ミクリヤ医師
闇に包まれた世界で、眩い白光を放つ飲料の自動販売機のかたわらに、わたしは佇んでいる。
ここは姫との思い出の場所の一つだ。昼にマツバさんとのあいだにあった一件がなければ、この場所で待ちつづけることはおろか、訪れる勇気すら持てなかっただろう。ほんとうに、ほんとうに、マツバさんには感謝してもしきれない。
通行人が道を通り過ぎる。
ミクリヤ心療内科の従業員が乗っていると思われる自動車が、駐車場から出てきては走り去る。
人か車かを問わず、わたしの前を横切るさいには決まって減速した。至極真っ当な反応であり、対応というべきだろう。夜間に自販機の横に女が立っているというシチュエーションは、誰にとっても不気味でしかない。長らく食事をとっていないからやつれているだろうし、さらには入浴をしていなければ化粧もしていない。
長いような短いような時間を経て、待ちに待っていた瞬間が訪れた。
ミクリヤ心療内科の窓から漏れていた最後の明かりが消えたのだ。
心臓が早鐘を打ちはじめた。
しばらくすると、裏口のドアが開く音がした。追いかけるようにして、施錠される音。愛車が停めてある場所へと移動しているはずだが、靴音は聞きとれない。焦りが胸に滲む。今日は例外的に徒歩で通勤していて、見張っているのとは別の出口から帰宅したのだとしたら、取り返しがつかないことになる。思い切って駐車場に踏みこむべきか。それとも、あくまでもこの場所で待ちつづけるべきか。
出し抜けにエンジン音が聞こえた。駐車場からだ。
わたしが会いたい人? それとも、まだ駐車場内に残っていた、まったく別の誰かの車?
腰を据えて考察する時間的な余裕はない。唾を飲みこんで覚悟を決める。駐車場と歩道の境界線上まで進み出て、真正面を向いて仁王立ちした。
走行音が聞こえてきたのに少し遅れて、駐車場の奥から光が現れた。音が、光が、徐々に迫りくる。わたしから五メートルほどの距離を置いて、闇そのもののような黒い車が走行を停止した。
運転席のドアが開き、運転者が降り立つ。靴音を鳴らしながらわたしへと歩み寄り、目の前で足を止める。
「……あなたは」
まぎれもなくミクリヤ先生だ。
先生はわたしが誰なのかを瞬時に理解してくれたらしい。まだ一言もしゃべっていないのに。ヘッドライトに照らされているとはいえ、暗闇の中でも。
嬉しさよりも安堵の念が胸を満たした。先生は誠実な人だと再認識した。医師と患者という関係を抜きにしても誠実さが適応されるのかは、自信を持てない。しかし、覚悟はすでに固まっている。
「ミクリヤ先生にお話があるんです。わたしの病気のことではありません。事情を聞いたら、心の病気も関係していると、先生は診断を下すかもしれませんけど」
戸惑いが抱合された沈黙。わたしは深々と頭を下げる。
「わたしの話を聞いてください。お願いします」
沈黙は何十秒にわたって続いただろう。双方が沈黙しているあいだに、車が合計三台、ミクリヤ心療内科の前の道を走り抜けた。
「正直言って、かなり困惑しているのですが」
わたしは顔を上げる。申告したとおりの表情を浮かべたミクリヤ先生は、体を半ば運転席の方向へとねじっていた。
「どうやら事情がおありのようですので、とりあえず話を聞きます。車の中で、移動しながらなら構いませんが、いかがでしょう?」
車内には独特の香気に満ちている。ミクリヤ先生の体臭には似てもつかないが、それでいて彼を色濃く連想させる、そんな香気に。
車を走らせはじめてからというもの、ミクリヤ先生はずっと黙ったままでいる。同じくわたしも、自分からはしゃべり出せずにいた。言うべきことは分かっているのだが、雰囲気に押しつぶされてしまっていた。助手席ではなく後部座席をすすめられていたら、もっとスムーズに本題を切り出せていただろうかと、考えても仕方がないことを何度も考えた。走行速度は少し遅いらしく、他の車が断続的に隣接する車線を駆け抜けていく。
