第31話 脱獄

 晴れやかな青空を曇らせるようにして、漆黒の竜が舞い上がった。

 アンバランスに大きな翼が太陽を覆い隠す。

 野を越えて、咆哮に似た異音が耳に届いた。

 呼応するようにもうひとつの咆哮が鳴り響き、赤竜丘陵から真紅のドラゴンが舞い上がる。

「やられた」

 騎竜の背に跨ったまま、イヴェットがうめいた。

 本来ならばこの時点で、竜騎士団もルヴィーダと並び整列しているはずだった。

 あの少女が引き起こした騒動のせいで、完全に後手に回った。仮にもこの国の王子ともあろう者がよもや敵国に手を貸すことはあるまい、と油断してしまったのは大いにある。

 よくよく考えてみればわざわざ王都でなくここに姿を現した理由などそれしかないのだが、とっさのことでそこまで考えが及ばなかった。己の未熟さを痛感して唇を噛む。

 だが反省している時間はない。

 矢継ぎ早に指示を飛ばし、出撃を急がせる。

 騎士たちは先ほどの騒ぎが嘘のように準備を済ませ、次々と空に舞い上がった。

 野営地の片隅。

 アリウ隊——否、元アリウ隊に割り当てられた一画でも準備は進められていたが、ここでは少し様相が異なっていた。

 他の隊からは死角になる天幕の裏。ベンジャミンがせっせと上半身ほどある麻袋をカルマとドリューとハルニアの騎竜の鞍に縛りつけ、マントとフードを被せているのである。

「すみません、遅くなりまし——なんですかこれ?」

 闖入者を捕らえようとして遠くまで行ってしまっていたゲイリーが戻ってきた。必死の形相で作業を行うベンジャミンと我関せずとばかりにそっぽを向く姉妹を見比べて、目を丸くする。

「というか、カルマとドリューとハルニアはどこです?」

「聞いてないの?」

 ファニーの問いに、首を振る。

「あ、言うの忘れてた」

 ベンジャミンはしまったという顔をしたが、その手が止まることはない。

「かくかくしかじかで別行動なんで不在に気づかなかったって体でお願いします。迷惑はかけないんで」

 同時に作業が終わり、大急ぎでワイバーンに飛び乗る。

 ゲイリーはなおも言い縋ろうとしたが、丁寧に説明している時間はない。

 他の隊に遅れを取ったお陰で後ろから見られて偽装を見破られる心配は減ったものの、これ以上ぐずぐずしていたらそれはそれで怪しまれてしまう。

「文句なら後で聞きます」

 そう付け加えれば、諦めたように頭を振った。巨敵を前に言い争っている時間はないと悟ったのだろう。

 ユニスとファニー、それに騎手不在のワイバーンも次々と舞い上がり、騎手不在の三頭を中心に陣形を組む。

 ベンジャミンの仕事はここまで。

 あとはせいぜい、できるだけ長く隊員の不在を隠し通すだけだ。

「頼んだぞ」

 遠ざかる王都を振り返って、呟くような祈りを口にした。


   *


 頼りないランタンのみが照らす暗がりの中、一体どれだけの時間が経過しただろう。

 はっきりしない意識の中、ぼんやりと考える。

 少し前に目覚めたところだったので早朝だと思いたいが、連れてこられたときに気絶していたため時間の感覚が狂っている可能性がある。

 ぐぎゅるるる。

 間の抜けた音が響いて空腹を思い出した。

 死ぬのが怖くないと嘯いた身体でも、腹は減るらしい。まあ、叶うならばヴィオラと一緒に過ごしたいと言う気持ちも、嘘ではないわけだし。

 自分に言い訳しつつ、起き上がって食事のトレーを探す。

 祖母の面会の後で運ばれてきたものの食べる気が起きず、放置していたものがあったはずだ。

 視線を彷徨わせれば果たして、冷え切った食事が寝る前のまま放置されていた。

 足でトレーを引き寄せ、極力腕に力を入れないよう匙を握る。行儀悪いがどうせ誰も見ていないのだし、気にする余裕もない。

 食事は硬くなったパンと白身だらけのベーコン、それに乾燥トマトのスープだった。

 なぜトマト?

