第5話 KGB本部

5-1 出勤

 新潟で殺人事件が起きたの同時に、地球上のあちこちで人間が活動しているという当然の光景が見られた。

 地球の自転の関係で、日付が日本より遅くなっているここモスクワにて、いつも通り、少佐のヨシエ=クツーゾネフはKGB本部に出勤して来ていた。

 「おはようございます、同志少佐」

 「おはようございます、同志中尉」

 いつもの、タチアーナ=アウエーゾフからの朝の挨拶であった。自身のデスクに着こうとするヨシエに、タチアーナが言った。

 「同志少佐、同志大佐がお呼びです。すぐに行きましょう」

 「了解です、同志中尉」

 ヨシエは自身の荷をデスクに置くと、タチアーナと共に部屋を出た。

 廊下を歩いた2人は、以前にも作戦指揮を受けた、カピッツアの部屋に来た。

 タチアーナが言った。

 「同志大佐、同志クツーゾネフ少佐と参りました」

 「入り給え」

 室内からのカピッツアの声を確認すると、2人は室内に入った。カピッツアは、2人に、彼のデスクの前にある椅子に座るように促した。

 「失礼します」

 そう言うと、ヨシエは、タチアーナと共に、椅子に座った。

 「改めて、先日のハンガリーでの反ソ拠点の壊滅はご苦労だったね。同志少佐」

 カピッツアはヨシエにねぎらいの言葉をかけた。

 「あ、いえ、ありがとうございます。同志大佐。ところで、どういったご用件でしょうか」

 「うむ」

 そう一言、置くと、カピッツアは状況を説明し始めた。

 「以前にも説明したように、今年、既にソ日中立条約の有効期限は切れていて、ソ連邦としては、対日宣戦も可能な状況にある。これは既に承知していると思う」

 「はい」

 「ただ、対日宣戦にあたって、口実がなく、やはり、宣戦できないのが、現状だ」

 無論、それも、ヨシエにせよ、タチアーナにせよ、承知済みである。そこで、

 <対日宣戦>

についての口実が必要なことについて、説明があることが予測できた。

 「来年、そう、1957年には、ソ連邦としては、対日作戦を発動したい、と思っていてね。これは既に赤軍首脳部にても、計画立案がなされている」

 <口実>

の前に、具体的な作戦時期の説明がなされる格好となった。

 「そして、単に侵攻するのみならず、その後の親ソ政権構築に向けた具体的な人選が必要になるわけだ」

 カピッツアは机上にて、手を組みつつ言った。

 「しかし、1922年、コミンテルンの指導の下、成立した日本共産党は、その多くが日本の権力に弾圧されて、党の幹部の多くは獄中だ。彼等が自身で革命を起こすことは期待できないし、まして、政権樹立等は全く期待できない。それが現実だ」

 ヨシエは、上司としとのカピッツアの説明を聞きつつ、日本での生活を思い出していた。優秀ではない学生であった当時の倉本芳江にとっても、

 <御維新>

 <御真影>

等、天皇についてのものは、ことのほか、厳重に扱わねばならないものであったことは、それこそ、厳重に記憶に刻まれた記憶だった。否、日本の

 <社会>

を貫く

 <真理>

であったであろうか。或いは、今なお、そうした性格のものなのであろう。矛盾だらけの日本の

 <社会>

であり、その矛盾故にこそ、当時の倉本芳江は、その

 <社会>

を棄てねばならなかった、つまり、祖国・日本棄てなければならなかったのである。

 貧富の差、女性差別等々を含めた

 <生活苦>

からの脱出であった。しかし、それでいて、その矛盾を

 <社会>

に対し押し付けている現行の体制の頂点にある

 <天皇(制)>

を何かしら尊崇している面があるのも、日本という

 <社会>

の現実であった。現行の体制に苦しめられながら、現行の体制の中心的存在をある種、支持するという大いなる

 <矛盾>

をはらんでいる、という状況にあると言えよう。そして、矛盾ではあるものの、日本は、<天皇(制)>

を何かしら尊崇している社会であるがゆえに、結党当初から反<天皇制>を主張していた日本共産党は、<社会>に受容されない側面があったとも言えた。

 以上のような現実を踏まえつつ、ヨシエは思った。

 「だけど、それじゃ、日本共産党が支持されないとすれば、日本での親ソ政権はどのように樹立されるのかしら?」

 既に、ソ連の一員であるヨシエは、しかし、内心、作戦遂行を危ぶまざるを得ないのであった。


5-2 橋頭堡

 「同志大佐、それでは、日本での親ソ政権はどのように構築されるのでしょうか」

 隣のタチアーナが口を開いた。これは、今まさに、ヨシエが知りたいと思っていたことである。

 「うむ」

 カピッツアは一言、言うと、

 「実は新潟や札幌の駐日総領事館に、日本国内の反政府組織を名乗るビラ、これは、勿論、日本語で書かれたものだが、その≪勢力≫からの支援要請を受けた、という形で、対日上陸作戦を実施、という流れになると思う。この≪勢力≫は、我々、ソ連側で作った架空の勢力ではあるものの、対日宣戦、侵攻の口実とされるはずだ」

 「なるほど、口実がなければ、作ってしまおう、というわけね」

 ヨシエは心中にて、カピッツアの説明を確認した。

 カピッツアは説明を続けた。

 「日本国内に、新政権、多分、その国名は、例えば≪日本人民共和国≫となるのだろうが、新しい人民共和国が、資本家の追放による労働者の解放、地主の追放と小作人の解放、女性差別を定義している家制度廃止による男女平等と女性の地位向上、旧体制を支えていた特高警察、憲兵等の処分等を実施すれば、日本人民の多くは、それこそ、新しい共和国に魅力を感じ、それこそ、

 ≪社会≫

の側から、これまでの大日本帝国を崩壊させる動きが出てくるかもしれない。そうすれば、極東でのソ連邦の立場はかなり安全になることが期待できる」

 そう説明した上で、カピッツアは言った。

 「今、我々が、それ故に為すべきことは、日本に赤軍を上陸させ、橋頭堡を具体的に確保し、親ソ政権を支援しなければならない。これには、先程の新潟、札幌等が予想される」

 作戦の輪郭は大体わかった。では、一体、何をすればよいのか?

 「では、我々は何をすべきでしょうか、同志大佐」

 ヨシエはカピッツアに問うた。

 「延安に飛んでもらいたい。それも近日中に」

 「エンアン?」

 ヨシエにとっては耳慣れない地名であった。

 「中国共産党の根拠地がある地区ですね。同志大佐」

 答えは、隣のタチアーナから出た。

 「その通りだ」

 タチアーナの答えは正答であった。

 「先の日本のアジア侵略が一応の成功をおさめてしまったので、毛沢東元、中国共産党首脳部もなかなか、延安から出られずにいる。以前、毛沢東らの中国共産党首脳部は、同じ中国国内の政治勢力でありながら、彼等と敵対していた中国国民党に追われて、瑞金から延安まで、≪長征≫と称して、西部に逃亡せざるを得なかった。我々ソ連邦としても、現実の外交関係としては、対日作戦の必要性ということもあって、中国国民党の中華民国政府を承認せざるを得ない状況ではあったものの、官僚と将軍がひどく腐敗しており、大日本帝国が崩壊して以降としつつある現在、最早、国民党政権は利用価値はなくなりつつある」

 カピッツアはそのように説明した上で、更に説明を続けた。

 「延安の中国共産党は、毛沢東の一元支配が完成しており、又、党員たちも国民党に比べて、清廉で、士気も高い。自給自足というやり方が、簡素ながら、うまくいっていることもあり、中国国民党の中華民国とは、半ば、別個の政権を築くことに成功している」

 カピッツアの話を聞く限り、中国共産党は、なかなか、良い政権のようである。

 「但し、リーダーの毛沢東は、中国共産党の主だった対立者、特に、親ソ派を粛清する等して、自身の一元支配を確立するに至った。故に、中国共産党が、中国全土の新政権を為し得ても、それが、我々ソ連邦にどのように影響するかは予測しがたい面もある」

 以上は、中国、すなわち、大日本帝国では<支那>と呼ばれ、日本の侵略から未だ脱し得ていない巨大な隣国の内情であった。

 「場合によっては、ユーゴスラビアのチトーのように、共産政権とはいえ、我々に対立し出すかもしれない」

 既に、ソ連邦という

 <体制>

と一体化し、そうでなければ、存在し得ないと思われる

 <個人>

としてのヨシエのことである。ソ連の立場はヨシエの立場でもあった。ヨシエは問うた。

 「それで、延安で何をすべきでしょうか、同志大佐」

 「うむ、現地の捕虜日本兵の中から、≪日本人民共和国≫の将来の閣僚として、見込めそうな者を人選して欲しい。延安の現場には、日本共産党の亡命者が組織した再教育組織が、日本兵の再教育にあたっている。その中から、使えそうな者を選び出してもらうというのが、同志少佐、君の仕事だ。少なくとも、将来の極東でのソ連の立場のために、第一歩の橋頭堡を築くという重要な任務だ」