ミクリヤ先生がどこを目指しているのかは分からない。川沿いの道を、わたしの自宅がある方角に向かって走っていたので、まさかと思った。しかし、もちろんそんなはずはなく、途中で右折した。曲がりくねった細道で、明かりが灯った民家さえまばらという寂しさだったが、やがて片側二車線の幹線道路に出た。ドラッグストアやガソリンスタンドやファストフード店などが建っていて、夜間でもある程度の賑わいがある。わたしは一度も通ったことがない道だ。車は赤信号以外で停車することなく、いずこかを目指して走りつづける。
ミクリヤ先生が沈黙している理由は定かではない。突如として不可解な事態に巻きこまれて、怒っているのかもしれない。戸惑っているのかもしれない。黙っていたほうが話を切り出しやすいと考えて、あえて口をつぐんでいるのかもしれない。
いずれにせよ、先生に迷惑をかけている。一刻も早く事情を打ち明けなければ。
進路の信号が黄色に変わった。充分に駆け抜けてしまえる距離に見えたが、ミクリヤ先生はブレーキを踏んで車を停めた。前のめりになったわたしの体はシートベルトに繋ぎ止められた。車が完全に停止し、背中は再びシートに密着する。
基本的な交通ルールを遵守する姿勢に、わたしははっとさせられた。そして、ミクリヤ先生はとても優しい先生だという、自明の事実を思い出した。
先生は診察中に怒ったことはもちろん、一瞬の不快感を過ぎらせたことや、苦笑をこぼしたことさえもない。どこを切りとっても、誰と比較しても優しい、ミクリヤ心療内科の青年医師。
毎週毎週、わたしはこの人に不安や悩みを打ち明けているではないか。それと同じことをするだけなのに、なにが怖いというのだろう?
そう思うと、ふっと心が楽になった。
「わたし、ミクリヤ先生とセックスがしたいんです」
乗車して初めて、先生がわたしのほうを見た。
直後、短いクラクションが連続して鳴らされた。後続車のクラクションだ。ミクリヤ先生といっしょになって顔を前に戻すと、信号が青に変わっている。車が再び走り出した。
沈黙が車内を満たしている。しかし、今度のそれは明確なメッセージを孕んでいる。わたしに説明を求めている。
先生に迷惑をかけたくない気持ち。事情を打ち明けたい欲求。両方に背中を力強く押されて、リクエストに応える。
生まれてから一度も、異性との交際経験がないこと。
今年で二十歳になるが、処女だということ。
購入した姫人形に情欲を催したこと。
その姫人形が壊れ、不安と絶望が頂点に達した時期に、知り合いの女の子とセックスの真似事をしたところ、気分が晴れたこと。
男性ともセックスをしてみたい、と思ったこと。
その相手はミクリヤ先生以外にはありえない、ということ。
「灰島さんが私との性行為を望むのは、私が魅力的な男性だからですか? それとも、心療内科医だからですか?」
告白の意味を咀嚼する時間をたっぷりととってから、ミクリヤ先生は問うた。わたしは言下に答えた。
「前者です」
静寂が再び車内を満たした。
ミクリヤ先生は黙考する時間を二・三分とって、おもむろに切り出した。
「それでは、このようなプランはいかがでしょうか」
途中でいくつかの質問や確認を挟みながら、今後の予定について説明する。沈着冷静に必要事項を述べるその姿は、診察中の彼を思わせた。唯一明確に異なるのは、顔から微笑が意識的に排除されていること、くらいのものだろうか。
異論はなかった。
玄妙な薄紫色の明かりが灯った店のドアを、ミクリヤ先生に先導されて潜る。行きつけの飲食店、という説明だった。
店内は朝の始まりのように薄暗い。
奥まった個室にわたしたちは入った。座敷席で、広さのわりに天井が高い。先生はわたしに奥に座るようにすすめ、自身は出口に近い側に腰を下ろした。あたかも、わたしが逃亡する事態を未然に防ごうとするかのように。
メニューを見ると、ラインナップは和食が中心だ。料理名がつづられた筆跡の流麗さを見て、遠い場所に来てしまったと実感した。
どれを選べばいいか分からなかったので、ミクリヤ先生のおすすめを食べることにする。先生は同じものを二つ注文した。和牛ステーキをメインにした膳だ。
すだちの風味が香るしょうゆベースのソースを肉にたっぷりとつけ、口に運ぶ。味は上手く表現できないが、庶民が毎日のように気軽に食べられる料理ではない、ということだけは分かった。