 疑問に思いつつ匙で掬う。冬に向かうこの時期、夏野菜は貴重なはずだ。罪人に出す料理にはもったいないのではなかろうか。……大根の皮のスープとかじゃなくて、助かりはしたが。

 不器用に口に運び、嚥下する。

 途端、吐きそうなえぐみと喉を焼くような痛みが襲いかかり、身体を半分に折り曲げた。

 滑り落ちた木の匙が床を転がる。

 臓腑が焼け、痣と肌の境目が激しく痛んだ。両腕がビキビキと厭な音を立てる。

 一体、なにが。

 かすむ視界で目を凝らそうとしたが、不明瞭でなにがなんだか判然としない。この場にあるはずのない鮮やかな赤がぼやけたのは痛みによる幻覚か、あるいは血か。頭はあれこれと考えるが、痛覚は既に答えを出している。

 ようやく痛みが引いたとき、目の前にあったのは赤い鱗に覆われた二本の腕だった。

「くそ、そういう、はっ、ことか」

 荒れた呼吸のまま悪態をついた。

 スープを口にしたときの感覚。あれをアリウは、よく知っている。

 毎週のように薬室で出される薬と同じえぐみと痛みだった。

 そして目の前には骨折が治り、代わりに皮膚が鱗状の痣で覆われた腕がある。

 このふたつが指し示す事実は、ひとつだ。

 アリウが薬と称して飲まされていたのは、竜血病の進行を押し進め、寿命を縮める毒だった。

 ユニコーンの角の粉末などと、とんでもない。ドラゴンの血を適当な薬草と混ぜ、色や血生臭さを誤魔化していたのだろう。食事のスープがトマトだったのは恐らく、赤い色を不自然に見せないためだ。アリウがひと口でも飲めばそれでよかったのだろう。色以外誤魔化す気もなく、いつもの薬よりずっと痛く、痛む時間も長かった。

 そこからもうひとつの結論に行き当たる。

 国王はアリウを裁判にかける気すらない。この牢で竜血病が手遅れなまでに進行したことにして、真実を闇に葬るつもりだ。

 はっとして上衣を捲ってみる。

 予想通り、脇腹から背中にかけての痣も広がっていた。腹全体と肩、それに胸の大部分まで覆い、心臓に届いていないのがもはや奇跡だ。この様子だと一ヶ月持つかも怪しい。というか、国王は持たせる気がないのだろう。次様子を見にきたときに死んでいなければ、無理矢理ドラゴンの血を飲まされかねないなとも思う。

 怒りも。憎しみも。無意識に溜め込んだ叛意さえも。

「最初からお見通しだったってわけか……」

 乾いた笑い声が暗い地下牢にこだました。

 同時に、新たな決意が胸の内に湧き起こる。

 このままでは終われない。終わりたくない。

 これほど執念深い国王のことだ。きっとヴィオラがドラスティアを去っても、地の果てまで刺客を放って殺そうとするだろう。

 それだけはだめだ。

 ヴィオラに手出しはさせない。


   *


 人波を縫って足早に先を急ぐ三人の姿がある。

 藤色の髪の少女が先頭を行き、黒髪の少年が追いかけて、桃色の髪の女性が転ばぬようにと先行くふたりに注意をうながす。その様子は親族に見えなくもないが、少女が自身の身長よりも大きな包みを抱えているのが異様だ。

「念のための避難ですから、落ち着いて進んでください」

「押さないで! ゆっくりで大丈夫です」

 人混みのそこかしこから、そんな声が聴こえる。

 その中をカルマ、ドリュー、ハルニアの三人は人混みを掻き分け掻き分け進んでいく。幸い、私服で来たのと群衆と進行方向が同じであることでそこまで目立ってはいないが、亀のような進みは三人——特にカルマを苛立たせた。

