院が獲得した数億円の交付金を、現場の医療従事者にはびた一文還元してないらしいですから、そりゃあ揉めますよ。

 まあ、『来日したその日に受診して開腹手術を受ける外国人が少なからずいる、怪しい』とかなんとか、匿名のタレコミが、最近もあるっちゃありましたけどね、それを裏付ける証拠はありません。地域医療を支える中核病院であることに疑う余地は無いですって」

 葛西は、要は疑うなと言う。しかし、小田切にしてみれば、刑事の端くれとして何かを疑っているほうが、まだしも気が楽なのだった。

 さりとて、葛西が、「急ぎの仕事が入った」からと、電話を切るのを引き止めるわけにはいかなかった。


「こんな時でも、クリスマスツリーは綺麗なものね」

 ふと、低い位置から、声が聞こえた。それは、車椅子の見知らぬ老婦人だった。別段、小田切に話し掛けたわけではなかろうが、彼の近くで、諦念を湛えた双眸で、クリスマスツリーを見上げていたのである。車椅子を押す、息子らしき男性は、涙を堪えていた。

 エントランスホールには、マリア像だけでなく、クリスマスツリーも飾り付けられている。今日はクリスマスイブなのだ。

 老婦人の言う「こんな時」が何を意味するのかなど、小田切には知る由も無い。しかし、彼は彼なりの「こんな時」を、今まさに生きているのだった。一昨日、妻と一人娘が交通事故に遭遇して以来——


 耳障りなヒールの音がした。

「小田切さん、こちらにいらしたのですね」

 灰色のスーツ姿の女に声を掛けられた。声よりもヒールの音が、とにかく耳障りだった。女性の警官が式典で履くような靴と比べても、幾分踵が高いんじゃないだろうか。

「おい、そんな靴で、人の命を預かるのか」

 ついつい責め立てるような口調で、小田切は言った。例えば妊婦にしたって、転倒を予防し胎児を守るために、踵の高い靴なんぞ履かないはずだ。

 耳障りな女は、深森朱実みもりあけみという。小田切の一人娘——百萌ももえを担当する医療従事者なのだ。

「院外へ出る際には、スニーカーを履きます」

 女は、感情を排して、事務的に応じた。カウンセリングを行う際にもスニーカーでいると、それはそれでケチを付けられかねないのだが、敢えてそんな説明はしなかった。

 小田切は、死神を見るような目を、深森へと向けた。

 彼の妻子は、一昨日、交通事故に遭遇して、この病院へと救急搬送された。妻の聖子せいこは、すぐさま死亡が確認された。一方で、百萌は生きたが……本日未明に脳死を宣告されたのである。

 移植コーディネーターを名乗る深森は、待ちかねていたかのように、小田切の前に姿を現した。

「臓器のドナーとなれば、百萌さんは、レシピエントの体内で生き続けることができます」

 最初に告げられた際には、それがまるで神の啓示であるかのように響いたのだ。深森自身が、小学生の頃に心臓の移植手術を受けて以来、二十年以上健在であるという経験談にも心を打たれた。小田切は、百萌の心臓を提供することに同意したのである。

 しかし、いざ心臓の摘出手術が始まってみると、その成功をマリア像に祈る思いと、自分は何者かに騙され、悪い夢を見ているだけではないのかという思いが、彼の中で複雑に交錯していた。

「百萌さんのことを見守って頂けませんか?」

 手術の終わりを待つ家族用の部屋から逃げ出してここにいる小田切に、深森は釘を刺すように告げたのである。

 小田切は、応答できぬまま、ネクタイを直す振りをして胸を掻き毟った。


 不意に、受付のカウンターのほうから、ざわめきや悲鳴じみた声が沸き上がった。

「お……何かあったのか?」

 小田切は、深森を置き去りにして、カウンターへと向かったのだった。

 見れば、カウンター内の事務員たちのデスクから、白い鳩たちが飛び立っているかのようだった。それこそ鳥が羽撃くような勢いで、そこらじゅうのプリンターから、大量の印刷物が排出されていた。

