気弱な僕がここにいる理由

そがめちゃん

第1話 芙蓉館に行く

 めぐみさんにもらった名刺にあったアドレスは港南区芙蓉坂。大使館や富裕層の邸宅が多く立ち並ぶ、都内有数のハイクラスな町というのはもちろん知っていたが、とんと縁が無くて来たことはなかった。

 Googleマップが示すのは確かにこのへんなのだが、このへんは道の両側に長い塀が続くばかりで目印がなく、また、駅を出てから何度も角を曲がったから方角がおぼつかない。GPSが正しいならば、もう目的地にいるはずだ。


 中に入れそうなところを探していてようやくたどり着いたのは、石造りのレトロな門と重厚な鉄格子の扉。

 扉の向こうに鬱蒼とした木立とその先にキラキラ光って見える庭園、さらにその向こうに石造りの洋館風の建物が見えた。


 やっと見つけた扉は、閉まっていた。

 僕はアルバイトの面接に来たのだが、合っているならばここはホテルのはずだ。しかし、どこにも看板がない。塀の奥に見える建物はかなり大きいがデザイン的に豪奢な邸宅にも見える。

ここに来る前に、インターネットで名刺にあるホテル名を検索したが、一切情報は出てこなかった。新しいか、小さくて無名なのだと思ったが、もしここがそうなら、ちょっと想像と違う。


 Googleマップが間違えているのか、名刺のアドレスが違うのか、それともここなのか。確かめるために名刺にあった番号に電話を掛けた。


「レイズ様でございますね。支配人より承っております。場所は合っております。今鍵を開けますので、そのまま扉を開けてお通り下さいませ。今いらっしゃるのは裏口です。」

 ホテルのバイト候補に対して妙に仰々しい話し方、違和感しかないが、とにかく合っていた。


 鉄格子の扉の鍵はオートロックだったらしく、ガリガリガリッカチッと音を立てた。重厚で威厳のある扉は、見かけによらず軽く押しただけで開いた。


 その日は九月だというのにとても日差しが強かった。木立の下に立つと、木漏れ日の小さな粒がライスシャワーのように降り注ぎ、目に痛い。細かな光が全身を包み、体中がレースのようになった。


 短い木立を抜けると、なに風というのだろう、程よい広さの、色とりどりの花が品よく咲く庭があった。

 薄紅のコスモスと秋明菊、ラベンダー、リンドウ、萩、ナデシコ、サフラン、そして、ここの地名でもあるフヨウ、フジバカマ、カルーナ、ダリア、ジニア、ペンタス、イソトマ、ここまでは名前が分かった。秋の花が咲き始めていた。


 フヨウって、安っぽいと思っていた。こんな風に咲いているとこんなに可愛いんだな、と、思わず立ち止まって眺めた。

 夏と秋のはざま、和洋折衷の取り合わせで、高さも色も様々。なのに不思議とバランスがよく、ガーデナーのセンスがうかがわれる。

 庭の真ん中を貫く石畳の小道を抜けて、建物にたどり着いた。大きな扉を開けると、中は少し暗く、あまりに重厚で品格ある佇まいに、入るのが躊躇われた。

 逡巡していると、先ほど電話で話した男性と思われる方が迎えに出ていて、丁寧に会釈してくれた。


「失礼します。あの、レイズ渉です。支配人の杣山さんはいらっしゃいますか。」

 普通苗字だけ言えばいいのだろうけど、こんな名前だから名前じゃないんじゃないかと聞き返されることがあり、下の名前まで言うようにしている。


「ようこそお越し下さいました。支配人が、いらっしゃるのを楽しみにしておりました。どうぞ、ご案内致します。」

 電話でもちょっと仰々しく感じたあの喋り方。声の主は細身ながらがっしりとして目元の涼やかな、僕にとって父親くらいの年齢の男性で、左胸の金のプレートには、優雅な字体でNakamuraと書かれていた。なんの工夫も飾りもない真っ黒のスーツって、こんなに品があるんだ、とわけもなく感心しながら付いていった。


 案内されて通った廊下は深みのある赤いじゅうたん張りで、毛足が長いから一足ごとにぐっと沈み込む。こんな床は歩き慣れないから、体が微かに左右に傾いだ。中村さんは、僕を気遣いながら、実に美しい足取りで少し先を歩いて行く。

 面接だから、自分が持っている服の中では一番きちんとしていて綺麗な服を着て来たが、ここの雰囲気にはカジュアルすぎて、僕はどう考えても場違いだった。とてもいたたまれない気分になった。


「支配人、レイズ様をお連れいたしました。」

 ノックしたドアの向こうから、聞きなれた声が『どうぞ』と言った。

「渉くん、よく来てくれたわね。」

 開かれたドアの向こうにいたのは、確かに僕がバイトしてるカフェの常連客のめぐみさんだった。

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 彼女の名は杣山めぐみ。一年くらい前から僕がバイトしているカフェに来るようになった常連さんだ。

 すらりとした知的な女性で、いつも散歩の途中といったカジュアルな格好である。リラックスしたふんわり気さくな雰囲気で、いつも、平日の客のまばらな時を見計らったようにやってきた。

 なんとなく話しかけられ、仕事の合間に話し相手をするようになった。自然に、ぽつぽつとプライベートな事まで話すようになった。


僕の名字はRays―レイズ、ファーストネームは渉、

両親ともにアメリカ人でどう見ても外国人だったのになぜか僕の国籍は日本人であること、

そして外見が金髪に青い目なのに、ほとんど英語は出来ないこと、

両親とは死別して身よりもなく、

両親の友人達が気に掛けてくれてはいるけど頼りたくないから、両親がいた時から住んでいる安アパートに一人で住んでいること、

同じ理由で高校には行かなかったこと、

植物が好きで、花の絵を描くのが好きなこと、

父の影響でシェイクスピアやウイリアム・ブレイクといった古典が好きだということ、

音楽が好きだけど習ったことがなくて、でもいつも何かしら音楽を頭の中で鳴らしていること。


 自分のことを誰かに話すのは、得意じゃなかった。

 秘密主義だな、なんて言われて傷つくこともあるが、自分のことを話さないのは自分の考えを否定されるのが怖いからだ。こんなにも自分の事を物語る気持ちになる人と出会ったのは、どれだけ振りだったろう。


 めぐみさんはいつでも僕の言葉を受け止めてくれて、時折僕が気に入りそうなものを差し入れてくれた。美味しい食べ物や、趣味のよいガーデニングの専門書、水彩絵の具、美術館の入場券なんかも。


 僕は十七歳で中卒のバイトだから、時給は千五十円、きっちり八時間働いても一日八千四百円。家賃や光熱費など最低限の費用を払うと、正直言って何も残らない。

 子供の頃から扁桃腺が弱くてよく熱を出す。ちょっと風邪を引きでもしたらすぐ寝込むが、病気で苦しいという不安じゃなくて、今月家賃が払えるかどうか不安で眠れなくなる。電気もガスも水道も、極力使わないように頑張る。


 こんな状態だから、めぐみさんにもらったものはどれも自分ではとても手が出ない貴重品で、ありがたいものばかりだった。


 ある日、めぐみさんが突然僕にこう切り出した。

「渉くん、私はホテルを経営してるのだけど、ここを辞めてうちでバイトしてみない?時給はここの倍出すわよ。」

「倍、ですか?」


 このカフェは外苑前の銀杏並木沿いにあり、雑誌によく載っている有名店だ。観光客も多く、この店の雰囲気を楽しみにやってくる。食事はイタリアンをメインにした本格的なものを出し、シェフは有名店で修行した経験を持つ。

 中卒の僕がここで働かせて貰えているのは、外見のおかげだと思う。この店の雰囲気を盛り立てていて、お客さんの評判もよく、僕を眺めるために来る人も少なくないのはおそらく自惚れではない。


