第33話 反撃

 非常に残念なことだが、今日という日が己の命日かもしれない。

 必死に手綱を繰りながらも頭は至極冷静に、ベンジャミンはそんなことを考える。

 次々と迫り来る三頭の黒竜を散開して必死に躱し、どうにか一撃を叩き込んで、また逃げる。その一撃もかすり傷にすらならない。

 はっきり言って、状況は絶望的だった。

 竜騎士団はもはや役に立たない。小うるさい蠅のように黒竜の周りを飛び回って気を逸らせるのが関の山だが、それすら満足にはいかなくなりつつある。

 黒竜の口を封じきれなくなってきたためだ。

 口を封じられなくなると、どうなるか。

 炎とユニコーンの角の粉末が撒き散らされる。

 吐き出される火炎もさることながら、より厄介なのは散布される粉末のほう。対策として幾重にも重ねた布をワイバーンの口元に巻きつけていたが、完全に遮断することはできなかった。徐々に雪姫の動きが悪くなっていくのがわかる。

 ルヴィーダは息を止めて吸い込まないようにしているようだが、いつまで持つかわからない。

 守護竜と同格のドラゴンが三頭もいて、彼らにまともな傷を負わせられるのはルヴィーダただ一頭。もはや座して全滅を待ち構えているに等しい。

 陣形はとうに保てなくなっていた。

 自分たちの脅威にはなり得ないとわかっているはずなのに、黒竜は執拗に竜騎士団を追い回した。そうすることでルヴィーダの動きはより制限される。一頭が襲った隊を守ろうと身を捻った脇腹に別の一頭が噛みつく。

 今、竜騎士団が取れるもっとも有効な選択肢は、撤退だ。

 辛うじて陣形が保たれた中央に向かって、声を張り上げる。そこには必死に立て直しを図るイヴェットの姿がある。

「姉——じゃない副団長!」

「わかってる!」

 血が出るほど唇を噛み締めながらもイヴェットが頷いた。高度を上げ、大きく息を吸い込む。

「総員、散か——」

 指示は最後まで続かなかった。

 鞭のようにしなった尾が強かに彼女と騎竜を打ちつけた。

 鞍から吹き飛ばされ、ぐったりとした身体が宙を舞う。

「姉上!」

 喉の奥から絶叫が迸った。そこかしこで悲鳴が上がる。

 指示を出すより早く、雪姫が急降下を始めた。先んじてイヴェットの落下先に回り込み、両腕で受け止める。息はあるようだが、酷い出血だ。骨もいくつか折れている。急いで手当てしないと危ないかもしれない。

 戦線を離脱しようとした途端、殺気が襲いかかった。気温が氷点下まで下がったような心地がした。全身の毛穴が開き、ぶわりと汗が噴き出す。

 振り向いた視界いっぱいに黒竜の口が広がる。びっしりと並んだ牙が鈍く光り、今にもベンジャミンを噛み砕こうとする。

 逃げなければ。

 思考は動くのに、身体は指の先ひとつさえ動こうとしない。雪姫が必死に羽ばたくが、本気で追い縋るドラゴンの前には無力だ。

 あ、まずい。

 ぼんやりとした意識で思った。アリウはちゃんと逃げただろうかとかカルマとドリューとハルニアは捕まっていないかとか、ルビーラビットを囮に使いやがってあのくそ王子とか自分が死んだ後あの二羽はどうなるだろうとか、状況を打開するにはなんの役にも立たない思考がいっぺんに頭の中を駆け巡る。

「姉上絶対怒るなあ」

 ガサガサに掠れた声が漏れて、ああでもこれじゃイヴェットも死ぬなと当たり前の事実を思い出す。

 時間でも止まったのかと思うほどゆっくりと口が迫り、けれど相変わらず身体は動かない。ぎらつく牙を他人事のように眺める。

 周りの音が水中にでもいるようにこもって聴こえる。

 そして頭上から。

 ——人が、降ってきた。


 ガッ、ギンッッ!

 鉄の塊をハンマーで思いきり叩きつけたような音が響き渡った。

 その音は腕ずくで黒竜の動きを止め、ベンジャミンを現実に引き戻す。

 ボロボロの団服に身を包んだ後ろ姿が、黒竜の眉間の間で剣を振り下ろしていた。

 三秒の空白があった。

 思考が戻るのに一秒、止まった呼吸が戻るのに一秒、そして——黒竜が怒り狂うのに、一秒。

 グガァーーーッ!

 咆哮が大気を揺るがした。

 あまりの圧に、離れていても上半身が仰け反りそうになる。イヴェットを落とさぬよう両腕にきつく力を込めた。

 そんな中、黒竜に一撃を食らわせた人物はなんでもないように灰色の髪を風に靡かせて、振り返る。

「……アリウ」

 ほっと息を吐いた。カルマたちは上手くやったらしい。そのまま逃げてしまえばよかったのに、わざわざ駆けつけるのがアリウらしいというかなんというか。

 灰色の瞳がぐるっと戦場を見回して眉を顰める。

 視線を追ってみれば竜騎士のおよそ三分の一が負傷し、辺りは地獄もかくやという有様だった。尾による攻撃はイヴェットだけでなく、周囲にいた全員を薙ぎ払ったのだ。

 イヴェットのように鞍から振り落とされた者も少なくなく、すぐさま無事な者が救助に走ったから落下は免れたものの、今の一撃で死者が出ていてもおかしくない。

 大隊長はみな陣の中央付近にいたため軒並み戦闘不能。中隊長と小隊長も多くが巻き込まれて、指揮系統は崩壊したも同然だ。

 アリウは飛来したコガラシの背に飛び乗っていきりたつ黒竜から距離を取った。

「ユリシーズ隊長、副団長ら負傷者を連れて早急に戦線を離脱してください。ベンジャミン隊長、負傷者の離脱を確認してから残存兵力をまとめて王都方面に撤退を。黒竜を一頭引き寄せて撃破してくれ」