 そして、プリンターの用紙が尽きたと思しき頃、事務員ばかりでなく、エントランスホールのそこここで、人々が声を上げることになった。

 院内の照明が、一斉に落ちたのである。

「停電!?」

 小田切は、一目散に、屋外を目指して走った。

「オーゥ、この自動ドアは、待遇の改善を求めてストライキ中ですか?」

 エントランスでは、一見して神父だとわかる服装の男が、開こうとしない自動ドアの前で、大仰に肩を竦めた。隣接する手動のドアから入館した彼に、聖歌隊らしき一群もぞろぞろと付いて来る。

 聖トリは、宗教を礎とする病院であって、しかも、今日はクリスマスイブである。そういう手合いが湧いて出ることをとやかく言うべきではなかろう。小田切は、エントランスの渋滞にやきもきしながらも、漸く屋外に出たのである。

 刑事は視認した。路上の信号や、商店のクリスマスツリーも点灯したままだった。どうやら停電は、病院内に限定したアクシデントのようだ。

 彼は、受付カウンターに取って返す。未だ午後の早い時間帯なので、停電して照明が落ちたとはいえ、院内は薄暗くなっただけである。事務員たちが、白鳩のごとき勢いで排出された印刷物を手に取り困惑していた。

「失礼、その印刷物は、いったい? まさか、脅迫状か何かですか?」

 小田切は、警察手帳を振り翳して、その内の一枚を手にした事務員に肉迫した。しかし、彼には、何が書いてあるのかさっぱり理解できなかった。なぜなら、謎の印刷物は、英語で記されていたからである。

「母さん、しっかりして! 誰か!」

 その時、男性の悲鳴が、小田切の鼓膜に刺さった。見れば、先程、クリスマスツリーを眺めていた車椅子の老婦人が、胸を押さえて苦悶していた。

 たちまち数名の医師や看護師が駆け寄って、彼らの白衣が老婦人の姿を覆い隠した。だが、そうなる前のほんの一瞬、老婦人は、ギョロリと目を剥いて、小田切のほうを見たではないか!


——おまえは騙されているぞ……


 今度は小田切の脳へと直接、老婦人の声が突き刺さったのだった。

 マリア像の隣に立つクリスマスツリーは、電飾が消え、ひっそりと枯れ果ててしまったかのようだった。


 謎の災難に見舞われたのは、病院の受付やエントランスホールだけではなかった。

 同時刻、病棟のパソコンに向かって、電子カルテを記入していた医師たちは、突然のシステムのフリーズに困惑した。パソコンの再起動を試みようとしたその時、傍らのプリンターが、大量の印刷物を噴出したのである。

「何これ……ransomwareランサムウェアだって?」

 医師が、特に目を引く英単語を読み上げた瞬間、停電が発生したのである。

 停電中は、電子カルテを運用できない。そして、電子カルテのダウンは、電子カルテと連動した全ての機能の停止を意味する。

 入院患者の体調を医療従事者へと知らせるモニターの類が沈黙した。

 点滴の投与量を自動的にコントロールする輸液ポンプも停止した。

 医師や看護師は、全てを視認し手動で調節するために走り回らねばならなかった。

 照明が落ちても辺りが暗闇に包まれることは無かったが、エアコンが停止したこともあってか、体調の悪化を訴える患者も出たのである。

 また、検査室では、CTやMRIといった撮影機器が停止したし、なんとか撮影を終えたデータも、電子カルテに保存することは不可能となった。

 病院だけに、非常用の電源がすぐさま作動したが、既に開始された手術を継続するのが精一杯の電力量でしかなかったのである——


 受付にて、英語ゆえに謎の文書と遭遇した小田切は、それをスマホで撮影して、英語が堪能な葛西に送り付けるという力技に打って出た。その結果、これが「身代金目的の誘拐事件の犯行声明」であることが判明したのだ。

