暗戸の想い出 【一話完結】

大枝 岳志

暗戸の想い出 

 独り身で歳を重ねている内に、人生の折り返しをとうに過ぎてしまっていた。

 思い返せば何ら種の一つすら残さない人生だったが、それを悔いたことはただの一度も無かった。

 生まれは冬になれば雪こそないが寒風吹き荒ぶ土地で、大きな川が流れている他は、これといった名産も観光地も見当たらない場所であった。

 平屋建ての一軒家の借家で育てられ、生まれてから貧しい生活の中に身を置いていた為、今にして思えば貧しさに気付けなかったことが他者から見た場合の私の「敗因」となっているようにも思えた。

 父は痒くなった背を掻くのと同様に、それが当たり前のような仕草で母と一人息子の私に暴力を振るった。

 幼い頃、母が殴られている間中、その悲鳴を聞きながら灯りのない狭い玄関に身を潜めていた事が今でも思い出される。身を屈めて火の粉が降り掛からぬようにしている間は、母の身の心配をする余裕など無かった。父が暴力を振るう理由も解るはずもなく、殴られたり蹴られたりすれば当然痛みが全身を走るので、ただそれに怯えていた。

 いつも悲鳴と共に私の五感に届くのは、薄暗い廊下の奥から漂う汲み取り式便所から漂う糞尿の臭いだった。救いの言葉が耳に届くことは、ただの一度も無かった。


 私という人間は性別で言えば男性で、歳は今年五十二になる。歳の割に若いと言われはするが、何か特別な資格や特技を持っている訳ではない。

 特筆すべき点といえば「獄卒」ということのみで、汚点以外の何者でもないその真実は気付けば私のアイデンティティのようになっていた。

 二十一の頃、父親を刺した。滅多刺しにした。

 いずれそうなるだろうという危惧ではなく、刺殺を自身の使命として薄々感じてはいたが、実際そうなった。

 繋がっているはずの返り血の匂いはしばらくの期間、鼻の奥に媚びりついていたが、後々弁護士を通じて聞かされた話で私は白けた。

 父親だとばかり思っていたあの暴力男は、ただの他人であった。母は私を妊っていた最中に不倫をした挙句、元の夫を捨てて家を飛び出したのだそうだ。そうして辿り着いた先が、あの暴力男の懐だったのだ。

 なんというめでたい話なのだろう。

 子を妊り、より幸せになる為に飛び込んだ先で、墓石にまで染み込むほどの不幸になろうとは。

 母を愚かだと感じ、軽蔑した。軽蔑した後、絶縁した。罪人となった息子と別れられることで、母には安堵が訪れたことだろう。

 獄中で彫刻刀を落とし、その都度「願います」と声と手を挙げていた私を他所に、母は呑み屋で知り合った男と結婚をした。

 新しい男は私の身の心配をしていたようであったが、それ以上に年寄売女の乱痴気人生に身を狂わされるのが煩わしく、縁を切った。

 今では無事、二人共々この世を去ってくれた。


 獄卒の後、自ら選んで天涯孤独となった私は生まれた土地を離れ、小さな街の清掃会社で勤めることになった。経営者の男は大変気さくな人物で、また、面倒見も良かった。現場に出ても他人とほとんど口を開こうとしない私を気遣い、夜になると私の暮らすアパートに足を運んだりもしてくれた。

 生活用品や金の工面までしてくれた彼に、私は大変大きな恩義を感じていた。


「前嶋君、困ったことがあったら何でも言ってくれよな? 社長だなんて思わないでさ、兄貴だと思ってくれたら良いから」


 日頃そんな言葉を獄卒身分の私に掛けてくれていた彼を、本当に心から兄のように感じていた。

 しかし、私の考えに転機が訪れた。

 都内近郊のビル清掃に入った翌朝、深夜の清掃を終えて事務所へ行くと、どうやら苦情の電話が入っていたようであった。苦情の主は私が他の何人かと共に担当していたビルの従業員で、清掃した後の床が変色していたのだという。

 何処のフロアかは分からず、他の担当者の後始末が悪かったのかもしれないと思い着替えていると、電話を終えた経営者が事務所全体に聞こえるように、突然こんな独り言を漏らした。  


「普通のことが分からねぇからなぁ! 普通のことがなぁ!」


 一体何を言っているのか分からず、他の従業員達と目を見合わせ、首を傾げてみるとさらに大きな独り言が続いた。


「ったく、善意で面倒見てやったと思ったらよぉ、仇で返されちまったよ! なぁ!? これだから使い物にならねぇんだよ、犯罪者はよぉ! その辺の中卒の方がまだナンボかマシだわなぁ! そう思うよなぁ、普通はなぁ!」


 胸の奥にはいつも落ち着きのある、信頼という名の熱を帯びる存在があった。その熱に触れる度、私は微かな喜びに触れることが出来た。しかし、その声を聞きながら熱が急激に冷め、バラバラに砕け散り、その破片が容赦なく胸の所々に突き刺すのを感じた。

 痛く、苦しく、そして悲しかった。

 その悲しみが怒りに変わったなら、暴言の一つ二つ吐いて事務所を滅茶苦茶にした挙句、辞意を言葉で叩きつけてやれたかもしれない。

 しかし、そんな風に悲しみが怒りに変わることはなかった。

 ただただ、固まったまま動くことすら出来ず、私は着替え途中の格好でじっと俯いていただけであった。作業着のボタンに手を掛けたまま、一人、また一人と事務所を出て行く足音を聞いていた。

 最後の一人が私の方へ近付いて来ると、苛立った声をさらに尖らせ、私に向かって放り投げた。


「いつまで居んだよ。ったく……目障りなんだからさっさと帰れよ。いっつも陰気クセェからな、みんなからおまえ、嫌われてんだよ。俺ぁ頭下げ行かなきゃだよ! 誰かさんのお陰でよぉ、誰かさんはこれから帰ってぐっすり眠れるだろうけどよぉ!」


 私が他人であったなら、万が一自分という個体に対して心に自信めいたものがあるのなら、目の前で暴言を吐く男を殴り飛ばせていたのだろうか。

 それとも、針で縫うように男の心の隙をうまく右に左に突くことが出来たのだろうか。

 それがきっと、正しさであり、強さなのだろう。

 私はただ、曖昧に苦笑いのような表情を浮かべていただけであったように思う。父親を刺した時ほどの使命のような感情は何ら湧いて来ず、挨拶もしないまま事務所を出て、アパートへ帰ると急いで着替えだけをボストンバッグに突っ込み、小さな街を後にした。

 次の行き場を探す為に昼間の電車に揺られているうち、小さな頃に嗅いでいた汲み取り便所の糞尿の臭いが思い出された。掻き消そうと思っても中々消えず、何故だろうと思っていたら、それは心の中から漂って来ているのだと気が付き、私は電車の揺れに身を任せ、眠りに落ちた。


 それからは仕事や住処を転々とした。泥掬いのような仕事をする日もあれば、エプロンをかけて電気屋で実演販売をすることもあった。しかし、長い間勤め上げるような職場には一つも出会えなかった。

 働けば、必ず人に出会してしまう。対面だろうが電話だろうが、会話もしなければならない。

 人を認識することも、人に認識されることも、私にとっては苦痛以外の何者でもなかった。

 目の奥で、声の奥で、他人は私の中を探ろうとして来る。頼んでもいないのに、見返りを求めていないような平然とした顔で手を差し伸べる真似もする。これが今は正解なのだと、知りもしない、又は知りたくもない答えを押し付けようともして来る。

 私は其れ等全てに、理解出来ない怒りよりも理解不能なほどの恐怖を感じている。 

 その癖、という出来事があった。

 それは今から数年も前の出来事であるが、早朝に家の近所を歩いていると、犬を連れた老男に挨拶をされたことがある。普段ならば目も合わさず通り過ぎるのだが、その時はたまたま虫の居所が悪かった。

 声を掛けられてしまったことが情けなく感じ、無性に腹が立った。それは自分に対しての怒りだった。老男を通り過ぎると同時に、私は八つ当たりの為に白い毛をした大型犬の横っ腹を蹴飛ばした。

