第12話 侵攻準備

12-1 4月

 ヨシエは身重になった身体を抱えて、自宅の居間に座っていた。夫・アレクセイとの子供を授かったのである。30代になって授かった子供である。ヨシエとしては、少し前に、自身の任務が完了したのは極めて好都合だった。ひょっとしたら、

 「生活の新たなステップに進みなさい」

という何等かの

 <運命の声>

だったのだろうか。とにかくも、<私生活>が充実する方向に行けばよいのだが。

 産休を取った彼女は、1人で自宅にいた。夫・アレクセイは、こんな状況でも軍機関に出勤である。

 ヨシエは、大きくなった腹を左手で軽く撫でながら、

 「とにかく、男でも女でも、元気な子が生まれてくれたらね」

と、まだ見ぬ腹中の自身の子供に呼び掛けた。かつての日本でのヨシエの実家である倉本家のようになってはならないのは言うまでもない。

 しかし、現段階では、その可能性はなさそうであるものの、心中の片隅には、

 <粛清>

という文言が常に潜在していた。KGB将校という立場に慣れては来たものの、棄てたとはいえ、元・祖国の日本の

 <油断大敵>

という言葉は、心中に常に持っておくべきなのである。

 妊娠が分かった時、タチアーナは、

 「おめでとうございます。同志少佐、元気なお子さんが産まれるのを祈っています!」

と元気な声で、祝福してくれた。同じ女性として、本心で喜んでくれたんだろう。

 暫くして、産休を取ったヨシエであったものの、その後、自宅で静かに1人でいると、色々と考えてしまうこともあるのであった。

 ヨシエはベランダにて、東の方角を眺めてみた。アレクセイとの会話では、軍の動員は進んでおり、今月、4月には、対日宣戦がなされれば、ソ連軍は満州国、そして、新潟等、日本本土への侵攻を開始するのだという。

 ソ連軍が満州に侵攻すれば、あの

 <文殊旅館>

で、私に給仕してくれた本田美子は、どうなるだろうか。大規模な戦闘がなければ、助かるかもしれない。しかし、激戦等になれば、どうなるだろうか。結果は分からない。

 「あるいは、外郭要塞の時に経験したように、侵略者としての日本人は恨まれている面もある。ひょっとしたら、満州国が崩壊したら、彼女も恨みから・・・・・」

 何となく、暗い予測となった。もっとも、戦争そのものが明るいものでない以上、心中の予測とはいえ、話の方向が暗いものになるのは、当然と言えば、当然であろう。

 しかし、やはり、親切にしていただき、親しく声を交わし、日本でのご近所さんだった藤倉妙子と、何か、妙な縁があった。そういう縁があることから、何かしら、気になるものがあったのかもしれない。

 いずれも、各

 <個人>

の生活は、各々の

 <体制>

と連動していた。本田美子は、

 <体制>

は、間もなく崩壊するであろう。それは、ヨシエの生活にとっては、自身と連動している<体制>を護るためには必要な事であるとも言えた。

 しかし、それでも、

 <歯車>

とされている各<個人>は、その<体制>が崩壊しようとしていても、逃げられないことも多い。ヨシエは、その意味では例外的な存在かもしれなかった。

 「不条理ね」

 しかし、それを口にしたところで、本田美子の運命をヨシエ自身が変えられるものでもなかった。むしろ、自身の生活を護りたければ、たとえ、橋田と異なり、憎むべき相手ではないにしても、本田美子は必要な犠牲かもしれなかった。

 その時、腹中の子供が動いたような気がした。

 「ああ、ごめん、あなたのことから、ちょっと、関心がそれていたね」

 同時に腹中から、

 「これからの人生を前向きに」

という呼びかけがなされたのかもしれない。

 「そうだよね、これから、あなたと一緒に前を向いて行かねばならないものね」

 ヨシエは腹中の自身の子供に返答した。


12-2 対日宣戦布告

 在モスクワの日本大使館にて勤務していた駐ソ大使・木田哲郎の執務室に、一等書記官・坂井優が訪ねて来た。

 「大使、入って良いでしょうか」

 「どうぞ」

 坂井は執務室に入ると、言った。

 「先程、クレムリンから、ソ連政府の職員が公用車で訪ねてきました。重要な連絡があるとのことで、その公用車で、クレムリン迄、同行して欲しいとのことです」

 「分かった。支度するから、10分ほど、待ってくれ」

 「分かりました」

 坂井は執務室の外にて、大使の木田を待った。

 木田は支度しつつも、胸中、何かしら黒い、そして、重々しいものを感じざるを得なかった。胃がもたれるような感じがし、表情も自然と険しいものにならざるを得なかった。おそらく、この感情は、外の廊下で待つ坂井も同じであろう。

 <日ソ中立条約>

は既に失効している。日ソは交戦状態になっても、全くおかしくはない。ソ連各地の総領事館等からは、シベリア鉄道によって、欧州方面から、ソ連軍が極東方面に回送されつつある、という情報が届いていた。その中には、戦車等の重装備部隊も含まれているとのことであった。

 対日侵攻準備は、可視化されつつあった。

 「坂井君、さあ、行こうか」

 「はい、大使」

 2人は大使館を出て、ソ連政府差し回しの公用車にて、クレムリンに向かった。

 木田は車中の後部座席にても、何か、胃がもたれていた。

 「ハンガリーでの反ソ、反共の拠点づくりは失敗した。東欧の混乱によって、ソ連軍を出来るだけ、欧州方面に引き付けておこうという目論見は上手くいかなかったし、その後、実際に起きた動乱もソ連の軍事力によって、容易に鎮圧されてしまった。とりあえず、ソ連にとっての<西>は、一応の安定を見せている。ソ連の脅威は、祖国・日本がある極東に向かいつつある」

