第17話 再会

 アリュー。

 懐かしい響きだった。

 少年のような口調、快活とした態度、アリウ、と上手く発音できず、舌っ足らずに発音される名前——それがいつしか、彼女だけの愛称になったもの。

 アリウは答えようと口を開いたものの、言葉が出ずにまた閉じてしまった。

 なんで、どうやって生きてとかどうしてここにとか今までどこにとかなんの目的でとかどうして追われてとかそういえば墓のパンジーとか、大量の疑問が我先に喉を通って飛び出そうとして渋滞を起こす。

 引き上げられた魚のようにパクパクと口を動かすばかり。

 ヴィオラが首を傾げ、コガラシの尾を跨いで歩み寄った。うつむきぎみの顔を下から覗き込み、見上げる。視線は頭ひとつと半分ほど低い。

 赤い瞳は、記憶にあるよりも遥かに美しかった。複雑なカットを施した宝石のように、月とランプのわずかな光が瞳の中で乱反射する。黒目に見えるのは反射が生み出す深い陰影だ。長い銀の睫毛に縁取られ、完璧な調和で収まっている。どんな宝石師が磨いた宝石も、どんなカーバンクルの宝石も、この瞳に勝てはしない。

 昔とほとんど変わらない顔。当時は視線も、アリウとほとんど変わらない位置に来ていた。

 知らぬ間に随分と身長の差が開いてしまっていたらしい。

「ヴィオ……」

 ようやく絞り出せたのは、ただ一言、彼女の愛称だけだった。

 手を伸ばし、腕に触れる寸前で止める。

「……触っても、いい?」

「うん」

 けれどアリウの手が触れるよりも、ヴィオラの手がアリウの手を掴むほうが早かった。

 声にならない声を上げて反り返るが、ヴィオラの力は強く、手を握って離さない。

 伝わる感触は温かく、一方で少しだけがさついてもいた。はっとして手を握りなおし、そっと撫でる。そのまま手を上に持っていって、遠慮がちに、頬に触れた。

 ヴィオラはくすぐったそうに身を捩ったが、特に嫌がる素振りは見せない。魔が差して頬を捏ね回すと、無言で腹に拳を叩き込まれた。間違いなくアリウの知るお転婆姫だ。痣に覆われた箇所だというのに、それなりに痛かった。

 ヴィオラの拳のほうが心配になってまじまじと見たが、どうやら無傷のようだ。ほっと胸を撫で下ろした。

 安堵ついでに、張り詰めていた糸が緩んでしまった。

 あの日からずっと張り詰めていた糸。アリウ自身、そこにあることに気づかなかった細く脆い糸が抑え込んでいたものが、濁流のように溢れ出しそうになる。

 慌てて手を離し、数歩下がって、上を向いた。

「アリュー?」

「ちょっと待って。ちょっとあの。まずい」

 片手でヴィオラの頭を押さえつつ、もう片方の手で顔を隠した。見られたくなかったし、今決壊したら、本当にまずいと思った。たぶん、朝まで動けなくなる。

 アリウが落ち着きを取り戻すには、想定よりも時間がかかった。早く落ち着かなければと思えば思うほどなぜか視界が滲んで仕方なかった。

 深呼吸して波立った心をなだめ、こっそり鼻をすすり上げた。とはいえ静かな夜のことだ。音はしっかり聞こえてしまっただろう。

「……ずっと、死んだものと思ってた」

 ぽつりと呟いた。

 それでも正面から顔を見せる自信はなく、抱き寄せるようにしてヴィオラの頭に顎を乗せた体勢だ。

「おい、なんだこの姿勢は」

「ごめんちょっとしばらくこのままでお願いします」

 頼めば、世話が焼けるとでも言いたげなため息が吐き出された。だがため息とは裏腹に、回された腕が軽く背中を撫でる。それだけでまた溢れそうになり、乱暴に目の下を擦る。

「おれもおまえは死んだものと思ってたよ。だからたまたま聴こえてきた名前がおまえの家名だって気づいて、驚いた」

 優しい声音だった。

 木の上に登って降りられなくなった猫にかけていたのが、ちょうどこんな声音だったなあと思い出して、少しおかしくなった。猫と同列扱いされているかもしれない。

 そのときの猫がどうやって城に入ってきたのかは、未だ解けぬ迷宮入りの謎だ。城の外壁は高いし取っ掛かりなどもないし、上部には返しがついていた。穴などもなかったはずだ。

 どうやって、といえば。

「——、そうだ。どうやって——それにどうしてここに? 昨日の侵入者って、ヴィオのことだよな」

 はっと思い出して身体を離した。食い気味に問いかける。

 ヴィオラはきょとんと目を瞬かせた。

「どうやってって言われると……ええと」

 説明がめんどくさいな、と言いつつも指を折り折り思い出しながら説明を紡ぐ。

「追ってくる竜騎士の中に偉そうなのがいたから人質にとって城に侵入しようとしたんだけど」

「ええ……」

 ふむふむと耳を傾けたが、いきなりの物騒な言動に思わず声が漏れた。

 思考がならず者のそれだ。もう少しこう、穏便な手段はなかったのだろうか。それとも穏便に忍び込もうとしてバレた結果なのだろうか。後者ならば良いが。……いや良くないか?

 アリウが一瞬のうちにぐるぐると思考を巡らせる間にも、説明は続いている。

「黒いドラゴンが出てきたときのどさくさに紛れて逃げられちゃって」

「うん……」

「仕方ないから人目を盗んで竜騎士団に忍び込んだんだ」

 アリウは思考を放棄した。

「それでしばらく隠れ場所を探してうろうろして、ここが一番見つかりにくそうだったから隠れた」

「なるほど」

「……」

「……えっ、それだけ?」

「他になにかあるか?」

 ヴィオラは心底不思議そうに首を傾げた。

 あるに決まっている。今の説明ではどうやって竜舎に侵入したかしかわからないし、それもかなり大雑把だ。

「ああ」

 思い至ったようにぽんと手を打った。

「この房で寝てたのはこいつがおれのこと知ってるみたいだったから」

 コガラシを指し示す。

「おまえの騎竜かなと思って待ってたんだよ」

 そういうことではない。

 ないのだが、最後の言葉が気になって、アリウは思わず聞き返す。

「僕を?」

 ヴィオラが頷いた。

「どうしてまた?」

 ひょっとして、それが王都に来た理由——いや、思い上がりも甚だしい。ついさっき彼女は、アリウが死んだと思っていたと言っていたではないか。自身の額を軽く握った拳で叩いて、傲慢を正す。

「……もしかして、王城に侵入する手助けがいる、とか」

 思いついた可能性を口にする。

 ヴィオラはアリウの奇行に首を傾げていたが、その言葉に頷いた。

「わかった、協力するよ」

 即答した。

 ヴィオラがほっとしたように、笑みを浮かべる。

「ただ、」

 条件を付け足す。笑みを崩すのは気が引けたが、ひとつだけ、確認しておかねばならないことがあった。

「ひとつだけ、聴かせてほしい。君は、陛下を殺すつもり?」

 もしそうなら、止めなければと思った。

 国王が死ねば、ドラスティアは混乱に陥る。多くの命が喪われるだろう。

 ヴィオラが生きていると知れば、国王が彼女を殺そうとするのは想像に難くない。それでも、多くの犠牲を伴ってまで国王を殺そうとするのは、だめな気がした。

『——本当にそうか?』

 頭の中で、異を唱える声がある。

 アリウは激しく頭を振った。

 それはそうだろう。

『——もう一度、彼女を失うことになっても?』

 ……ひとりの命と大勢の命じゃ、釣り合わない。

『——本当に?』

 ……そうだ。

 だって、そうでなくては。

 大勢のためだからと、自分ひとり我慢すれば丸く収まると。

 そう、必死に言い聞かせて滅多刺しにして。

 ——今まで殺してきたアリウの心は、どうすればいい?


「……リュー、アリュー?」

 乱暴に肩を揺すられて、はっとする。

 僅かな澱みもない澄んだルビーが、心配そうにアリウを見上げていた。

「大丈夫か? 顔色が悪い」

「あ……わ、悪い」

 慌てて数歩下がった。

 今、意識が飛んでいたか?

 口元に手を当てて考え込む。

「ちょっと寝不足みたいだ。……大丈夫」

 誤魔化すように笑って見せた。ヴィオラは眉を顰めたが、深入りはしてこなかった。

「さっきの質問だけど」

 代わりに、問いへの答えを口にする。

「兄上を殺すつもりは、ないよ。おれはただ——」

 続く言葉を耳にして、アリウは大きく目を見開いた。

 胸を支配したのは、どうしようもないやるせなさだった。

 同時に、先刻の声が頭の中で大きくなる。この声をまた殺してまで、守るべき信念なのか?

 アリウの葛藤とは別に、目の前のヴィオラが瞑目した。

「その質問をするってことは、やっぱりあの事件の裏で手を引いていたのは兄上なんだな」

 アリウは答えに詰まった。

 だが答えに詰まったことそのものが、なによりの答えだ。

 ヴィオラが深くため息をつく。困ったように、アリウに笑いかけた。

「まったく、損な性分だな、お前は」

 なぜだか、鼻の奥がつんと痛くなった。

 それから、ふたりは話をした。

 ヴィオラと王妃殿下がどうやって災禍を逃れ、生き延びたか。アリウがこの十年、どうしていたか。

 ふたりとも話が巧みなほうではなく、交わす言葉はたどたどしく、しばしば途切れもした。話題は行ったり来たり迷走し、関係ない雑談へと流れていく。

 やがて喉が枯れるころ、瞼に鉛でも仕込まれたような睡魔が襲ってきた。ヴィオラと再会したことで吹き飛んでいた眠気だが、いい加減忘れたままでいるのは難しそうだ。

 ガクリと頭が垂れ、ハッとして首を振る。

 見ればヴィオラも、眠そうに瞼を擦っていた。

「その、さっきの頼みだけど」

 曲がりに曲がって脱線した話題を引き戻す。

「ああ、別に今すぐ返事しなくていいよ。一日くらいならここに隠れられる」

 アリウが即答したのを忘れたのか、ヴィオラはさらりと答えた。

「無茶な頼みなのはわかってる。おれに手を貸したらまず騎士でいられなくなるだろうし、最悪殺されるかも」

「いやそれは別に——」

「どうせ今すぐには動けないだろ、おまえ」

 ——いいんだけど、と。

 言葉の最後まで言わせてもらえなかった。

 ヴィオラは指先でアリウの目元をつついた。その指に釣られるように目の下を触る。

 べっとりとこびりついた隈のことを言っているのだろうか。今日に限ったことではないのだが、確かに、いつもより濃くはなっているかもしれない。

 取り敢えず帰って寝ろと、ヴィオラとコガラシのふたりがかりで竜舎の外に押し出された。

 困ったことに、睡魔は宿舎に戻った途端どこかへ消えてしまった。

 ヴィオラが生きていた。

 喜びと興奮が遅れて襲いかかってくる。

 服も着替えぬまま枕を引っ掴み、ごろごろと寝台の上を転がった。

 だが同時に、言い知れぬ不安も襲いかかる。もし朝起きて夢だとわかったら。そうでなくても、ヴィオラが黙っていなくなってしまったら。いや、ヴィオラから助力を求めてきた以上、それはないと思いたいけれど。それでも、見つかってやむを得ず姿を眩ませることは有り得るかもしれない。

 悶々として転がるうち、気づけば窓から朝の光が差し込んでいた。

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