第20話 奇跡はここに

 児童養護施設に到着した俺は、エゼに天使の奇跡を起こしてもらい、再び先生として施設内に入った。

 急いで手近な職員を捉まえて、少女の部屋を尋ねる。


「原口葵はどの部屋ですか?」

「葵ちゃん? あの子なら二階の201号室ですけど」

「ありがとうございます」


 俺は大急ぎで階段を駆け上がり、原口葵の部屋をノックもなしに開けた。

 消灯時間を過ぎていたので、四つあったベッドで子供たちはすでに就寝していた。

 照明を点けられて、子供たちが目をこすりながら何事かと身を起こした。


「原口葵ちゃんは?」


 部屋にいたのは三人の少女だった。

 一目で葵がいないことに俺は気付いた。

 一つだけ空いていたベッドには、一度就寝した形跡は残っていたものの、もぬけの殻だった。


「あれ? 葵ちゃんどこ行ったんだろう」


 小学校高学年ぐらいの女の子が、葵のいなくなったベッドを見て首を傾げた。


「クソッ!」


 俺は部屋を出て、他の職員たちに協力を求めた。

 施設内を他の先生や職員たちとくまなく探し回る。

 しかし葵の姿はどこにもなかった。


「就寝の時間にはいたはずなんです。一体どこへ行ったんだろう」


 職員の女性が、おろおろしながら状況を説明してくれた。

 就寝は九時半。

 今は十時を少し回っている。

 掃き出しの窓の鍵が一つだけ空いていたので、そこから出ていったのだと考えられた。

 施設の外に出たとしたら、いったいどこへ向かうだろうか。

 俺は駄目もとでエゼとシルに頼みこんだ。


「力を貸してくれ。このとおりだ」


 深々と頭を下げる俺に、エゼはさらに深く頭を下げた。


「ごめんなさい。私たちはこの場面で力を使うことを許されていないんです」

「そこを何とか」


 時間がない。もうこうなったら奇跡に縋るしかなかった。

 しかしエゼは、首を横に振って、それが出来ないことをもう一度繰り返した。


「私たちには人の生死に関与してはいけない決まりがあるんです。確かに死を強く願うオーラを特定するのは容易い。しかし、それをあなたに教えるわけにはいかないのです」


 エゼも苦しいのだろう。冷静なエゼの姿はここにはなかった。

 痛々しいエゼの肩を、黙って話を聞いていたシルがポンポンと叩いた。


「エゼ。当然そうよ。私たちは監視者であり裁定者。中立を守り、常に澄んだ瞳を裁定される者に向け続けなければならない」


 シルはエゼの考えに賛同し、その先を続けた。


「でも忘れてない? モリヒトは千ポイント少女からもらったんだよね。でも事情があってポイントは980ポイントも削られた」

「そうかつまり……」


 シルの言葉に、何かを見いだしたのか、シルの目に僅かな希望が灯った。


「そういうこと。削られたポイント取り戻す行為はモリヒトにとって当然の権利なわけよ。そしてこの案件はモリヒトの行い次第でまだポイントが動く可能性がある」

「つまりどこかへ行ってしまったポイントを、もらえる可能性を見つけ出すだけってわけね」

「そうゆうこと」


 そしてエゼは何もない空間に指を走らせた。


「奇跡よ!」


 ほんの一瞬、エゼの体が眩く発光した。

 その一瞬、俺は本物の天使を見た気がしたのだった。



 少女の前には昏く深い池が広がっていた。

 少女はあの日のことを思い返していた。

 バンド仲間と遅くまで遊んだ夜。

 帰りの電車賃を考えずに、お金を使い切ってしまった。

 電話したら迎えに来てくれるからいいや。

 そんな気持ちもどこかにあった。

 迎えに来てと電話すると、当然怒られた。

 それでも電話に出た母は、そこで待っていなさいと言ってくれた。

 そして私は待った。

 ずっとずっと待ち続けた。

 いつまでも迎えが現れないことにしびれを切らしていると、ようやくスマホに着信が入った。

 そして両親が亡くなったと聞かされた。

 お酒を飲んでしまっていた父の代わりに、普段は運転をしないペーパードライバーの母が運転をしたらしい。

 父は心配だからと助手席に乗っていた。

 街灯の少ない昏い県道で、目のあまりよくない母は、黒い服を着て自転車に乗っていた人に気付いていなかった。

 風の強い日だった。煽られてふらついた自転車をよけようと母はハンドルを切った。

 そして両親は自分を置いて旅立っていった。


「私のせいだ……」


 バンドをすると言い出した時、両親にお前が歌をって笑われた。

 でも曲を書いてネットにバンドの映像をアップすると、いいねを押してくれた。

 100いいねで、なんか買ってやろう。

