第4話 僕に求められていること
10月1日、僕は緊張でほとんど眠れないまま朝を迎えた。
二週間ほど前に制服の仮縫いと顔合わせのためにもう一度芙蓉館に行ったが、余りの場違い具合に更なる不安でいっぱいになった。図書館でマナーブック、敬語の使い方の本を読んでみたが、何もかも間違っているような気がする。
今まで10時半出社だったから、朝のラッシュがこんなにすごいと知らなかった。1時間前につくように家を出たが、人の波で思ったように動けず、最後はかなりダッシュしてなんとか30分前に辿り着いた。
正門を入って建物の左端に勝手口があるから、ベルを鳴らすように言われていた。まだICカードを持っていなくて自分では入れないからだ。
荒い呼吸を鎮め、深呼吸してからベルを押すと、間もなく中村さんが迎えに出てくれた。
「おはようございます。30分前にいらっしゃるとは、よい心がけです。」
中村さんは相変わらず一部の隙もない。僕は深々と頭を下げた。
「おはようございます。よろしくお願いします。」
ロッカールームに案内されてまず制服に着替えた。金色の髪とピンクの肌が黒いスーツに映えて、我ながら大人っぽく見えた。
「レイズさん、鏡を見て下さい。」
中村さんはスッと近寄って流れるような仕草で僕の髪を梳かし、上着の肩の位置を合わせ、襟を正し、ネクタイの歪みをチェックし、少し伸びた爪を切り、洋服ブラシで肩に落ちた髪や埃を払った。そして、
「全て整え終わってから上着に洋服ブラシをかけて着て、肩を合わせると合理的ですね。」
と一言言った。
僕は、かなり度肝を抜かれた。整えてもらうと、僕は信じられないくらい「ぱりっ」とした。服を着ただけでダメダメすぎてしまうとは。
「あ、ありがとうございます。」
軽く固まったあと、慌ててメモを取ろうとした。字がぐちゃぐちゃになった。
「メモは必要ありません。鏡をご覧になって、気になるところが無いようにして下さい。お客様がご覧になって安心できる清潔感があればいいのです。」
鏡の中の自分は、かっこよかった。そう思う自分にちょっと照れた。中村さんは、終始にこにこしていた。
「できなくて当然です。普通の場所ではここまでしません。今日一日、まずは見学なさって下さいね。」
フロントは元々中村誠司さんと白瀬真澄さんの二人体制で、週三日はどちらかが一人になる。僕は研修生だから数に入っておらず、トレーナーの中村さんが出社する日にサポートで入る。夜間はさらに二人別にいて、二交代で交代勤務している。
小さなホテルでそれほど頻繁に人が来ないから、確かに一人でも十分な感じだ。
中村さんは、フロントのカウンター下にあるフォルダを取り出して見せてくれた。
「レイズさん、ここに来客予定表がありますから、こまめにチェックして下さい。そろそろ村上様が到着されます。いらしたら、一緒に参りましょう。」
まもなくチャイムが鳴った。門に車が到着したのだ。車寄せに向かう。
僕は中村さんの後に続いて歩いた。カーペットがふかふかで歩きにくいから、僕はよたよた付いて行った。
中村さんは車寄せに立ち、後部座席のドアを丁寧に開けて、丁寧に一礼し、車から降りる村上様の手を取った。
「村上様、お待ちしておりました。」
村上様はすこし季節を先取りしたツイードの上着と光沢のある品のよいシャツを着ていらして、とても落ち着いた紳士で、目映いほどの風格のある方だ。
中村さんはトランクが開く音がするとすかさずそちらへ向かい、スーツケースを取り出した。いつの間にはめたのだろう。手には白い手袋を付けていた。僕は何をしたらいいか分からないから、おどおどして行動をまねた。
自分でも不格好だったことには自覚がある。自分がどの位置に身を置けばいいのかも定かではなく、ついちょろちょろしてしまったのは我ながらまずかった。
中村さんの迷いのない身体の動きを何とか真似ようとするほど動きがぎこちなくなり、どんどん深みにはまっていくのを感じた。
村上様は常連のお客様なので、フロントには寄らず、直接お部屋にご案内し、かわりに運転手の方にお手続きして頂く。
「見ない顔だね、新人さんかい?」
お部屋へ向かう途中、村上様は余りにおどおどした僕を気遣って下さった。
「はい、今日から研修生としてフロントで勤務しております。」
「日本語が上手だね。どういうご縁でここに来たの?」
この外見のせいで何度同じことを聞かれ、同じ答をしただろう。つい苦笑した。
「はい。実は日本語しか話せません。支配人にお声をかけていただいて、ここに参りました。」
「杣山さんのおめがねに適ったのか。それは大したものだね、期待していますよ。」
「ご迷惑をお掛けしないように頑張ります。」
お部屋にご案内すると、窓辺のテーブルにお茶が用意されていた。窓からは階下の庭園が一望できる。中村さんが先に部屋に入り、村上様をお通しした。
「窓を開けましょうか。」
「頼むよ。」
開け放たれた窓から、爽やかな風が入ってきた。
中村さんは村上様を席にご案内し、流れるような美しい動きでポットのカバーを外して美しくお茶を注ぎ、てきぱきとスーツケースをロッカーに仕舞った。その間僕はかなりでくの坊に突っ立っていた。所在なく、情けなくなってきた。
「ああ、ここに来ると本当に安心するよ。ありがとう。」
村上様が何もしていない僕を呼んで、お札を下さった。なんと1万円!思わずお返ししようとして中村さんに止められた。そうだ、ここはホテルだった。お心づけは感謝してお受け取りし、サービスでお返しするのだ。
「村上様、いつもありがとうございます。優作さんがご来館を楽しみにしておりましたよ。お庭にお出になられますか。」
村上さんは、それはそれは嬉しそうに笑った。
「一息ついてから下りるよ。」
横に立っていただけで体中が痺れるくらい疲れた。何の役にも立たない自分にがっかりし、中村さんの域に到達するのは一体いつなのか、果てしなすぎて気が遠くなった。
中村さんには愛想を尽かされたと思ってびくびくしていたら、中村さんは存外ニコニコとしていらした。フロントに戻る道すがら、注意を受けた。
「レイズさん、私を真似ようとしていますね。真似ようとすると動きが一瞬遅れて、それを取り戻すために動きが早くなります。真似るのではなく一緒に呼吸しようと思って下さい。心配しなくても、ちゃんと出来ていますよ。」
そう言われて、ぴんとこなかった僕は、かなり間抜けなことを聞いた。
「あの、恥ずかしながら、何が出来ていたのか分かりませんでした。」
中村さんは前を向いたまま静かに答えてくださった。
「村上様は不快に思うことなく、かつ会話を楽しんでおられましたよ。私たちの仕事は決まったことをするのではなく、喜んでいただけるよう快適な空間と時間をご提供することです。レイズさんはそれをよくお分かりです。」
めぐみさんの言葉を思い出した。
「自分に求められていることを考える。」
自分にここで求められていることとは、こういう時にはこうしなければならないってことではなく、何をしたら喜んでいただけるか、楽しんでいただけるかを考えるということなのだ。
為すべきことが腹落ちして、僕の心はちょっと軽くなった。---------つづく
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