文句なしに美味しかったが、食欲自体はあまりなかったので、ほんの少ししか箸をつけなかった。ステーキはもちろん、白いごはんにも、汁物にも、野菜がふんだんに使われた副菜にも。一方の先生は、文句をつけようがない上品な箸づかいで、咀嚼音を立てずに、皿の上の料理を着実に減らしていく。
わたしたちは食事中、提供された料理についてばかり話した。ミクリヤ先生が語る話にわたしが相槌を打った、というのがより正確な表現になるだろう。
先生はストックしてある知識を、気の向くままにひけらかすのではなく、聞き手にとって興味深いと思われる情報をピックアップし、必要最小限の言葉で淡々と説明した。理知的で好感が持てる語り口だが、あいにく、内容は十分の一も頭に残らない。先生はその事実をまったく意に介していないようでも、わたしの反応が希薄だから、表向きは平静を装いながらも、内心ではむきになってしゃべりつづけているようでもある。
先生が提示した計画に首肯してからのわたしは、別人のように落ち着いていた。心拍数はほぼ平常だし、受け答えも非礼なくこなせたと思う。
わたしはわたしの目的だけを見据えていた。
ただ大きくて外観が派手なだけのみすぼらしいホテルで、わたしはミクリヤ先生と肉体的に結ばれた。
行為のさなかは、抗いようのない奔流にただ身を任せた。比較し得る対象を知らないので断言はできないが、先生は一貫して紳士的に振る舞ってくれたと思う。あらゆることを強要しなかったし、痛みや不快感を訴えるとすぐに行為を中断し、わたしを労わってくれた。手よりも唇や舌での愛撫が多かったのが少し意外だったが、不愉快ではなかった。
セックスは共同作業だ、という認識は漠然と持っていたが、その意味では、わたしは充分な働きを見せられなかった。確固たる目的をもって裸を晒したわたしとしては、それが唯一の心残りであり、不安材料だった。
虚脱感も相俟って、一糸まとわぬ体をベッドの上に投げ出したままでいると、ふわり、と柔らかいものがわたしの首から下を隠した。隣を向くと、ミクリヤ先生が上体を起こしてこちらを見ていた。
ミクリヤ先生の表情からは充足感が観測できた。観測者が幼児だったとしても読みとれたに違いない、分かりやすい表出の仕方だ。突然のわたしの出現に端を発する、一連の小騒動が完結したと認識しているからこそ、だろう。
しかし、わたしにはその先がある。
「ミクリヤ先生」
言葉を発した瞬間、わたしの表情は、程度こそわずかながらも、明確に別種のものへと変化したのだろう。先生の顔に緊張が走った。
「お金、ください」
我ながら酷く間の抜けた言葉の響きだ。
「先生が好きだという気持ちは、もちろんあります。でも、一番の目的はお金です。先生はお金持ちだから、対価を払えばお金をくれると思ったから、わたしは先生とセックスをしたんです。前回の診察のさいに、姫人形を購入したと言いましたよね。その姫人形が故障してしまって、記憶を繋ぎ止めるためには、多額の手術費用が必要なんです。わたしの体では足りないと思うけど、でも、わたしが提供できるものの中で、一番価値があるものはたぶんそれだから」
先生はしばし呆然とわたしの顔を見返したのち、緩慢な挙動で再びベッドに横になり、顔を天井に向けた。やや忙しなくまばたきをくり返しながらの黙考。わたしは先生の横顔を見つめながら、言葉を待つ。
再びこちらを向いたとき、ミクリヤ先生の満面には、彼らしい温和なほほ笑みがたたえられていた。
「灰島さんの気持ちを聞かせてください。そこまでして直したいと思うのだから、その子に相当な思い入れがあるのでしょう。でしたら、思いの丈を私に聞かせてください。さあ、こちらへ」
手振りではなく眼差しで呼び寄せられる。体を先生のほうへずらしたとたん、力強く抱き寄せられ、わたしたちの体は密着した。
退路はもはや断たれた。逃げ出そうとすれば、甘美な罰が下されるだろう。さらけ出すしかなくなったのだ。
「私の耳にささやいてください。そうすれば、聞き漏らす心配はありませんから。さあ、どんな思い出があるのですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます