第26話 ベンジャミン
竜騎士団本部の地下には、食糧を保管するための貯蔵庫の他、素行の悪い騎士の反省をうながすための懲罰房がある。
その床にでんとあぐらをかいて、ベンジャミンは首を捻っていた。
おかしい。どうしてこうなったのだろう。
王城に侵入した証拠は残さなかったし、ルビーラビット救出大作戦は大成功を収めたはずだ。
思い返すのは騒ぎに乗じて悠々と城を脱出した後のこと。泥だらけで出てきた銀髪赤目の少女——まず間違いなくヴィオラ王子だろう——にルビーラビットの檻を押しつけ、追っ手を反対方向に誘導した後のことだ。
しばらく兵士たちと一緒になってヴィオラを探すフリをしていたが、頃合いを見て抜け出した。長居しすぎては彼が城勤めの衛兵ではなく、竜騎士であることが露見してしまう。
適当な路地に身を滑り込ませ、こっそりと竜騎士団に戻った。誰にも見つからぬよう、用心に用心を重ねて。
騎士団に戻るまでは順調だったと思う。ヴィオラにカーバンクルを押しつけてきたのは疑われてもシラを切れるようにだったが、その必要もなかったかもしれない。
問題はこっそりと宿舎に戻るべく、騎士団の壁を登った後だった。
「随分と眺めが良さそうね」
皮肉たっぷりの声が耳朶を打った。
冷や汗がダラダラと流れ落ちる。壁によじ登ってひと息ついた言い逃れできない体勢のまま、ワイバーンに睨まれた蛙のように固まった。
恐る恐る声がしたほうを見下ろした。
竜騎士団の敷地内。どこから捕捉したのか、真下の地面に仁王立ちしてイヴェットがこちらを見上げていた。にこやかな笑みを浮かべているが、ベンジャミンと揃いの紺の瞳はこれっぽっちも笑っていない。
「あ、姉上……」
なにか言い訳があるなら言ってみろとばかりの圧。アリウはしばしば門限破りの現場を捕捉されて説教を食らっているようだが、よく平然としていられるなと思う。正直黒竜を前にしたときより怖い。
「ち、ちがうんだこれは……」
「なにが違うのかしら?」
「すみませんなにもちがいません……」
シュルシュルとしりすぼみになってしまった。
「いいから、取り敢えず下りてらっしゃい」
厳格な声の命じるままに壁を飛び降りて、姉の前に正座する。
「それで、こんな夜中に、いったいどこを、ほっつき歩いていたのかしら」
不自然に挟まれる間が怖い。
「ええと……その……」
ベンジャミンは必死に言い訳の言葉を絞り出そうとした。王城に忍び込んでいたとバレるのはまずい。最悪死刑だ。
押し黙って頭を働かせる。考えろ、かんがえろ、考えろ。……だめだ。イヴェットに捕まるとは想定していなかったので、なにも浮かばない。いや、浮かびはするのだが、鬼のような形相の姉相手に通用する気がしない。
だらだらと冷や汗を垂らしながら押し黙っていると、イヴェットは腕組みを解いてため息をついた。
「……はあ、仕方ないわね。今回ばかりは聞かないでおいてあげる」
ばっと顔を上げる。幻聴だろうか。いや幻聴だったらもったいない。例え幻聴だったとしてもここは確実にそう聴いたことにして今のうちに離脱を——図ろうとしたが、叶わなかった。
中腰で後ずさろうとした襟首を、むんずと掴まれたためだった。
「待ちなさい。誰が見逃してあげるなんて言ったかしら?」
細腕に見合わぬ馬鹿力で引き戻される。喉が締まりぐえっと鳴いた声は無視され、あれよあれよお放り込まれたのは騎士団の懲罰房。
「一日そこで反省しなさい」
と言い捨てられ、今に至る。
盛大に腹が鳴った。当然ながらルビーラビット救出作戦のため夕食を抜き、罰として朝食も抜かれてしまったせいでえらく腹が空いている。水差しは用意されているものの、空腹を紛らわせるために飲みまくったところでろくなことにならないのはわかっているので喉が渇いたぶんしか口にしていない。
