第2話 ふたつの道
めぐみさんは僕にソファに掛けるよう勧めた。
「さて、駅から遠かったでしょう?まずはお茶でもいかがかしら。誠司さん、2つ、お願いできる?」
「かしこまりました。」
シックな黒のツーピースにアンティークなエメラルド色のブローチをつけためぐみさんは、いつもより格段に重々しい品格があり、近寄りがたい。何を話したらいいのだろう。
しばらくまごまごしてから、さっき見た庭のことを聞いてみたくなって、口を開いた。
「めぐみさん、芙蓉坂がこんなすごいところだなんて知りませんでした。それに、門からここまで歩いただけで、すごくワクワクしました。あの木立と庭の植栽、めぐみさんのご趣味なんですか?見たことのない取り合わせでした。」
「ん~、ガーデンデザイナーのアイデアがメインで、ところどころ私とオーナーの希望が入ってるわね。それを実現してくれる優秀なガーデナーがいるのよ。」
「めぐみさんは、オーナーじゃないんですか?」
「ここは高度経済成長期の終わりに某財閥系企業の迎賓館として建てられたの。オーナーはその財閥系企業、私はオーナーにホテルの経営を任されているのよ。ホテルになってから二十年ほど経つんだけど、ホテルになってからここで働き始めたのよ。先代からここを受け継いでからはまだ五年くらいかしらね。」
「廊下を歩いただけで、おろおろしてしまいました。こんなすごいところ、生まれて初めて来ました。」
子供っぽい事を言って呆れられないかとおどおどする僕に、めぐみさんはにっこり笑って続けた。
「とても小規模で、十二室しかありませんけどね。空前の好景気だったころに、贅を尽くして作られているのよ。特別なお客様をおもてなしする事を想定していますから、お部屋も廊下もすごくゆったりした造りだし、装飾も見事でしょう?お金が余ってたのね。水回りとか、ちょっとオールドファッションなんですけどね。うち六室は長期滞在者のサービスアパートメント、あとは紹介制で、決まった方とその関係者しかご利用頂けないホテルです。併設のレストランは外部者をこれも紹介制でディナーだけ受け入れており、ご要望があればレセプションや結婚式にご提供することもあります。閉鎖的ですから、ご縁のない方の方が多いでしょうね。」
余りに自分が場違いなことくらい、言われなくたって分かる。僕は心がモヤモヤするのを感じていた。
『そこにいてくれるだけでいいお飾り。そうじゃなきゃきっとセレブの気まぐれだ。』と、自分の中で誰かがそう意地悪く囁く声がした。劣等感が襲い、落ち着かなくて、手をぎゅうっと握った。
「失礼致します。」
先ほど案内してくれた中村さんがお茶を持って帰ってきた。
芙蓉の花をあしらった瑠璃色の華やかなカップに褐色の紅茶が淹れられていてるのは、まるで芸術品のようで、嗅いだことのないような豊かな香りが漂ってくる。
紅茶って、こんな香りがするのだ。肺全体に染み渡り、心地よい。ここに来てからというもの、いちいち目を丸くして驚いてしまって、なんだか恥ずかしい。
「あの、なんで僕をここへ呼んだんですか。どう考えても僕はふさわしくないし、実力不足です。」
「ふさわしいし、実力があると思ったからよ。それ以上の理由がいるかしら。ふさわしいかどうかは、支配人である私が判断します。」
めぐみさんの言い様は確定的で、説得力があったが、自分が選ばれた理由がやっぱり理解できなかった。もし外見や同情が理由であったなら、オファーを受けてこんなところにのこのこ来るのは、みっともないだけなのではないか。
「お申し出は嬉しいのですが、こんなすごいところでは、おそらく僕は期待されるようなことは何も出来ません。」
「始める前から諦めているんですね。」
めぐみさんがにやっと笑った。
完全に気後れしてまごまごしていると、めぐみさんが先に切り出した。
「誠司さん、ここでのお仕事をオファーされた時、どうお感じになったの?」
「はい、仕事上お付き合いのあった先代からオファーを頂きましたが、全くホテルや接客業とは縁の無いファイナンスの仕事をしておりましたので、正直戸惑いました。一体、先代は私に何を求めておらるのかと。」
「なるほど、誠司さんはここで何が求められるか不安に思われたのですね。」
めぐみさんはティーカップとソーサーを手に持ちながら、柔らかく陽の光が差す窓辺に行き、こう続けた。
「そして、私が先代に言われたのと同じ事を申しましょうね。」
「ここであなたに求められていることを、あなた自身が見つけてください。あなたを必要とする場所はどこかにあって、十分な能力が備わればそのうちそれに気づくことでしょう。まずは手始めに、今空いているポジションで働いて、芙蓉館を知ってみませんか。」
禅問答みたいな言いように、面食らってしまった。
「先代は確かに同じ事をおっしゃいました。いつも同じ事をおっしゃるのでしょうか。」
中村さんはちょっとビックリした顔でそう答えた。
「分かりません。私と誠司さんに対してだけかも知れません。」
「今も探しております。先代が下さった謎かけの答えを。自分の居場所と使命を。支配人はそれを見つけたから、支配人になられたのですね。」
「ふふふ。まだ探しています。自分が何をすべきかを。」
目の前で繰り広げられる二人の会話はとても優雅で、現実じゃないようだった。どう反応していいのか分からなくて、僕はただただ、戸惑っていた。
「渉くん、あなたにも自分で見つけ出して頂きたいのです。何が求められているのかを。皆さんそういう気持ちで働いています。だから、ここのお仕事はクリエイティブですよ。まずはここに居る誠司さんと、フロントのお仕事から始めていただけませんか。想像以上に大変ですが、やってみますか?」
求められていることの次元が違う。何も出来なくてめぐみさんの期待を裏切ってしまうのが怖かった。
平静を装いながらみっともないくらいおろおろしているのを、きっとこの二人は見透かしている。
めぐみさんはカップをすっと傾けて優雅にお茶を飲んで、少しビジネスライクな口調で話し出した。
「そうね、ここは採用基準が高いから、まずはアルバイト研修生としてここがどんなところか知ってもらうわね。もし渉くんがここを好きになって、ここの人達が渉くんを必要としたら正式採用。そうね、当面時給は二千円、土日も営業しているから休みは不定期で週休二日、勤務は九時から五時まで、お昼の休憩は一時間。制服支給です。しばらく様子を見て正式採用となったら改めて待遇を決めましょう。なんて、こんな適当な条件でもいいかしら?バイトだしね。」
時給二千円!今の時給の倍だなんて半信半疑だった。自由になるお金が出来るし、生活に困らなくなる。思わず目を見張った。
圧倒的に今のバイトよりいい条件なのに、僕は決めかねていた。この場所はあまりにも自分の世界と違っていて、恐怖しか感じなかったからだ。
「とてもよいお話なのに、迷うなんてどうかしていると思いますが、正直どうしたらいいか分かりません。」
めぐみさんはふと思いついた顔をして、白い紙に分かれ道の絵をかいて僕に見せた。
「さあ、今渉くんの人生は、道が二つに分かれていますよ。こっちは今まで通りの道、こっちはここに来て働く道、どっちを選びますか?」
一本の線が二つに分かれているだけの絵に、僕はめぐみさんの意図を測りかねた。一体何を問うているのだろう。僕の判断力だろうか。それとも切り返し方で人柄を判断する心理テストのつもりだろうか。
いずれにしても、僕には答えようがなかった。
「条件が分からないのではどちらも選べません。」
「条件とはなんですか?」
「どちらの人生が安定しているかとか、成功しそうとか、やりがいがあるとか。そういうことです。」
「迷うという段階で、条件が拮抗していると言うことではないですか。大差があればそもそも迷いません。どの未来にも、一長一短があるのです。」
「大差ないなら、今まで通りでいいことになりませんか。」
めぐみさんは不安顔の僕を正面に見据え、静かに語った。
「そうね、それでもいいと思います。マインドセットさえ正しければ。」
めぐみさんは面食らっている僕の方につかつかと近寄ってきて、隣りに腰掛けた。
「条件が拮抗しているなら、未来を左右するのは選んだ道の優劣でなく、歩き方です。詳細な条件が付されていても、辿るうちにどんどん条件は変わっていくわよ。日々刻々、小さな変化と選択の連続で、未来はその結果だから。未来は固定されていないのよ。渉くんは今の人生を輝くものにしたいと思って生きているかしら。」
僕は自分の生き方に自信がなかった。一人になったのも、自分のアイデンティティに悩むのも、高校に行かなかったのも、僕にとって逃れることの出来ない運命によるもので、仕方がないと思っていた。
「僕は人生の選択を間違えたのではなくて、生き方を間違えていると言うことでしょうか。確かに今袋小路で、行き詰まっています。」
めぐみさんはちょっと首をかしげて僕を仰ぎ見た。
吸い込まれるようで、僕の心臓ははじけそうにドキドキしていた。
「渉くんはよく頑張ってるわよ。でも、人生の中心にあるのは境遇や運命だと思っていませんか。ここからの人生は渉くんの手の中にあるべきです。運命が渉くんを翻弄するのではなく、渉くんが人生の中心に立って運命を操るのです。このまま生きるなら今のカフェで働くといいわ。今自分を変えたいと思ったら、ここで今までと違う道を歩めばいい。どちらの人生も渉くんのものよ。どちらでも輝くものにできる。」
僕は、自分の苦しみの原因がなんであるかをようやく理解した。僕は運命に自分の人生を支配される奴隷だったのだ。語りかけるめぐみさんの言葉は力強く、僕はただ、圧倒された。
「でも、ここに来てくれる?」
僕は進む道を決めた。でも、選んだわけではない。運命に翻弄される自分と決別すると決めたら、二つあったはずの選択肢は、選ぶ前に一つしかなくなっていたからだ。
今までの道は過去となり、僕はこれから新しい道を行く。そして、選んだ先の人生を自分で作る。
「はい。よろしくお願いします。」
不思議な気持ちになった。
重苦しかった運命から解放されて、身体が浮き上がりそうに軽い。
この高揚感は何だろう。
僕は十七歳にして、初めて自分の人生の中心に立とうとしている。鼓動が耳に大きく響いて、手にじっとりと汗をかいた。-------------つづく
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