第11話 謀略
11-1 日本のエリート権力
「ご承知の通り、日本のエリート権力といえば、軍部や特高だ」
ヨシエには、勿論、実体験として、承知のことだし、日本関係の仕事の配属されているタチアーナにとっても、少なくとも、書籍等の上では、了解済みのことである。
「しかし、軍や特高といったエリート集団と雖も、昨今の日本国内での生活苦は、彼等をも苦しめているのが現状だ」
しかし、そうした苦しみに対し、
<社会>
の側からの政権(現体制)への批判が上がらぬように抑圧するのが、彼等の役割である。
ヨシエにはかつて、篠原家の小作人が、歩いていた彼女に声をかけて来た時の様子が思い起こされた。ヨシエ自身の生存をかけた
<階級闘争>
の結果だったとはいえ、やはり、土地をなくした小作農達は現在、どうしているのだろうか。
カピッツアが言った。
「日本の社会の側からの反権力闘争や階級闘争を焚き付けるべくモスクワ放送が、盛んに宣伝放送を行っているのはご承知の通りだ」
故に、日本国内では、体制の側は特高等による取り締まりが強化されているのであろう。
「日本側は、ソ連側からのラジオ放送を警戒して、妨害電波を流す等して対抗している他、特高の刑事をソ連側の大使館や総領事館に派遣して、当方の内情を探ろうとしている」
日本当局としては、当然の動きであるとも言えた。しかし、ソ連側としては、一応は国際法上は
<外国領>
とされているはずの大使館や総領事館に日本の官憲が入ってくることを警戒しなかったのだろうか。
ヨシエが、そのように思っているところに、カピッツアの説明が続いた。
「我々としては、ソ日の相互交流という意味で、彼等を≪歓迎≫したよ。昨年の段階で、ソ日中立条約は失効しているものの、まあ、互いに、ノモンハンの時等を除けば、戦火は交えなかったし、同志少佐が頑張ってくれた満州里近くの外郭要塞の件は、とりあえず、日本との対立ではなく、現地住民の問題という、まあ、少々、苦しいが、言い訳のような言葉で表面上、対立は何かしら隠しつつ、≪歓迎≫したんだ。日本側としても、ソ連側の動向が探れるとのことで、外郭要塞の件については触れずに我々の歓迎を受け入れたようだ」
しかし、ソ連側としては、探りを入れられて、それこそ、機密情報等を持ち出されてはたまったものではないだろう。一体、何をせん、としているのだろうか。
「で、新潟の総領事館でのことなんだがね、原田と元田という2人の特高の刑事が探りを入れようとしたのだろう、領事館を訪ねて来たんだ」
何だか、国際関係の真の姿が見えてきたようである。ヨシエとタチアーナは、興味をもって積極的に聞きたい、という表情になった。
その表情を察してか、カピッツアはさらに話をつづけた。
「新潟の総領事館は、『最近、日本も色々、大変ですな』と声をかけ、総領事館にあったロシア製のパンや紅茶で2人を労ったんだ」
なかなか
<人情味>
ある行動である。
「2人は領事館側の粋な計らいに喜んだそうだ」
生活苦の続く日本である。特高の刑事とて、
<粋な計らい>
に人間的喜びを感じてもおかしくはない。
「で、その日は雑談をして、彼等2人は戻って行ったそうだ」
そして、この話には、続きがあった。
「その後も、この2人は、総領事館に≪探り≫の名目でなのだろう、ちょくちょく、訪ねて来た。当方としては、一応、彼等を歓待したんだ」
ヨシエは問うた。
「ですが、それって、日本は敵である以上、何の意図もなく、そのように行動していたんではないでしょう」
「おっしゃる通りだ。まず、ある時点から、この2人には土産として日本円等の入った箱等を持たせた。奥さんと子供もいて、家庭生活も苦しいだろうから、との台詞も添えてね」
タチアーナも問うた。
「日本の権力エリートを買収したのですね」
「その通りだ、そして」
「そして?」
「原田と元田の2人は対日侵攻作戦の尖兵になったんだ」
11-2 下命
「そして、ついにある時、総領事館を訪ねて来た2人に、総領事のセルゲイ=ロトミストロフは、はっきりと言ったんだ」
つまり、
「最早、貴方達、2人は、我々ソ連側から、現金を受け取る等して、買収された。日本という国家の体制を護るエリートでありながら、率先して大日本帝国を裏切ったと」
この時の2人の表情は、歓待されていたと思っていたのが、調略されていたことに気付かされ、真っ青になったという。おそらく、彼等は、日常の生活苦のおかげで、対謀略活動の前線にいながら、その感覚が半ば、マヒしていたのであろう。
その2人に対して。ロトミストロフ総領事ははっきりと告げたのだった。
「あなた方2人には、これからはソ連邦のために働いてもらう。もし、拒否すれば、それこそ、日本の特高警察に突き出す。特高当局としては、内部から体制を裏切った君等を許さないだろう。そして、それこそ<社会>にこの動きが知られれば、日本の民衆の体制への支持はいよいよ、動揺する。それを防ぐためにも、君等は抹消されかもしれない」
さらに
「拒否すれば、君等の情報はソ連に届けられ、モスクワ放送から実名入りで、≪日本の人々へ、日本内部からの裏切りエリート露見≫と題して大々的に宣伝されれる手はずになっている。いずれにしても、君等の立場は、最早、ないのだ」
と言い、ソ連側に着くことを迫ったのだという。
