第10話 1957年
10-1 初出勤
年が明けて、1957年1月、年末年始の休みの後、ヨシエは昨年同様、KGB本部に初出勤した。夫・アレクセイとの久々の家庭生活ではあったものの、楽しめたのではないだろうか。あるいは、久々だからこそ、楽しめたのかもしれない。互いに家を空けることが多いせいか、かえって、新鮮に思えるものがあったのであろう。
一緒に家を出て、途中まで来ると、互いに勤務先に向けて歩き出した。途中から、ヨシエは地下鉄に乗った。
その後、また、KGB本部に徒歩で向かい、いつもの職場に入った。
「おはようございます、同志少佐」
「おはようございます、同志中尉」
今年、初めてのタチアーナとの挨拶である。
「あ、同志少佐、カピッツア大佐が、早速来るように、とのことでした」
「了解です、同志中尉」
言うまでもなく、モスクワの1月は極めて寒い。相変わらず、身体に染み入るような寒気の中を出勤して来たヨシエにとって、室内の暖房によって、寒さがほどけていくような状態の中、早速、業務についての連絡だった。
「おそらく、延安での野崎氏等の件についてであろう」
このことについて、言われるのは、無論、予測はしていたものの、ヨシエとしては、今日まで、作戦の全容については聞かされていなかった。
「私としては、次の動きはどんなものになるのかしら?」
そんなことを思っていたところに、タチアーナが声をかけた。
「さ、カピッツア大佐のところに行きましょう」
「ええ、そうね、同志中尉」
2人は、昨年と同じく、いつもの廊下を歩いて、カピッツアの執務室に向かった。
ヨシエは、既にかなり、ロシア語ができるようになっていた。会話等に問題は無かった。しかし、それでも、タチアーナが同行しているのは、やはり、まだ、完全には、ソ連という体制は、ヨシエという元・日本人を信頼していないのかもしれない。
ましてや、今日の話は、対日作戦に関わるものであろうから、ヨシエが不審な動きをしないかどうか、監視する必要があるのかもしれない。
そうした疑いを払しょくするためにも、ヨシエはKGB少佐¥として、引き続き、任務に忠実たらねばならないのであった。
相変わらず、気が抜けず、緊張するヨシエであった。しかし、これは、現在の自分の幸せを護るためには、耐えねばならないことであった。というよりも、既に彼女という世界の中で、一種の
<常識>
と化していた。
「同志大佐、私、クツーゾネフ少佐、同志アウエーゾフ中尉、参りました」
「どうぞ」
いつものカピッツアの声であった。
「失礼します」
2人は扉を開け、入室した。職員等のタイプライター等を打つ音が聞こえてくる。昨年と変わりない光景であると同時に、早くも忙しいことである。国際関係に対峙する国家に休みは、半ばなく、ヨシエも正月休みを受けたとはいえ、早速、
<忙しき国家の大事>
に巻き込まれるわけであろう。
2人の前には、カピッツアが手を組んで、いつものデスクについており、デスクの前には、2人分の椅子が置かれていた。
タチアーナが問うた。
「かけて良いでしょうか」
「どうぞ」
2人は、それぞれ椅子に、座った。
「新年、おめでとう、同志諸君」
「早速だが、諸君に来てもらった理由は既に分かっていると思う」
「日本人民共和国の件ですね」
ヨシエが問い返した。
「その通り、おそらく、軍の方では、陸軍を日本に上陸させるため、海軍や空軍も準備を始めている」
いよいよ、対日作戦が発動されるわけである。
ヨシエとタチアーナは、改めて緊張し、少々、襟を正す態度となった。
10-2 作戦内容
「我々、ソ連軍としては、今年、そう、1957年の今年、モスクワの日本大使館を経て、対日宣戦を行なう手筈になっている。外務省では、既に対日宣戦に向けた準備がなされている」
カピッツアは現状を説明した。
「対日宣戦は、何時のことになるのでしょうか?」
タチアーナが問うた。
「遅くとも、5月ごろまでにはなされるだろう。ヨーロッパ方面にいる軍を極東方面に回送せねばならない。但し、こうした我が軍の動きは、モスクワの日本大使館としても、各地、各国の日本総領事館、大使館からの報告を得て、把握はしているだろう」
東欧諸国の日本大使館、総領事館等にも駐在武官がいる。ヨシエはその中の駐ハンガリーの武官を作戦のために殺害している。しかし、他の駐在武官等を通して、ソ連軍が欧州方面から、極東に回送されつつあることは、モスクワの日本大使館、日本外務省にも連絡されているに違いない。
カピッツアが続けた。
「時間が経ちすぎると、日本軍側に国土防衛のための時間を与えてしまうことになりかねない」
いかにも、その通りであろう。
「しかし」
とカピッツアは続けた。
「冬の間は、日本海が荒れる。地続きの欧州方面とは違い、侵攻作戦にとっては、冬は適さない季節だ」
それもそうであろう。日本は古来から
<海>
が天然の防壁として機能していた。その海が荒れるとなれば、他の季節にも増して、海はソ連側に対して、巨大な防壁となることは、容易に想像できた。
かつて、鎌倉時代、元軍が日本を侵略した元寇は二度(1274年、1281年、それぞれ、文永、弘安の役)とも、暴風雨が手伝ったこともあって、海が防壁となって元軍が撃退された一面があった。
この二度の暴風雨が日本の歴史教科書では、
<神国・日本>
の具体例として、学校では、子供達に教え込まれて来た。ヨシエは自身の子供の頃を思い出しつつも、カピッツアの話を聞いていた。
