第15話 黒竜
王都を離れると、周囲は完全な闇に包まれる。
月明かりで装具が反射し、互いの位置くらいはわかるが、どれが誰かまではわからない。強いて言うなら、ベンジャミンの純白の騎竜、雪姫がぼんやりと見えるくらいだ。
草原は酷く静かだった。ワイバーンの羽ばたきと風の音で、虫の声も聴こえない。
草原を越えて丘陵地帯に差し掛かっても、それは変わらなかった。
時折フクロウや
「夜襲なんてほんとにあるのかなあ」
ユニスのぼやきは全員の心の声の代表でもあった。
「昼間みたいに、分かれて哨戒したほうがいいんじゃないですか?」
ドリューが風に掻き消されぬよう、せいいっぱい声を張り上げて提案する。
「んー……」
アリウは考え込んだ。
効率を考えるならそれが最適解だ。だがこう暗いと、再合流が難しくなる。一組が何か発見して王都に戻ったとして、何も知らないまま他の班が敵と邂逅してしまうかもしれない。
やめておこう。
そう判断を下そうとしたところに、異変は起こった。
森がざわめき、一斉に鳥が飛び立つ。
「まじか……勘弁してくれよおい」
見なくとも苦虫を噛み潰したような顔をしているのがわかる声で、ベンジャミンが呟いた。
静かだった森が唐突に騒がしくなる。森の住民たちの鳴き声がキーキーと鼓膜を刺激した。
地鳴りのような、音がした。
それは森を大きく震わせ、飛んでいる小隊にも、足元が揺れているような錯覚を与えた。
まだ慣れていないカルマとドリューの騎竜が、乗り手の不安を感じ取ったように落ち着きをなくす。飛行が不安定になって、ふたりが悲鳴を上げた。
「カルマ! ドリュー! 落ち着け! そんで思いっきり手綱を引け!」
ベンジャミンがフォローに回る。
どうにかふたりと二頭が落ち着いたとき、小隊を待ち受けていたのは、さらなる驚愕だった。
「……ねえ。あたしの目、おかしくなったのかな」
そう言って指さしたファニーの声は、柄にもなく少し震えている。
初め、アリウはなにがおかしいのかわからなかった。
細い指が指し示す先は、黒々とした小高い丘。
丘陵地帯なのだ、丘はあって当然である。
「なにが」
おかしいのか、と聞こうとして、丘が小刻みに震えていることに気づく。よくよく見れば木々も生えずのっぺりとして、金属のように月明かりを反射している。
植物が生えていない、どころか、岩肌でもない。
けれどゴツゴツとして、一方でなめらかな部分は光沢がある。
こんな形をしたものを、アリウはひとつしか知らない。
息を飲んで見守る間にも、ゆっくりとそれは隆起する。
地響きを立てながらバキボキと木々を薙ぎ倒し、立ち上がった。
「うそ……でしょ……」
カルマが泣きそうな声を上げた。
ドラゴン、だった。
一体どうやって、とか、ルヴィーダはどこに、とか、余計なことを考えている暇はなかった。漆黒のドラゴンは明らかに、こちらを敵視していた。
巨大すぎる翼を広げ、空へと舞い上がる。月を背負い、飛ぶ姿は死神のように禍々しい。
ドラゴンが口を開いた。
首筋がちりちりと冷たく燃える。嫌な予感がした。
「——ッ、回避ッ!」
命令が間に合ったのは奇跡だった。
何の前触れもなく、炎が吐き出される。
轟ッと音を置き去りにして、直前まで小隊がいた空を燃やし尽くした。ワイバーンのそれとは比べものにならないほど、熱く巨大な質量をともなった炎。熱が肌を焼き、髪を焦がした。
熱を帯びたままの頬とは真逆に、背筋は骨の代わりに氷柱を突き込まれたように冷たくなる。
指示を出そうとして上手く声が出ないことに気づいた。口がからからに乾いていた。幾度も唇を湿らせて、声を絞り出す。
「……カルマ、ドリュー。ふたりは王都に戻って増援を呼んできてくれ」
「なっ、わたしたちだけ逃げろってことですか⁉︎」
カルマが食ってかかった。