 車中の木田は、心中にて、国際関係の現状を整理していた。

 後部座席に木田等を乗せた公用車は、モスクワの市内を走って、クレムリンに入った。各門にいる哨兵の敬礼を受けつつ、クレムリンの城壁内の一遇に停車した。

 クレムリンの中から迎えに来た職員が車の戸を開け、木田と坂井の2人を迎えた。その職員に先導される形で、2人はクレムリンの廊下を歩いた。外交官として、今までにも歩いた廊下ではあったものの、

 <大日本帝国駐ソ大使>

 或いは、

 <大日本帝国駐ソ一等書記官>

として、この廊下をあるくのは、これが最後かもしれない。

 そんなことを思いつつ、歩いていた2人ではあるものの、ソ連外相がいるであろう部屋の前で、職員が止まり、

 「どうぞ」

と戸を開いた。奥の席に、これまで、外交官として付き合いのあった外相がいた。

 外相は、机の前にある2つの椅子に座るよう、木田と坂井に促した。座った2人に対して、

 「なぜ、お呼びしたか、既にお二人とも、その理由をお察しでしょう」

 そのように前置きすると、すぐに本題に入った。

 「我々、ソ連邦としては、既に両国間での中立条約は失効し、又、日本国内の<日本人民革命同盟>から、我々ソ連邦に対し、軍事的支援要請があり、ソ連政府はそれを承認した。よって、本日、4月15日、ソ連邦は対日宣戦を行ない、それを大日本帝国駐ソ大使たる貴殿等に通告するものである」

 この言葉は、木田と坂井が覚悟していたものではあった。しかし、実際に対面で、はっきりと通告されると、そのショックはやはり、大きなものであった。

 木田が口を開いた。

 「外相」

 「何でしょう」

 「私は駐ソ大使として、貴国・ソ連邦との外交に尽くしてきたつもりでした。しかし、それも無駄だったようですね」

 外相は、木田の発言にどのように反応すべきか、少々、困惑したようであった。

 木田にとっては、その台詞は、自分の外交官としての立場、努力を無にされたことへのソ連側への抗議と非難を込めた言葉であった。

 しかし、そんな非難を

 <大日本帝国>

を代表する大使とはいえ、もはや、動き出した巨大な

 <歯車>

を止めることもできないのであった。

 外相は静かに、そして、はっきりと言った。

 「おっしゃる通りです」

 そして、続けた。

 「日本はほぼ一貫して、我々、ソ連邦に脅威をなして来た。貴国がまいた火種ですぞ」

 日本は、ソ連を最大の仮想敵国とて敵視しながら、

 <大東亜共栄圏>

の完成によって、最大の仮想敵国に大きな弱点をさらすことになったのであった。国力の差も大きい。そんな状況の下、外交で努力したところで、無力であった。そのことを改めて、告げられたとも言ってよかった。

 「承知しました、東京に報告させていただきます」

 この台詞以外、他に何の台詞があり得るだろう。

 木田は坂井を促し、席を立った。

 日本大使館には、

 <日本人民革命同盟>

が何であるかは、未だ詳細には知らされていない。しかし、とにかく、木田は大使として、東京の日本政府に、

 <ソ連、本日、4月15日、対日宣戦>

の電報を打ち、日ソ(ソ日)が交戦状態に入ったことを報告した。


12-3 1957年(昭和32年)4月17日 東京

 17日朝、いつものように配達された朝刊を手にした妙子は、第1面を目にしたとたん、その紙面に目を見開いた。

 見出しには大きく、

 「ソ連、対日宣戦」

とある。

 郵便受けから新聞を取り出したばかりの妙子は、立ったまま、緊張しながら、紙面に目を通し始めた。

 「昨日、ソ連が対日宣戦、両国は交戦状態に突入。但し、皇土防衛は万端であり、皇軍の皇土防衛の士気は大いに高揚。臣民はみだりに動揺することなく、と政府通達(大本営、4月15日付)」

 妙子は不安を隠せない。更に、

 <社説>

に目を通してみると、

 「神州不滅の信念をもって、皇土を護れ」

とあった。そこに雄一が起きて来た。

 「どうしたの、姉ちゃん」

 「これ」

 妙子は読んだばかりの新聞を雄一に渡した。

 雄一も驚いて、その紙面に目を見開いた。

 「ラジオをつけてみよう」

 雄一は家の中に駆け戻ると、ラジオのスイッチをつけてみた。NHKのニュースが入った。アナウンサーの声は、戦争が始まったからか、昨年のハンガリー動乱の時以上に、何か興奮している感じである。

 そこに静江も起きて来た。状況を知った静江は内心、思った。

 「とにかく、早く、さっさと、終わってほしい。長引けば、特に雄一は男だから、軍に動員されるかもしれない。以前に、軍の学校云々なんて、言ったことがあるけど、おかしな正夢にでもなったら・・・・・」

 この近所では、まだ、大きな動きは起きていない。しかし、今後、それこそ、どうなってしまうのか。

 目に見えない

 <歯車>

がいよいよ、大きく、回り出したようである。ただし、何処に向かって回りゆく歯車なのか?

 しかし、それは

 <臣民>

と称せられる<社会>の担い手たる各

 <個人>

には分かるはずもでいことであろう。3人の心中には、それこそ、霧のようなつかみどころのない

 <漠然たる不安>

が広がっていた。

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