 「分かりました、同志大佐。で、あらためて、出発は何時でしょうか?」

 「ここ1週間以内だろう。急な話だが、宜しく頼む」

 「了解です、同志大佐」

 「では、我々は元の職場に戻っても良いでしょうか?同志大佐」

 タチアーナが問うた。

 「うむ、結構だ」

 「失礼します」

 2人は椅子から立ち、カピッツアの部屋を出、いつもの部屋に戻るべく、先程の廊下を逆に歩いた。

 「急な事でしたね、同志少佐」

 「そうね、でも、これも仕事のうちよ」

 「御主人、また、寂しくなってしまうんでは?」

 「お互いに、KGBと軍の将校よ。分かり切っている話。それに、私が無事に戻れば問題なしよ。ドジで間抜けな私でも、ヤワじゃないわよ」

 ヨシエは、或いは、これから任地に向かう自身に、

 「しっかりせよ」

と注意を促したかったのかもしれない。

 「同志少佐はお昼を先にどうぞ。私が他用があります。ついでに、今回の件で必要な書類があれば、お持ちします」

 彼女等2人は廊下の途中で分かれた。


5-3 確認

 「同志少佐、資料をお持ちしました」

 タチアーナは、昼食後、自身のデスクにて、いつものように事務作業をしていたヨシエに声をかけた。

 <資料>

は、1冊の厚手のファイルであった。

 「ありがとう。同志中尉」

 近日中に、延安行きの指示が来るだろうから、このファイルを優先的に検討せねばならないであろう。ヨシエはそれまで見ていた資料を片付けると、タチアーナが持参してくれたファイルに目を通し始めた。

 ロシア語で書かれた序文を読み、さらに、ページを繰った。やはり、同じく、ロシア語での説明があり、捕虜となって、現在は延安にて暮らしている元日本軍将兵の資料となっていた。

 資料には、まず、当然のことながら、彼ら各々の氏名があった。そこに、出身地、応召前の職業、当時の年齢等が記載されていた。

 「いろんな人々が大日本帝国の為に動員されて来たんだね。みんな、いろんな人生等があったんだろうに」

 資料の具体的記述が、まさに、そうした事実を彼女に語り掛けていた。しかし、そうした各

 <個人>

は、軍という巨大な組織にては、単なる

 <兵員一名>

でしかないのである。これは、主体性の抜けた

 <部品一個>

でしかなかった。

 ヨシエは、心中にて、そんなことを思いつつ、かつて、外郭要塞にて橋田を殺した時のようには精神的には動揺はしていないようなのである。自身もソ連の一員として、ハンガリーでも日本側関係者を殺害する等、

 <作戦>

の名の下、現実に殺人に手を染めてしまっているからかもしれない。

 とりあえず、半ば漫然と、資料に目を通し、ページを繰っていたヨシエではあったものの、あるページを繰った際、

 「!?」

と、一瞬、何かに気づき、繰ったページをすぐに戻した。

 「これって」

ヨシエは思わず、心中にて声を発した。ヨシエは、改めて、そのページを注意深く読んでみた。名簿の中に


 ・カツゾウ=クラモト


とあった。

 ヨシエは、自身が十代のころ、応召され、中国戦線へと向かった父と既に20年前後、会っていない。しかし、自身の父の氏名が


 ・倉本 勝造


であることは、勿論、覚えていた。氏名が気になったヨシエは、半ば、表情を変え、


 ・カツゾウ=クラモト


の説明について、のめりこむように読み込んだ。


 ・カツゾウ=クラモト

 

 日本の北関東○○県××村出身。応召前の職業は小作農。妻と娘が1人。華北での作戦中、八路軍の捕虜となり、その後、延安に移送され、今日に至る。


 以上の記述は、ヨシエその人の自身の実家そのものではないか。ヨシエは、思わぬ発見に、心中にて叫んだ。

 「お父さん、まさか、延安で生きていたわけ?」

 隣席でいつものように作業にあたっていたタチアーナが声をかけた。

 「どうしました?同志少佐」

 タチアーナとしては、ヨシエの表情が大きく変わったのを見て、不審に思ったらしい。

 「あ、いえ、何でもないの。同志中尉、あなたも仕事中なんだから、仕事なさい」

 タチアーナはヨシエより、2階級下である。しかし、だからと言って、これまで、タチアーナに上官のような態度をとったことはなかった。

 しかし、今日は流石に、ヨシエの心中に衝撃の走るものがあったと言わざるを得なかった。

 「今回の延安行きで、改めて、自分自身についても分かるものがあるかもしれない」

 心の動揺を抑えつつ、ヨシエはデスクに向き直った。

 延安行きの辞令が下ったのは、予定通り、その数日後、1週間以内のことであった。

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