「ああ、もうっ! 急いでるの、にっ!」

 集団で移動するおばちゃんたちの横をすり抜けながら、カルマが声を上げた。

「落ち着いて、焦っても仕方ないよ」

「でもわたしたちがいないのがバレたら終わりでしょ」

 ドリューが宥めるがあまり効果はない。

「大丈夫ですよ、副隊長もああ見えてしっかりしていますから、そう簡単に気取らせはしないはずです。なにより、戦闘が始まってしまえば気づいてもどうにもできなくなります」

 ハルニアの言葉にいくばくかの落ち着きを見せたが、それでも気は急いてしまうものらしい。

 通れないとその場で跳ねたり足を揺すったり、落ち着きがない。

 ようやく王都の外れまで来て人が少なくなると、脱兎の勢いで駆け出した。

「こら、ばか!」

 ドリューが叫んだが聴こえている素振りもない。残されたふたりは諦めて後を追った。

 通りをまっすぐに駆け抜け、城壁の真下へ。そこから城壁の上へと、長い階段をぴょんぴょんと跳び上がる。

 再度の制止をかける暇もなく、単身、城壁上の通路に躍り上がった。


 城壁の上は人が少なかった。戦場となることが予想される東側に多く人員を割いているためだろう。他に避難誘導もあるとなれば、手薄なのも無理はない。

 バリスタのそばに二名。しかもひとりは盛大に欠伸を噛み殺し損ねるほど気が抜けた様子。これならばカルマひとりでもいける。

 するりと包みを解き、ハルバードを取り出した。

 ドリューとハルニアが息を切らせて階段を駆け上がったときには、すべて片付いた後だった。

 ふたりの衛兵は伸びて通路に転がり、どや顔のカルマが横に立っている。

 ドリューとハルニアは呆れたように顔を見合わせたものの、ぐずぐずしている暇はない、と仕事に取りかかった。

 ハルニアが縄と布切れを取り出して兵士たちを縛り上げ猿轡を噛ませる一方で、ドリューはいそいそとバリスタに近づく。今のところ城壁の異変に気づいた者はいないようだが、黒竜が接近したわけでもないのにバリスタが動き出せば、否応なく注目を集めてしまうことだろう。

 そうなればたちまち衛兵が殺到してくることは疑いない。

「カルマ、手伝って」

 ドリューが声をかけ、カルマとふたり、重いバリスタを動かして向きを変える。本来、大の大人がふたりがかりで動かすものだ。途中からハルニアも手を貸して、ようやく台座が回る。

