第14話 騒動2
耳に馴染みのある言葉が聴こえた気がした。
「フォルトナー?」
目の前の黒髪の女性に聞こえない程度に小さくつぶやいて、ヴィオラは首を傾げた。
やけに引っかかる言葉だ。どこで聞いたんだろう。
名前、のような気はする。響きからして、どこかの地名だろうか。城塞都市とか。いや、この状況でそれはないか。順当に考えれば、誰か竜騎士の名前だろう。
頭上に刃が迫り、はっとして横にした短剣を頭上に突き出した。ガリガリと嫌な音を立て、短剣が削れる。
あと数合まともに打ち合ったら折れそうだ。目を細めて冷静に分析した。
力は拮抗している。だが、そもそも武器の強度が違うのだ。こちらはただの鋼鉄の短剣だが、向こうはワイバーンの鱗を織り込んだ特注品だ。とても比べ物にならない。
ジリジリと重心をずらし、横に剣を受け流した。
全体重をかけて力を押しつける先を失い、女性の体がぐらりとかしぐ。その脇腹に肘を打ち込もうとしたが、相手もやられてばかりではいなかった。自分からしゃがみ込み、低姿勢から回し蹴りを繰り出してくる。
ととっ、とステップを踏んで後ろに回避した。その間に女性は体勢を立て直してしまう。
邂逅から既に、三十分近くが経過していた。
顔には出さないが、正直少し焦り始めている。包囲する竜騎士は地味に数を増やしているし、このままでは完全に退路を断たれるのも時間の問題だ。できれば彼らを利用して王城への侵入を果たしたかったが、そうも言っていられないかもしれない。
「はあーーーっ!」
思案を回らせている間にも、女性が突貫してくる。頭上から大振りの一撃。
芸がない。が、ちょうどいい。
ひらりと躱すと、返す刀が逆袈裟斬りに舞い戻る。その刃を片手に握った短剣の柄で受け止め、跳ね上がる勢いと同時に屋根を蹴る。
ぶわっと身体が宙に浮いた。
風が強く吹いた。
横手の家屋に飛び移るのを手助けしてくれるかのように、下から上へと吹き上げる。耳元が轟々と鳴り、マントが激しくばたついた。
衝撃でフードが剥がれた。
まずい、と思ったが、広げた両手で均衡を取っている状態では防ぎようがない。白銀がこぼれ、夜空にたなびいた。
いささか不恰好な着地を決め、脱兎のごとく駆け出した。
大丈夫。銀髪は珍しいが、まったく見ない髪色ではない。瞳を見られさえしなければ、誤魔化しはきくはずだ。
「待ちなさい!」
ワイバーンに乗って、女性が追い縋った。
先ほどと違い、矢の雨が降ってこないのは、彼女が釘を刺したせいだろうか。助かるが、どのみちこのままではジリ貧だ。使えそうなものを探して周囲に目を配る。せめて竜騎士が誰かひとりでも、隊を離れて孤立してくれればいいのだが。
意を決して、火の届かない暗い路地に飛び降りた。街の地理を把握していない人間がもっとも犯してはならない愚行と言える。
「おい! あっちに行ったぞ!」
「二手に分かれて追い込め!」
「やつは袋の鼠だ!」
背後で怒声が聞こえ、にんまりとほくそ笑んだ。
一帯はどうやら、あまり使われていない倉庫群のようだった。まわりまわって、最初に近衛兵たちが彼女を連れ込んだ辺りに、戻ってきてしまったらしい。
どの建物も二階以上の高さがあり、建物と建物の間は狭い。屋根が張り出しあって、わずかな隙間からしか月明かりは届かない。それはつまり、ワイバーンの背からでは路地に逃げ込んだ人間を探せない、ということだ。
どこが行き止まりか把握していない以上、袋の鼠には変わりないが、狭い通路のことだ。徒歩で探そうとしても、ふたり以上並んで歩くのは難しい。槍や剣も振り回すほどの余剰はない。ここならば、誰が相手でもぶちのめす自信がある。
焦れているのは向こうも同じはずだ。そして焦れば、先走る馬鹿が出てくる。
闇雲に歩いた先が袋小路だろうが関係はない。ただじっと、敵が網にかかるのを待つだけだ。
木箱の影で息を潜めていると、ほどなくして、硬い靴音が複数、通路に反響した。松明の灯りが、長い影を倉庫の壁に映し出す。
手前の分かれ道で何やら相談した後、追手は三手に分かれた。ふたりがこちらに向かってくる。
足音がそばに差しかかった瞬間、勢いよく飛び出し、素手で組み伏せた。
勝負は一瞬だった。
相手の両腕を捻り上げ、腹の上に乗って、喉元に短剣を突きつける。
宙を舞った松明が乾いた音を立てて転がった。落ちても火は消えず、赤い光が淡く周囲を照らし出す。
「止まれ」
後方を歩いていた騎士が声もなく逃げ出そうとした。鋭く制止する。突きつけた短剣を見せつけるように、松明の炎を反射させて見せた。
「構うな! 行——がっ」
組み敷いたほうが喚いた。喉に肘を叩きつけて黙らせる。
逃げ出そうとしていた騎士が情けない悲鳴を上げて腰を抜かした。
「悪いことは言わない。こいつを殺されたくなければ黙ってそこで震えてろ」
警告し、足元に視線を落とした。よく見れば先ほど、嫌というほど睨み合った顔だ。美しい黒髪は地面に広がって砂埃に汚れ、唇の端から血が垂れている。
「……将がこんなところに出張るもんじゃあないぜ。お陰でおれは助かったけど」
返答は唾だった。
ひょいと躱し、口角を持ち上げる。黒髪の女性はとびきりの敵意を込めて彼女を睨みつけた。
「念のため聞くが、それはおれが誰かわかった上での態度か?」
「……偽者の分際で、ぬけぬけと」
咳き込みながらも、敵意に満ちた言葉が絞り出される。予想外の返答に、目を瞬かせた。
「陛下のお言葉は正しかった。帝国の技術で瞳にルビーを嵌め込み、ヴィオラ殿下を騙って我々を動揺させようという魂胆だろう。あわよくば、適当な口実をでっちあげて国を乗っ取るつもりだったのではないか?」
なるほど、そう来たか。先手を打たれたわけだ。
女性が嘲笑う。
「どうした、図星で声も出ないか」
「……ふっ」
堪えきれなかった笑いが口をついて飛び出した。
「ふ、ふふふふ、ははははは」
ふたりの騎士は言葉を失っていた。正気でも失ったと思ったのだろうか。
けれどひとしきり笑って顔を上げたヴィオラの表情に、今度は別の意味で声を失う。
「よくもまあそんな大雑把な嘘を信じられるもんだ」
その顔は確かに笑っていた。だが燃えているはずの瞳は、温度を感じさせない底冷えした赤をしていた。
顎に手を当てて、考え込む。
「いや、そんなでっちあげでも信じ込ませるほど、この十年で信頼を築いたのかな。すごいねえ」
にっこりと笑って手を叩いた。
*
誰だ、この娘は。
組み敷かれ、赤く照らされた少女の顔を見上げながら、黒髪の女性——イヴェットは恐怖に呼吸を失ってしまっていた。
サフィール王を前にしたときと何ら変わりない威圧感。
纏う空気に飲まれてまともに思考が働かない。
『もし彼女が本物のヴィオラ王子だとしたら……』という思考が入り込みかけて、慌てて振り払った。そんなはずがない。彼女は十年前、炎の惨劇で亡くなった。本物のはずがないのだ。
生き延びていたなら、なぜ姿を消していた? なぜ今になって現れる必要がある? 第一、肉親であるサフィール王が殺そうとするはずがない。
イヴェットの困惑をよそに、少女はにっこりと無邪気にも見える笑みを浮かべていた。
「……私たちをどうするつもりだ」
やっとの思いで言葉を口にする。
とりあえず今は、少女の正体などどうでもいい。そう思い込んで考えを逸らそうとした。
「別にどうにも。ただおれが城に侵入するまで、盾になってもらう」
なんとも思っていなそうなあっさりした口調で言い捨てる。
イヴェットは背筋が冷えるのを感じた。これは背中を地べたに押しつけられているせいでは、断じてない。阻止、まではいかなくとも、隙を見てなんとしても逃れなくては。
そんなイヴェットの決意を汲んだ、わけではないだろうが。
突如として。
轟音が大気を震わせた。
それは王都ルビリス、またはその近郊にいたすべての生き物の耳に届いた。
鳥の群れが一斉に森を離れ、動物たちも一目散に逃げ出した。
家の中で身を寄せ合っていた人々はますます身を縮こまらせ、一部命知らずな者が窓辺に駆け寄る。兵士たちは城壁から身を乗り出し、ワイバーンと竜騎士はその場で急停止した。
そして誰もが、東の空に怪物を見た。
「守護竜さま……?」
小さな女の子が母親の腕に抱かれて、不安そうに呟いた。
黒々とした、巨大なドラゴンだった。
月を背負って高く舞い上がり、天に威容を晒す。
ルヴィーダでは、ない。
遥かに禍々しく、遥かに怖ろしい姿をしていた。全身真っ黒で、直線的なフォルム。ゴツゴツとしたコウモリのような翼はあまりにも分厚く、羽ばたいて身体を浮かせているとは思えない。長すぎる尾はまるで鎖だ。
「じゃあ、あれは一体……」
誰ともなく、不安げな声をこぼす。
黒いドラゴン口が大きく開く。白い光が口の奥に収束していく様が、遠くからでもはっきりと見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます