第3話 翌朝
3-1 悲鳴
「今日もいつも通りか。しかし、冷えて来たわね」
当然の如く、帝都・東京のみならず、大阪でも、東北でも、北陸でも、中四国でも、九州でも、新たな朝の始まりである。ただし、今日も昨日の延長のように思われる。それが
<日々の生活>
というものであろう。
19歳の新潟の女性・門脇道子は自宅で目を覚ました。門脇家は、父・淳一が巡査であり、家そのものが駐在所になっているのである。
日本全国での経済が苦しくなる中、それでも、日本国内の
<社会>
は、何とか、秩序あるものとして保たれていた。警察という治安維持の担い手が何とか、頑張っているからあろう。というより、<治安維持>という <日々の生活>を為しているからである。
とは言うものの、門脇家でも、配給物資だけでは、生活物資が足りない時には、闇物資に手を出さざるを得ない状況であった。それが
<日々の生活>
であった。
本来、警察は、闇物資のような違法な物資を取り締まらねばならない立場である。しかし、彼等警察関係者も、闇物資に頼らねば、生活できず、それ故に、闇物資があってこそ、つまり、違法状態があってこそ、治安会が維持できるという矛盾した状況にあった。
「さて」
道子は、布団から身を起こすと、浴衣を普段着に着替えた。
「お父さん、お巡りさんとして、夜勤、大変だったでしょう。外も冷えて来ているし、お茶でも持って行ってあげないと」
道子は、家の中で沸かした湯を茶葉の入った急須に入れ、茶を作った。そこに、母・麻衣子も起きて来た。
「あら、お母さん、お早う」
「道子、そのお茶」
「お父さん、おまわりさんとして、夜勤、お疲れだっただろうから、お茶を持って行くの」
そう言うと、家族の生活の空間たる居間から、父・淳一が勤務している駐在所としての道に面してる場所へと、湯呑を盆に載せ、道子は歩いて行った。
「きゃあ」
次の瞬間、しかし、麻衣子の耳をつんざくような悲鳴が<駐在所>の方から聞こえ、湯呑が割れる音が聞こえて来た。明らかに娘・道子の声であった。
麻衣子は、思いもよらぬ落雷のような悲鳴に度肝を抜かれた。とはいえ、すぐに、草鞋を履いて、道子の後を追い、<駐在所>の方向に向かった。
「一体、何が?」
とにかく、何があったのか、と道子のもとへと急いだ。すぐ近くの距離なのに、長距離を走ったかのように息せききった麻衣子は、
「ちょっと、道子」
と声をかけようとした。しかし、その瞬間、麻衣子も又、顔から血の気が引き、声を失った。同じく、顔色を失い、小刻みに震えている道子の脇で、夫・淳一が背中をナイフで刺され、制服姿のまま、事務机に伏せて、倒れていた。背中は血まみれで、血が床に滴っていた。既に死亡しているのであろう。
大東亜戦争の勝利以降、少なくとも、門脇家で、そして、その周囲でも、一定程度は、保たれていたはずの
<平和>
が破られたのであった。
先程の道子の悲鳴は、思わず、かなりのボリュームだったらしい。不審に思ったのか、近所の人々が集まって来た。
「どうしました、朝から?」
近所の男性が声をかけて来た。しかし、次の瞬間、その男性も顔色を失った。おそらく、初めて見る凄惨な殺人の現場であろう。
「人殺しだ!」
男性は思わず、叫んだ。
「人殺しだ!」
の声を聞きつけてか、周囲の近所の人々が続々と集まり出した。
「駐在さん、一体・・・・・」
別の男性が声を震わせた。
先の男性が言った。
「とにかく、他の警察の方に来てもらいましょう」
彼は、駐在所内の電話から、電話の脇にあった
<新潟県警本部>
と書かれた電話番号に電話した。
「あ、もしもし」
「はい、県警本部です」
「あ、あの」
「はい」
初めての殺人の目撃だからか、男性はいざ、電話で状況説明となると、どうしても声が緊張で上ずってしまっているらしい。
気を取り直した麻衣子が、男性から電話をとり、
「すみません、○○地区駐在巡査の門脇純一の妻の麻衣子と言います。夫の淳一が背中を刺されて殺されたんです!」
麻衣子は、死亡している夫を脇目で見ながら、状況を説明した。
「あ、はい、分かりました。現場に向かいます」
そう言うと、電話は直ちに切れた。暫くもすれば、捜査のため、別の警官達が、この場に来るであろう。
3-2 現場
現場周辺には、人だかりができていた。多くは駐在所の周囲にいたものの、第一発見者の道子はまだ、
<駐在所>
のなかにいた。あまりの突然の凄惨さに驚愕しつつも、父・淳一の倒れている傍らに、いわば、無造作に数枚のビラが落ちているのに気付いた。
「何よ、これ」
道子は、そのうちの1枚を手にして拾ってみた。そのビラには、こう書かれている。
≪・我々は、これ以上、生活の苦しみを我慢できない!
・起て、飢えたる人々よ!
・今こそ、天皇権力に対し蜂起せよ!
・自らの手を以て、解放を価値と得るべき時は来た!
・祖国を憂う志ある者たちよ、立ち上がれ!
日本人民革命同盟≫
道子自身は、然程、政治に詳しいわけではないし、この大日本帝国では、未だ、女性参政権さえ実現していない。又、彼女にとっての
<政治>
と言えば、地区の隣組主催の軍事教練-と言っても、竹槍くらいだが-あるいは、新聞等で報じられている所謂
<国際情勢>
の記事か、あるいは各紙が述べる
<大東亜共栄圏>
を正当化せんとする論説くらいのものであった。
しかし、そんな道子であっても、このビラが、何か重大な
<政治的主張>
を持つものであることは理解できた。
「お母さん、これ」
道子は、麻衣子にビラを手渡した。ビラを目にした麻衣子も言った。
「何よ、これ」
そう呟いたうえで、
「天皇権力に対して蜂起せよ!ってこれ、どういうこと!?」
「天皇権力に対し蜂起?陛下に逆らうようなことを主張するなど、どこの誰が言うか!非国民の口にすることだ!」
地区の在郷軍人会の会長・永田辰一が怒鳴った。
「陛下のお心とお立場を何と心得る。我が皇国・大日本帝国は、陛下を中心とした一大家族として、まとまって来たからこそ、鬼畜米英を打ち破り、今日の大東亜共栄圏がある。その基本をもわきまえない非国民はどこの誰だ!」
と、あたかも、この時点で、駐在所周辺の群衆の中に本件の
<容疑者>
がいるかのように怒鳴った。
永田は、地区の隣組会長と親しい仲にあるせいか、食料等、配給物資を多めには配分されているらしい、という噂があった。当然、地区の
<社会>
をなす地区の各<個人>たる住民諸氏からは、心中では怒りと憎しみの対象であった。しかし、現行の体制の末端を担う永田に嫌われたら、どんな目に遭わされるか分からない、とりわけ、隣組からの配給の削減にでもつながったら、という場合によっては生死に直結する恐怖から、各<個人>は怒り等を表わさず、というより、表せずにいたのである。
口には出さなかったものの、周囲の人々は不快な予測をした。
「おそらく、このままでは、永田の≪叱責≫とでも言うべき怒声演説が続くんじゃないか・・・・・」
それを察してか、群れの中の1人の女性が言った。
「永田さん、なるべく、現状を維持しましょう。皆でわあわあ言って、何かしら現場が荒れたら、警察の捜査も難しくなるでしょうから。永田さんには、この地区での皇国を担う指導者として、皆さんに模範を示していただきたいんです」
このように、権力者的立場おだてられた永田は、それに満足感を得たからか、静かになった。
そして、女性は、
「奥さんと道子ちゃん、とにかく大変でしたね。今、言ったように、捜査に差し支えるかもしれないから、お2人も、とりあえず、外に出ましょう」
そのように言って、道子と麻衣子の2人を駐在所の外に出るように促した。
2人は外に出、駐在所内の
<人物>
は死者の巡査・門脇純一のみとなった。
3-3 現場検証
30分ほど、経過しただろうか。警察の車が現場付近に到着した。制服姿の数人の巡査と私服の男性刑事2人が降りて来た。
「すみません、現場検証に来ました。道を開けてください」
そう言うと、人々をかき分け、まず、巡査たちが駐在所内に入った。
淳一の死体を見た1人の巡査が言った。
「門脇さん、あんた」
それっきり言葉が出ない。この若い巡査は、淳一の後輩だろうか。麻衣子がその巡査に問うた。
「すみません、主人のお知合いですか?」
「はい、御主人の仕事上の後輩の柴田健生と言います。仕事では、御主人に色々とお世話になりました。それなのに、こんなことになるなんて」
そう言うと、
「この度は、本当に御気の毒でした」
「いいえ、お心遣い、痛み入ります」
そう言うと、麻衣子は少し、涙ぐんだ。
続いて、2人の私服刑事が、群れをかき分け、駐在所に入った。そのうち、1人が、警察手帳を見せると、麻衣子に言った。
「特高警察の者です。私は警部の原田卓蔵、こちらは同じく、特高課警部の元田毅」
原田は、威圧感のある態度で自己紹介した。
特高警察は、<社会>、言うなれば、
<庶民>
にとって、権力の側からの具体的な姿としての
<恐怖>
であり、又、国家権力の中のエリートでもあった。先程の原田の威圧的な態度がそれを象徴してもいるようであった。
エリートは、庶民にとっては縁遠い存在であるものの、同時に最も、身近な抑圧者でもある。できれば、関わりたくない存在である。
そうした事情もあり、麻衣子には、殊にその存在と言動が威圧的に感じられたのかもしれない。
「あ、はい」
麻衣子はどのように反応すべきか分からず、困惑の表情で一言、返事をした。但し、現場で見つかった物は、捜査関係者に渡さなければならないだろう。
「娘が、こんなものを」
麻衣子は、道子から渡されたビラを原田に渡した。
「うむ」
そう一言、原田が言うと、隣の元田が言った。
「最近、思想犯が関連していると思われる不審な事件が起きているようでね、そこで、本件も我々特高課が随伴して来たんです」
駐在所の周囲に集まってきている
<庶民>
にとっては、どんな
<不審な事件>
が起きているのか、については、素人だから分かりようがない。しかし、先程の元田の台詞は、特高の側が、いつでも、
<社会>
の動きをお見通しである、と言っているようにもとれる発言であった。元田の発言は、改めて、人々の心中に、何というか、重石のようなものを乗せたと言ってもよかった。それは、
「(天皇)権力に対する批判は許さない」
という無言のメッセージと言ってもよかった。
原田が、既に同行している巡査の1人に、更に数人の警官を応援として呼んでくるように指示した。現場での遺留品等を回収し、又、殉職警官としての門脇淳一の遺体を回収せねばならない。既に季節は冬になりつつあるとはいえ、放置すれば、死体は腐敗するだろう。
応援の警官として、更に数人の巡査がやって来た。担架に門脇淳一を乗せると、
「すみません、通ります」
と言って、群衆をかき分け、外に停めてある自動車に死体を収容した。警官達は、敬礼して、殉職した門脇淳一を見送った。
そして、遺留品を回収し、麻衣子や道子に、当日の事情等を聴取した。
「御主人は、その日は夜勤というか、駐在所でそのまま勤務されていたんですね」
「はい、私等は、既に奥で寝ていました」
「なるほど、その間にご主人は殺害されたわけか」
原田は麻衣子や道子からの証言をメモに取った。そして、言った。
「先程、言いましたように、最近、色々あって、不審な事件が起きていますからね」
麻衣子と道子は、やはり、突然に発生した犯罪に巻き込まれたこともあり、
<特高>
という権力に恐怖してなのか、何を言って良いのか、半ば分からない状態で、聴取に応じているようであった。
「とりあえず、状況は分かりました。また、何かあれば、ご協力願います」
相変わらず、威圧感のあるというか、有無を言わせぬような響きがあった。実質的に、
<ご協力>
では、なく、一種の
<動員命令>
であろう。
「では」
そう言うと、原田と元田も、群衆をかき分け、警察の自動車で引き揚げた。
それを見届けた駐在所周辺に集まっていた群衆も自然と引き揚げていき、自然解散となった。麻衣子と道子もとりあえず、自宅に戻った。
彼女等の心中には、
「特高の側から厳しくとがめられなくてよかった」
という安堵の気持ちがあった。自然解散した群衆諸氏も多くは同じだったかもしれない。
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