冷たい床に大の字になって寝転んで、気を紛らわせるために天井の染みを雲に見立てて数え始めた。懲罰房は食糧庫に隣接しているため清潔だが、半分地下に埋まっていることは確かなのでわずかな染みはどうしようもない。
あ、あれなんかアリウの顔に似てるな、などと考えていると、頬に湿った触感が触れた。なにやらくすぐったい。
極力顔を動かさぬようそーっと右を見れば、一匹のネズミが頬を突いていた。丸いチーズの塊を大事そうに抱えている。一体どっから入ってきた。
おどかさぬようゆっくりと上体を起こし、手のひらでネズミを掬い上げた。
ネズミはキュウキュウと鳴きながら、チーズの塊をベンジャミンに押しつける。くれようという心づもりらしい。
「ありがとよ。けどそれはお前が食べな」
人差し指でついついと頭を撫でた。
死ぬほど飢えていたらご相伴にあずかることもやぶさかではないかもしれないが、数時間もすれば出してもらえるはずだ。自分の糧を大事にしてくれ給えネズミくん。
ギィと軋む音がして、天井の跳ね戸が開いた。
とっさにネズミを床に下ろして身体の後ろに隠すと同時に、おずおずと黒髪の少年が顔を覗かせる。
「なんだ、ドリューか」
安心したような落胆したような複雑な心持ちで息を吐いた。
少年は素早く階段を降りてくると、鉄格子の中のベンジャミンをまじまじと見た。ぐるりと他のみっつの房も見回すが、当然ここにはベンジャミン(とネズミ)しかいない。
「副隊長、だけですか?」
不思議そうに首を傾げた。
そうだが。
「どうして副隊長がここに?」
「……」
答えたくない。
「……」
真っ直ぐな瞳が瞬きした。
「……姉上にぶちこまれた」
むすっとして答えた。詳しい事情を省くと、なかなか格好のつかない理由だ。なんともいえないようなドリューの視線から逃れるようにして、別の話題を探す。
「俺じゃなきゃ誰を探してたんだ?」
「隊長です。騒ぎを起こして捕まったと通達があったんですが、カルマがそんなはずないと暴れていて……本人に確かめると言って聞かないものだから、こっそり忍び込んでみたんですけど……」
「なんだあいつ捕まったのか」
舌打ちした。ヴィオラ王子と別行動していたようだから、二手に分かれて逃げたと思っていたのに。
「あいつならたぶん、王城の地下牢だ」
教えてやると、ドリューは目を見張った。
「そんな、じゃあ本当に……? どうして?」
肩をすくめる。残念ながら、そこまでは教えてやれない。
「早めに戻ったほうがいいぞ。見つかっちまう」
忠告が終わるより早く、跳戸の向こうが騒がしくなる。揉み合うような二組の足音と、甲高く言い争う声。
ドリューがハッとして見回したが、隠れられる場所はない。
通り過ぎてくれ、と祈るように手を組んだが、願いも虚しく跳ね戸は開かれた。
「うわあっ!」
悲鳴とともに藤色の髪の小柄な騎士が転がり込んできた。ドリューがハッとして飛び出し、受け止める。勢いを殺しきれず、ふたり揃って鉄格子に頭をぶつけた。
「いててて……」
頭を押さえるふたりの耳にも、踵を鳴らして階段を降りてくる音は聴こえたらしい。ハッとして起き上がると同時に、不機嫌そうなイヴェットの顔が現れる。ベンジャミンは慌ててそっぽを向いて無関係を装った。
「まったく、どうしてこんな忙しいときに限って面倒事が重なるのかしら」
カルマとドリューが震え上がる気配がした。見なくとも明らかだ。これは相当怒っている。
「団体行動での基本はなによりもまず規則を守ること。だというのに貴方たちは……!」
「でっでも、隊長が間違ったことするはずないもん! ……です。なにか理由が——」