しかし、1957年の今日でも、自然の力は油断ならないものがある。ソ連領内に侵略したナチ軍の一部の部隊は、モスクワのクレムリンの尖塔が見える箇所まで来ていた。しかし、結果として、
<冬将軍>
つまりは、ソ連の国土の冬の寒さに撃退されたのであった。
<自然>
という天然の防御力が油断ならない具体的実例であった。換言すれば、
<海>
が荒れる冬の時期は、日本側にとっては、国土防衛が容易な季節であった。
ヨシエが口を開いた。
「同志大佐、しかし、冬の季節が終わるのを待っていたら、日本側に防備を固められてしまいますね」。
「うむ、しかし、現地の大使館、総領事館からの報告によると、日本は帝国主義として、≪大東亜共栄圏≫の名の下、勢力を拡げすぎて、戦力が分散していることに加え、先の見えない戦時体制の維持そのもので精一杯だ。生活物資も不足し、日本本土そのものの防備は薄い」。
それは全く、ヨシエにもイメージできることであった。まさに彼女自身の実体験だからである。
「日本側の陸軍戦力は大したことはないのかもしれない。同志クツーゾネフ少佐、君も既に知っての通りで、新戦車としてのT54/55型をわが軍は装備し、ウラジオストック等の基地に回送しつつある。報告によると、前世代戦車のT34にも日本の主力戦車は対抗できなかったとのことなので、陸戦面では、装備等では問題ないだろう」
先程から、同じく話を聞いていたタチアーナが発言した。
「しかし、陸軍は海を渡海しなければなりません。輸送船に分乗しなければなりませんが、そこを攻撃されたら」
「たしかに、日本海軍には、巨大な戦艦が多い。敵は戦艦の巨砲で我々の上陸作戦を撃退しようとするかもしれない。そこで、軍からの連絡では、海軍の潜水艦隊を支援に回したい、とのことだった」
潜水艦によって、日本海軍の誇る巨艦を撃退し、海が日本本土への上陸ルートとなれば、後の戦局はソ連側に有利に傾くであろう。
ヨシエが改めて、問うた。
「で、上陸地点はどこですか?」
「まず、日本海に面する新潟だ。そのほか、北海道方面からも上陸し、とりあえず、日本の北半分を占領することによって、≪大日本帝国≫に対抗し得る≪日本人民共和国≫が安定的に成立すれば、まずまずの戦果だろう」
これは、大日本帝国が侵略によって、
<大東亜共栄圏>
を成立させた結果、現実の問題として、帝政ロシアの時代から、日本、殊に日本陸軍にとって、仮想敵であったはずのソ連に大きな隙を見せたことによることに基づく作戦であった。
女学校時代のヨシエ(恐怖)を恐怖させた八甲田山の雪中行軍は、仮想敵ロシアに日本陸軍兵士を慣れさせようとしたものであったことは無論である。
10-3 新政策
「多分、お察しと思うが」
そのように、前置きして、カピッツアが続けた。
「新政権としての≪日本人民共和国≫は、当の日本人民にとって、魅力ある政策を打ち出さなければならない」
その魅力ある政策とは、
・資本家追放、工場を労働者へ
・地主追放、農地解放
・男女平等、「家制度」等、廃止
等であった。これらはいかにも、日本の当の
<人民>
すなわち、
<社会>
が望んでいることと思われる。
但し、どのように実現するのか?
「同志少佐、延安から連れて来た野崎君らは、こうした政策を強力に実行できそうかね?」
「どうでしょう、女の私から見ても、何かしら弱々しそうなところのある男性ですね」
「うむ、やはり、新政権樹立は、我々の支援、特に、軍の力がなくては、難しいだろう」
特に、大きな経済的利害を有する資本家、地主の追放といった政策は、新潟のみならず、北海道、東北等でも、各地で旧勢力の大きな抵抗が予測された。
しかし、旧勢力も又、
<社会>
の中に、利害を有する<社会>の一員である。新政策を定着できなければ、<社会>を巻き込んで、巻き返しに出て来るかもしれない。それらを抑え込むために、というよりも、それ以前に
<新政策>
を実施しなければならない。それでも、旧勢力との流血は一定程度は避けられないかもしれない。
<日本人民共和国>
が打ち出す一連の<新政策>は日本の<社会>が望むものだから、おおむね、支持はされるかもしれない。結果として、
<実効性>(社会への有用性)
を持つことはできるだろう。通常、政治権力は
<実効性>
が基礎となって、
<正統性>(政権への社会からの容認)
があるものの、今回は、先にソ連に支援され、上陸した新政権の<正統性>が必要な状態であった。
しかし、外国の軍に支援された政権では、<社会>の側は、違和感を持つだろうし、なによりも、<天皇制>を中心としたこれまでの体制を真っ向から否定しかねない新体制には反発も予測された。
カピッツアが言った。
「そこでね、今度の一連の改革は、日本人民が自ら望んで、そのようにしたと演出し、かつ、日本人民が従わざるを得ない状態にする必要もある。我々としては、事前の演出準備を新潟の総領事館を通して、打っておいた」
いよいよ、話は中核部分に近づいてきたようである。
「同志少佐、君には、野崎君等、新日本の閣僚候補を延安から連れてきたところで、本件については、一旦、任務完了の予定だが、関係者として情報を共有するため、話しておく」
ヨシエとタチアーナは改めて、襟を正す態度となった。
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