第6話 延安
6-1 機上にて
プロペラの爆音を聞きつつ、ヨシエは飛行機で、延安に向かっていた。数日前、モスクワを出た彼女は、列車で中央アジアのサマルカンドに移動し、そこから、軍用トラックでタシュケントに移動し、さらに、タシュケントの飛行場から、ソ連軍の軍用機にて、現在、延安に向かっているところなのである。
モスクワのマンションを出る時、いつもの如く、夫・アレクセイと、
<暫く、お別れのキス>
をし、駅にむかった。ハンガリーでの任務の時と同じく、途中まで、アレクセイと一緒に歩き、そこで分かれ、鉄道に乗車、中央アジアに向かったのである。
中央アジアで列車を下車してみると、沙漠の広がる風景を見た。所々に、街や村があり、オアシスになっているのである。沙漠の中の緑は幻想的と言えた。不毛とも思われる沙漠の中で、緑はその色によって対比を為すので、よりはっきり目立つのである。
日干し煉瓦で建てられた建物や、ブドウを栽培している、同じく日干し煉瓦で建てられたブドウ庫等、初めて見る独特の風景であった。
他方、中央アジア方面では、その地域での少数民族後が話されており、言葉はロシア語と異なるのか、然程、通じないものの、人種的にはアジア系だからか、日本人と似ている者もいる。
そうした点が、
・元日本人
のヨシエに、何かしらの親近感を感じさせたようであった。言葉は分からないものの、子供たちが楽し気に遊んでいるところは、かわいらしいものがあった。
しかし、ヨシエは、その姿を見ていて、何か、目に涙がにじみそうになった。
実家では、収奪されていたからであろう、何かしら、怒ったように押し黙ったままであったことの多かった父・勝造、そして、同じく、生活が苦しかっただろう、そして、それ故に妾であったかもしれない母・初子といったくらい実家生活を思い起こしたからであろう。
だから、ヨシエは今の夫・アレクセイとの家庭生活は失いたくなかった。そして、その
<個人生活>
と呼ぶべき、日々の暮らしは、ソ連という
<公的体制>
と一体のものであった。故に、ソ連のために、延安に向かうヨシエが機上の人として存在しているのである。
機上で、自身の境遇に半ば、耽溺していた彼女であった。
中央アジアでの風景は、ハンガリーの時と同様、ヨシエにとっては
<おとぎの国>
であったかもしれない。
特に、沙漠の夜空の満天の星空は美しい。昔、何かの本で読んだ、若い王子と王女が2人で、ロマンスの旅を楽しんでいるような感を実体験しているようであった。
「アレクセイと2人で来れたらな」
とも思った。
しかし、やはり、現時点でヨシエがなさなければならないのは、与えられた任務である。
それが、彼女にとっての日々の生活に直結しているのである。
ヨシエは、改めて、タチアーナから受け取り、持参して来ていたファイルを開いてみた。
多くの捕虜日本軍将兵の名がある。
「どのような者を抜擢すべきか?」
ヨシエは心中にて、シミュレーションをしてみた。
「天皇主義者、ファシスト等の傾向のある者は論外であるけれども、だとしたら、誰を選抜すべきか?」
そう思いつつも、
「気の強い人?でも、後々、ソ連に反抗する人だと困ります。旧体制という敵を圧伏するのは、ソ連赤軍の軍事力に任せておけばよい。気が弱くても、しっかり、実務のできる人が良いかな?」
そんなことを考えているヨシエに声がかかった。
「同志少佐、間もなく、延安です。降りる準備をしてください。それと、地形が複雑で冷えが厳しいので、寒さに注意してください」
同乗している護衛の兵からの声であった。
心中の世界にいたヨシエは、現実の旅の世界に引き戻された。彼女はファイルを鞄にしまい、降りる準備を始めた。
6-2 ヤオトン
ヨシエの乗るソ連軍用機は、徐々に高度を下げ始めた。機窓から外を眺めているヨシエに、黄土高原の大地が迫って来た。中央アジアとはまた、少々、異なる形での砂漠地帯であるらしい。地形は山がちであり、また、仏塔であろうか、1つの目立つ塔が見えた。
軽い衝撃と共に、ヨシエの機は着地した。ヨシエは護衛の兵と共に、機を降りた。言われたように、冷えが少々、厳しく感じられた。飛行場には既に、迎えの人々が来ていた。1人はロシア人の軍事顧問、後は中国共産党の関係者らしい。
ヨシエ等は、彼等の前に進み出ると、互いに握手を交わした。迎えの一団の中の1人が、
「中国共産党中央委員会は、あなた方を歓迎いたします」
「中国の日本語通訳の方ですか?」
ヨシエは日本語で聞き返した。
「はい、ここは日本兵の捕虜を監督していますのでね、私の他にも日本語の通訳が何人かいます」
と説明した。名は呉だという。
呉が言った。
「さ、行きましょう。毛沢東主席他、わが党の者たちが皆さんをお待ちです」
呉に先導される形で、ヨシエ等は歩き出した。
「毛主席か、どんな方だろう。互いの腹の探り合いだから、言動には気をつけないと」