 犬は突然の出来事に怒り狂って歯を剥き出しにして、私ではなく老男に襲い掛かった。

 それがとても愉快だと感じたのだが、すぐにどうでも良いことだと気分が醒めた。

 なので、犬に襲われながら絶叫する老男は放っておくことにした。


 四十を越えれば仕事場でも何処であっても、人から興味を向けられる機会がグンと減った。

 それは他人が私の年齢からおおよその経験や人間性を「中年」という一括りに断定するからであって、それは私にとって大いに救いとなった。

 どうしたら人と人が話さず、こちらとしても話し掛けられずに済む社会になるのだろうと思案したことさえあったが、その時は自然と訪れた。

 今の私は他人から見た場合、ゴミ置き場と大差がない。その辺に良くある、何処にでもある、風景の一部として認識されている為である。

 これ以上の安堵は私にとってはあるはずもなく、どうかこのままで一生を終えられたら良いものだと日々、思っている。


 とうの昔に離れてしまった生まれ故郷を訪れてみた。

 駅舎は丸々新しいものに変わり、駅前のバラックだらけだった部落通りもすっかり新興住宅地になっていた。

 しかし、何の感情ひとつも湧いては来なかった。

 殴られることに怯え続け、他に目を向ける余裕もなかった日々を送っていた為なのか、幾ら思い出そうとしてもこの土地の思い出らしい思い出というものが、何一つ落ちていなかったのだ。

 何処へ行く当てもないまま、私は街を流れる大きな川の河川敷へと足を運んだ。

 秋の陽射しが柔らかな日で、刺青を入れた若者達が喧しい音楽をかけながら半裸でバーベキューをしている他、人の姿は何処にも見当たらなかった。

 河川敷の中にあった草だらけのベンチに腰を下ろし、煙草に火を着けた。

 ぼんやりと若者達を眺めていたが、良くもまぁあんな集団行動をして外でメシが食えるものだと感心してしまった。川面を見る限り緑色に濁っていて、ここの川は中へ入れば湿疹が出来ることで有名だった。

 そんな川の側で肉を焼いて食えるのだから、よほど丈夫な胃袋をしているのだろう。

 そんなことを考えていると、若者のうちの一人、髪を逆立てた金髪の男が私の方へ向かって歩いてやって来た。

 面倒なことが起きなければ良いと思っていると、男は私の前で立ち止まり、嘘くさい顔で「申し訳ないんですが」と前置きを入れた。


「あの、一本恵んでもらえないッスカ?」


 一本。何のことを頼まれているのか一瞬分からなかったが、胸元を男に指さされ、ようやく気が付いた。

 私は無言で煙草を差し向けると、男は一本引き抜いて手に取り、もう一度、嘘くさい顔になって「もう一本」と指を立てて懇願し始めた。面倒になるのが嫌で黙って頷くと、男は「あざーっす!」と馬鹿の出す声を上げ、元の場所へと走って行った。

 男は仲間達から「大会前だろー」と冷ややかな声を浴びせられていたのだが、不思議なことにその刺青仲間の中には煙草を吸う者があった。

 ならば刺青仲間に乞食煙草を強請れば良いものを、何故わざわざ私の所に。

 そう思ったのだが、彼らが煙草よりも若干太く巻かれた物を吸っているのを見て、ピンと来た。

 顎を外された猿のようにだらしなくケラケラと笑いながら、彼らはチラチラと私の方を見て指差し、煙草乞食が指を二本立てた矢先、一層笑い声を大きくさせた。

 私はその場からすぐに立ち去った。


 私の生まれ育った借家の建つ区画は、戦後間もないどさくさに紛れて建てられた家が多かった。

 どの家も隣家と肩を組むように建てられていて、タチの悪い迷路のような薄暗い通りは水捌けが悪く、一年中ジメジメとしていて陰気臭さに拍車をかけていた。

 四方八方がゴミにまみれた旧・夢の島のように、生家の近くまで足を運んでみると目にするもの全てに嫌気が差しそうになる。

 一時停止の道路標識も、何処かの家から漏れ聞こえる生活音も、太陽が生を諦めたように怠そうに降らす陽の光さえ、神経に障った。

 ドブと小便を混ぜたような匂いの立ち込める小路に入ると、日に焼けて白くなった横断幕が垂れ下がった家が所々目に入る。

「団結」「反対」「決死」そんな言葉が薄らと残っているのが確認出来たが、当の住人達にその声を上げる体力などもう残されてはいないだろう。

 薄ら暗い小路を進んでみると、上半身裸で垂れ乳を剥き出しにしたズロース一丁履きの老婆が小路の真ん中に立っているのが見えた。ボサボサの白髪頭で、その手には黄色の洗面器が握られている。

