第7話 父娘再会

7-1 起床

 午前8時30分頃、ヨシエは、与えられたヤオトンの一室内にて起床した。

 土の壁面をくり抜いて造られたヤオトンは、外の寒気を防ぐ効果もあり、ヤオトンの中にて、暑くもなく、寒くもなく、一晩を過ごせたようであった。但し、昨日の宴席での強い酒は、未だに身体の中に残っているようである。ヨシエは起きてなお、所謂<二日酔い>である。

 目を覚ましたヨシエは、天井を眺めてみた。さらに、室内を見回してみた。室内には、ベッドの他、小さな机と椅子があり、机の上には、陶器のポットと湯呑がある。陶器のそれらには、白磁に青い色の花柄模様が描かれていた。

 「中国の陶器は、日本のそれとはまた、違った趣があるね」

 ヨシエはベッドから降り、靴に足をつっかけて、机に近づいてみた。美しい花柄の陶器は、これまで見たことのないものであり、同じ東洋の国ではあれども、日本との違いを思わせるものがある。

 「ポットの中には何が入っているかな?」

 湯呑に向けて、注ぎ口を傾けてみると、茶が出て来た。

 「おっ」

 二日酔いのところに、茶があるとは、嬉しい心遣いである。ヨシエは湯呑に入れた茶を口にしてみた。

 何かしら、甘いような苦いような茶である。日本では、小作農の家に生まれたヨシエであったので、食事に殆ど贅沢はできなかったものの、しかし、茶は呑めてはいた。

 茶を口にしつつ、ヨシエは思った。

 「カツゾウ=クラモトか。父さんなのか、それとも、同姓同名の別人なのか。しかし、そのクラモトさんも、ここ延安に来て、大分、経つようだけど、こうした茶の味に慣れつつ、暮らしているのだろうか。あるいは」

 ヨシエは昨日の宴席を思い起こしつつ、改めて思った。

 「ここ中国での料理の味付けは脂っこく、濃い味だから、日本とは全く異なるだろうけど、お茶だけは、日本と同じような感じだから、お茶を飲むときには、祖国・日本を回想しているのかもしれない」

 もし、お茶を飲む時、日本、あるいは、故郷を回想しているとしたら、何を回想しているのだろうか。

 応召時に残して来た妻や子のことだろうか。あるいは、彼が、ヨシエの父と同姓同名の別人で、かつ、農家ならば、牛や馬のことも気にかかっているかもしれない。

 日本の多くの農家では、牛や馬は耕作のための重要な道具、というより貴重な働き手の一員である。その農家にとっては、同時に、家族のようなものである。

 それらの重要な働き手がなくなれば、いよいよ、その農家は耕作が難しくなり、収穫も減り、小作料も払えない、そして、小作地を地主に召し上げられて、一家の生活は破綻、ということになるかもしれない。

 ヨシエの現在の祖国・ソ連邦では、コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)等には大型コンバインが導入されている例もある。しかし、

 <大東亜共栄圏護持>

を叫ぶヨシエのかつての祖国・大日本帝国にては、何事も軍の行動を優先するという現実の下、それを支える日々の暮らしというべき

 <社会>

の各<個人>の民生にまでは予算が回らないというのが現実だった。それ故に、農村では、農作業は、近代化、機械化されておらず、牛、馬に頼る以外は常に、手作業であった。

 それは、元・日本人のヨシエが元・祖国の日本にて、実際の生活の姿として見て来た紛れもない現実の姿であった。

 「クラモト氏もきっと、農村出身だったら、そんなことが気になっているのかもしれないね」

 そう思いつつも、

 「あるいは、日本での体制に縛られた暮らしから解放されて、何かしら、新しい人生を生きているのかもしれない」

 現にヨシエが、そうだったからである。

 ヨシエは、改めて、茶を飲みつつ思った。

 「会ってみなければ、分からないか」

 そこに戸を叩く音がした。中国語ができないヨシエである。とりあえず、ロシア語で、

 「どなた?」

と返事をした。声は日本語で帰って来た。

 「お早うございます、同志少佐。昨日の呉です」

 「あ、おはようございます。今、着替えるから、少し待ってください」

 酔いがさめかけて来たヨシエは、一気に目が覚め、急いで、ソ連軍の軍服に着替えた。


7-2 別室へ

 10分ほどして、外の呉が改めて、声をかけて来た。

 「大丈夫ですか?」

 「はい、どうぞ」

 「おはようございます」

 呉が戸を開いて入って来た。

 「どうですか、よく眠れましたか?」

 「ええ、なかなか快適な住居ね」

 「はい、ここは黄土高原の中の街ですので、外の環境も厳しいですし、防寒とか防暑とかには気を付けた造りになっているんです」

 そのように説明すると、呉は、

 「さ、行きましょう。倉本勝造氏を別室に待たせてあります」

 ヨシエは呉に先導されて、外に出た。

 やはり、外は冷える。軍服の上に、軍用コートを羽織ったヨシエであったが、この寒さからして、正解のようであった。呉と共に暫く歩いて、別のヤオトンの前に来た。

 「さ、こちらです」

 そのヤオトンを奥に入ると、別室があり、出入口に銃を担いだ2人の八路軍兵士がいた。

 「どうぞ」

 そう言うと、呉は戸を開き、ヨシエを中に入れた。

 中に入ってみて、ヨシエは一瞬、息を呑んだ。3つの椅子があり、その1つに入口に向かい合うように、1人の男性が座っている。その男性の衣服の右袖は、肩から垂れ下がっている。右腕がないのである。

