第5話 少女
「さすがにもう追ってこないか」
赤竜丘陵の東端。
魔龍山脈に足を踏み入れるか入れないかのところで、長身の女性はようやく足を止めた。
——魔龍山脈。
大陸を東西に二分する、巨大な山脈。カトレイヒ帝国の西方への侵略を阻む、高い高い壁。
かつて大陸中を荒らし回り、英雄に討伐された邪竜の骸。
死後数千年経った今も完全に朽ち果てることなく、瘴気を撒き散らしているため、同族であるはずの竜種ですら、滅多にこの辺りには近づかない。
人間であれば、対策もなく長居すれば死に至る、魔の山脈だ。
ずっと担いでいた小柄な青年をずだ袋のように放り出し、代わりに、ずっと片手で持っていた大剣を背の鞘に納めた。想定外の労働を強いられ、彼女の機嫌はあまり良くなかった。
放り出された青年は二転三転し、落ち葉を撒き散らしながら木の幹にぶつかって止まる。しばらく身体を抱えていたと思うと唐突に跳ね起き、口に入った木の葉と悪態を一緒くたに吐き出した。
「ぺっ、うえっ。……おいマリエ、さっきボクごと
「リスクが少ないほうを取ったまでだ。アンタだって、情報を漏らして陛下の不利益になるのはご免だろう、ナサニエル?」
取り立てて騒ぐようなことじゃないとでも言いたげに、マリエと呼ばれた女性は肩をすくめた。
彼らは任務のため動いていたが、それがドラスティアに気取られるくらいならば、何も為さずに死んだほうがましであった。
けれどその言葉に、ナサニエルは食ってかかる。
「ああ? 捕まった程度でボクがそんなヘマやるとでも?」
「さっきのことを忘れたのか? 技術屋ってのは随分と都合のいい脳みそをしてるじゃないか。あの辺りが竜騎士団の哨戒ルートから外れているって言ったのは誰だ」
「外れていたさ! 少なくとも昨日まではね! 変わったとしたら今朝だよ」
そんなの予想できるか。まったく、とんだ不運だ、とナサニエルは頭を掻きむしる。
「わざわざ貴重なルビーラビットを餌に使ったってのに神竜は出てこないし雑魚ワイバーンどもに襲われるし竜騎士には見つかるし! ドラゴンはワイバーン同様珍しい宝石に目がないはずなのに……」
見目の麗しさによらず、存外口が悪い。人というのは見た目で判断するもんじゃないな、とマリエはこの相方を見るたびに思う。
「やっぱり、アレを起動するしか神竜を誘い出す方法はないんじゃないのか」
「言っただろ、アレの起動には時間がかかる上、音も大きい。起動しきる前に見つかったら何もできずに潰されて終わりだ」
任務が行き詰まって、幾度となく交わされた議論だった。
「北からの進軍を待って合わせるしかないと?」
「ああ。できることなら陛下のお手を煩わせることなく任務をまっとうしたかったが……いや、あるいは」
言いかけて口をつぐむ。マリエが首を傾げたが、なんでもないと頭を振った。ありえない仮定の話は、するべきではない。
けれど。
王都ルビリス中の視線を引きつけるほど、大きな事件が起きてくれれば、あるいは、と。
もしもそんな災厄がドラスティアに訪れてくれたのならば、それは。
カトレイヒにとっては、希望の灯火となるだろう。
*
「ぶえっくしょん‼︎」
盛大なくしゃみをかまして、ひとりの少女が鼻をすすった。
「なんだ? 別に寒くもないのに。誰かおれの噂でもしてるのか?」
道のど真ん中で立ち止まって、きょろきょろと辺りを見回す。
何の変哲もない、ありふれた街だ。大きくも小さくもなく、大した見どころのない宿場町。
宿や酒場、市場などが揃って、旅人の羽休めには困らないが、大した見どころがあるわけでもない。一日も歩けば王都ルビリスにたどり着くため、わざわざ長居しようとする者もいない。
道ゆく人の中に、彼女に疑惑の目を投げかける者は見当たらなかった。否、急に立ち止まったことに対し不審げな視線を向ける者はいたが、それはただ、変な奴を見た、というだけの反応にすぎない。
少女は深くフードを被り直して、首を傾げた。
まあいいか、と肩をすくめて、屋台からパンをひとかたまり掻っさらう。代金に銀貨をピンと弾いて投げ渡した。
「ちょっとそこの、多すぎて受け取れないよ!」
「いいよ、面倒だからお釣りはもらって」
店主が後ろで叫んだが、ひらひらと手を振って人混みに紛れた。
釣りのやり取りをしていては顔を見られる可能性が高くなる。そちらのほうがよほど面倒だ。
とはいえ。
「王都まであと一日、そっから北の国境までだいたい二週間。どうせ野宿だから宿代は考えなくていいとして……うーん、ピタトリスで稼いだ金で足りるかなあ」
麻袋を覗き込んでうなる。
「兄上、路銀くれないかな……いや考えるだけ無駄か」
ため息をついて懐に金をしまった。
前を向いてふと、立ち止まる。
街の出入り口にはちょっとした行列ができていた。検問、のようなものをしているらしい。南門にはこういうのがなかったから、大丈夫だと判断して街を通り抜けることにしたのに。
げえっと心の中で呟いて、踵を返そうとしたが、遅かった。列の管理をしている兵士が、少女を見つけてにっこりと笑いかける。
「すみませんが、人相と持ち物の確認にご協力ください」
仕方ない。諦めて、背負った革袋を手渡した。
「何かあったんですか?」
