第2話 守護竜ルヴィーダ
外に出て門を閉めると、生温かい風が吹きつけた。
吹き飛ばされそうな勢いに、とっさに足を踏ん張る。夜明けの光を巨大な影が遮った。
見上げると、城ほども大きさのある真紅のドラゴンがアリウを見下ろしている。
人の顔よりも大きな、赤い玉虫色の鱗が燦然と輝く。見下ろす瞳は燃え盛る炎のよう。足の数と体の大きさ以外、ワイバーンとさほど変わりないのに、のしかかる威圧感は比べものにならない。
神竜ルヴィーダ。
ドラスティア王国の守護神だ。そして王国のすべての竜種の王でもある。
「ルヴィーダ様、おはようございます」
片膝をついて挨拶する。
重々しくも軽やかな、不思議な旋律が挨拶に答えた。
ドラゴンの言葉は、歌だ。
否、正確にはドラゴン独自の言語は別にある。だが数千年の時を生きるドラゴンは人間より遥かに賢く、人間の言葉を習得した。だが声帯の違いはどうしようもなく、発音は難しい。そこで文字ひとつひとつに音階を当てはめて人間と意思を通わせる手段とした、というのがドラゴンの歌だという。
着いてこい、とうながされ、コガラシの背に乗って高く飛び上がった。
暴風が身体を煽り、軌道が流れる。先に飛び立ったルヴィーダの両翼が生み出す風だ。
嵐のような羽ばたきは、この一帯が妙にひらけている原因だった。コガラシのそれとは比べ物にならないほど強い。
樹海を奥へ奥へと進んでいくと、ひときわひらけた空き地に出る。ルヴィーダの寝ぐらだ。そこかしこに刻まれた焼け焦げた跡や爪痕は、寝息や爪とぎの跡だ。
二頭の影が地上に落ちると、朝日を浴びていた小動物たちが大慌てで奥の洞窟に逃げ込んだ。彼らの額や瞳には色鮮やかな宝石が光り輝いている。ルヴィーダの庇護下にある
竜種というのは往々にして宝石や貴金属のたぐいを好むものだ。高位種であるルヴィーダも、決して例外ではない。
アリウとコガラシを先導していたルヴィーダが、空き地の上空で旋回し振り向いた。
〈剣を構えろ〉
ルヴィーダが告げた。
深呼吸し、腰の剣を引き抜いた。右手で剣を握り、左手で手綱を繰る。
大気が揺れる。
大型の竜と小型の竜がどちらからともなく加速し、激突した。衝突する寸前で高度を下げ、風圧で煽られぬよう翼を畳み、矢のように脚の間を通り抜ける。
「ッ!」
かざした剣が硬い鱗にぶつかって腕を痺れさせた。
ルヴィーダはその巨躯から想像のつかぬ素早さで旋回し、もう一度、潰しにくる。
「ッ、コガラシ!」
手綱を引いて上昇の指示を出した。翼を大きく広げ、一気にルヴィーダの頭上に躍り出る。そのまま後ろ向きに宙返りした。
「ブレス!」
コガラシの口から炎が噴き出し、薄く広がってルヴィーダの目を眩ませた。その隙に鞍を蹴って空中に踊り出し、赤い鱗の上に着地する。不安定な背中を走って向かうのは翼の根元、比較的鱗が薄い部分だ。
——そこ!
振りかぶった剣を下ろす。刹那、足元が急激に傾いた。
「わっ、ちょ⁉︎」
掴まる場所もなく空に放り出された。
ぐわ、と開かれた口とぎらつく牙が迫り——あわや、というところで飛び出したコガラシがアリウを攫う。だがほっと息をつく暇もなく、ゆるく振られた尾がふたりを地面に叩きつけた。
土煙がもくもくと立ち昇った。
静けさが森を覆った。避難していたカーバンクルたちがソロソロと、様子を見に顔を覗かせる。
煙が晴れたとき、そこにあるのはひっくり返ってルヴィーダの鉤爪に押さえつけられたアリウとコガラシの姿だった。
「……まいりました」
アリウは潰されたヒキガエルの気持ちで白旗を上げた。
どこか満足げに鼻を鳴らして、ルヴィーダの前脚がどかされた。
一方のアリウは悪態を堪えながら、恨めしげにその前脚を見ていた。相当手加減してくれていた様子ではあったが、それでもアリウがかつてルヴィーダの血を浴びていなければ、骨の数本は折れていたと思う。
土まみれで立ち上がり、ゲホゲホと咳き込む。
〈まだまだ未熟だな。だがブレスで目を眩ませる発想とタイミングは、悪くなかった〉
「あ、ありがとうございます」
神竜の講評を受けて、アリウはあいまいに微笑んだ。
どういうわけかこの神竜様は、炎の惨劇以来、アリウに稽古をつけてくれるようになった。最初は『守護竜とはそういうところまで面倒を見てくれるものなのか』となんとなく受け入れていたが、竜騎士団に入ってそんなことはないと知らされた。どういうことなのかと首を傾げたものである。
当然理由を問うたが、ルヴィーダは言葉をなさない歌で誤魔化して、答えてくれなかった。結局、ルヴィーダの血を浴びたことで眷属と見做されたか、独りだけ生き残ったことを憐れまれたか、あるいは、生き残ったところで短命が定められてしまったことを憐れまれたのか。そのいずれかだろうとあたりをつけて、アリウは強引に自分を納得させた。