 しかし、老けたとはいえ、ヨシエの父・倉本勝造の面影である。ほぼ間違いなくヨシエの父・勝造であろう。

 男性氏も、入口にいる女性に、かつての日本での娘・芳江の面影を認めたらしく、驚きの表情となった。娘と思われる女性が、ソ連軍の軍服を着用していることは、更なる驚きとなったに違いない。

 呉も室内に入って、ヨシエに、

 「どうぞ」

と男性の正面の椅子に座るように促した。

 しかし、ヨシエは、ある意味、

 <初対面>

の男性氏に何と言えばよいのか分からず、とりあえず、立ったまま、

 「初めまして、あの、私、ソ連KGB少佐のヨシエ=クツーゾネフと言います」

と、日本人なら大抵するであろう、標準的な挨拶をした。

 男性氏も、

 「え、あ、はい。私、倉本勝造と言います」

と、やはり、標準的な挨拶をした。

 呉が改めて、

 「どうぞ」

と着席を促した。そして、

 「昨日、おっしゃていた倉本勝造氏です」

と改めて、男性を紹介した。

 ヨシエは改めて、

 「倉本勝造さんですね」

と確認した。

 「はい、そうです」

 「あなたには、つかぬことを伺いますが、芳江さんというお嬢さんがいらっしゃいませんでしたか?」

 「はい、いました」

 間違いなく、ヨシエの父としての倉本勝造である。

 「お父さん、私よ、私が娘の倉本芳江、覚えている?」

 ヨシエは、日常の話し言葉で、話しかけた。

 突然の再会に、勝造は何と言うべきか分からないらしい。傍らの呉が、

 「間違いなく、あなたのお嬢さんですよ」

と声をかけた。

 勝造は、困惑したような表情で言った。

 「そうか。だけど、どうしたんだ、その格好」

 ヨシエは正直に、但し、言える範囲で言った。

 「色々あってね。私もう、日本の人じゃなくて、ソ連の国籍を取ったの。お父さんは信じられないことでしょうけど」

 「そうか」

 勝造は、困惑したような表情を改めて浮かべつつ、言った。

 「やはり、かなり、おかしく思えるかしら?」

 「うむ」

 勝造等は、皇軍の中で、

 <生きて捕虜になるな>

等の精神論を叩きこまれていた。その角度からすれば、

 <おかしな>

というより、

 <恥ずべき>

ことでもあった。しかし、皇軍から切り離され、長く<生きて捕虜>生活を送っている彼としては、何と言うべきなのか、心中、複雑なものがあった。

 「すまんが、煙草を1本、吸わせてくれ」

 そう言うと、左手で、上着の左ポケットから、煙草を1本、取り出し、更にマッチとマッチ箱を取り出し、マッチを口にくわえ、マッチ箱を左手に持って左右し、マッチ箱の燐の部分をマッチの先端にこすった。


7-3 会話

 勝造は盛んに、左右にマッチ箱を揺すった。しかし、マッチに火がつかない。このままではマッチそのものが折れてしまいそうである。

 ヨシエは、父からマッチとマッチ箱を取り上げ、マッチに火を点けた。更に、勝造が口にくわえた煙草に火を点けた。

 「すまんな」

 勝造は一言、礼を言った。そして、紫煙を天井に向けて吐いた。

 暫く、一服して、落ち着いたらしい。改めて、娘のヨシエに問うた。

 「どうしたんだ、その格好」

 「本当に、色々あってね。日本にいられなくなってね。さっき言ったように、ソ連国籍になったの。KGBっていう組織があってね、私はそこに勤務しているの。階級は少佐」

 勝造は、ますます、何と言って良いのか、分からなかった。日本の陸海軍には、女性はいないし、勝造等、男性も、徴兵されたものは、二等兵から始まり、進級しても、通常はせいぜい、上等兵程度である。勝造にとって、娘は、自身の理解のできない

 <別世界の人>

になっていたのであった。何を質問してみたところで、分からぬことだらけだろう。長い時間が経過していたことも、父娘の会話を難しくするかもしれない。

 別世界の娘のことよりも、日本に残っているだろう、妻・初子のことはどうだろうか?