「いえいえ、普段の警備の一環です。炎の惨劇以来、陛下のご命令で検査を強化するようにと。……他国から来られた方には馴染みがないかもしれませんね」
「そうですね。ピタトリスでは国境も素通りでしたから」
「ああ、諸国のほうから。それは無理もない。ええと、パンと干し肉と塩と衣服と……剣は護身用ですか?」
「ええ」
「なるほど。ご存知だとは思いますがドラスティアでは幻獣狩りは禁止ですので、そこだけ気をつけてください」
兵士は言いながら、荷物を返却した。
あとは服の内側に持った物とお顔を、という言葉を受けて、言いにくそうに顔を背けて見せる。
「その……」
「……?」
「ええと、顔に酷い傷痕があるので、できればこんな人目のあるところでは……」
ダメ押しにきゅっとフードを掴んでみせた。身長もそうない少女からこうお願いされれば、普通の良心を持った人間ならば無碍にはできまい。
うーんと兵士がうなった。一存では決められない、と上官を呼びに行き、何やら相談する。しばらく待たされたが、最終的に、ではこちらへ、と詰所の一室に通された。
そして扉が締まってすぐ、気の毒な兵士は意識を刈り取られることとなった。
「いやーちょろくて助かった」
ガサゴソと兵士の懐を探る。これで裏口の鍵でも持っていてくれれば良かったのだが、残念ながら世界はそう甘くはないらしかった。
まあ、それでも兵士の注意は検問前の旅人たちに向いているだろうから、こっそり抜け出すのは楽勝——。
ではなかった。
出口側にもたくさん、兵士が並んでいる。
「おいおい、これが普段の警備は嘘だろ。何かあったな」
ひとまず部屋に立てこもって、打開策を練るべく頭をひねる。あまりぐずぐずしてはいられない。時間が経てば、誰かが様子を見にくる。
「なんというか、この街のための警備っていうより、王都に不審者を近づけさせないための警備、って感じだ」
呟いて、そういうことか、と口の端を歪めた。
ならばますます長居は無用。あまり大ごとにはしたくないが、穏便に済ませる理由もなくなった。
「さてそれじゃ」
立ち上がって手足を思い切り伸ばす。
「お望み通り暴れてやろう」
災厄は風の形をして訪れた。
北門を見張っていた兵士が最初に感じたのは、風だった。
そして、それ以外なにも感じなかった。
意識を刈り取られた肉体がぐらりと傾ぎ、鈍い音を立てて地面に倒れる。
少し離れて立っていた別の兵士は、急に同僚が倒れたことにぎょっとして声をかけようとした。一歩二歩と歩み寄り、屈んで手を伸ばす。
肩を揺さぶったが、返事はなかった。涎を垂らし白目を剥いてはいるが、昏倒しているだけのようだ。目立った外傷もない。
この男には持病でもあっただろうか、と首を傾げ、隊長に報告を入れようと立ち上がる。そして——。
繰り糸が切れた人形のように、くずおれた。
*
不自然なほどの静寂に、風が吹く。
検問を通った旅人がまず思ったのは、静かすぎるということだった。
王都へと続く道はそれなりの人で賑わっているものと思っていたが、人っこひとり見当たらない。
——カア。
カラスが鳴いて、布の塊の上に降り立った。
くちばしで足元をつつき、興味を失ったように、バサバサと飛び去る。
なんだろう、とそれに目を凝らし、倒れた人であると気づいた旅人は、声もなく腰を抜かした。
「なんっだこれ……」
いくつもの身体が積み上がり折り重なって、平和な街のそばに、さながら戦場のような光景を作り出しす。
門の外側の人間は全滅していた。兵士だけではない。北門から街に入ろうとしていたと思しき人々も、すべて。
血が流された気配はなく、倒れた身体は死んでもいない。
けれどその光景は、見た者の恐怖心を煽るには充分だった。
「ふんふんふーん」
上機嫌に口ずさみながら、灰色のマント姿がひとけのない道を往く。
この時期にしては日差しは暖かく、風もない。絶好の旅日和である。
鼻歌に合わせてトントンとステップを踏み、それから何かに気づいてはっとしたように懐をごそごそやりだした。
内側から瓶を取り出し、日に翳す。
上を向いたことでフードがはらりと落ちた。
雪のような銀髪がこぼれ落ちる。透明な瓶越しに、ルビーの瞳が煌めいた。
「……うん、壊れてないし、中身がこぼれてもない」
ほっとしたように、ルビーが瞬いた。
大切そうに瓶を懐にしまいなおす。
頭の上に手をやって、フードが落ちていたことに気づいた。
「おっと」
被り直し、背中まで流れた髪をたくし込む。鼻のあたりまで深く、フードを引き下ろした。誰にも見られていないよな、ときょろきょろ見まわした。
幸い、目に映る生き物は上空のカラスだけだった。それも餌を探すのに夢中で、彼女のことなど眼中にない。胸を撫で下ろした。
「バレると面倒だもんなあ」
フードの下に手を突っ込んで、髪をいじる。母親譲りの、綺麗な銀髪。それをまるで罪人の証のように隠さなければならないのは少し、気に食わないけれど。
「まあ、とっとと済ませて出てしまおう。そのほうが兄上もせいせいするだろ」
吐き出された言葉は諦念にまみれていた。
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