第30話 動乱
異変が起きたのは翌朝、日が高く昇ってからのことだった。
警戒のため竜騎士団のほとんどの人員は天幕で寝起きしていた。朝食を終え、当番の者が後片付けに精を出す。それ以外の者は複数の班に分かれて周辺の警戒に出たり、赤竜丘陵のほうへ偵察に出たりしようとする。
その、準備の最中。
今まさに彼らが、出立しようというときだった。
最初は小さなざわめきだった。
野営地の北端に、音もなく小さな人影が現れた。
灰色のマントに身を包み、目深にフードを被っている。顔は見えないが、美しい白銀の髪がフードの下から覗いている。
見張りの騎士は戸惑った。
忽然と姿を現した人物は、見るからに年端もいかぬ少女であった。
けれど数日前の騒動にて、手練れの騎士たちを翻弄したのがヴィオラ王子に扮した偽者であるという話は伝わっていた。その翌日、騎士団長の孫を誑かして王城に侵入したという話も。
だから慌てて槍を構え、交叉させて入り口を塞いだたものの、見た目が見た目だけに手を出しづらく、どうしたものかと目を泳がせる。
「誰かそのケダモノを捕まえろ!」
野営地に全体に響き渡らんばかりの大声が空気を震わせたのは、そんなときだった。
目の前の少女は敵というにはあまりにも華奢で、しかも今のところ、敵意らしきものを発していない。その油断が命取りになった。
槍こそ構えたままではあったが、思わず音の出どころを探ってしまったのだから。
振り返った彼の視界に映ったのは、ベテランの中隊長が足を押さえてうずくまるところ。
その横に積み上げられた木箱の上でふんぞりかえっているのは二羽の白ウサギだが、目が赤く、片方は口元まで赤く濡れている。中隊長の部下が捕まえようと躍起になるが、小馬鹿にしたような動きで翻弄する。
背後から殺気を感じ、慌てて振り向こうとしたときにはもう遅い。
なにが起きたのか把握する暇もなく、騎士は意識を手放していた。
「新人の教育がなってないなあ」
緊迫した場面に似合わぬ間伸びした声で呟いて、ヴィオラは手の中でくるりと短剣を回した。
どさりと音を立て、ふたりの見張りのうちひとりが崩れ落ちる。無論殺してはいない。短剣も鞘に収まったままだ。
もう片方には敢えて手を出さなかった。大騒ぎを起こしてもらわねば困るのだ。
だがもうひとりの騎士は槍を斜めに構えたままの状態で固まってしまっていた。青い顔でかわいそうなほどプルプルと震え、一瞬で倒された同僚を見つめている。
ゆっくりと視線が上がり、ヴィオラの足、手、胴を伝って顔に辿り着く。
口元だけでにっこりと笑いかけた。
「て、敵襲ッ! 敵襲ーーーッ!」
固まっていた騎士が我に返る。
たちまち、野営地はひどい騒ぎになった。
単身乗り込んできた敵を捕らえようとする者、どこからともなく現れ、中隊長に傷を負わせたウサギを捕まえようとする者、豪を煮やして殺そうとする者が入り乱れ、秩序に支配されたはずの野営地は混沌の坩堝と化す。
気まぐれなルビーラビットを作戦に組み込むのは賭けだったが、上手くいったらしい。ヴィオラだけでは恐らく、ここまでの混乱を引き起こすことはできなかった。
ひらりひらりと四方から突き出される槍を避け、天幕の裏へ木箱の上へと逃げ回る。城の廊下と違い、ここは物が多いので随分と立ち回りやすい。
「馬鹿野郎そのカーバンクルを傷つけるな!」
そんな声まで聴こえてきて、事態はますます混迷を極める。
聞き覚えのある声だ、と首を回せば、黒いサイドテールが周りの人間に押さえられながら暴れている。もちろんルビーラビットを捨て駒にするつもりはさらさらないし、ちゃんと回収するつもりでいるので安心して混乱を広げてほしい。そのほうがカーバンクルも、追い回す腰のほうも安全だろう。ルビーラビットは噛んだら死ぬまで離さないというが、それはよほど追い詰められたときだけだから。
だがさすがに一国の治安を預かる組織だけあって、混乱も長くは続かない。隊長格の指示のもと、徐々に統制が取れ始める。
ヴィオラは舌打ちした。まだか、という苛立ちを込めて、赤竜丘陵とその向こうの魔龍山脈を睨む。
苛立ちが伝わったわけではないだろうが、騎士たちが完全に統制を取り戻す前に、それは起こった。
耳障りな音が大気を震わせた。
石を剣で引っ掻く音を何倍にも増幅させ、さらにそれで合奏しようとしたような音。ほとんどの者が剣を取り落として耳を塞いだ。だが脳髄を震わせるような音は、耳を塞いだ程度で打ち消せるようなものではない。頭痛を覚えてしゃがみ込む者もおり、到底カーバンクルやマントの不審者との追いかけっこに興じる暇はなくなる。
遠く赤竜丘陵の方角で、鳥たちが一斉に飛び立った。さながら天変地異の前触れだ。
ドッと音を立てて、大地が震えた。
木箱の山が崩れ、ワイバーンたちが落ち着きをなくして翼をはためかせる。飛ぶには至らないが、馬以上に大きな竜種が落ち着きをなくすというのはそれだけで脅威となる。
そこかしこで悲鳴が上がった。
「落ち着け!」
よく通る澄んだ声が、喧騒を突き破って一喝した。
まだ完全に揺れが治まらないにもかかわらず、鉤爪を地面に突き立てて踏ん張る騎竜の背に仁王立ちになって、長い黒髪を靡かせた女性が見下ろしていた。凛々しい紺の瞳が野営地を睥睨する。
ざわめきが小さくなった。
「栄えある竜騎士ともあろう者が、狼狽えるな」
短いながらはっきりと遠くまで聴こえるよう発声された言葉は、騎士たちに己の本分を思い出させるに充分なものだ。
見る間に落ち着きを取り戻し、慣れぬ騒音と地震にそわそわする騎竜を宥めにかかる。
無論、闖入者たちがそれを許すはずもない。
上を警戒すれば足元を駆け抜けた二羽のカーバンクルが通りすがりにかぷりと騎士の踵を噛み、下を警戒すれば踊るようなヴィオラの蹴りが顔面に炸裂する。
「潮時かな」
しばらくしてヴィオラが呟いた。さりげなくルビーラビットを回収し、両手に抱える。
揺れが治まったら機械人形の起動が完了したということ。もうだいぶ揺れが小さくなったし、起動完了よりも早く彼らが陣形を整え、音のしたほうに向かっていく心配はない。
身を低くして気配を殺し、騎士たちが見失っている隙に野営地から離脱する。
けれど完全には姿をくらませず、国王の手の者が彼女を追えるようにした。
しっかり見張ってくれよ?
気づかれていないと思い込んでつけてくる彼らに心の中で念を押す。
しっかり見張ってくれればくれるほど、ヴィオラの目的が達しやすくなる。
フードの下に笑みを押し隠し、戦火を避けるべくその場を離脱した。
——そして。
漆黒のドラゴンが、姿を現した。
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