「誰か戻って状況を知らせないと、気づかないかもしれないだろう」
説得のためそう言ったが、これほどの騒ぎで誰も気づかないなど有り得ないと、カルマもわかったはずだ。
ぎゅっと唇を噛み、俯いた。
「……行こう、カルマ。ぼくたちがいても、足手まといになるだけだ」
ドリューが遠慮がちに声をかけた。
「……わかりました」
ごねられるかと焦ったが、意外にもカルマは大人しく頷いた。騎竜を旋回させ、来た道を戻る。ドリューも慌てて後を追った。
そのまま飛び去ると見せかけて、カルマが振り向く。
「言っておきますが、増援を呼んだら戻ってきますからね! 止めても無駄ですから!」
ふんっと言い捨てて、見る間に二頭のワイバーンが遠ざかる。止める暇もなかった。
「せっかく離れられるんだから、そのままサボっちゃえばいいのに」
マジメだねえ、とユニスがあくび混じりに呟いた。サボり魔もここまでくれば豪胆だ。
ユニスにサボられるのは困るが、アリウとしても経験の浅いふたりにはそうしてほしいところではある。
ならばできることは一刻も早く、このどこから湧いて出たかわからないドラゴンを排除することだ。
気を取り直して、頭上の黒い災厄を見上げた。
「ユニスとファニーは先鋒を頼む。無理はしなくていい。ハルニアさんは後方支援を。ゲイリーさんとベンジャミンはいつも通りに」
矢継ぎ早に指示を出す。
「しょーがない」「わかった」「はい」「わかりました」「了解」
口々に返事して、陣形を組んだ。
ユニスとファニーが同じ弓から放たれた矢のように、息を合わせて飛び出した。高く高く上昇し、ドラゴンのさらに頭上に飛び上がらんとする。
煩わしげに、鎖のような尾が振れた。
金属のような硬そうな見た目からは想像もつかないしなやかさで、鞭のように伸び上がる。姉妹めがけて、一気に振り下ろされた。
姉妹は軽々と騎竜を操って尾による打撃を避けた。
対象を見失った尾はそのまま森に激突し、一帯の木々を薙ぎ払う。
尾が振り切られた後、残されたのは一直線に刻まれた破壊痕だった。
「直撃したら死にそうな攻撃ばっかじゃねえか」
ベンジャミンが頬を引き攣らせる。
「せーのっ!」
二本の槍が振り下ろされ、ガギィンと金属じみた音を立てて弾かれた。翼が凶器のように振るわれるも、既に姉妹は離脱している。
「硬っ!」
「刃が通らないよこいつ!」
ふたりが口々に叫んだ。
あまり喜ばしくないが、想定内ではある。ドラゴンであれば、ルヴィーダと同程度の硬度は持っているだろう。
「コガラシ、頼むよ」
呼び掛ければ、気合い充分とばかりに相棒が高く鳴いた。
翼を羽ばたかせて黒竜の遥か頭上に舞い上がり、一気に急降下する。
ドラゴンの首がコガラシを追う。どう調理してやろうと言わんばかりに、黒い瞳がぎらりと光った。
はたき落とそうとするように、尾が持ち上がる。それが振るわれる直前で、アリウは
「隊長? なにを考えて——」
交錯の刹那、鞍を蹴って飛び出す。
コガラシの急降下と蹴りと重力、みっつの勢いが乗った状態で剣を上段に振りかぶり、鉄の翼めがけて思いきり振り下ろした。
——ガギィィィ——ン‼︎
つんざいた騒音は、それを引き起こしたアリウの耳を潰すほどだった。
だが一時的に失った聴覚すら些細な問題だと思えるほど、襲いかかった反動は大きかった。
——熱い。
真っ先に感じたのは溶岩が流れ込むような熱さだった。
腕が焼けるような感覚は恐らく痛みだろうが、痛みと認識できない。ただただ熱く、骨のひび割れた感覚だけがある。
どうにか剣を取り落とすことだけは避け、身体を丸めて落下に身を任せる。
重い衝撃とともに鞍に収まった。
「ナイスキャッチ」
座り直し、コガラシの脇腹を撫でた。
「なにが『ナイスキャッチ』だバカヤロー‼︎ 死ぬ気か‼︎」
追いかけてきたベンジャミンが怒鳴った。恐ろしい剣幕で腰を浮かせ、彼のほうが誤って転落しそうな勢いだ。
「ええ……ちゃんと上手くいっただろ」
頭上のドラゴンを指差した。
大した有効打にはなっていないが、翼に一筋、確かな傷が刻まれていた。
ドラゴンはぎこちない動きで二、三度はばたき、怒り狂ったように咆哮する。
ぎろりと動いた目が、コガラシと雪姫を睨めつけた。
「逆上させてんじゃねーか!」
ベンジャミンが喉を枯らす勢いで叫ぶのと、尾が振りかぶられるのは同時だった。
力任せに叩きつけられた尾が、次々と地形を書き換える。
「ちゃんと効いてはいるみたいだ」
逃げ回りながら、アリウはそう分析した。
ドラゴンは高度を保ってはいたが、その姿勢はやや左に傾いている。アリウが傷をつけたほうだ。何度か同じ攻撃を叩き込めば、地上に落とすことくらいはできるだろう。
問題は、あんな特攻をできるのがアリウくらいだろう、ということと、何度も同じ攻撃を叩き込んでは両腕が保たないだろう、ということ。
それから——。
黒竜が大きく口を開けた。
「散開!」
大声で指示を出した。
ドラゴンの象徴とも言うべき、口から吐く炎による攻撃。
これがあるせいで、張り付いたままじわじわ削る、ということが難しい。いつでも逃げられる距離を保っていないと、例え直撃を免れても炎の余波で炙られた上、呼吸する空気を奪われて墜落しかねない。
豪炎が空気を燃やし尽くした。
間一髪で炎の舌先を逃れ、冷や汗を拭う。
だが、安心している余裕はなかった。
「っ⁉︎」
身体の均衡が崩れて、慌てて手綱を繰る。コガラシが急にふらつき、高度を落としていた。
様子がおかしいのはコガラシばかりではない。雪姫も他のワイバーンたちもみな、目を回して無軌道によろめいている。どうにか衝突を避けつつ、墜落を避けるのがせいいっぱいだ。
「隊長、あれを見てください」
真っ先に異変に気づいたのはハルニアだった。
夜目のきく彼女は、黒竜の周りに妙なものを見つけたものの、それがなにかわからず眉をひそめる。
「煙……?」
確かに煙のように見えた。
黒竜の鼻腔から溢れ出し、風に乗ってこちらまで漂ってきている。
「ワイバーンがおかしくなったのはこのせいか」
ベンジャミンが苦々しげに毒づいた。
「毒竜だってのか? だが炎も吐いてたし、第一、俺たちに影響がないのはなんでだ?」
ぶつぶつと呟くが、疑問点を精査している暇はない。
「とりあえず風上に避難したほうがいい。ここよりはましなはずだ」
「そうは言っても……!」
無論、アリウだってわかってはいる。
原因がわかったところで、既に行動に移すのは難しい。コガラシは墜落しないよう、ゆっくり降下しようとがんばってくれているが、今にも気を失いそうだ。
ニタリ、と。
ドラゴンが邪悪な笑みを浮かべた気がした。
ゆっくりと、その口が再び開く。
「炎が来る!」
ゲイリーが警告した。
退避は不可能。回避も限りなく不可能に近い。
幸い高度はだいぶ下がっているが、この高さから落ちて無事に済むだろうか。いや、躊躇っている時間はない。
「いいか、炎の噴射に合わせて落下しろ!」
アリウは剣を鞘に納めながら叫んだ。もう一度鐙から足を外し、目測で地上との距離を測る。恐らく、ワイバーンは大丈夫だ。人間も打ちどころが悪かったりワイバーンに押し潰されたりしなければ足の骨折程度で済むだろう。
「はあ、殺す気⁉︎」
「焼かれるよりましだろ! 運が良ければ助かる!」
「じょうっだんじゃない! 焼死も落下死もお断り!」
「じゃあもっとましな方法を教えてくれ」
「知らないわよそんなの!」
ファニーがぎゃいぎゃいと文句を言うが、リミットはすぐそこまで迫っていた。
黒竜が首を反らせ、特大の炎を吐き出さんとする。気のせいでなければ、先ほどより格段に大きい。絶対に逃さないという意図を感じる。
「大丈夫ですファニー。骨折で済みます」
「え、骨折れるの……」
タイミングを逃さぬよう白い炎を見据える後ろで、ハルニアとユニスのどこか気の抜ける声が聞こえる。
次の瞬間、どこからともなく飛来した赤いドラゴンが、黒いドラゴンに激突した。
隕石と隕石が衝突したような衝撃だった。
今まさに吐き出されようとしていた炎は大幅に目標を逸れ、高く天に撃ち出された。
まっすぐに伸び広がった光はなにも傷つけることなく、虚空に消える。
六人と六頭は、呆気に取られて霧散する炎を見送った。
〈よく耐えた、お前たち〉
心を落ち着ける旋律が小隊に語りかける。
赤き護国の竜が全体重をかけて黒竜を抑え込み、かぎ爪を食い込ませた。あれだけ苦戦してようやく少し傷を負わせられた鱗が、易々と切り裂かれる。黒竜は金属じみた悲鳴を響かせた。竜騎士たちは思わず耳を押さえ、ワイバーンも身をすくませる。
アリウははっとして声を上げた。
「ルヴィーダ様! そのあたりに毒が——」
〈うむ、わかっておる。この感覚は覚えがある。一角獣の角を砕いて粉にしたものだな〉
忌々しい、とルヴィーダがうなる。その響きは地を震わせ、森を震わせた。ぞくりと背筋が凍りつく。
〈支障が出る前に、終わらせる。貴様らはさがっておれ〉
低い低い旋律が叩きつけられた。
直接怒りが向けられたわけでもないのに、冷や汗が背筋を滑り落ちた。ワイバーンたちも気が抜けたように、ふらふらと少し離れたところに着地した。
ルヴィーダはぐわと口を開くと、黒竜の喉笛に噛みついた。
悲鳴を上げ、黒竜がのたうつ。
黒竜はルヴィーダのかぎ爪を逃れようと暴れた。咆哮を上げ、地面を四肢で叩く。既に荒らされた森の破壊痕がさらに広がり、アリウたちが不時着した草原まで揺れが襲いかかった。鞍から降りたものの立っていられず、各々相棒に寄りかかるか地面に尻もちをつく。
天変地異のような攻防の果て、ルヴィーダが黒竜の首を食いちぎった。
バキバキぶちぶちと歪な音を立てて、黒い生首が夜空に晒された。
地を揺るがす騒動が嘘のように、静寂が草原を包んだ。
「終わっ……た……?」
ユニスが呟く。
赤いドラゴンが羽ばたき、天に舞った。黒竜の頭部を放り出してこちらに向かって飛んでくる。
ワイバーンすら吹き飛びそうな強風が小隊を襲った。
悲鳴を上げて相棒の鞍や手綱にしがみつく。
竜たちを苦しめていた煙を吹き払ったのだと、すぐにわかった。足元も覚束ない様子で座り込んでいたコガラシがふるふると首を振り、立ち上がったからだ。他のワイバーンたちも同様だった。
礼を言おうと見上げ、巨体の向こう側にあるはずのないものを見る。
「ルヴィーダ様!」
守護竜の背後を指差した。ルヴィーダが振り返る。
そこに浮いていたのは、首を失くしたドラゴンの肢体だった。
誰もが声を失った。
死体が動いているのか、首を失くしても死んではいないのか。それはひとまずどうでもいい。
ズタズタに引き裂かれた翼がぎこちなくも羽ばたいて、
鎖のような尾がうねって、自身の生首を持ち上げた。
〈ッ化け物——ッ!〉
ルヴィーダが牙を剥き出しにして、首無し竜に襲いかかる。
けれど竜は嘲笑うような金属音を引きずって、赤竜丘陵の奥地に逃げ出した。
普段のルヴィーダならば決して逃がしはしなかっただろう。けれどわずかなれども取り込んでしまったユニコーンの一部は、確実に神竜を蝕んでいた。
追跡の途中で体幹が傾き、失速する。墜落こそしなかったものの、明らかな限界が訪れたようであった。
立て直して追いかけようとしたときには、首無し竜は魔龍山脈に姿をくらませていた。
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