第22話 逃走
重苦しい沈黙が落ちた。
シャンデリアの眩い輝きも、美しい調度品の数々も、沈黙の息苦しさを和らげてはくれない。
アリウはいつでも割って入れるように構えながら、固唾を飲んで事の行方を見守った。
近衛兵たちはヴィオラが王族の証である宝石の瞳を晒したにもかかわらず、驚くこともなく、槍を下ろそうともしなかった。
ある程度予期していたことではあった。
国王はヴィオラが正真正銘、自分の妹だとわかった上で、殺そうとしているようだと。
だがいざ目の当たりにしてみると、込み上げる怒りが治まらない。
ギリと歯を食い縛り、拳を固く握った。手のひらに爪が食い込む。
ヴィオラがちらりとこちらを振り向き、小さく首を振った。無意識に剣を持ち上げかけていたことに気づき、意識的に力を緩めようとする。
まずいまずい。らしくない感情を抱いた。
ひょっとすると、ただ『気に食わないから』という理由でルビーラビットの救出を企てていたベンジャミンにあてられたのかもしれない。
細く長く、息を吐いた。
沈黙を保っていた国王がゆらりと動く。
緩慢な動きでローブをゆらめかせ、苦々しげに顔を歪めた。端正な顔が歪む様は、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。
「……生きていたなら生きていたで、二度とドラスティアの土を踏まず遠くでのほほんと生きていれば良かったものを」
アリウが聞いたことのない声をしていた。憎しみと行き場違いの怒りがないまぜになった、苦々しい声。
ヴィオラは涼しげに聞き流し、首を傾げる。
「そういうわけにはいかないよ」
はたで聞いていたアリウですら、腹立たしい気持ちになってもおかしくないな、と思うほど、さらりとした声音だった。
「ただ、おれは別に王位もいらないし、王族に戻るつもりもない。復讐するつもりもない。目的が達せられれば、それでいい。だから兵に槍を下ろさせてくれないか」
「残念だが、貴様がどう思うかは関係ないのだよ」
底冷えするような声だった。
ゾクリと背筋が震える。部屋の気温が急激に下がったかのようだった。兵たちも不穏な空気を感じ取って、槍を構える手に一層力を込める。
「——それに、貴様の婚約者は、そうは思っていないようだが?」
サファイアの瞳がアリウを射抜いた。ヴィオラと同じはずの宝石の瞳。だがヴィオラのそれと比べると光は薄く、どちらかというと凍てついた氷の結晶のような印象を受ける。冷たく暗い眼差し。
「——ッ!」
息を飲んだ。反射的に抜剣していた。
「アリュー!」
ヴィオラが叫ぶ向こう側で、国王が目を細める。
「まったく、相変わらずの殺気だな。ザーラ老に気づかれぬように、などとぬるいことを言わず、手段を選ばず殺しておくべきだった」
——気づかれていた。
真っ先に抱いた思いはそれだった。だが相変わらずというのはどういうことだ。幼い頃を除けば、殺意を向けたことなどないはずだ。まさか、無意識に? というよりも、いつから——。
思考の渦に飲まれかかる耳に、遠くの滝壺のような音が届いた。大量の足音が迫り来る音だと気づいて、勢いよく顔を上げる。
国王の口元に冷笑が浮かんだ。
「時間稼ぎか——!」
とっさにヴィオラの手を引き、自分の背後に庇った。
「チッ、時間切れか」
アリウが聴いたものをヴィオラも聴いたらしい。舌打ちして、乱雑にアリウの襟首を引っ張る。あわや首を絞められそうになりながら廊下に退避した。
「どこに行けばいい⁉︎ さっきのとこか?」
「いや、あそこじゃ人を乗せての離陸はできない。もう二階下のテラスか、中庭まで降りないと……!」
並んで廊下を走る。
端に到達すると同時に、大挙して階段を駆け上がってくる兵たちが見えた。
ヴィオラが飛び出したと思うと、先頭が反応できないうちに足払いを仕掛ける。前列の兵士がよろめいたことで後ろの兵士たちもバランスを崩し、玉突きのように次々と後ろに転倒する。ぎゅうぎゅうに詰まっていたこともあり、ちょっとした惨事だ。
