第20話 侵入1

 日が沈み、月が昇る。

 月は満月に近かったが、雲の多い晩なのは、アリウたちにとって僥倖だった。

 消灯時刻を過ぎたころ、アリウはひっそりと宿舎を抜け出した。赤竜丘陵から戻った後、たっぷり昼寝をしたので、体調は万全、鋭気もたっぷりだ。

 この時間はまだ眠りに就いていない者も多いのではないかと思ったが、誰にも見咎められることなく、抜け出すことに成功した。

 足音を殺して竜舎に向かい、ヴィオラとコガラシと合流する。声もなく、移動を開始する。打ち合わせは昼のうちに済ませてあった。

 竜舎から出ようとしたところで、外に潜む不審な気配に気づいた。

 ヴィオラに目で合図する。とうに気づいていたらしく、短剣を取り出しながらこちらに向かって頷いた。

 静かに、だが勢いよく戸を蹴り開ける。

 同時にヴィオラが飛び出し、一瞬にして相手を制圧した。僅か数秒の出来事だった。相手は声を上げる暇もなく、気を失って倒れ込む。

 鮮やかな手並みに、アリウの口元がヒクついた。敵としてまみえることがなくて良かった、と心の底から思う。

 結局鞘から抜くことなく終わった短剣をしまいなおすのを横目で見ながら、気の毒な被害者の顔を覗き込んだ。

 息を飲む。

 見知った顔だった。ボサボサのごま塩頭に、無精髭の生えた顎。ベルトから提げられた酒瓶。

 顔色が青を通り越して白くなる。

「知り合い?」

 ヴィオラが小声で尋ねた。

「うん、たぶん酔っ払って歩いてたんだと思う」

 悪いことをした。せめても、と竜舎の内側に引き込んだ。介抱している余裕はないが、風邪を引かれるのも寝覚めが悪い。

「……それにしては酒の匂いがしないけど」

「え、なんて?」

 外でヴィオラがなにか呟いたが、よく聴こえなかった。顔を出して聞き返したが、ヴィオラはなんでもないと首を振る。

 

 十五分後、アリウとヴィオラ、そしてコガラシの姿は、竜騎士団の敷地の端のほう、滅多に人の来ない塀のそばにあった。

 薮の陰に身を潜め、月が雲の陰に隠れるときを窺う。

 ここまではどうにか見張りの目を避けて移動することができた。だがここから一歩でも外に出れば、監視の目が格段に厳しくなることは明らかだ。

 幸運だったのは、人員の大部分が黒竜との戦闘の後処理に持っていかれていることだった。不審者、改めヴィオラの捜索にはある程度人手が割かれているようだが、アリウが予想したほどではない。

「もう少し寝なくて大丈夫か? 隈が取れてないぞ」

 ヴィオラがひそひそと問いかけた。しゃがんで首を傾げ、垂れた銀髪をそのままにアリウの顔を覗き込む。未だに、夢かと疑いそうになる光景だ。

「大丈夫、五時間は寝られたし、隈はもうずっとだから」

「それはそれで大丈夫なのか」

 安心させようと答えたが、返ってきたのは呆れ顔だった。

「そ、それより、本当にこれでいいの?」

 ぎこちなく話題を逸らした。

「これでいいって?」

「ルヴィーダ様に話を通せば、もう少し穏便な手段も取れるんじゃないかな」

 ドラスティア王国において、王はふたりいる。人間の国王と、守護竜ルヴィーダと。

 だが、両者は必ずしも対等ではない。そしてそれには理由がある。

 ドラスティア王家の血筋は代々、瞳に宝石を宿して生まれてくる。サフィールがサファイア、ヴィオラがルビーを宿したように、宝石の種類は様々で、それでいて美しさはカーバンクルのそれにも引けを取らない。

 王家は優れた治世で民の忠誠を勝ち得ていたが、当然、その瞳を欲しがる輩も存在した。彼らは常に、命の危険に晒されていた。

 目をつけたのがルヴィーダだ。ルヴィーダは王家の人間をならず者から守る代わり、王の死後、瞳を寄越せと要求した。

 当代の王は首を縦に振らなかった。自分たちの命は自分たちで守れる、国民をすべて守ってくれるくらいでなければ、割に合わないと、民の守護を求めたのだ。これが現在の、人間と竜種が共存するドラスティア王国の始まりである。