「いいこと?」
カルマの抗議が終わるより早く、ずずいとイヴェットが顔を突き出した。声の近づき具合でわかる。
「貴女の言う『間違ったことをするはずない隊長』はただでさえ門限破りの常習犯よ。騎士団長の孫だからとみな目をつぶっているようだけど、騎士団随一の問題児なの。そのどこが正しいのか教えてもらえるかしら」
「それだって——」
鋭い眼光を受けたのだろう。震える声を頑張って張っていたが、すぐ尻すぼみになって掻き消える。泣き出さなかっただけ上等だ。
「貴方も他人事のようにそっぽ向いてるんじゃないわよ」
明らかにこちらに向けて言われ、つい肩が跳ねる。恐る恐る振り向くと、世界一恐ろしい笑顔が見下ろしていた。
愛想笑いをしてみる。そろそろ出してくれないかなーという下心は、鼻を鳴らす音ひとつで粉砕される。そもそも門限破りの罰則は竜舎掃除なのだから、それでよくないか、だめか? だめか。
「ついでだから伝えておきます。アリウ・フォルトナーは国家反逆罪で捕まり、つい今朝方ドラスティア王国竜騎士団小隊長の任を解かれました」
「なっ⁉︎」
みっつの声が重なった。カルマとドリューにしても、この情報は初耳だったらしい。
ベンジャミンはぎょっとして立ち上がった。懲罰房の低い天井に頭がぶつかったが、気にしている場合ではない。
「解雇⁉︎ それに、反逆罪だって?」
鉄格子ギリギリまで顔を押しつけて問い詰める。必死の形相で唾を飛ばす彼を、イヴェットは数歩下がって冷ややかに見上げた。
「前々から忠告していたでしょう、あの男とあまり親しくしないようにと。この機会にさっぱり縁を切ることね」
イヴェットはカルマとドリューをまとめて房に放り込み、階段を登って戻っていく。情報を求めて投げかける問いはすべて黙殺された。
戸の向こうに姿を消す直前で、黒髪がなびいてイヴェットが振り向く。
答えてくれる気になったのか、と思ったが、ベンジャミンを見据えた表情は予想だにしないものだった。
思わず声を飲んで、黙り込む。
「……お願いだからあまり心配をかけないで。これ以上、危ない橋を渡らないで」
言い残し、身を翻して残りの階段を駆け上がった。
乱暴な音を立てて跳ね戸が閉じる。
「こ、こわかった〜」
カルマとドリューが止めていた息を吐き出した。
手を握り合うふたりをよそに、あぐらをかいて座り込む。顎に手を当てて考え込んだ。
甘く考えていた。
不審者の正体が生き残っていたヴィオラ王子であること、アリウが王子を匿っていて、ふたりでなにかやらかそうとしていることは察していた。だからこそ便乗してルビーラビットを助け出す作戦を立てたし、王子を逃すのにも協力した。
深く考えていたわけではない。ヴィオラ王子が王城を窮屈に思っていたのは知っていた。だからせいぜい、大々的に見つかって王妹の座に祭り上げられたくないけど兄に会ってはおきたいヴィオラを陛下に会わせるべく、強引な手段で乗り込んだのだと思った。
けれど、事はもっと深刻で、根深い問題かもしれない。
「……副団長、泣いてましたね」
遠慮がちにかけられた声に、はっとして振り向いた。他の人間がいることを忘れていた。
ドリューが心配そうにベンジャミンを見ていた。姉のことを気にしていると思ったのだろう。
遅れてドリューの言葉が引っかかり、首をひねる。
「んん? 泣いてた……?」
「え? はい。……副隊長からは見えませんでしたか?」
首を横に振った。
そもそも、あの気の強い姉が泣くところなど想像すらできない。が、確かに去り際の姉の言葉は気になった。あの様子だと、なにかベンジャミンが知らないことを知っているのだろうか。惨劇以降、やけに過保護なのもそのせいか?