 父は晩酌をしながら、挑発的にそう言った。

 その時は見てなさいよと思ってたな……。

 そしてやっと今日、100いいねをもらえた。


「お父さん、そっちでなんか買ってね」


 少女は昏い水の中に一歩踏み出す。

 水面が揺れて、夜空を映し出していた池がいびつに歪んだ。

 少女はまた一歩踏み出す。

 足を踏みだす度に少女の体が昏い水の中に呑み込まれていく。

 腰の辺りまで浸かった時、少女はもう一度夜空に向かって呟いた。


「ごめんなさい……」


 もう一歩踏み出そうとした時だった。

 後ろから少女の腕は強い力で掴まれていた。

 振り返ると今日、いいねを押してくれた大学生が荒い息を吐いていた。


「話の続き、しないか」


 大学生の一言の後に、ポトリ、ポトリと水面に雫が落ちていった。

 波紋を作るその水滴は、少女の目から落ちていったものだった。



 施設に電話をして、無事を伝えた後、俺は原口葵を自分の家に連れて帰った。

 自殺をしようとした彼女をこのまま返すわけにはいかなかったのと、濡れてしまった服を着替えさせる必要があったからだった。

 一応おかしな考えを起こさないとも限らないので、シルには葵と一緒に風呂に入ってもらった。

 そして少女が風呂に入っている間に、俺はエゼに今回の不思議な巡り会わせのことを相談していた。


「なあ、これって一体どうゆうことなんだろうな」


 それはただ単に少女を助けたということだけではなかった。

 まるで運命であったかのように、おかしな感じで色んなものが噛み合っていた。

 そして、さっきエゼから聞かされたポイントのことも腑に落ちなかった。


「俺が持っていた悪行ポイント8万100ポイントは完全に相殺されたわけだな」

「ええ。人命救助、自殺阻止、そしてあの20ポイントに減らされた千ポイントも満額返ってきました。合計100ポイントのプラスです」

「え、100ポイントあるの?」


 俺は窓を開けて唾を飛ばした。


「ペッ、ペッ、ペッ」

「今ので2ポイント減って98ポイントです」

「ふー。これで一安心だな」

「セコイですね。少女を助けた人とは思えませんわ」

「仕方ないだろ」


 一日がもうすぐ終わろうとしている。

 今は十一十五分。もうすぐ裁定の時が訪れる。

 これで自分のことは何とかなった。

 しかし俺は、あの少女のことがどうしても気になっていた。


「なあ、エゼ、あいつのことなんだけど」

「はいはい。何を言いたいのか分かってますよ」

「心を読まれたか」

「私にはそんな力はありません。それでもあなたの考えてることなどお見通しですわ」


 エゼは余裕の表情でそう返した。


「施設に返すと、またおかしな考えを持ったりしないか心配なんだ」

「そうですね。ではしばらくこちらで様子を見ては?」


 簡単に言ってくれたエゼに俺は苦笑した。

 きっと手続きとか煩雑なことがいっぱいあるに違いない。

 そもそも、ずっと引き取るわけでもないのに、俺の一存で掻き回してしまっていいのだろうか。


「では天使の奇跡で、あの子を施設に最初からいなかったことにしましょう」

「え? いいのか? 生死にかかわる問題にはさっき使えないって言ってたけど」

「ポイントが千ポイント帰って来たということは、その心配は今はないということです。奇跡を使うのには何の問題もありません」

「ふー。そうかー。じゃあ頼むよ」


 エゼは立ち上がり、何もない空間に指を走らせた。


「奇跡よ」


 あっさり終わったらしく、エゼはまた腰を下ろした。


「この家の方々にはさっきお風呂を使うにあたり、シルが悪魔の魅惑で我々と同じく家族だと認識させておきました」

「おあつらえ向きだな。でもあの子、俺のとこに住むのって嫌じゃないかな」

「まあ、それは分かりませんけど、あなたのことを信頼しているのは間違いないでしょう」

「しかし親に申し訳ないな。三人分の食べ盛りを養ってもらわないといけないし」

「それはご心配なく」

「心配ないの?」

「はい。必要経費で計上いたしますから。私たちにかかった経費はすべて天界、冥界から支払われます。お母様の財布からお金が出て行ってもきっちり補填される仕組みです」

「すごいな。打ち出の小づちみたいだな」

「使った分だけですよ。豪遊はできませんのであしからず」


 色々問題はありそうだが一応は落ち着いた。

 慌ただしい一日だった。

 俺は大きく息を吐いて、今こうしていられることに安堵したのだった。

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