彼らの身体を容赦なく踏みつけて、ヴィオラは階段を駆け降りた。申し訳なく思いつつもアリウも後に続く。そこかしこから「ぐえっ」とか「うわあ!」とか「ぐぎゃああ」とかいう悲鳴が聴こえる。
途中で窓から中を覗き込んだコガラシが加勢した。窓ガラスを破って、ふたりが通り過ぎた後の廊下に火炎を吹き込む。
「た、退避!」
回れ右して兵士たちが駆け戻る。さすがにやり過ぎではないかとも思ったが、コガラシのことだ、ちゃんと加減は心得ている。と思いたい。
だがコガラシの援護を得ても、押し寄せる兵士たちをとどめるには足りない。
とうとう追い詰められた。
テラスに辿り着いた直後だった。
アリウは唇を噛んだ。
この距離では、離陸を図る間に弓矢の集中砲火を受けてしまう。コガラシも離陸しながら火を吐くなどという器用なことはできない。
「ヴィオ、コガラシと先に行って。僕が食い止めている間に」
ヴィオラは顔を顰めた。
だが言い争っている時間がないとも理解していた。短剣をしまって、アリウの後ろに下がる。
彼女がコガラシに近づくのを横目で確認して、安堵の息を吐いた。彼女が反論したら、説得するのは手間だ。そうこうして時間を食っている間に、ヴィオラが殺されてしまうかもしれない。それだけは避けなければ。
「アリューを頼んだぞ、コガラシ」
「は⁉︎」
背後から聴こえてきた言葉に、ぎょっとして振り向いた。
ヴィオラはコガラシの顎をぽんぽんと叩いて、騎乗せずに離れる。
「死んだら化けて出るからな、アリュー!」
逆では? という台詞を投げて寄越したが、アリウには突っ込む余裕はない。そのまま数歩下がったヴィオラが、テラスの柵に飛び乗ったからだ。
「なっ、ここ三階——」
ヴィオラが振り向き、軽くズボンを捲って見せた。その下の肌を指で示す。
屋内から漏れる光を受けて、赤が煌めいた。アリウの腹にあるのと同じ、竜の鱗の痣だ。
だ、い、じょ、う、ぶ。
口が動いて、にっと笑った。
大理石にひびを入れる勢いで柵を蹴り、暗い中庭に飛び降りた。
アリウはぽかんと口を開けて、後ろ姿が闇に飲まれるのを見送った。
「追え!」
怒号に我に返る。振り向くと後列の兵士が廊下を駆け戻ろうとしている。
カッと頭に血が昇るのがわかった。
「行かせるわけ、ないだろっ!」
襲いくる数々の剣を弾いて、兵士たちのただなかに踊り込んだ。
コガラシも翼と牙を使い、鋼鉄の鱗を盾に応戦する。
——ギンッ。
振り下ろされる剣を受け止めた。
捌ききれなくなった刃が、頭上に迫っていた。跳ねた髪が断ち切られ、こぼれ落ちる。
受け止めた剣を力任せに弾いた。ずきりと腕に痛みが走る。それを無視して立て続けに蹴りをお見舞いし、押し返す。
酷使に耐えられなくなった腕が悲鳴を上げていた。じくじくと鈍い熱を持ち、痛みを訴える。
ベンジャミンに言わせれば、今まで剣を振えていたことのほうがおかしいのだろうが。
無事、ルビーラビットを逃がせただろうか。どうせならヴィオラのことも見つけて、こっそりと逃していてくれるといいけれど。
痛みから逃れようとでもするかのように、余計な思考がぐるぐると巡る。
ベンジャミンが「王城に侵入してルビーラビットを逃すつもりだ」と言い出したときには、驚いた。だからタイミングを合わせて陽動してくれ、と。だが彼ならそうしてもおかしくないとも感じた。
ルビーラビットの処分をある意味仕方ないことと受け入れてしまっていたアリウと違い、ベンジャミンは本気で憤慨していた。聞けば、しばらく外に隠した後、黒竜などの騒動が落ち着き次第、故郷に送り届けるつもりだと言う。
緩慢な動作で剣を受け止め、返す。あるいは流す。
作業のような繰り返し。
だが徐々に腕が追いつかなくなっている。注意も散漫になりつつある。
結果的に、背後から迫る致命打に気づくのが遅れた。
コガラシが甲高く警告を発した。
振り向いた視界に、迫り来る銀色が映った。
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