混乱し、両手で頬を叩いた。
イヴェットはアリウが国家反逆罪で捕まったと言った。それはつまり、アリウが国王に楯突いたと言うことに他ならない。
考えられる可能性はみっつ。
ひとつ、アリウが国王を殺そうとした。
ふたつ、ヴィオラが国王を殺そうとした。引き入れたアリウも国王殺害幇助で捕まった。
みっつ、国王がヴィオラを捕らえようと、あるいは殺そうとして、アリウがそれを阻んだ。
ひとつめはまず考えられない。理由がわからないし、なにを今さらという感じだ。
ふたつめならば、イヴェットが怯えるのもわからなくない。彼女は恐らく、ベンジャミンがアリウの手助けをしたと思っている。
だがふたつめ、あるいはみっつめが昨夜起こった事実だったとして、同じ疑問が残る。
なぜ兄を、妹を殺そうとするのか。その裏に浮かび上がる動機は、どうしようもなく無残で、やるせない。考えたくもない可能性だ。
「あ〜〜〜〜」
大声を上げて、床に倒れ込んだ。
が、すぐに起き上がって慌てて床を見回す。先ほどのネズミを巻き込んでいないか心配になったためだ。幸いネズミはとっくに姿をくらませていた。
「副隊長って……あんまり貴族っぽくないですよね」
向かいの房からカルマが呆れたような視線を向けていた。
「どういう意味だそれは」
「だって平気で地面に転がるし、ネコの下敷きになって寝てたりするし……」
「まあ、貴族階級なんて既に名ばかりの飾りだからな」
「え、そうなんですか?」
食いついたのはドリューだ。一方で、カルマもこてんと首を傾げる。
「でも、隊長や副団長はちゃんと貴族っぽいですよ?」
「まあ、あのふたりは根っこにそういう振る舞いが染みついてるんだろ」
肩をすくめた。
「だけどお前ら、普段の調子でアリウや俺と話してたら、十年前なら打ち首だぞ」
「えー、うそだあ」
軽く脅してみたが、カルマは信じられないとばかりに声を上げる。ドリューもいまいちよくわからない様子で首をひねるばかりだ。
確かに、まだ十三のふたりにはピンとこないかもしれない。ドラスティアの貴族制度が有名無実と化したとき、ふたりは齢みっつの赤ん坊だったのだから。それは炎の惨劇を境とした大きな変化のひとつだった。
理由は簡単。貴族の大半が、焼け死んだからだ。特に、教育を施すはずの上の世代は軒並み死んだ。残されたのはベンジャミンら子供ばかり。それではろくな教育を受けられるはずもない。
加えて、王位を継いだサフィールは身分制度の立て直しに興味を示さなかった。彼は身分より実力を重んじた。
結果、ほとんどの貴族の子らは市井の子供たちとそう変わらない環境で育つこととなったし、成長した現在、晴れて高位職に就けたものもいればそうでない者もいる。ベンジャミンは後者だ。
イヴェットがやけに騎士団長の座に拘るのも、この辺りが関係しているかもしれない。この施策により国王は一層評価を高めたが、急激な変化に戸惑う者もいるということだ。
「隊長ってやっぱりすごいんだね!」
「さすが隊長です」
とくとくと講義してやると、なぜかふたりはそう言って目を輝かせた。
待て待て待て、なぜそうなる。
「だって、みんな噂してますよ? 次の団長はアリウ隊長だって」
「それにわたしたちより早く最年少で入団したって」
「貴族制度がなくなっても団長に推薦されるってことは、それだけ優秀ってことでしょう?」
まあ、そうなんだけど。
大抵の者は嫉妬やなんかで真っ直ぐな目でそれらの事実を見られない。ベンジャミンも同じ噂を耳にしたが、だいたいが「騎士団長の孫は羨ましい」だの「どうせ唯一の生き残りだからって陛下に目をかけられてるんだろ」など根も葉もない憶測がセットになっていた。
看板ばかりを見たがって、本人の努力や人柄を見ようとする者は少ない。そういう噂話に興じる奴らに限って、アリウの半分も努力していなかったりするのだから、本当に始末が悪い。
だがまあ、ちゃんとした『目』を持つ者はいるものだ。偏見に惑わされない、下の世代には特に。嬉しくなって目を細めた。
大丈夫だ、アリウはまだ殺されたわけじゃない。
——必ず、助け出す。
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