 照準を上空から下方へ。街の外側から内側へ。

「どのくらい?」

「ちょっと待って」

 ドリューが後ろにまわり、片目で鏃と鏃が示す先を見比べる。

「もう少し右。あと上。……あ、行き過ぎた、左」

「このくらい?」

「あとほんの少し左。……また行き過ぎだ」

「細かすぎない⁉︎ このくらいよくない?」

 だあーっと痺れを切らしたカルマが喚く。

「だめだよ、少しでもズレたら隊長を巻き込んじゃう。それだと意味ないでしょ」

「そうだけど! 早くしないと人が来——」

「おい貴様らなにしてる!」

 言い募る言葉を遮って、誰何の声が響き渡った。見れば通路端の側防塔から数人の衛兵が出てきたところだ。

 ほら見ろと言わんばかりの表情でカルマが振り返った。

「すみませんカルマさん、しばらくひとりで大丈夫ですか」

「ああもう、仕方ない!」

 カルマはハルバードを拾い上げ、バリスタの前に立ち塞がった。

 その行動だけで、こちらの意図は明白だ。衛兵たちは警戒を強める。市街地に矢を撃ち込ませてなるものかという使命感を抱き、抜剣してにじり寄る。

 先に動いたのはカルマだった。

 硬い床を蹴って走り出し、一気に衛兵との距離を詰めた。激突の寸前でハルバードの先端を地面に突き、柄のしなりを利用して宙に跳ぶ。

 前方を警戒していた兵たちの頭上は無防備だ。

 器用に空中で身をひねり、思い切りハルバードを叩きつけた。

 練習用に刃を潰したなまくらとはいえ、その重量は本物である。子供の細腕といえど、重力を乗せて叩きつけられればひとたまりもない。

 もろに食らったふたりが地面に倒れ伏し、近くの四人が体勢を崩してよろめく。

 カルマもハルバードに引き摺られてわずかによろめいたが、すぐさま立て直し、構え直した。

 そのときまで衛兵たちは、子供であるカルマに剣を向けることに躊躇いがあったようだった。だが今の一撃で手加減など考える余裕は消え失せた。

 剣を構え直し、油断のない目でカルマを見据える。

 さらに、通路の反対側の塔からも新手が現れた。挟まれた形になり、カルマが唇を噛む。

 すっとハルニアが歩み出た。手には弓を握っている。

「お待たせしました」

 目を細め、安心させるように、カルマに笑いかける。

「調整はもういいの?」

「ええ、遠くの敵は任せてください。代わりに近づく敵はよろしくお願いします」

 ほっとしたようにカルマが息を吐く。ハルニアを見上げ、勝ち気な笑みを浮かべた。

「任せて! 絶対近寄らせないから」

「それは頼もしいです」

 言いながら、弓に三本纏めて矢をつがえた。

 カルマとハルニアが戦って衛兵を退けるそばで、ドリューは大きく息を吸って吐いた。

 周りの喧騒など聴こえないように、狙いを定めた方向を見る。

 狙いは王城、その下に埋まった地下牢だ。一撃目で城壁を破壊し、二撃目で牢の天井を破壊したいところだが、バリスタは照準のブレが大きい装置だと聞いている。そう上手くはいかないだろう。最悪でも、砲撃にアリウを巻き込む事態だけは避けなければならない。

 意を決して発射装置を押す。

 巨大な矢はまっすぐに飛んでいき、轟音を立てて城の外壁を破壊した。

 にわかに騒ぎが起こった。城近辺の避難は完了していたが、頑丈な石壁が破壊され崩れる音は王都のほぼ全域に届いた。悲鳴がそこかしこで上がった。戸惑いと不安が空気を支配する。群衆は軽い恐慌状態に陥る。

 街中にいた兵士たちもこれで、バリスタを存在に気づいたはずだ。民衆の間に混乱が広がったせいで足止めは食らうだろうが、駆けつけてくるのは時間の問題。その前にアリウを助け出さなければ。

 バリスタのそばに積まれた矢の山から一本を抜き取り、できる限り急いで装填する。弦を引き絞るのは巻き上げ装置を使うのでさほど力がなくても問題ないが、それなりに時間がかかる。

 焦れる気持ちを押さえつけて、できるだけ早く手を動かす。

 装填が完了し、第二射を撃ち放った。

 二度目の轟音とともに、今度は王城に穴があいた。地面から離れた、恐らく腰くらいの高さを貫通し、屋内を荒らす。

「だめだ、高すぎる」

 舌打ちしたくなるのを堪えて第三射を用意する。誤差は想定内だが、あまり長引くと問題だ。

 撃つ。少し左だ。撃つ。今度は大幅に逸れた。

「ドリュー、もうもたない!」

 カルマが悲鳴を上げた。ちらりと見れば通路には兵士が溢れかえっていた。カルマとハルニアがどうにか押し留めているが、限界が近いのは見てとれる。

「頼む、これで当たってくれ……!」

 願いが通ったのがどうか。

 矢は驚くほどまっすぐに、狙いを定めた場所に飛んでいった。

 もはや馴染んだ音を立てて地面に穴が穿たれる。ひしゃげた鉄格子が日の光にぎらりと輝いた。

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