聞こえてきたのは、キーボードを軽やかに叩く音。

 意識が完全に覚醒するまで待って、音源を見向く。

 ミクリヤ先生がテーブルに向かい、ノートパソコンを操作していた。両手の十指はほとんど絶え間なく、どこかリズミカルに動いている。白衣姿ではないが、仕事に励んでいるのだな、と感じる後ろ姿だ。

 わたしがいる空間は、まぎれもなくホテルの一室で、わたしがいるベッドは、間違いなく昨日先生とセックスをしたベッドだ。

 どうやら、話をしているうちに眠ってしまったらしい。

「ああ、起きましたか。おはようございます」

 打鍵音がやむとともに、ミクリヤ先生はあいさつをした。椅子から立ち、サイドテーブルの上にあったものをわたしに手渡す。なんの変哲もない茶封筒。呆然と見上げたわたしに、開けても構いませんよ、とにこやかにうなずく。

 確認すると、何枚もの紙幣が入っていた。その分厚さに遅まきながら気がつき、目をしばたたかせる。

「二百万円です。手術費用が具体的にいくらなのかが分からなかったので、とりあえずということになりますが。どうです? 足りますか?」

「はい、充分に。……あの」

「なんでしょう」

 とんでもないことをしてしまった、という思いが胸を支配している。事後、初体験を終えた事実を噛みしめたときにも、抱かなかった感覚であり感想だ。

「どうして、わたしにお金を?」

「さあ、なぜでしょうかね」

 ミクリヤ先生は柔らかく苦笑し、小首を傾げた。演技の影は微塵もない。ほんとうに理解できていないのだ。

「たしかなのは、この決断を私は後悔していないし、今後後悔することもないということです。一夜をともにしてくださったお礼として、どうぞ受けとってください」

 前屈みになり、わたしの唇に軽くキスをする。ミクリヤ先生らしい、曇りのない笑顔が目の前で咲く。

「どうしても合理的な説明がほしいということでしたら、私は心療内科医で、灰島さんは私の患者だから、ということでいかがでしょうか」


 朝食の誘いを断り、ホテルのロビーでミクリヤ先生と別れた。これから仕事だという先生は、足早に駐車場へと消えた。

 別れる直前、今日は診察の予約を入れていたのですが伺いません、と伝えた。そうですか、とミクリヤ先生は言った。それがわたしたちが交わした最後の言葉になった。

 わたしが向かったのは、最寄りのアンドロイド修理センター。

 受付で用件を告げると、どこからか白衣に身を包んだ中年男性が現れた。見覚えのない顔だったが、事情は呑みこんでいるらしく、姫のことを「灰島さんのおたくの姫ちゃん」と呼んだ。

 事務室じみた狭隘な一室に通された。男性に手術費用を手渡し、同意書にサインをする。手術はただちに行われ、正午過ぎには終了するという。


 センターを出たわたしを歓待した滑らかなそよ風に、思わず頬が緩んだ。

 真っ直ぐに我が家に帰った。ドアを開けるまでは緊張したが、一晩留守にしても、我が家は主人を温かく出迎えてくれた。

 裏庭に出て、植木鉢に水を与える。

 パンとコーヒーをブランチとして飲食する。

 どんな植物が生えてくるのかをこの目でたしかめられないのは残念だけど、せっかく買った食料を無駄にするのは心苦しいけど――それでも前に進まなければ。

 携帯電話でローカルニュースをチェックすると、おとといのニュースの中に「犬祭り。」の記事を見つけた。遊園地でイベントが行われ、トラブルがあって一部の催し物の終了が早まったが、好評のうちに閉幕した。そのような旨がつづられていた。

 マジケンは今後も子どもたちのヒーローでありつづけるだろう。

 わたしは少しも寂しくはなかった。


 センターからの電話を受けて、自宅を発った。午後一時半過ぎのことだ。

 案内板で病室の場所を確認し、階段を上って目的のフロアへ向かう。

 病室の戸は開け放たれていた。中を覗きこむと、ベッドの上にいる少女と、その脇に佇む白衣の若い女性が、ともに笑顔で言葉を交わしている。

「姫!」

 わたしはベッドに歩み寄る。訪問者に気がついて、少女の顔はいっそう明るくなった。下りようとして、バランスを崩して滑り落ちそうになったところを、女性に受け止められた。彼女の手を借りて今度こそ下り、走り寄ってわたしに抱きつく。

「ナツキ、ひさしぶり! あいたかった!」

「わたしも。元気?」

「うん、げんき! ナツキにあえたから、もっとげんきになった!」

 ここまでテンションが高いのは、遊園地のアトラクションで遊んでいるとき以来だろうか。丸一日以上会えない時間を挟んでの変化だけに、不安を覚えなかったと言えば嘘になる。しかし、細かい仕草や表情などは、どの角度から、何度見ても手術前の姫そのもので、ネガティブな感情はすぐに消滅した。