 仕事は人よりもできると思ってるけど、なにせ口べたで愛想がない。金色の巻き毛と青い瞳、ピンク色の肌を持ち、自分でも見た感じどこのプリンスかと思うくらい無駄に整った目鼻立ちで人目を引くから、モデルやタレントになれたら結構なお金になると言う自覚はある。でも、そう言う選択には後ろめたさがある。


 町を歩くとあちこちからスマホの撮影音が聞こえるし、怪しいスカウトらしき人物に、名刺や連絡先をムリにポケットにねじ込まれることもよくある。

 しかしながら、見知らぬ人から向けられる無邪気な興味や好意は、僕にとって小さな恐怖でしかなかった。特に自分を好きだと思ってくれる女の子達については、どうやって気持ちを受け止めたらいいのか分からなかった。

 話したこともない僕を、どうしてそんなに好きになれるのか、まるで分からない。つまり、この外見を利用できるほど僕は器用ではなく、いつも自分から拒絶してしまうのだ。だからと言って、孤独が好きなわけではない。


 アルバイトの同僚達とは、どこかピントが合わなかった。僕が素晴らしいと思うこと、問題に思うことを共有出来ることが少なかったからだ。この店で働くことが誇りなのは分かるが、お上りさんの観光客や、店の雰囲気にそぐわない客を裏でからかうのを聞くと、嫌悪感がしたりした。

 みんな明るくてお洒落だけど、僕は気が弱くていつもびくびくしている残念な性格で、話題も合わず、心に共通言語がない。


 誤解がないように言うが、みんな親切だと思うし、僕を可愛がってくれていると思う。こんな風に考えるのは僕だけで、孤独なのは自分に問題がある自覚があった。

 でも、どうすることも出来ず、自分の心の中に言葉が溢れているのに、その言葉の持っていきどころがないのが悲しかった。共有される当てのない言葉は、いつも僕の心の中で行ったり来たりしていた。


 中学の時は少しだけど友達がいた。わかり合えていたような気もしていた。でも、僕だけ高校に行かなかったから、だんだん距離が出来て、二年も経つとラインもメールも途絶えてしまった。みんな今頃大学受験で必死だろう。僕になんかかまけている余裕はない。


 この見た目で性格が地味、変化が怖い。一人でいる方が楽だ。僕はいつも、自分をもてあましていた。そんな中で、めぐみさんは話していると心が軽くなる特別な存在だった。


 めぐみさんは見るからにセレブリティで身なりもよく、立ち居振る舞いもきれいだ。経営しているというホテルも、きっとそれなりにセンスがよいに違いない。

 やっぱり自分は見た目でスカウトされたのだろうかと思ってしまうが、それはここも同じだ。それに、ここの時給だと、風邪を引いただけで生活に不安を感じる状態が続くが、倍だとすごく生活が楽になる。


 でも、新しい同僚や仕事に馴染んでいけるかどうか不安だし、自分だけ有利な条件で仕事を変えるのに、良心の呵責を感じるのだ。自分にだけ幸運が舞い込むと、それに恵まれなかった他の人に申し訳ない様に思ってしまう。僕は自分だけが幸せになることにいつもためらいがあった。


 これからのことを考えた。高校にも行ってないから、いわゆるサラリーマンにはなれそうにない。だからといって自分でビジネスなんて、性格的にムリだ。いつも将来に不安を感じていた。何とかしなきゃいけないという自覚はある。

 めぐみさんのオファーを受ければ問題が一気に解決するし、なにより、安心できる存在であるめぐみさんのそばにいられるのがいい。だから、ちょっとだけ勇気を出してみた。


「あの、一度どんなところか見せて頂いてもいいですか。」

「もちろん、働いてみたいと思ったらでいいわよ。」

めぐみさんはそう言って、名刺を差し出した。

芙蓉館 支配人 杣山めぐみ

 めぐみさんの名前をフルネームで見たのは、これが初めてだった。


-------------------つづく

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