最早、原田と元田の2人は、ソ連総領事・ロトミストロフの要求に従うしかなかった。
そして、この2人にソ連側から下された
<下命>
とは、
・新潟市内の一駐在所に勤務する巡査・門脇淳一の殺害
・さらに、所謂<反天皇制>の文言の入った<日本人民革命同盟>のビラを撒いて、日
本の<社会>にて人心の動揺を焚き付けること
の2点であった。
この<下命>によって、門脇巡査が夜勤の時、隠し持っていた短刀にて、門脇巡査を襲い、背後から刺殺、さらに、
<日本人民革命同盟>
のビラを撒いて、引き揚げたのだという。門脇としては、まさか、国家のエリートというべき特高の刑事が国家を裏切る行動に出るとは思っていなかったようで、殺害はあっさり成功したようであるとのことであった。
<国家の論理>
又は、
<国際関係>
という巨大な歯車の下、またも1人の犠牲者が出てしまった。しかし、回り出した巨大な歯車は、最早、止められるものでもなかろう。
「それで、同志大佐、その作戦の結果はどのように影響を及ぼしたんですか?」
ヨシエたちのこの質問に対し、
「うむ、この事件は新聞でも報道されたし、総領事館でも、改めて成功を確認した」
「それで、地元民たちは、動揺しているのでしょうか」
「ま、一定程度はね。領事館からは、そう言った報告が届いている」
そう言ったうえで、
「さて、特に、同志クツーゾネフ少佐、本当に今日まで、謀略の件、お疲れ様だった。一旦、冒頭にも話したように、同志少佐の本件での任務は終わるが、今後も、色々と、声掛けすることがあるかもしれない。その時のために、一定の緊張感は保ってもらいたい。同志中尉も、良く補佐するように」
「了解です。同志大佐」
そう言うと、席を立ち、2人はいつもの職場に戻った。
11-3 帰宅
その日、ヨシエは午後6時頃、KGB本部を退勤し、家路に就いた。往路とは逆方向で地下鉄に乗って帰宅した。
帰宅途上の路上にて、夫・アレクセイに出会った、というより、背後から声をかけられたのであった。
「お疲れ様」
「え?」
いきなり声をかけられ、驚きつつ、ヨシエは背後を振り返った。
「あら、アレクセイ、貴方も退勤?」
「ああ、退勤さ」
「夫婦一緒の時間が取れるみたいね」
「うむ」
互いに、それぞれ、ソ連という国家の1つの<歯車>であり、同時に、その国家の命運を左右しかねない立場にいたことから、互いの
<個人>
としての、
<私生活>
を楽しめずにいた。しかし、今日は<私生活>を楽しめそうである。特にヨシエにとっては、任務が完了し、一仕事、終えた感があることも、そうした心境を作り出していた。
ヨシエとアレクセイは2人で、路上を歩きつつ言った。
「私ね、とりあえず、日本での親ソ政権樹立のための仕事は、今日で終わった。上司の大佐から、とりあえずの任務完了を言われたのよ」
「お疲れ様。暫くは忙しくなくなるのかい?」
「たぶん、そうなるでしょうね」
「僕は軍将校だからね、どうなるか」
夫のアレクセイが極東軍管区にでも配転ともなれば、対日侵攻作戦に動員される可能性が高くなる。ヨシエにとっては、それが気がかりだった。
ヨシエは、確認するように言った。
「これからも、モスクワ軍管区勤務よね」
「ああ、たぶん」
<たぶん>
という言葉には、
「場合によっては、他の軍管区への配転もあり得る」
という意味合いが含まれているとも言えた。
ヨシエにとっては、30年以上の人生の中で、やはり、アレクセイとの今の生活が一番良い時期なのである。しかし、その
<最良生活>
というべき現在の<私生活>は、ソ連という
<体制>
と共にある。それ故に、ハンガリーでの謀略作戦に従事し、2人の日本の関係者を殺害したのである。そして、それ故に、日本という
<体制>
の下には戻れない。さらにさかのぼれば、橋田至誠も殺めている。日本という<体制>からすれば、すでに3人の人間を殺害した殺人犯以外の何者でもなかった。
しかし、
<戦争>
という概念からすれば、その行為は許されるのである。
現在、ヨシエは日本という<体制>と戦争をしているのであり、換言すれば、自身を苦しめて来た<体制>と自身の<私生活>を護るために、戦い続けているのである。
「もろいものね」
ヨシエは内心、呟いた。強そうに見える体制でも、
<社会>
に対する<実効性>がなければ、場合によっては、あっさり見捨てられ、裏切られてしまう。これまでのヨシエの行動はその具体例であった。但し、日本以外の外の世界を知りえたから、そのように行動できたとも言える。
「外の世界を知らされていない内地の人々は、赤軍が侵攻したら、どのようにはんのうするかしら?」
そんなことを考えているうちに、ヨシエはアレクセイと共に、自宅マンション前に着いた。
「寒かった、さ、入ろう」
アレクセイに声をかけられ、ヨシエもマンションのエンタランスに入った。漸く、2人の
<私生活>の領域に、ヨシエは夫と2人で入ることができつつあるのであった。自室に入るまでは、まだ寒いものの、後は待ってくれている暖かい自室に向かうのみである。心はかなり軽くなったようであった。
2人はエレベーターで自室のある階まで上がり、自室に入ると、互いの苦労をねぎらい、無事に帰宅できたことを祝い、抱擁した。
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