第12話 夜

 夜の帳が下りると、空気はめっきり冷えこんだ。

 凍りつきそうな冷気が扉や窓の隙間から侵入し、身体を冷やす。ここから冬に向かって、気温はどんどん下がるのだろう。城壁や門の見張りが嫌な季節がやってくる。

 少し早いが、詰所の暖炉に火を入れてもいいだろうか、と当直の兵士は本気で悩んだ。風を避けられるだけ城壁の見張りよりましとはいえ、冷え性には辛いものがある。

 コンコンと、王都の外側の扉が叩かれたのは、そんなときだった。

 なんだ、こんな時間に。

 誰も見ていないのをいいことに、露骨に顔を顰めた。こうして閉門時間を過ぎてから門扉を叩く者は稀にいる。そのための門番ではあるが、面倒なので本当に勘弁してほしい。原則、急病人や身体の弱い老人と子供以外は朝まで通してはいけないことになっている。王都を訪れる多くの者もそれを理解しているはずだ。だが規則に従って大人しく待てる者は、そもそもダメ元で門を叩いたりしない。つまり、厄介事が確定しているのだ。

 急かすように、再び扉が鳴る。

「はいはい今行きますよっと」

 兵士は制服の上に毛布を羽織ったまま、扉の小窓から顔を出した。

 冷気が勢いよく流れ込み、ぶるりと身を震わせる。

 だが、目の届く範囲に人影は見当たらなかった。

「なんだ? 石でもぶつかったのか?」

 それにしては、やけに規則的な音だったが。

 首を捻りながら、小窓を閉じようとする。途端、再三のノックが耳に届いた。間違いない。拳で木を叩く音だ。

 右を見て、左を見て、それから、下を覗き込む。

 数秒の沈黙があって、周辺に響き渡ったのは、幽霊でも見たような兵士の悲鳴だった。


   *


 炎が四方を取り囲んでいた。

 豪奢な絨毯や調度品は見る影もなく燃え落ち、黒い煙が廊下に充満している。煙の影には剣を構えた騎士の姿が見える。こちらに切っ先を向けて、今にも斬りかからんばかり。

 息が苦しいのは、空気が薄くなっているからか、あるいは恐怖ゆえか。

 大丈夫、ヴィオラと王妃さまはちゃんと逃げられたはずだ。

 そう、自分に言い聞かせて心を奮い立たせようとする。けれどなぜだか、ふたりはもう死んでいるという知りようのない事実が、重く身体に染み込んで動かない。

 歯が出来の悪いカスタネットのように、耳障りな騒音を奏でている。強引に黙らせて、せいいっぱいの敵意を込めて前を睨んだ。

 幾人もの騎士が、溶けた顔で嗤っている。

「そこをどきなさい」

 赤毛の女騎士が幼子を諭すように言う。声は幾重にも重なってぐわんぐわんと揺れる。

「これはアーサー王子のご命令よ。あの方はこの国の民のために、心を殺して行動しているの。あなたのちっぽけな正義感が、たくさんの民を殺すわよ」

 うるさいうるさいうるさい。黙れ黙れ黙れ。

 なぜ動かない。こんな肝心なときに、どうして身体は動こうとしない。

 凍りついた喉をこじあけて、雄叫びを上げた。否、そのつもりで上げた声は掠れて裏返り、雄叫びと呼ぶにはあまりに情けない。だがその響きが、硬直した腕を、わずかに持ち上げる。床に張りついた足を、前に動かした。

 とはいえ、多勢に無勢に変わりはなく、相手は訓練を積んだ大人の騎士で、こちらは入団もしていない子供だ。逆境はどうやったって覆らないし、せいぜいが二分か三分、彼らを引き留めるのが限界だろう。

 それでも、動かなければ後悔することになると、どういうわけかはっきりとわかっていた。

 嘲笑うように歪んだ騎士たちの顔は原型を留めず溶け、身体は骸骨のよう。無我夢中で剣を振り回し、切り刻む。悲鳴のような嘲笑のような甲高い音を立てて、斬られた敵が暗い靄となって消える。

 靄が晴れると、そこは死体の山だった。いつのまにかアリウの左腕は折れて変な方向に曲がり、肩や腰に刺し傷が刻まれている。なぜか痛みはない。

 禍々しい赤い月が惨状を照らし出す。いや、月が赤く見えるのは未だ、炎が高く燃え続けているせいだろうか?

 堂々と聳え立っていたはずの王城は見る影もない。炎に絡め取られ煤け、ところどころ不恰好な骨組みを晒している。

 夢遊するように足が前に出た。つま先がなにか重いものにひっかり、なんだろうと下を見下ろす。

 ——

 警鐘が鳴り響いた。だが頭は意思に反して下を向く。

 死体、だった。

 いや、正確にはまだ息がある。だがそれが助けようもなく死体となることを、アリウは

 女と子供、ふたりぶんの死体。血と泥に汚れているが、美しい銀髪は見間違えようもない。

「あああ、」

 首を振って、後ずさった。見なかったことにすれば、なかったことになるんじゃないかと顔を背けようとする。それなのに、目は青白い顔に釘付けで、動こうとしてくれない。

「ああああああああああーーー!」

 酷い耳鳴りがした。

 視界が揺れ、黒く眩む。


   *


「アリウ! おいアリウ! しっかりしろ!」

 耳元で大声が怒鳴っていた。ぐわんぐわんと頭が揺れる。

「痛ッ……」

 意識が明瞭になるにつれ、槌で殴られたような頭痛が襲いかかった。頭を押さえてうずくまる。痣が熱を持ち、息をするたび激しく痛む。

 動くことすらできずうずくまっていると、徐々に痛みが引いてきた。ゆっくりと、浅い呼吸を繰り返す。息を吸い込んでもあまり痛くなくなってきて、ようやく周囲を見渡す余裕ができる。

 顔を上げると、ベンジャミンが覗き込んできた。眉を寄せた仏頂面で水の入ったコップを渡してくる。礼を言って受け取ると、一気に飲み干した。

 冷たい水が火照った喉を流れ、身体を内側から冷やしてくれる気がした。

「大丈夫か、酷いうなされ方だったぞ」

 その一言で、ようやく先ほど見た光景が夢だったことを認識する。よく見れば血は一滴もついていないし、左腕が折れて曲がったりもしていない。

 腕を曲げて伸ばし、拳を握って開いてみた。大丈夫だ、なんの違和感もない。

 大きく息を吐いた。

「あー、酷い顔色のところ悪いが、動けるか」

「……なにかあったのか」

 言いづらそうなベンジャミンの様子に、彼が起こしに来た理由をぼんやりと察する。

「緊急出動命令だ。市街地で敵の間者が破壊工作を行なっている。うちの隊への命令は王都の外側の哨戒だ」

 わかった、すぐ行く、と答えようとして、違和感にブーツを履く手を止めた。

「待て、なんだって?」

 眉を寄せ、副隊長を見上げる。空耳を疑った。だが、耳が受け取った情報は変わらなかった。ベンジャミン自身、困惑を隠せない様子で、同じ言葉を繰り返す。

哨戒だ」

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