 身代金として要求されたのは、仮想通貨とも暗号資産とも呼ばれるコインの、三億円分である。

 ただし、誘拐されたのは、特定の人間ではない。ランサムウェアと呼ばれるウイルスもといマルウェア、つまり悪意の込められたソフトウェアが、いわゆるハッカーの手によって、この病院の電子カルテシステムに送り込まれ、システムダウンに加えて停電まで引き起こしたというのだ。ハッカー相手に身代金を支払わぬ限り、システムは復旧せず、病院の機能の大半は停止したままだ。つまり、数多くの患者たちが一斉に人質に取られたも同然だった。

 犯行声明を見る限り、身代金の支払いを要求しつつも、特段、警察との接触を牽制したりはしていない。それも、特定の個人を標的とした誘拐事件とは異質な点だった。


「出番が無いまま退却だよー」

 男児の姿をした腹話術人形が、あざとい裏声で言った。本当の声の主は神父である。神父は、右手で人形を抱え、左手でキャリーケースを引きながら、院外へと去ってゆく。聖歌隊も神父の後に続いた。

 クリスマスイブの慰問に訪れたものの、あまりにもタイミングが悪かったため、引き上げることにしたようだ。

 神父が小田切の視界から消えようとした最後の瞬間、腹話術人形の顔が、ギリギリと百八十度回転して、小田切に笑い掛けたのである。


——死神は嘘吐き上手だよー

  ボクはポンポンが痛いのさー……


 その声は、またしても、彼の脳裏に直接届いたのだった。


 神父たちと入れ替わるように、県警本部のサイバー犯罪対策室の捜査官たちが到着した。

「ご苦労様です!」

 受付カウンターの前で、小田切は、ピシリと敬礼した。しかし、捜査官の一人は、彼に掌を向けたのである。

「小田切刑事ですね? 本日は、特別な事情があって、休暇を取得しておられると聞きました。この先は、我々の専門分野ですから、どうかお任せを」

 どんな雑用でもこなすつもりでいた小田切の協力を、彼らは拒んだのである。なぜだ……

 小田切の疑念はどす黒く渦巻いたが、その頭上には明るい光が射した。

 落ちていた照明が復活した。エアコンも稼働を再開したのである。

「システムは?」

 捜査官は、受付に尋ねた。パソコンに向かった事務員は、しかし、首を横に振ったのである。

「停電は解消したが、システムは死んだままか……吉兆とは言い難いな」

 捜査官たちは、顔を顰めつつ、病院理事長の秘書に案内されて、制御室へと向かったのだった。

 やはり小田切のことを置き去りにして……


「もう、せっかく身代金を支払ったというのに、停電が解決しただけだなんて……酷い話じゃございません?」

 白髪の理事長——咲山八重子さきやまやえこの言葉に、捜査官一同は慄然とした。

「既に支払ってしまわれたのですか? 三億円もの身代金を」

「ええ。コロナ絡みの交付金が、ちょうど良い具合に手元にありましたから。それに、一旦支払っても、あなたがた警察が、犯人を逮捕して、取り戻してくだされば済む話ですわよね?

 私よりもお若い患者様が、停電したエントランスホールで心臓発作を起こしてしまわれたと聞き及んで、もう、居ても立ってもいられなかったんですの」

 マリア像とクリスマスツリーの前で発作を起こした車椅子の女性は、七十代だったというから、咲山理事長よりも年若いことは事実である。

 理事長の話を聴取していた捜査官は、どこから突っ込みを入れるべきかと、汗ばんだ額を掻いた。

 ハッカーの言い値で身代金を支払うなんてことは、彼らが図に乗り次の犯罪に手を染めるのを助長するだけだ。それに、ハッカーというのは居場所を隠匿することに長けているものだから、こうした「誘拐事件」において、犯人が逮捕されることなどまず無いのである。

「つまり……『警察は無能だから諦めろ』とおっしゃるの?」

 噛み砕いた説明を受けた高齢の理事長は、そう言い放ったのだった。

 システムを調査していた捜査官が呻いた。

「これは……『誘拐犯ランサムウェア』ではありません。『殺し屋ワイパー』だと思われます」

「どういうことですの?」

 咲山は、小首を傾げた。

「諦めろ、ということかもしれません……」

 ハッカーは、誘拐犯であると偽って、より凶悪な悪党マルウェアたる殺し屋を送り込んだのだ。ゆえに、身代金が支払われたにも関わらず、あるべきデータが、ことごとく破壊されている。電子カルテシステムの復旧はおそらく絶望的だと、捜査官は歯噛みしたのである。


「ねえ、赤ずきんちゃんは、狼に食べられたのに、どうして生きてたの?」

 絵本の読み聞かせをねだった百萌が、あどけない顔に難しい表情を浮かべた。

 信吾は施設育ちで、娘に恵まれても、子供の育て方なんて、訳がわからなかった。ただ、ねだられるままに絵本を読むことが、休日の習慣となっていた。

 それにしても難問だ。百萌は、動物園の飼育員の仕事に興味があるらしいから、あまり楽観的な嘘を吐くのはよろしくないだろう。しかし同時に、百萌は、クリスマスイブには良い子にして早寝するような子供でもあるのだ。

「さあ……パパにもわからないな。ただ、子供を食べちゃうような悪いやつは、お腹を切り裂かれるような罰を受けるんだよ」

 信吾は、相当な長考の末に、そう答えるのが精一杯だった。

 ちょうど仕事で、自業自得の無残な死体に接したばかりだった。麻薬を封入した避妊具を数十個も飲み込んで、日本への入国管理をどうにかすり抜けた運び屋がいたのだが、体内で避妊具の一つが破裂したことによって、ショック死してしまったのだ。検死で開腹されて初めて事情が判明したのである。

 ああ、こんな経験談を語り聞かせるのは、さすがに、百萌が大人になってからだろうな……


「小田切さん、どうか百萌さんにご挨拶なさってください。停電下でも非常用電源を頼りに手術を続行して、ここまで漕ぎ着けました。すぐにも出発させて頂きますから」

 死神は音も無く、彼の眼前に立ち現れた。深森は、靴をスニーカーに替えたのだ。

 そして、彼女は、ありふれた銀色のクーラーボックスを手にしていた。

「百萌? 百萌なら、うちにいるはずだが……」

 小田切は、怪訝な表情を浮かべた。

 ああ、今日はクリスマスイブだ。なるべく早く家に帰らなくちゃな。聖子が、ケーキを手作りしてくれてるはずだし、百萌は、プレゼントを楽しみにしてる。

 百萌は、仕事で家に帰れない日も多い信吾より、在宅のイラストレーターである「お絵描きの上手なママ」を尊敬している。だが、それでいいのだ。ただ笑ってくれたら。また休みの日に読み聞かせをねだってくれたなら……

 小田切の眼差しが、急激に凄みを増した。

「おい、あんた……俺たち警察が、その手荷物を調べるなんて有り得ないと思ってるだろ?」

「ええ、それはそうですよ。これは、百萌さんと、心臓移植を待つお子さんの命そのものなのですから」

 深森は、クーラーボックスの持ち手をしっかりと握り締めた。心臓は、移植可能な臓器の中でも、鮮度が落ちるのが特に早い。レシピエントの待つ隣県の大学病院へと、一秒でも早く出発したかった。

「騙されないぞ!」

 小田切は、しかし、高らかに宣言したのである。

「今わかったんだよ! この病院では、外国人の腹を切り裂いて、密輸された違法薬物を回収してる。そして、あんたが、その薬物を院外へと持ち出す運び屋なんだ。そのクーラーボックスの中身は、どうせ末端価格の馬鹿高いクスリなんだろう。百萌が死んだなんて、嘘に決まってる!」

 小田切の異変を察知した人々が、彼を取り囲もうとした。しかし、彼は一瞬にして移植コーディネーターに飛び掛かり、腕ずくでクーラーボックスを奪い取るや、それを力一杯、床へと叩き付けたのだった……