 手術に関する簡単な説明があったあと、帰宅を許された。わたしは深く頭を下げ、姫は手を振り、女性と病室に別れを告げる。帰りはエレベーターを使った。

「ぼく、じこにあって気をうしなっていたんだって。さっきのおねえさんがそう言ってた」

 箱が降下を開始してすぐ、姫が話しかけてきた。わたしたちの手は固く結び合っている。目的地に到着するまでは止まれない密室の中にいるのだから、離れ離れになる心配は絶対にないのに。

「もちろん知ってるよ。びっくりした?」

「びっくりした! でも、ちゃんと治ったって言ってたから、安心した。治ってよかった!」

「うん、ほんとうだね。姫が元気になって、ほんとうによかった」

「ぼくがねているあいだ、ナツキはなにをしてたの?」

 姫の手を握っているのと逆の手で髪の毛を耳にかけ、それから答える。わたしの顔にはきっと、姫には不可解なはにかみ笑いが浮かんでいるに違いない。

「いろいろなことがあったよ。ほんとうに、ほんとうに、いろいろなことが」


「ナツキ、これからどこに行くの?」

 センターの敷地内から道に出たとたん、姫が尋ねてきた。

「おうち? おうちに帰るの?」

「ううん、帰らないよ。あの家にはもう帰らない」

「え……」

「姫、わたしの家に運ばれてくる途中で、トラックの中から川を見たって言っていたけど、覚えてる?」

 姫の歩が緩む。わたしから視線を外し、考えこんでいるようだったが、やがてこちらに注目を戻してうなずいた。

「この町には川が多いっていう話は、したかな、してなかったかな。これまでに、ショッピングモールへの行き帰りと、公園と、それから首長竜を見に行ったときの三回、川を見たよね。その中には、トラックから見たのと同じ川はなかった、ということでいいのかな?」

「うん、見おぼえなかった。ぜんぶはじめてみる川だったよ」

 間を置かずに答えて、小首を傾げる。どうしてそんなことを訊くの、というふうに。

「そっか。じゃあ、トラックから見た川がどこにあるのか、二人でいっしょに探しに行こうよ」

「川を?」

「そう、川を」

「ぼく、川だっていうこと以外、なにも覚えてないよ」

「問題ないよ。ヒントが少なくても、見つかる可能性はゼロじゃないんだから。見つかるまでずっと、ずっと、二人で旅をしよう」

「たび? りょうこうのこと?」

「そう。いろんな町や景色を見ながら、その土地のものを食べて、毎日違う場所で眠るの」

「ほんとに? やった!」

 姫はその場で何度もジャンプして喜びを露わにする。この家に来た当初は考えられなかった、実に子どもらしいリアクションに、自然と顔が綻ぶ。

 姫の記憶が無事に繋ぎ止められたらそうしよう、と決めていたわけではなかった。しかし、事故前と変わらない彼女と再会したことで、自ずとその方針が定まっていた。

 かわいい子には旅をさせよ。

 そんなことわざがあるが、わたしの場合は少し違う。

 かわいい子とともに旅をしよう。

 もうじき二十歳だというのに大人になりきれないわたしには、それがいい。そのほうがいい。

 やがて橋に差しかかった。姫が家族になった日の翌日に通った、ショッピングモールへ行くための大きな橋だ。

 わたしは携帯電話をポケットから取り出す。

 これがあるからこそ、母親から電話がかかってくる。これがあるからこそ、「ふれあい会」への参加が決まり、マジケンの狼藉のせいで姫は壊れてしまった。

 こんなものは、いらない。

 手にしたものを欄干越しに投げ捨てる。重力に従って真っ逆さまに降下し、小さな音を立てて水中に没した。そのとき姫は、欄干越しに川を覗きこんでいたが、わたしが携帯電話を投げ入れた事実には気がついていないようだ。生じた音があまりにもちっぽけで、上がった水しぶきがあまりにも小さすぎたからだろう。

 それでいい。

 それも悪くない。

「姫、どうしたの。そんなに熱心に覗きこんで」

「くびながりゅう、いないね」

「この川はもともといないよ。それとも、実はトラックの中から見たのと同じ川だったとか?」

「ううん、ちがうよ」

「だったら、行こう。今日はもうすぐ暗くなるから、どこまで歩けるか分からないけど」

 旅を終わりにしてもいいと思うそのときまで、歩きつづけよう。

 姫といっしょなら、きっとどんな困難も乗り越えていける。

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わたしと姫人形 阿波野治 @aaaaaaaa

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