 口を開いたまま何処を見ているのかも分からず、何がしたいのかも分からなかった。

 ただ、その老婆を見ているうちにどうやら見覚えがあることに私はハッとなった。

 あの老婆は昔、貧乏な我が家に毎週のように熱心に宗教勧誘をしにやって来ていた、山田の婆さんに違いなかった。

 貧乏人でも大天様なら救ってくれるだの、お布施は出せるだけで良いからだの、胴の丸い板が御守りで五千円だの、とにかく布施の気持ちが大事なのだからだの、まだ入信してもない内にうちの母に熱心に話していたのが耳に媚びりついていた。

 あまりにしつこく我が家に来ていたある日、偶然酒に酔ったうちの父親モドキが家に居合わせていた。

 山田の婆さんは「お父さんもどうかしら?」と、よりによって玄関に出たうちの父親モドキを勧誘し始めた。

 父親モドキは無言のまま山田の婆さんにいきなり張り手を食らわし、真横に吹っ飛んだ婆さんの身体は玄関のガラス戸に強打、ボロボロの我が家をぐらりと揺らした。

 やはりその時も、糞尿の匂いが辺りに立ち込めていた。

 それが可笑しいと感じても共有する相手のない私は、乳を丸出しにしたまま虚空を眺めている山田の婆さんの姿に、かつての彼女の信心を重ねてみた。

 何も考えていない、いや、もう何も考えることすら出来ないであろうその姿は痴呆にも見えるが、別の見方をすればどんな感情も去来しない真の幸福の中に在るようにも思える。

 真の幸福者となった山田の婆さんの横を通り過ぎると、湿布と漢方薬を混ぜたような妙な匂いが鼻をついた。

 振り返らずに進んで行くと、獲物を狙う烏が電線の上で鳴き出した。


 意外なことに、生まれ育った借家は朽ち果てて蔦まみれになっていたものの、かろうじて現存していた。家全体が傾いているせいで玄関のガラス戸は破れ、何とか雨は凌げるだけの屋根は大きく左に傾き、三分の一ほどが家の中に埋まっている。

 草だらけの小さな庭には誰かが捨てた廃タイヤが山積みになってはいたが、庭の隅に放り出されたままの小さな水槽を見て、あれは私の物だと一瞬童心に返りそうになったものの、経済的な余裕の無さから水槽なんて無駄な贅沢品は我が家に無かったことをすぐに思い返した。記憶の塗り替えというのは、いとも簡単に行われるのだとこの時激しく、実感をしたのであった。

 私の両親は親戚や友人達からも見放されていた為、我が家にはクリスマスも、正月も、盆も、行事という行事は何も訪れなかった。

 母が殴られる音や、物が壊れて行く音が所謂生家の中での環境音で、テレビ代わりの娯楽であるラジオが消されればそれだけが我が家の中で一晩中飽きもせず鳴り続けていた。

 私が獄中にいる間、父の墓を作ったのか私は知らない。作られていたとしても、そこへ花を持って手を合わせる気もしないし、弁護士を通じてどうしたいか尋ねられた際、骨壷ごと汲み取り便所へ投げたらどうですか。と、私は伝えた。冗談はやめて下さいと弁護士は真顔で言っていたが、それを伝えた際、私は間違いなく真顔だったように思う。

 何の喜びも、何の結果も残さない人生であったが、その出発点を訪れてみて分かった。

 ハナから、私の人生にはどのような喜びも訪れようが無かったのである。

 ただそれだけであって、嘆く必要性は何処にも感じなかった。わざわざ努力をした所でマイナスがゼロになるだけで、それ以上を得ても食い尽くせる自信もなく、まるで違う自分として違和感を覚えたまま生きるのは御免だと、やはり思うのであった。


 夕方を過ぎると流石に歩き疲れ、帰路につく前に寂れた駅前の商店街の赤提灯を探して歩いた。

 すぐに見つけた小さな一軒に入ると、扉を開くと同時にワッと勢いのある声が飛んで来た。私と歳がほとんど変わらない、店の馴染みらしき先客達がカウンターで店主と楽しげに会話をしていたのだ。

 私が入ったお陰で楽しげな会話がピタリと止んでしまったが、店主は威勢の良い声で「どうぞ!」とカウンターの隅を案内した。

 先客達はジロジロと私を値踏みするかのような目でねちゃねちゃぐちゃぐちゃと眺め始める。その間、ひとつの声も聞こえては来ない癖に、連中が煩くてたまらないと私は感じていた。

 タコ刺しと瓶ビールを頼み、コップの中へ冷えた小麦色を注いでいると連中は再び店主とぽつりぽつりと会話をし始める。

 彼らはグループ客ではなく、一人一人は別々の常連なのだろう。店主を通じないとまとまって話す様子がない。

 瓶ビールを空け、次は冷酒に切り換える。新しい客が来る度に外からの風が冷たく感じ、夜の気配の深さに時計を思わず睨みつける。

 あと小一時間は余裕がありそうなことに安堵し、何か新しい物をつまもうと品書に手を伸ばすと、左隣に座っていた小太りの禿頭に声を掛けられた。


「前ちゃん、だいな? 俺だよ、平田だよ。小学校同じだった、ほら!」


 何やら嬉しそうにそうやって声を掛けて来たその男のことを、私はまるで覚えていなかった。

 返事をせずに顔を上に向け、なんとか思い出そうとしたものの、ヒラタ、などという名前にはやはり覚えがなかった。他の同級生達の名前を思い出そうとしたものの、カエルだの、何助だの、バッコだの、渾名にすらならない名前の欠片のようなものしか思い出せず、私は薄ら寒い細い糸でヒラタと繋がることを危惧し始める。


「前ちゃんだろ? 懐かしいなぁ、そうだよな? ほら、六年生の時さ、三組で一緒だったろ。狭山先生のクラスでよ」

「……まぁ、確かに前嶋だけど」

「そうだろ!?」

「それが、何かあなたと関係あるのか?」

「関係って、俺達は同級生じゃねぇかよ。懐かしいと思ってよ」

「いや、そんなのはどうでも良いんだ。もう、いいかな?」

「なんだよ、気分悪ぃな……もういいよ。勝手に飲んでろ」


 解放された。何とも呆気ないが、勝手に声を掛けて来て勝手にむくれてしまう辺りに人間の嫌らしさをとっぷりと感じた。ヒラタは醜さを隠せぬ風体を晒しながら、海老の唐揚げを食った指をちゅぱちゅぱと音を立てて吸い続け、おしぼりでその指を拭き取った。そして開口一番


「お、今夜の西武は勝ちも同然だな!」


 などと、誰に尋ねられた訳でもないのに大声を出す。先客達の一人が肘を突き、ヒラタに小声で何か尋ねている。どうせ私のことだろうと思ったが、案の定であった。

 ヒラタはきっちりと計算して、ちょうど私に聞こえる程度の音量でこう返す。


「おう、人殺しだよ。マジだぜ」


 誰も声は発しないものの、連中がどよめく気配がすぐに伝わって来た。

 私は残りの冷酒を一気に飲み干すと、出されたばかりの肉じゃがに手は出さずに勘定を頼んだ。

 ヒラタが舌打ちするのを無視して、私は会計を済まして、店を出た。

 半身のコートが要りそうなほど冷たくなった空気を浴びながら、小銭とレシートをしまおうとして、店の名刺も渡されていることに一瞬煩わしさを感じた。くしゃっと丸めて路上に捨てようとすると、裏に何かが走り書きされていることに目が止まった。

 店の名刺の裏には、恐らく店主の字で


「がんばれよ!」


 と、書かれていた。

 遠くの方から、踏切の警報音が鳴りだす。

 電車はもうすぐやって来るのだろう。あまり本数の多い路線ではないから、実にタイミングが良かった。

 私は名刺を捨てようか考えあぐねいた挙句、胸ポケットにしまって置くことにした。

 帰りの電車の中で、何故そうしたのかを考えてみた。生家の在るあの土地へは、これからの人生で二度と訪れることはないかもしれない。なのに、私の胸ポケットにはあの店の名刺がいかにも大事そうに隠されている。考えてみたものの、答えは出なかった。

 明かりのない窓の外を眺めてみる。

 真っ暗で、荒涼としていて、何処までも寂しい景色が続いている。

 まるで何かのようだ。そう思ってみたら、母が殴られている間に身を潜めていた狭い玄関と似ているのだと合点がいった。

 自然と糞尿の匂いが鼻をつき始めるだろうと思ったが、酒を呑んでいる為なのか、幻想の匂いが鼻の奥から立ち込めて来ることはなかった。

 窓の外は次第に人の作った明かりに照らされ始め、やがて夜を忘れたフリをし続ける街に辿り着くと、私は胸ポケットを触りながらホームへ降りた。

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