第3話 旅立ち
芙蓉館で働く前に、僕にはやるべきことがあった。バイトを辞めると店長に言わなければならない。
店長は沢渡さんと言って、いわゆるカッコいいセレブで僕にとって雲の上の人で、声をかけるのも畏れ多かった。僕のことなんて取るに足らない存在だったことだろう。
だから、辞めると言ったら何と返されるのか不安だった。
ああそう、と引き留められないのは傷つくがまだマシだ。まさかだけど、あまりの存在感のなさに君居たっけ?とか言われるのはかなりつらい。
なんたって、二年半この店にいて、店長とまともに話すのはこれが初めてだった。
予想に反し、バイトを辞めると言ったら店長に心配された。
いつも大人しくて、あまり話したがらないから何か悩んでいるのか気にしていたと。
辞めるなんて、何かイヤなことがあったのかと。
店長は、僕のことなんか関心が無いのだと思っていた。
事務的なこと以外ほとんど話したことはないし、僕が余り文句を言わないから、どちらかというとみんなが嫌がるような時間にシフトを組まれていた。
どんなにがんばっても感謝されたり褒められたりすることはなかった。
僕のことなんか関心がなくて見ていないようだった。
だから、僕なんかいてもいなくてもいいのだと勝手に思っていた。
「渉くん、君はちょっと近寄りがたいところがあってあまり話さなかった。嫌なことがあったのなら話して貰えないか。」
店長に近寄りがたいと言われて驚いた。そんな自覚がなかったからだ。
「嫌なことなんてありません。実は、ここの常連客の方にうちで働かないかと誘われて、そこで働くことに決めました。」
僕は正直に話した。それがめぐみさんである事も。
店長に驚かれた。
めぐみさんがこの店によく来ていることは知っていたようだった。知り合いというわけではないが、彼女はこの業界においてなかなかの有名人であるらしく、知らない人はいないらしい。
「杣山さんはやっぱり目ざといな。あっさり一本取られたよ。」
店長はマガジンラックから業界専門誌を取り出して見せてくれた。それにはめぐみさんが名だたる政財界の大物と対談している記事が載っていた。
「彼女だから、こんな大物との対談記事が取れるんだ。」
対談に添えられためぐみさんのプロフィールを見て驚いた。
歴史上の人物として日本史で習った人物の曾孫で、二十代の頃は有名美術館でキュレーターをしていたらしい。どおりで抜群のセンスだ。
「知りませんでした。雲の上の方だったんですね。」
「杣山さんのお誘いならいい話だね。そちらに行った方がいいと思う。彼女はビジネスの他、芸術や料理、園芸と多方面に目利きで、各界の有名人をうならせるすごい人だよ。芙蓉館はご縁を頂いたことがないけど、チャンスがあれば是非一度伺いたい。」
そう言われて、改めて自分がつかんだチャンスの大きさを知った。
「あの、退職は許可していただけますか。」
「もちろんだよ。君はめぐみさんのところで勉強すべきだよ。」
こうして、二年半働いた僕の退職は無事認められた。
僕は初めて店長に心の内を打ち明けた。
「実は、もう決めたこととはいえ、ちゃんと通用するか自信がないんです。」
店長はにっこり笑って、僕の肩に手を置いた。
「渉くんはいつもお客様に気配りしていただろう?分かってたのに何も言わなくてごめんな。」
渉は店に飾られた植物をいつも手入れしていた。お客様が快適に過ごせるように隅々まできれいにするし、こまめにお客様に目を配っていて、応対もずば抜けて丁寧だった。
渉目当てにやってくる客は、外見目当てもいたが、心遣いに感動した客も多かったのだ。
「当たり前のことしかしていません。」
「あまり話したことなかったけど、ちゃんと見てたつもりだよ。君は実力を認められ、スカウトされたんだ。自信を持って。」
店長は、僕の肩に置いた手にぎゅっと力を込めた。
最後の日、店長は茶色い革の表紙の小さなアルバムをくれた。
ここに仕舞いたくなるくらい大切な思い出がたくさん出来るようにと。
気障ですね、と言うと、二年以上も一緒の店にいたのに知らなかったのか、と笑った。
残念な僕は、店長がもっと打ち解けられた可能性のある人だったことに、別れるときになって気づいた。
ちゃんと見ていなかったのは、店長ではなく、僕の方だった。
めぐみさんの言うとおりだった。マインドセットさえ正しければ、僕はこの店でも輝く未来を手に入れられたかも知れない。そうならなくしていたのは僕だったのだ。
でも、決めたから、僕はここを出て行く。
「お世話になりました。たくさん貴重な経験をさせていただきました。」
僕は、誰もいないロッカールームで一礼し、カフェを後にした。
--------つづく
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