 有無を言わさぬ口調、そして威圧感だった。

 反逆罪で拘束されているはずのアリウ。

 彼の登場に疑問や憤慨を覚える者は多くいただろうが、激烈な存在感に誰もが押し黙る。

「……ひとつ、確認させてください」

 騎士団の思いを代弁するように、指名を受けたユリシーズが声を上げた。

「勝算が、あるのですね?」

「無論です」

 アリウはまっすぐに彼の目を見返して頷いた。

「ではこの場は貴殿に任せましょう」

 言いたいことは山ほどあったろうが、それを飲み込んで迅速に負傷者の救護に移る。ベンジャミンが抱えていたイヴェットも彼の手に渡った。

 慌てたのはベンジャミンだ。

「待てよアリウ、黒竜を一頭撃破しろって本気か? 守護竜様抜きじゃ、かすり傷ひとつつけられてないってのに?」

「手段ならちゃんとあるだろう?」

 だがアリウはなにを言い出すんだお前はとでも言いたげな胡乱な視線を寄越した。口に出されてはいないがそれはこちらの台詞である。

「手段ってお前——あ」

 そんな都合のいいものがあるならとっくに使っている、と続けようとして、はたと思い至ってしまった。

 あるじゃないか。まるでこの日のためにあつらえたかのような、とっておきの対空兵器が。

 ドラゴンに匹敵する強敵が現れたときのための、防衛兵器が。

 サフィール王はどこまで読んでいたのか。

 味方ながら空恐ろしくなるほどの先見の明。

 恐らくイヴェットにも、いざとなったらバリスタを使うよう指示は出ていただろう。だが最初は必要なかったし、三頭に増えてからは恐らく、万が一にも王都を危険に晒したくないという思いが判断を鈍らせた。

 手段さえ手に入ってしまえば頭の中でするすると、黒竜を撃墜するための筋書きが組み上がる。

「ああくそ、やってやるよ」

 頭をがしがしと掻きむしった。

 満足げなアリウの表情がやけに癇に障る。

「お前のほうは何人要る?」

「えっ、ひとりでやるつもりだったけど」

 化け物かよ、と毒づきたくなる気持ちをぐっと堪えた。

「でも、そうだね。小隊を貸してもらえると助かるかな」

「わかった。それじゃ……ウォーレン隊長、お願いできますか」

 ぐるりと周囲を見回して比較的被害の少なそうな隊に声をかける。

「あいわかった」

「それからゲイリーさんとユニスとファニーも」

「了解です」

「はいはーい」

「仕方ない」

 編成は思いの外すんなりと決まり、騎士団は各々動き出す。負傷者は既に黒竜を刺激しないよう順次離脱を開始しており、彼らは大回りで北門から王都に戻る。

 〈では我は此奴を引き受けよう〉

 話を聞いていたのだろう。

 ルヴィーダは一頭の首に強引に食らいつくと、爪を立てられるのも構わず地面に突っ込んだ。

 流星でも落ちたような爆音を立て、地面に巨大な穴が生じる。砂埃が吹き荒れた。

 残る二頭はぎらりと目を光らせて残された竜騎士団を眺めた。気のせいか、舌舐めずりする幻覚が見えたようだ。

「よし、今だ!」

 バリスタ組がまとまって撤退を開始すると、案の定、張りつくようにして追ってきた。

 ——二頭とも。

「アリウ!」

「わかってる!」

 コガラシが疾風のように飛び出す。

「あ、黒尻尾!」

 すれ違いざま、雑な呼称とともなにかがベンジャミンのところに投げて寄越された。慌てて受け止めればルビーラビット二羽を入れた檻である。乱暴に投げられたせいで怒り狂っている。

「そいつら返しとく!」

 場の緊迫感に見合わぬ、高く明るい声が風を切り裂いて届いた。

 ベンジャミンは初めて、アリウの後ろに灰色のマント姿が乗っていたことに気づいた。白銀の髪を靡かせ、ルビーの瞳はなにか企んででもいるように煌めいている。

「あんのくそ王子……!」

 周りに聞こえないよう口の中で悪態をついた。なにもこんなところで返さなくたっていいじゃないか。

 一体なにを企んでいる? 竜騎士団を撹乱して出撃を遅らせたり、黒竜を討伐しようとするアリウにくっついていたり、行動に一貫性が見られない。騒ぎに乗じて高飛びでもするつもりだろうか。

 いや、今はヴィオラ王子の行動などどうでもいい。

 突き刺さる不審げな視線を黙殺して鞍の後ろに檻を固定した。脱いだマントを被せて気持ち程度の(無駄な)隠蔽を試み、隊列の先頭に飛び出す。

「ゼノヴィア隊長、小隊を連れて一足先に城壁の衛兵に話を取りつけに行ってもらえますか」

「……わかりました」

 ゼノヴィアはなにか言いたげな視線を檻に向けたものの、隊を引き連れて陣を飛び出した。

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