第35話 仇

 数分後、アリウはコガラシの背に乗っていた。ヴィオラには降りて、少し離れたところに退避してもらった。思いついた作戦は、コガラシにふたり乗せたまま実行するには少々危険が大きい。

 作戦を話すとゲイリー、ユニス、ファニーの三人は難色を示したが、最終的に頷いた。自分たちの体力がそう長く持たないことは把握していたのだろう。

 黒竜は相変わらずアリウをつけ狙う。

 この周辺に誘導したとき同様に高く飛び上がり、そこから地上に向かって下降する。ただし先ほどと違うのは速度だ。あまり速く落ちると失敗する確率が高くなる。

 黒竜のあぎとに捕まらないぎりぎりまで速度を落とし、地表を目指す。

 地面に激突する直前で手綱を引き、水平飛行に、そしてもう一度上昇した。

 アリウたちを地面に押し潰そうとするように速度を上げていた黒竜は地面に激突——しなかった。直前で翼を大きく広げ、踏みとどまったのである。

 だが、それでいい。

 一瞬、黒竜の動きが緩やかになる。その一瞬を、彼らは待ち構えていた。

「今!」

 三頭のワイバーンが一斉に飛び出し、黒竜の尾を踏みつけた。

 尾を引かれ、ほんの一時、黒竜の動きが完全に停止する。

「はあああああっ!」

 剣を上段に構えて、急降下するコガラシの鞍を蹴る。

 何度も剣を刺し、地道に広げた傷が、鱗のひびが目の前に迫る。斬れなければアリウは鱗の上に強かに叩きつけられてぺしゃんこだ。

 ——斬れる。

 妙な確信があった。

 赤い痣に覆われた両腕をみる。皮肉なことだが、竜血病が進行したことで、思い切り剣を振るっても腕が折れる心配はなくなった。

 あとは落下の勢いと両腕の力、振り下ろす速度と適切なタイミング。それらを結集し、けれど決して力任せに叩きつけないように。

 剣を振り下ろす。

 手応えは驚くほど軽かった。

 ギンッ。

 澄んだ金属音が鳴り響き、黒竜の巨躯が左右に割れる。

 時間が止まったような気がした。

 一瞬遅れて、真っ二つに斬られた巨体が、金属の歯車や配線が、雨のように地面に降り落ちる。重い地響きと甲高い金属音が森にこだました。

 部品の雨を縫ってコガラシがアリウを拾い上げたが、避けきれずにバランスを崩し、勢いよく木々に突っ込む。二転三転して木の幹に背を打ちつけ、止まった。

 呼吸が止まり、視界が白く霞む。しばらく動けずに転がっていた。

 やがて意識が明瞭になり、ふらつきながらも立ち上がる。

「はあ、はあ……終わった……?」

「終わったよ、お疲れ」

 ファニーの顔が覗き込んでいた。

「ただちょーっとまずいことになったかも」

 黒竜以上にまずいことなどあるだろうか。首を傾げ、彼女の指がさすほうを見る。

 息を飲んだ。

 黒竜だったものの瓦礫の残骸越しに、長い黒髪の大柄な女性と相対するヴィオラが見えた。距離があるながら、赤竜山脈でなにか企んでいた間者の片方だ、と検討がつく。大剣と短剣で鍔迫り合いをしているが、小柄で力もないヴィオラは押されている。ずり、ずりと押し込まれ、膝をつくのも時間の問題だ。

 アリウは加勢しようと黒竜の残骸に駆け寄った。破片で手や顔が切れるのも構わず、がむしゃらに乗り越えようとする。

 ヴィオラと大剣の女性はなにやら会話しているようだった。女性が不快げに顔を顰めたと思うと、強かにヴィオラの腹を蹴飛ばす。

 ヴィオラは吹っ飛んでアリウの視界から外れた。

 思考が真っ黒になる。夢中で瓦礫を掻き分けた。

 嫌だ。

 恐怖が鉛のようにのしかかる。

 もう一度失うのは嫌だ。絶対にごめんだ。二度とひとりになりたくない。

 頼むから、お願いだから。

 ——置いていかないで。

 勢いあまって瓦礫の山から転がり出た。

「ヴィオ!」

 無意識に叫んでいた。

 大柄な女性がアリウを見て舌打ちした。左の茂みの奥から、マントに引っ掻き傷と枝葉をつけたヴィオラが這い出してくる。フードで表情は見えないが、しっかりした足取りからして大きな怪我はなさそうだ。

 深く息を吐いた。安堵のあまり膝が笑っている。それでも今膝をつくのはまずい。

「何者だ」

 瓦礫の上から誰何の声が降ってきた。見上げればゲイリーが鋭い視線で女性を見下ろしている。

 女性はゲイリーを、ついでアリウとヴィオラを見た。さすがに不利を悟ったか、忌々しげに後ずさり、ばっと森の中に飛び込んだ。

「待て!」

 叫んだが、足は動かなかった。腰が抜け、思わず地べたにへたり込む。

 ゲイリーが追い縋ったが、少しして戻ると、首を振った。

「見失いました」

 アリウは再度息を吐いた。

 深呼吸を繰り返し、早鐘を打ったままの鼓動を落ち着けようとする。

 まだすることが残っていたはずだが、頭に血が昇ってろくに思考が回らない。

「おーい王都から援軍が来たぞー。今さらって感じだけどー」

 ユニスが騎乗したままふよふよと飛んできた。

 返事の代わりに手を振って聴こえたことを示す。

 瓦礫の山に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

 違和感を覚えたのは、そのときだ。

 ゲイリーがヴィオラに歩みより、左手を差し出した。

 なぜ右手ではなく左手? などと疑問に思ったのはほんの一瞬。

 考えるより早く身体が飛び出し、ふたりの間に身を割り込ませていた。

 ──ガキン!

 突き出した右手の鱗が剣を弾く。

「どういうつもりだ、ゲイリー」

 自分でも驚くほど低い声が出た。

 振り下ろされた刃の向こう側で、温厚なはずの竜騎士の顔が、笑みに歪む。

 見たことのないゲイリーの表情に、全身が総毛立つのを感じた。

「どうしたもこうしたもないですよ」

 歪んだ笑みのまま、穏やかな声が耳を撫でた。そのちぐはぐさにある種の狂気を感じ取り、思わず息を飲む。

「彼女は国王陛下の御命を狙った逆賊だ。この場で殺すことに、なんの問題が?」

 アリウは唇を噛んだ。

 逃げてくれと祈る気持ちを込めてヴィオラをちらりと見たが、彼女はアリウの裾を掴んで動かない。

 少し離れたところで悲鳴が上がった。

「どういうこと? なんであたしたちが罪人みたいな扱い受けなきゃならないわけ?」

 見れば国王直属部隊の制服に身を包んだ竜騎士がファニーの腕を掴んでいた。ワイバーンに騎乗したままの騎士がその後ろに複数並び、まるで囲い込むように輪を縮める。はっとして反対側を振り向くも、包囲網は既に完成していた。

 なにかの合図のように、騎士のひとりが花火を打ち上げる。

 緊迫した場面にそぐわぬ可憐な花が空で咲いた。

 一体いつの間に。

 目の前のゲイリーを睨みつけた。他に聴こえないように声を抑え、先の問いへの答えを口にする。

「問題大ありだ。彼女は炎の惨劇を生き延びたヴィオラだ。正真正銘、この国の王族だぞ」

 正体を勝手にバラすのは気が咎めたが、この状況ではそうも言っていられない。

 ゲイリーならば汲んでくれるのでは、という一縷の望みがあった。だが願いは虚しく砕け散る。

「知っていますよ」

 返答は想像したどれよりも非情なものだった。

 知っている、と。

 そう言ったのか、彼は。

 口の動きも、耳に入る音の響きも、すべてがそうだと言っている。だが頭はなかなか情報を処理したがらず、同じ言葉が脳内を何度も跳ね回る。

「知っていて、殺そうというのか」

 ようやく出た言葉は弱々しく掠れていた。

「当然です」

 返答は簡潔だった。

「隊長——いえ元隊長はご存じないでしょうが、」

 忌々しげに目を細め、ゲイリーは聞き分けのない幼子を諭すように言葉を続ける。

「十年前の惨劇はそもそもその小娘を消すために陛下が起こしたものなのですよ」

 

 当然だ。そのことで十年、アリウは苦しみ続けてきたのだから。

 だがそれをゲイリーが知っており、あまつさえ賛同するような口振りに脳が追いつかない。

「おまえの奥方は惨劇で亡くなったのだろう? 知っているならばなぜ陛下に味方する」

「ああ、確かに惨劇で死んだとも」

 ゲイリーの瞳が暗い光を灯した。憎々しげにヴィオラを睨みつける。腕に押しつけられたままの剣に力がこもる。

「そこのヴィオラ王子に殺されてな!」

「っ⁉︎」

 アリウは息を飲んだ。動揺してわずかに足が滑った。隙を逃さず、再度振りかぶられたゲイリーの剣が落ちてくる。左腕で防いだ。

「ねえ、隊長。教えてくださいよ」

 剣に体重を乗せながら、ゲイリーが熱にうかされたように囁く。

「あんたはあの夜王子サマのそばにいたんでしょう。あんたらを追い詰めた騎士の中に、赤毛の女性がいませんでした?」

 ズキリと頭が痛んだ。腕を下ろして頭を押さえたくなるのを堪えて押し返す。

「王子サマが殺した騎士の中に、彼女がいたでしょう」

 赤毛の女性騎士は、いた、ような気がする。だがヴィオラの周りには、どうだった?

「ああ、あんな夜の記憶なんか火に焚べて燃やしたんですね」

 ギラギラと憎しみに燃える双眸は、あの夜の炎を思い出させた。

 確かにヴィオラのもとに駆けつけたとき、周囲にはいくつもの死体が転がっていた。殺されまいと、必死に抵抗したのだ。だがそこに赤毛の女性は——。

「……思い出した」

 ぽろりと声がこぼれた。ゲイリーが眉を上げる。

「へえ、そりゃよかった。思い出したでしょう、そこの王子サマが平気で人を殺せる根っから悪党だってこと——」

「思い出したよ」

 瞳にあらんかぎりの怒りを込めて、ゲイリーの濁った両目を見返した。

「その人を殺したのはヴィオじゃない」


「僕だ」

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