第9話 サフィール
高い棚に四方を囲まれて、言われるままに服を脱ぐ。
上半身を晒して、部屋の中央に立った。
薬師のかぶれてがさがさの手が胴に触れた。腹から脇腹、肩、背中と、順に触っていく。
アリウはその様子から目を逸らし、部屋の中をぼんやりと眺めた。
背の高い棚が四方の壁を埋めている。中には名前もわからない薬草や石、動物の骨がぎっちりと詰まっている。他にも古ぼけた作業机や計量器、書類、診察用の寝台や椅子、鏡などが所狭しと並ぶ。天井から吊られているのは乾かしている途中の薬草だ。
そこかしこから独特の匂いがする。キツくはないが、ここに毎日入り浸っていたら鼻がおかしくなりそうだ、と訪れるたび抱く感想を、今日も抱く。
天窓が大きく取られているので部屋の中は暗くはない。
「また少し、痣が広がっていますね」
薬師の声に促されて、しぶしぶ、目の前の鏡に目を向けた。
右の脇腹から背中にかけて、大きな赤い痣がある。いや、痣と呼ぶのはあまり適切ではない。
人間の肌と思えぬ硬く光沢のある、歪な菱形。それがたくさん集まって、痣、のようなものを形成している。より正確に呼ぶのならば、鱗だ。
竜の血による侵蝕の、目に見える証だった。
伝承に語られるように、ドラゴンの血は凄まじい生命力をもたらす。それは事実だ。
傷は恐るべき速さで治るし、骨も頑丈になる。鱗に覆われた部分に至っては、生半可な刃ならば容易く弾く。
だが鱗が広がりすぎたり、小さくとも心臓まで届けば死に至る。人間の脆弱な肉体が耐えきれなくなるのだ。生きたまま竜に変化した人物の伝承も残ってはいるが、不老不死の霊薬について同様、どこまでが本当かわからない。
「痛みは?」
問われて、黙って首を横に振った。薬師が不思議そうに考えこむ。
「これくらい広がっていれば、痛みで四六時中のたうち回っていてもおかしくないんだけれど……」
「あとどのくらい持ちますか?」
「はっきりしたことはわかりません、そもそも竜血病の患者が少ないですから」
薬師は首を振った。
「痣の広がり方にもよりますが……長くて五、六年。短くて一年か……数ヶ月か」
「そうですか」
痣から目を逸らすようにして、シャツを着た。
「はい、どうぞ」
その手に、薬師が湯気の立つカップを渡す。アリウは顔を顰めたくなるのを堪えた。
ドロドロした茶黒い液体。
竜血病の進行を抑える薬だそうだが、とてもそうは思えない見た目だ。おまけに恐ろしく不味い。
鼻を摘んで、一気に薬をあおった。
流れ落ちる液体が喉を焼き、臓腑を焼く。肌と鱗の境目が悲鳴を上げた。激痛にカップを取り落としそうになり、慌てて薬師に押しつける。
身体をふたつに折り曲げ、椅子に手をついて、荒い呼吸を繰り返した。じわじわと、痣が広がっているような錯覚に襲われた。
背中をさすってもらっている間に呼吸が落ち着いてきた。
「少し休んでいきますか?」
アリウは大丈夫だと首を振った。
*
薬室を出て、城の廊下をゆっくりと歩く。
ヴィオラを訪れて毎日のように登城していたころは、勝手知ったる巨大な遊び場だった。
だが一度焼け落ちた城は十年をかけて建て直され、かつての面影はほとんどない。それでもこうして歩けば、あそこはヴィオラのお気に入りの木があった場所、あそこは剣の稽古をつけてもらっていた中庭、あそこはヴィオラが入ろうとして怒られていた噴水、と、今も鮮明に思い出すことができる。懐かしい記憶だ。
けれど残念なことに、目的は王城散策をして思い出に浸ることではない。
仰々しい扉の前で、アリウはため息を飲み込んだ。
両脇の近衛兵が、彼の来訪を中に告げる。
ほどなくして、その部屋……ではなく、隣の応接室に通された。
「申し訳ありませんが陛下は立て込んでおいでです。しばらくこちらでお待ちください」
侍女の言葉に頷いた。うながされるままに剣を預ける。
たっぷり一時間は待たされて、ようやく案内がやってきた。
侍女の後について廊下を歩きながら、こっそりと座り通しで固まった身体をほぐす。
今日は外の東屋で会うらしい。長い廊下を歩いて、中庭に案内された。
肌寒いし、花もほとんど枯れてしまっているというのに、物好きなことだ。
