アンスラクス・アトラクト

帆風 錨

第1話 墓

 アリウ・フォルトナーの一日は、門限破りから始まる。

 時告鳥が鳴くよりも早く目を覚まし、ごそごそと寝台から這い出す。

 竜騎士団の宿舎部屋は狭い。アリウは一応小隊長で一人部屋をもらえているからましだが、それでも足の踏み場はない。ほとんど寝台と文机と椅子とクローゼットで埋まっている。暗がりでは散乱した本や武具に蹴つまづいて、足を痛めること必至だ。

 ベッドわきに置いた蝋燭に火を灯すと、頼りない明かりが部屋の惨状を照らし出した。隊服は脱ぎっぱなしで椅子にかけられ、机には書類が散らばっている。ブーツは左右で別の場所に転がり、靴下は片方見当たらない。

 寝ぼけまなこで制服に袖を通し、本来の役割を忘れたクローゼットを開けた。扉の内側にしつらえられた鏡を覗き込む。

 換鱗期のワイバーンの鱗を磨いただけの粗雑な作りの鏡であることを差し引いても、そこに映る顔はなかなかに酷い。

 鼠色の髪は白髪を疑いたくなるほど艶がなくボサボサで、同じ色の瞳もどんよりと澱んでいる。目の下の隈はいつからか、こびりついて取れなくなってしまった。

 袖のラインに赤いラインの入った白い団服はかっこいいと評判だが、それすら顔色の悪さを強調するひとつの要素にしかならない。

 せめてもと手櫛で寝癖を直したが、焼石に水だ。まあ、直したところでこの後の用事ですぐ、ぐしゃぐしゃになるのだけど。


 前日のうちに用意しておいた荷物と剣を手に、足を忍ばせて、寝静まった宿舎を抜け出す。当直の目を掻い潜って向かう先は、百五十を数える騎士たちの相棒の寝床だ。


「おはよう、コガラシ」

 暗い竜舎を覗き込んで囁けば、黄土色の光がふたつ、瞬いてアリウを見返した。戸を開けてやると、のそのそと相棒が這い出してくる。

 馬よりひとまわりほど大きな体躯。トカゲを恐悪にしたような顔立ちに、鷲のような鉤爪を持つ二本の足、そしてひと目で竜であるとわかる、鳥とコウモリの中間のような独特の翼。全身を覆う焦茶色の鱗は鉄よりも硬い。ドラスティア王国の愛すべき隣人である竜種。その中でも特に人間と親しい、二足竜。すなわちワイバーンだ。

 コガラシは小さく鳴いて、手に頭を擦りつけた。眠そうな瞳は、「毎朝毎朝、懲りないな」とでも言いたげだ。

「朝ご飯は食べた?」

「クェ」

 肯定。

「よし、それじゃ今日もよろしく頼むよ」

 翼のつけ根あたりをぽんぽんと叩くと、コガラシは伸びをするように両翼を大きく広げ、ぶるりと身を震わせた。


 ワイバーンの飛翔に助走は必要ない。

 硬い地面とある程度開けた空間さえあれば、彼らはその両脚と両翼に力を込め、一気に天空へと舞い上がる。

 衝撃が下から上に突き上げ、アリウは振り落とされぬよう鞍にしがみついた。叩きつける強風が呼吸を置き去りにする。ワイバーンに乗るようになって十年以上経っても、この感覚だけはいつまでも慣れない。

 思わずつぶった目を開けたときにはもう、空の上だ。

 凍えるような風が団服の内に入り込み、ぶるりと身を震わせた。ただでさえこの時間は冷える。その上、冬の入り口はすぐそこまで来ていた。


 見下ろした地上は暗く、美しい王都の街並みは見えない。せいぜいが見張りの兵士たちが持って歩くカンテラのほのかな灯りくらいだ。

 けれどコガラシは迷うことなく、東に首を向ける。行き先はいつも同じ。

 郊外の赤竜丘陵にひっそりと隠された、王族の墓地だ。


   *


 行く手が淡く白み始めるころ、聳え立つ山脈と、裾に広がる鬱蒼とした丘陵地帯が姿を現した。

 丘陵地帯は護国の神竜と呼ばれ畏れられる四足竜ドラゴン、ルヴィーダの棲家であり、目指す墓地もそのただなかにあった。守護竜の存在にあやかって、赤竜山脈と呼ばれている。

 その赤竜丘陵の森に数ヶ所、不自然に木のない場所がある。

 森の中から見たのではわからないだろうが、それはもう、不自然にぽっかりと穴が空いているのだ。木の多くはそこに生えることを諦めてしまったようで、僅かに生えた樹木も、若木のうちにへし折られてしまっている。