なんだかんだで、ドラゴンであるルヴィーダに稽古をつけてもらえるのは正直にありがたい。
竜騎士同士の戦いはほとんど武芸ではなく、操竜術によって決まる。だが想定される敵ははほとんど地上の相手であるため、竜騎士団では、竜騎士同士の対戦演習はあまり行われないのだ。
とはいえ、だ。
将来、空中の敵と戦う日が来ないとは限らない。友好関係にあるとはいえ南のピタトリス諸国にも竜騎兵はいるし、グリフォンもいる。東の魔龍山脈からルヴィーダだけでは対処しきれないほどの野良のワイバーンが飛んでこないとも限らない。遥か北方にはペガサスが生息する地域もあると聞く。北のリリウム皇国には今のところ、目立った脅威はないが、いずれそうならないとも言い切れない。
誰も炎の惨劇を予期し得なかったように、予期せぬ破滅が訪れないとは断言できないのだ。
たまたま自分だけが生き残って独りぼっち、などという経験を繰り返したくないのなら、できることは全部やっておくしかない。
叩き落とされた衝撃で吹っ飛ばされていた剣を回収して、アリウはもう一度ルヴィーダに頭を下げた。
ルヴィーダが何か言いかけるように口を開いた。だが結局なにも言わず、黙って頷く。
この奇妙な行動も、今に始まったことではなかった。最初は気になったが、答えてくれないことはわかりきっていたので、今はもう無理に訊こうとするのはやめている。
剣に傷がないのを確認して、鞘に納めた。ドラゴンの硬い鱗を傷つけるには及ばなかったが、ワイバーンの鱗で造込んだ剣はそれなりに頑丈で、刃こぼれひとつない。
負けたのが悔しかったようでしきりに地面を掻くコガラシの頭を撫でて、声をかけた。
「さて、戻ろうか」
*
取っ組み合いの空中戦、もとい、稽古を繰り広げている間に、あたりはだいぶ明るくなっていた。
朝日を背に浴びながら樹海の上を飛んでいると、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
先ほどは夜に埋もれてほとんど見えなかった王都ルビリスも、前方にその威容を現した。
四方を白く高い壁に囲まれたその街は、都というよりも城塞と表現したほうがしっくりくる。百余年、戦を経験していない国にはいささか大仰な壁だ。
それもそのはず。高い高いその壁は炎の惨劇の後、王位を継承した当時の第一王子、サフィール・コバルト・アーサーが建てたものだ。
炎の惨劇において唯一幸いだったことがあるとすれば、それはサフィール王子が難を逃れたことだ、と王都の民は口を揃えて言う。
当時サフィールは、側近とともに隣国リリウムに遊学していた。妹であるヴィオラの誕生日には戻るはずであったが、土砂崩れで帰国が遅れたのだ。
惨劇の翌朝になって駆けつけた彼の対処は早かった。
王都の民の間には被害が出ていないことを速やかに確認し、焼け落ちた城の跡からアリウを救出した。他に生存者はなかったが、せめてもと遺体はできる限り回収させたという。
家族を失った者への対応も手厚かった。当面の暮らしに不便がないようにとふんだんな手当を出し、両親を失った子供には孤児院を建てた。非番だった使用人は王城再建のための人手として雇うか、力仕事ができないものには当面の雇用先を紹介した。
調査も迅速だった。焼けた城跡に刀傷の残った遺体を発見したことから、王子は事件を内部に入り込んでいた敵の間者によるものと断定した。数日後には下手人も見つかり、処刑された。
ルヴィーダの酒に毒を混ぜ、気絶させて事に及んだらしい。その者が魔龍山脈を越えた東のカトレイヒ帝国の間者であることも、王子の手で明かされた。
手腕は鮮やかで、惨劇に動揺する民を瞬く間に安心させた。彼がいれば大丈夫、と誰もが思ったことだろう。
この壁も、いずれ攻めてくるかもしれない帝国への対策の一環として建てられたものだ。頑丈さと美しさを兼ね備えた城壁は、多くの王都の民から快く受け入れられていた。不安から心を守る役目も果たしたのだ。
けれど、アリウ個人の正直な感想を述べるならば。
「嫌いなんだよなあ、この壁」
高く飛翔して壁を越えながら、風に掻き消される程度の声で、アリウは呟いた。
竜騎士の武器同様、ワイバーンの鱗を散りばめた白壁は、近くで見ると赤や緑、青、黒、茶色と、様々な色の光を反射してとても綺麗ではある。
だが、高すぎるのだ。
日を遮り、影を落とす。まるで閉じ込めるための塀のようで、息苦しい。
翳る気持ちを追い払うように、ぶんぶんと頭を振った。
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