不敬なことを考えながら席に着く。
さらに五分ほど待たされて、サフィール王が東屋に姿を現した。
獅子のたてがみのような金髪に、王族であるという紛れもない証の宝石の瞳。柔らかな曲線を描く眉と薄い唇、すらりとした鼻筋。活発な美少女であったヴィオラとはタイプの違う、儚げな美青年だ。瞳の色にしても、ヴィオラが血のように苛烈な赤だったのに対し、こちらは空のように淡く澄んだ青。
だが殴れば脆く壊れそうな顔の下に、恐ろしい覇者の威容が隠されていることを、アリウはよく知っている。
立ち上がって出迎えると、王は鷹揚に頷いた。使用人が茶を用意して姿を消し、この場に、ふたりきりになる。
礼儀は必要ないとこの茶会が始まった数年前に言われているので、最低限の目礼のみで、正式な挨拶は交わさない。友との席でまで堅苦しい挨拶はしたくないというのが、当時王が言ったことだ。
アリウとしても格式ばった挨拶は苦手なので、かなり助かる話ではあった。王が本当にアリウを友人とみなしているかは、別として。
「竜血病の進行はどうだった」
王と、王の妹の元婚約者。
奇妙な組み合わせのお茶会は、いつも同じ問いから始まる。
「少し痣が広がっていました」
「寿命は?」
「短ければ数ヶ月だそうです」
「先週よりも縮んでいないか」
「そうですね」
大した感慨もなく、肩をすくめた。組んだ手の上に顎を乗せて、王がまじまじとアリウを見る。
「毎度思うが、随分と冷静だなおまえは。死ぬのが怖くはないのか」
視線を落として、紅茶に映る顔を見る。茶色の水面に映った人間は、とっくの昔に死人同然だ。まだ死んでいいものかわからずに、惰性で生きている。
「自分が死ぬのは、そんなに」
「ふうん」
置いていかれるほうが怖いです。
言葉にしなかった声を、聞いたのかどうか。王は相槌だけ打ってカップを傾けた。スコーンを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
沈黙が落ちた。
会話はいつも、それきりだ。
王は興味を失くしたように茶や菓子を口に運び、その間、アリウは黙って景色を眺める。元々は『妹をよく知る相手と思い出話をしたい』と設けられた席であったが、彼女の話が出たことは数度しかない。思うにそれはただの口実で、誰にも邪魔されずに休む口実が欲しかっただけなのだろう。その口実にたまたま、アリウが最適だっただけだ。
そのことに気づいたとき、正直助かったと思った。
元々ふたりの間にろくな面識はない。兄妹の年は離れていて疎遠だったようだし、アリウからしてみれば婚約者の兄というだけのただの他人だった。
退屈ではあるが、会話に付き合わされるよりはよほどいい。
けれどこの日、アリウは自分から沈黙を破った。
「陛下、折り入ってお願いがあるのですが……」
王は声をかけられたことに気づかなかったようにビスケットをほおばり続けていたが、やがて、ゆっくりと目を瞬かせてこちらを見た。珍しい生き物を見たかのような目だ。
「言ってみろ」
聞き入れるとは一言も口にせず、王が続きをうながした。
「その、昨日保護したルビーラビットのことで……」
ああ、と頷く。
「そういえば、あれはおまえの小隊だったな。カーバンクルの助命嘆願か」
言う前に続きを察されて、むぐ、と口をつぐんだ。既に望み薄な気配がする。それでも、親友の頼みだ。言い募った。
「副隊長のベンジャミンは王城の研究室から声がかかったこともあるほど、動物の生態に精通した男です。その彼が、ルビーラビットはこちらが危害を加えない限り、人を傷つけることはないと言っています」
「彼の知識については私も高く評価しているよ。向かない竜騎士よりも、研究者になってもらいたいと思うくらいにはね」
コツコツと爪を鳴らしながら、ゆったりとした口調で言う。
「だが、それはだめだ。王として、民を危険に晒す可能性が少しでもあるのなら、その選択をすることはできない」
「……ベンジャミンが責任を持って世話をするとしても、だめですか?」
「だめだな」
にべもなかった。
納得しきれず唸るアリウに、王は言葉を重ねる。