 アリウの目的地は、そんな不自然にできた広場のひとつだった。

 コガラシはゆっくりと高度を下げ、荒れた地面に着地する。離陸とは真逆で、木の葉が落ちるような緩やかな着地だ。

 目を上げればそこはもう、墓地の入り口だった。物々しい鉄の門がひとりと一頭を出迎えた。


「ここで待ってて」

 飛び降りて、頭を撫でる。

 コガラシはクェェと返事をした。


 王族の墓地ではあるが見張りの必要はないため、墓守りはいない。

 悠久の時を生き、山のように巨大になることもあるドラゴンの縄張りであればならず者たちも墓を荒らすことはおろか、足を踏み入れることすら危ういからだ。

 ごく稀に、不老不死の霊薬であるとされるドラゴンの血を求めて足を踏み入れる命知らずもいるようだが、だいたいがルヴィーダに遭遇するまでもなく、配下のワイバーンたちに襲われて命を落とす。

 やめておけばいいのに、とアリウは思う。万が一生きてルヴィーダの元に辿り着き、億が一その血を手にすることができたとて、ドラゴンの血は伝説に謳われるような不老不死の霊薬ではない。確かに人並外れた生命力をもたらし、時に致命傷を負った戦士を生き返らせることもある代物だが、代償は大きい。

 ドラゴンの血により生き永らえた者は、その血の侵食で身体が竜に変化し始め、いずれ、負荷に耐えきれずに苦しみながら死ぬ。

 俗に言う、竜血病だ。

 感染するものではなく、そもそも発症の条件が体内にドラゴンの血を取り込むこと、と珍しい症状のため、知る人が少ないのはあるだろう。

 ちなみに同じ竜種でも、ワイバーンや火蜥蜴竜サラマンダーの血では竜血病は発症しない。単に発熱や悪寒、呼吸困難などの症状を引き起こすだけだ。

 

 門を押し開けると、閑散とした墓地が目の前に広がった。

 ドラスティア王国歴代の王族を埋葬した墓地は、ちょっとした村ほどには広い。

 とはいえ、アリウの目的はそう奥ではない。入り口からわずか十歩ほど。立ち並ぶ墓石の中で比較的新しいひとつが、彼の毎朝の訪問先だ。


  〈アンスラクス・エリスロース・ヴィオラ

                 ——八九三年一二月一八日没〉


 飾り気のない石に、そう彫られている。

「ヴィオ……」

 呟いて、墓石の文字を撫でた。名前の部分だけ妙に削れているのは、訪れるたびそこに触れるせいだ。

 かつてこの国の第二王子であったヴィオラ。

 幼くしてアリウの婚約者でもあった彼女は、まるで王族らしくない王族だった。

 気づけば王城を抜け出して、木に登ったりルヴィーダの元を訪れたり、剣の稽古に混ざったり。いつも使用人や王妃様を卒倒させていた記憶がある。アリウもよく巻き込まれて、一緒に木登りしたり、捜索の目を逃れる手伝いをさせられたりしたものだ。

 王妃殿下譲りの銀髪を翻して庭を駆け、ルビーの瞳を煌めかせて、屈託なく笑う少女だった。

 頭も良く剣術や騎竜術の才にも恵まれていたが、てんで落ち着きというものがなく、また、腹に物を隠すということができなかった。

 王族にふさわしい人物とはとても言えなかったが、そんなところがひどく、アリウの目には眩しく映ったものだ。

 きっと将来は彼女とふたりで竜騎士として並び立つのだと、当時は疑いもしなかった。

 だが——。


 が来てしまった。


 八九三年一二月一八日。炎の惨劇。


 大勢の人間が死んだ日。

 初恋の人が、死んだ日。

 そしてアリウが運悪く、生き残ってしまった日だ。


 その日はヴィオラの七度目の誕生日で、王城では盛大な宴が開かれていた。

 当時十一だったアリウは宴の様子はろくに覚えていないが、事が起こった時のことは鮮明に覚えている。

 宴の主役にもかかわらず、大人しく座っているのを嫌がったヴィオラが広間を抜け出し、アリウもそれにつき合ってひとけのない塔でふたり、遊んでいた。

 侍女が王子を探しに来て、見つかっても戻りたがらない王子の説得のために王妃殿下まで広間を抜け出して、彼女を迎えに来た。

 そのときだ。大広間に火の手が見えたのは。

 駆けつけたときには既に、火は手の施しようがないほど燃え広がっていた。

 そこから先はあまり思い出したくもないが、ヴィオラと王妃を逃がそうとがむしゃらに動いて頑張って、気づけば焼け落ちた城跡で、アリウは独り。

 ルヴィーダの血を浴びて、生き残ってしまっていた。


 アリウは記憶に沈みそうになる思考を、頬を叩いて引き上げた。危ないところだった。記憶に飲まれると、丸一日はその場から動けなくなってしまう。一度やらかして、大目玉を食らったことがある。

 ……いや、その日は心配されて医務室に叩き込まれたのだったか?

 まあ、どちらでもいいか、と首を振った。

 ヴィオラの墓、先王陛下の墓、王妃殿下の墓、それぞれに手折ってきた花を供える。

 凶行で命を絶たれた彼らが、どうか安らかでありますように。

 神のいないこの地で、誰に祈ればいいのかはわからなかったけれど。

 立ち上がって、墓地に背を向けた。

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