 とはいえこの契約はルヴィーダの良心に依るところが大きいと、誰もが理解している。なにしろルヴィーダは、わざわざ契約を持ちかけずとも、王家の人間を殺して瞳を奪うことだってできたのだ。民をすべて守ってくれという王の要求にしたって、ルヴィーダの立場で考えると受け入れるメリットはどこにもなかった。

 それゆえ、王国におけるルヴィーダの発言権は大きい。ルヴィーダがその権利を濫用したことはないが、ルヴィーダの提案を蔑ろにすることは王とてできないのだ。

 だから、ルヴィーダからヴィオラの身の安全を保障してもらえるなら、それに越したことはないと思ったのだが——。

「いや、だめだ」

 ヴィオラはきっぱりと首を振った。

「どうして?」

 思いもかけない返答に、首を傾げる。

 ルヴィーダは恐らく、炎の惨劇を引き起こしたのがサフィールであると知らない。そうでなければ、彼の治世を放置したりはしないだろう。アリウの言葉では信じてもらえないだろうと口にしたことはなかったが、ヴィオラが生きて姿を現し、命を狙われていると告げたなら話は別だ。

「考えてもみろ」

 ヴィオラは幼子に言い聞かせるような口調で説明する。

「兄上が惨劇の犯人だと知ったら、ルヴィーダは兄上を殺すだろう。そうしたら、王位はどうなる?」

「どうって、そりゃ……あ」

 言葉の途中で気づいたことで、声が中途半端に宙に浮く。

 サフィールには後継ぎも、それどころか王妃もいない。見合いの話もたくさんあったようだが、忙しいからとすべて突っぱねていたように思う。彼が死ねば、王位を継げるのはヴィオラしかいない。

「ああ……それは、嫌だよな」

 納得して頷いた。

「そう。復讐だとかそういうのは、本当にどうでもいいんだよ」

 アリウが抱え続けていた怒りを一蹴してしまうような、軽く乾いた声音だった。

「……うん」

 アリウは頷いた。それがいいことなのか悪いことなのか、判断がつかないまま。


   *


 雲が月を覆い隠す。

 竜騎士団の片隅から、人知れず、一頭のワイバーンが空に舞い上がった。

 アリウとヴィオラを背に乗せたコガラシだ。焦茶色の鱗は夜闇に溶け込み、誰にも見咎められることなく、高く王都の空に上昇する。静かな分、離陸時の羽ばたきを聴かれるのではないかと危惧していたが、どうやら大丈夫だったらしい。見張りの兵も昨夜は他で駆り出されていただろうし、疲れで居眠りしていたとしても無理はない。

 ふたりを乗せて、コガラシは高く高く昇っていく。夜の冷たい空気が、僅かに残っていた眠気も消し飛ばした。

 地上の空気は秋だが、雲に近づけば近づくほど、冬に近づいていくようだった。吐息が白く染まり、目に止まらぬ速さで背後に、下に流れる。気づけば身体にまとわりつく霧で、全身がぐっしょりと濡れている。

 王都を遥か下に見下ろし、王城が石ころのような大きさになったころ、コガラシは上昇をやめて旋回した。そのまま、ゆるりと降下に移る。

「しっかり掴まってて!」

 返事の代わりに、腰に回された手に力がこもる。

 コガラシが翼をたたんだ。

 それは下降ではなく、落下だった。黒竜の翼を斬ったときのような急降下。

 ただし今回必要なのは落下の膨大なエネルギーではなく、純粋な速度だ。高所から一気に落下することで、見張りに反応する隙を与えず、城に乗り込む。そういう作戦、いや、力技である。

 風が真正面から顔を叩き、呼吸と視界を奪った。

 まっすぐ真下に落ちるだけなので、進路はコガラシに任せておけばいい。振り落とされないよう手と膝に力を込め、身を低くしてできる限り風を避ける。

 僅か数秒の後、ガラスの砕け散る派手な音とともに、衝撃が一頭とふたりに襲いかかった。

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