そんなことを思いつつ、周囲を見回してみると、段々畑があり、又、池では、夏場にはアヒル等も飼われているとのことである。城壁の一遇にある城門には、左右に銃を担いだ兵が降り、城門をくぐると、延安の街の中である。
一行はさらに歩いて、あるヤオトンの前に着いた。崖の壁面をくりぬいて造られた住居で、かまぼこ型の半円形の正面玄関であり、その一遇に戸がついている。
呉が中国語で何かを言い、戸を開け、ヨシエ等一行を招き入れた。
戸を入った途端、ヨシエは眼を見開き、息を吞んだ。
大きな円テーブルに、沢山の豪奢の料理、それに酒瓶。それこそ、初めて見る光景である。
驚いているヨシエに、呉が
「どうぞ」
と言い、円テーブルを囲む椅子の1つに座るように、促した。
「ありがとうございます」
ヤオトンに入った人々は、それぞれ各自の席に着いた。円テーブルの奥にいる人物について、ヨシエの隣に座った呉が言った。
「毛沢東主席です」
「この方が」
ヨシエにとっては、初めて見る大人物というべき人物であった。
毛沢東は微笑し、何かしら余裕のある表情のようである。しかし、ヨシエの方は緊張で少しく、身体が固まってしまった。
各自が席に着いたところで、毛沢東の脇にいる男性が起立し、言った。
「それでは、中国共産党とソ連共産党の友好、並びに、反ファシズム、国際共産主義運動の前途を祝して、乾杯!」
出席者は一斉に、自らの杯の酒を飲み干し、ヨシエもそれに倣った。なお、中国語での音頭での内容は、呉がヨシエに日本語で通訳した。
ヨシエは酒が飲めないのではない。しかし、強い酒に早速、身体がふらついた。
「大丈夫ですか?」
呉が声をかけ、気遣った。
「ええ、大丈夫です」
しかし、酒が入ったことで、それまでの緊張が切れ、食欲がわいて来たらしい。ヨシエは豪奢な料理に、
「いかん、いかん、言動に注意しないと」
と自戒しつつも、箸が進んだ。
「同志クツーゾネフ、どうですか、日本で新政権としての共和国の閣僚には、どんな人物を抜擢しようと考えていますか」
呉から、早速、今回の任務についての質問が来た。
「どうでしょう。天皇主義者やら、ファシストでは困りますし、私もこの件では初めてのことですので、分からないことも多いですね」
これはある意味、ヨシエの本心ではあるものの、所謂
<月並み>
な表現が、腹の探り合いかもしれない相手をかわすのには、最も適当な表現、或いは態度かもしれない。
「日本兵の捕虜にはどんな人が多いのかしら?」
「どうでしょう、色々ですけど、日本に戻れないまま、子kでの暮らしが長くなっている人も多くてね、地元民と結婚して、ここでの家庭生活を持った人も多くなって来ています」
そうした人々は、最早、現地人と言っても良いだろう。おそらく、日本への帰還は敵わぬ人々だろうから、今回の選択肢からは外すべきだろう。
ヨシエはそんなことを考えつつ、箸を進めた。
6-3 進む会話
「捕虜兵の中には、独身の方はいないのかしら?」
ヨシエの質問に、呉は、
「います。そうした者たちを中心に、面接されますか?」
「はい、その線で行きたいわね」
ヨシエの訪問目的は既に、ソ連軍事顧問団等を通して、伝えられていたのであろう。話は比較的、円滑に進んでいるようである。
言動に注意しつつも、豪奢な料理を楽しむヨシエではあったものの、私事として、気になること、つまり、
・カツゾウ クラモト
について聞いてみたいとも思った。
「ここでは、年配の捕虜兵も多いのかしら?」
「ええ、いますね」
ヨシエは、
「倉本勝造さんって方、いらsっしゃるかしら?」
と問おうとしたものの、日本語の発音では分かり難いかと思い、又、中文での発音も分からないので、鞄から、紙とペンを取り出し、
・倉本 勝造
と書いて、呉に示した。
「ああ、この人。いますね。どうされましたか?」
「長らく行方不明になっている私の父かもしれません。もし、会えるなら、会ってみたいんです」
「分かりました」
そう言うと、呉は、円テーブル伝いに、毛沢東はじめ、中国共産党幹部に事情を伝えた。
暫くして、先程とは逆方向に、伝言が伝えられ、
<許可>
が伝えられた。
但し、何等かのトラブルの発生を防ぐため、呉の同席と衛兵がつくことが条件とされた。
「分かりました。ありがとうございます」
ヨシエは礼を言った。
「時間と場所はいつ、どこですか」
「明日です。勝造さんとあるヤオトンでお会いでいるようにしましょう」
「ありがとうございます」
ヨシエは改めて、礼を言った。
結果として、よく飲み、よく食べたヨシエであった。しかし、ここでの酒の強さには参ったらしい。
宴席がお開きになった後、呉に付き添われ、ふらつく足にて、宿舎として当てが割れたヤオトンに入り、そのまま、ベッドに潜り込んだのであった。
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