「特に今は周辺国がきな臭い。内部にまで余計なリスクを負うわけにはいかないのだよ」
がっくりと肩を落とした。王の言い分には、国を背負うものとしての正しさがある。それを曲げさせるには、生半可な理由ではだめだろう。
「……陛下は」
ふと気になったことを呟いた。
「戦争でもなさるおつもりなのですか?」
「そう思うのは、昨日の二人組が原因か?」
それだけではない。が、わざわざ説明を重ねるのも面倒なので黙って頷いた。
「戦争をするつもり、か。半分正解で半分不正解だな」
「半分、ですか」
「私は何も、戦争をするつもりなどないぞ。だが戦争のほうがやってくるのは止められない」
「それはつまり、近く戦争を仕掛けてくる国がある、と?」
王は重々しく頷いた。
「ですが、リリウムともピタトリスとも良好な関係を築けているはずではないのですか? カトレイヒにしても、魔龍山脈に阻まれてすぐには手出しできないはずです」
「リリウムが既にカトレイヒの手に陥ちている、と言ったら、どうだ?」
馬鹿馬鹿しい、と笑おうとした。だが王の言葉には、例え話では済まない重さがあった。
「で、ですが国交はあるではないですか。現にユニコーンの角の粉末だって、リリウムから——」
「表面上は、確かにそうだ」
言い募るアリウの言葉を、一刀の元に両断する。
どこから話したものか、と足を組み替えた。
「十年前、私がリリウムに遊学していたことは知っているだろう」
「……はい」
「あのとき既に、あの国は内側から滅ぼされていた」
「なっ」
何を馬鹿な、と言いかけて、口を出る前に飲み込んだ。無礼講とはいえ、さすがに不敬がすぎる。
察したように、王がふっと笑んだ。
「言いたいことはわかる。頭でもおかしくなったか、とね」
「い、いえそこまでは」
「良い。この目で見なければ、私とて信じなかっただろう」
だが、事実なのだ、と王は続けた。
「表面上は教皇が支配し、ユニコーンが守護し聖女が補佐していた、平常通りにな。だが実質的にはカトレイヒの息のかかった者が内部から国政を操っていた」
我が国にもしばしば、昨日のような間者が潜り込んでいることがあったぞ、とさらりと付け加える。たかだか小隊長では当然なのかもしれないが、寝耳に水の情報だ。
「今まで手を出してこなかったのは、地盤を固めていたのだろう。お陰でこちらも備える時間があったが……ここ数ヶ月で、何やら国境付近がきな臭くなっている」
「と、いうと?」
「唐突に流通が絶たれた。軍を動かしているという情報もある」
近々、竜騎士団にも通達が行くだろう、と王は告げた。
アリウは眉を寄せて考え込んだ。
あまりに現実味のない話だった。だがもしそれが本当ならば、王都が戦場になる可能性があるということ。また、置いていかれる可能性があるということだ。
「少し話しすぎた。今日はもう帰るがいい」
王が飲み干したカップがソーサーの縁に当たって、カツンと硬い音を立てた。
アリウは頷いて立ち上がり、辞そうとして、つとその足を止めた。やめたほうがいい、と思いつつも、振り向いて問いかけるのを止められなかった。
「……陛下は、この国を。この国の民を守ろうとしていらっしゃるのですよね」
「無論だ」
何を当たり前のことを、と王が顔を顰める。
「ならば——」
——ならば、なぜ妹君を殺したのですか。
大きく喉を鳴らし、やっとの思いで禁断の問いを飲み込んだ。
ずっと、誰にも言えず、抱え込んでいた疑問。疑念、恨み、怒り。
不思議そうに、テーブルの向こうで王が首を傾げた。ほんの少し、手を伸ばせば簡単に剣が届く距離。
「……なんだ?」
「いえ」
顔に出ていなかっただろうか。口元に手をやって顔を触る。
「……陛下も、たまにはヴィオラの墓参りに行かれてはいかがですか?」
誤魔化すためとっさに口をついたのは、恨み言にも似た提案だった。これでは誤魔化しにならないな、と心の中で苦笑する。
「あいにくと、死者のために割く時間などないよ」
王の返答はにべもなかった。
「そんな暇があれば、今を生きる生者のために時間を使ったほうがいい」
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