 正月ともなれば、警察署にも、門松や鏡餅くらいは飾り付けられる。

 葛西は、昼休みを刑事部屋で過ごしていたが、その目はテレビに釘付けだった。

 かの聖教会トリニティー病院の咲山理事長が、病院を畳んで、土地や建物を大手リゾート会社に売却するという主旨の記者会見を行なっていたからだ。

 赤字経営、医療従事者の労働意欲の低下、そして何より、先日の非人道的なサイバー攻撃により電子カルテシステムを破壊し尽くされたことによって、医療サービスの提供を継続することが困難になったためだと説明していた。

 あのクリスマスイブの一件の後、聖トリからは、放射線科の備品倉庫が荒らされたなどという届け出もあった。しかし、停電中で職員が出払い、オートロックは解錠され、監視カメラも作動していなかった時間帯の出来事らしく、また、備品のリストは電子カルテに紐付けられていたため失われ、何か盗まれたのかさえ判然としないとあっては、警察での対応は困難だった。

「まさか、微量の放射線を発散するような物騒なブツが隠されていたのを、停電に乗じて運び出したんじゃないだろうなあ」

 刑事部屋の係長は、真夏に怪談を語るような口調で言ったのである。

「まったく、こうなると、あの理事長がとんだ古狸で、病院をスムーズに畳むために、三億円でハッカーを雇ったんじゃないかとすら思えてきますよ」

 葛西の物言いにも棘が生える。ただ、もちろん——などと胸を張るわけにはゆかないが——未だハッカーの逮捕には至っていないので、警察署の外でこんな陰謀論めいたことを口にしたなら、「犯人を捕まえてから言え」とサンドバッグにされてしまうだろうが。

 葛西は、小田切の不在を、遣り切れない思いで噛み締めた。

 あの日、小田切自身が娘から摘出された心臓を破損したために、その移植手術は中止されることになった。小田切が確信していた違法薬物なんて、クーラーボックスの中身を掴み出して探しても見つからなかったのである。

 レシピエントとなるはずだった子供には、不幸中の幸いと言うべきか、すぐに他のドナーが見つかったらしい。それはしかし、小田切百萌とは別の誰かが死亡したことをも意味するのだ。

 小田切は、幻覚や妄想の症状を呈していた。妻子、ことに愛娘の死に耐え切れず、精神に変調をきたしたらしい。「急性一過性ナントカカントカ」——とにかく名前の長ったらしい疾患だと診断され、精神科の専門病院への入院を余儀無くされた。

 入院自体はさほど長引かないだろうという医師の見立てだったが、彼がこの刑事部屋に戻って来ることは、おそらくもう無いだろう。

「例えばの話、聖トリが密輸品の転売のために運び屋を使うとしてもさ、それは決して、刑事の娘から摘出した心臓を運搬する移植コーディネーターではないと思うんだよ。あの日の病院には、怪しまれることなく出入りした部外者が、他にも大勢いたわけだろう?」

 係長もまた、いささかしんみりと、老眼鏡を外して磨いたのだった。

「あれ!?」

 葛西の素っ頓狂な一声に、係長の手元が狂いそうになった。

「どうしたの?」

 若い刑事は、パソコンの画面を食い入るように見つめたのである。

「深森朱実——例の移植コーディネーターです。咲山理事長の遠戚だというし、なんとなく気になって調べてたんですが……

 これ、一年ほど前に、彼女が移植用の腎臓を運んだ際の写真らしいんですが……

 この二枚、こっちは聖トリを出発する時、そしてこっちは、新幹線を降りて届け先に向かうところなんですが、彼女の持ってるクーラーボックス、一枚目よりも二枚目のほうが、ちょっとだけ小さいように見えませんか?」

「ええっ!? どうだかなあ……」

 係長は、葛西の背後から覗き込んだものの、そもそも老眼のピントを合わせることに苦慮して、難しい顔をしたのである。


——子供を食べちゃうような悪いやつは、お腹を切り裂かれるような罰を受けるんだよ……

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