 「父さんが応召してから、母さん、どうしてた?」

 「ああ、お母さん、やはり、小作農だからね、生活が苦しかったんでしょうよ、地主の家の妾になったこともあったようよ」

 聞きたくない回答ではあったものの、こうした答えも覚悟のうちだった。応召することによって、妻のこうした辛い姿を実際に見ずに済んだだけ、幸せであったかもしれない。

 ヨシエが、逆に父・勝造に質問した。

 「お父さん、その身体どうしたの?」

 勝造は、付け根からなくなってしまった、かつて、右腕があった場所を一瞥して言った。

 「ある村での戦闘の際、結局なくしてしまったんだ」

 戦闘による負傷であった。ヨシエとしても予測していた回答だった。

「その村の住民をも巻き込む悲惨な戦いになってしまってね。女性や子供の悲鳴の中で、同じ隊の戦友達は退却したんだが、父さんは、ある瞬間、右腕にひどくけがをして、そのまま、その場で動けずに、そこを八路軍の捕虜になってしまったんだ」

 娘のヨシエにとっては、初めて、しかも本人から聞く、父の行方不明後の話である。

 「それで?」

 ヨシエは、続きを促した。

 「結局、もう、右腕はどうにもならない、ということになって、八路軍の衛生兵に切断手術を受けてね、こんな格好でここに連れて来られて、今に至っているんだ」

 勝造は話をつづけた。

 「皇軍兵士たるもの、捕虜になるとは何事か、と恥ずかしくも思ったこともあった。だけど、とりあえず、今は生活も安定しているし、日本から離れて暮らしている今が、一番良い時かもしれない」

 この点は、ヨシエと同じである。結局、祖国であるはずの

 <大日本帝国>

という体制が、自分等に何をしてくれたのだろうか。ヨシエにとっては、ソ連でのKGB将校という現在の生活が一番良い。父・勝造も、同じ境遇なので、元

 <皇軍兵士>

でありながら、娘の姿に驚きつつも、祖国から離れた生活が寧ろ、今までの人生の中で一番良いという自身の

 <生活実態>

とでも言うべきものをを踏まえて、その姿をとがめようとはしなかったのかもしれない。

 「芳江、お前、苗字、変わっているよな。結婚したのか?」

 「そうよ、ソ連のアジア系の男性とね」

 「子供は?」

 「まだ」

 「そうか」

 たとえ、娘に子供が生まれ、自分の孫となっても、右腕もなくしてしまったうえに、やはり、これまでの人生で一番良い生活であるかもしれないとはいえ、延安から出られないであろう生活状況では、孫を抱いてやることもできないであろう。

 そこに、更にヨシエが問うた。

 「私、近所では珍しく一人っ子だったよね、なんで?」

 「実は、お前には、兄にあたる子が2人いたんだ。だけど、幼い頃から病気がちで、満足に栄養も与えてやれず、お前が物心つく前に、亡くなってしまったんだ」

 ヨシエにとっては、初めて聞く話であった。

 「だけど、家の中に位牌とか無かったじゃない」

 「もう、思い出したくなかったんだ。このことでは親戚等からも悪く言われたし。お前のことをも含めて、その時点での生活だけで精一杯だったこともあって、心の余裕もなくて、むしろ、何というか、忙しくすることで、死なせた2人のことは忘れたかったんだ」

 ヨシエが幼い頃、勝造が押し黙っていることが多かったのは、こうしたことも一因であったかもしれない。

 「あの頃、親戚から言われたよ。勝造なんて名前のくせに、勝ちを造るどころか、負けを造る奴だ、マケゾウだって」

 実子2人をなくした父に対し、この言葉はないだろう。ヨシエは怒りの表情になった。

 「だから、赤紙が来た時、こうした環境から出られるかもしれないと思って、変な期待感もあった」

 勝造は、これまでの人生を振り返って、言った。これまでの辛い思いを誰かに聞いてほしかったのかもしれない。彼は、身に涙をにじませつつも、少し、スッキリしたようであった。

 そして、改めて言った。

 「それにしても少佐か。本当に大出世だな」

 <負けを造る>

という状況の人生の中で、唯一、娘の芳江(ヨシエ)の人生が良い方向に向かっているのは、勝造にとっての

 <明るい希望>

あるいは、勝造自身が努力したとは言えないかもしれないとはいえ、唯一の

 <勝ち>

なのかもしれない。勝造の表情が少し明るくなったようであった。

 そして、ヨシエは思った。

 「母さんが妾になったまで、私を女学校に行かせようとしたのも、生き残った唯一の子には何とかしてやりたい、という気持ちがあったからかもしれないね」

 先程から、父娘の会話を聞いていた呉が口をはさんだ。

 「もうそろそろ、良いですか?勝造さん、最近ちょっと、病気がちなんで」

 「ええ、良いです」

 ヨシエは同意した。このままだと、父に次々、辛い話をさせて苦しめてしまうかもしれない。又、呉が同席しているのは、一種の防諜行為かもしれない。だとしたら、父にとっても、かなりの精神的に負担になるだろう。

 まだまだ、互いに何か、言いたいこともあるような感じではあるものの、

 「お父さん、しっかりね」

 「お前も元気でな」

 色々、あるようで、結局は、月並みな別れの挨拶になってしまったのであった。



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