旅立ち

沢倉マツバ

 無音に支配された空白の多い寝室で、身じろぎ一つせずに布団に横になっていると、姫に寝物語を語り聞かせた記憶が甦り、胸が締めつけられた。

 悲しくて、切なくて、やるせなくて、仕方がなかったので布団から出た。部屋からも出てリビングまで移動し、ソファに寝ころがる。しかし、リビングは寝室以上に濃密に、姫との思い出が詰まった空間だと遅まきながら気がつく。

 姫専用の部屋はない。間取りの都合上、空き部屋を捻出するのが難しかったのが理由の一つ。どの部屋も自分の私室のように使ってくれて構わない、というスタンスをわたしがとったのが一つ。

「家の中は自由に行き来していい」と伝えたのだが、姫はリビングで過ごすことが多かった。彼女に許された最大の娯楽であるテレビがあるからだ。換言するならば、わたしはテレビ以外のまともな娯楽を姫に提供できなかった。設定年齢五・六歳の姫人形を自宅に迎えるにあたって、オモチャや絵本などの購入は当然検討したが、けっきょくなにも買わなかった。ともに過ごす中で要望が出されるだろうから、それに合わせて買えばいい。子どもという生き物を知らない自分が一方的に押しつけるよりも、そうしたほうが姫人形にとっても、わたしの財布にとっても望ましい。そう判断した。

 彼女を「大人しく控えめ」な性格にオーダーしたのは、他ならぬわたしだというのに。

 本屋に行ったさいに、絵本を買おうと思い立ったことはある。しかし、買わなかった。それから本屋には一度も足を運んでいない。携帯電話を差し出し、「触ってみない?」と声をかけたことはある。しかし、強くはすすめなかった。ゲームアプリで遊んでみるように促したり、動画共有アプリで動画を見せたりするなどして、姫がなにに関心を持っているのかを探ることもなかった。

 姫のことが大切ではなかったわけでは断じてないが、消極的だった。姫を幸せにしよう、幸せにするんだ、という気概に欠けていた。悪意はなかったが、結果的に、積極性の欠如が姫を不幸にした。

 目の奥が熱い。

 わたしはなんて駄目な親なのだろう。至らない保護者なのだろう。これではわたしの母親と同じだ。

 眼窩の熱は緩やかながらも高まる一方で、涙という形であふれ出すかもしれないと覚悟したが、なんとか持ちこたえた。しかし、無様で惨めな気持ちは消えない。なにをやっても消えてくれそうにない。

 もっとも濃いのはリビングかもしれないが、姫を喚起させ、思考と身動きを制限するほど激しく感情を込み上げさせる場所は、家の中にいくらでもある。さっきまでいた寝室だってそうだし、バスルーム、キッチン、さらには訪れることがあまりない物置部屋まで。屋内にあるすべての場所が該当するといっても過言ではない。

 この家にいる限り、逃げ場はないのだ。

 というよりも、この町にいる限りは。

 狂おしい気持ちが頂点に達したのを見計らったように、インターフォンが鳴った。

 ソファに座っているだけの体力もないはずなのに、反射的に上体を起こし、玄関のほうを向いていた。

 まさか、姫? 姫が帰ってきた?

 一瞬そう思ったが、そんなはずがない。昏睡状態だった人間が急に目を覚ますことならば、もしかしたらあるかもしれないが、姫は姫人形だ。そんなことは絶対にありえない。

 二度目のインターフォンの音は鳴らない。ただ、訪問者は玄関ドアの前に留まっているようだ。気配を感じるのではなく、なんとなくそんな気がする。

 丸一日近く食べていないとはいえ、歩けないほど体力が磨り減っているわけではない。腹部に力をこめて体を起こし、病人さながらの足取りで玄関へ向かう。訪問者が悪漢だとしたら、今のわたしほど容易に組み伏せられる人間はいないだろう。……どうにでもなれ。

 ドアスコープを覗いてみて、安心したような、拍子抜けしたような気持ちになった。ため息をついてドアを開く。

「マツバさん」

 わたしの顔を見た瞬間、マツバさんは目を泳がせた。すぐに視線をこちらに戻したが、なにも言わない。彼女にしては珍しく、表情に硬さが見られるし、佇まいに若干の不自然さが感じられる。

 わたしにとってマツバさんが、「親しく付き合っているご近所さん」の枠に収まらない存在であることには、おとといに気がついている。苦境から救い上げてくる役割を期待しなかったといえば、嘘になる。

 ただ、姫を永遠に失う可能性が高い現状、他者とコミュニケーションをとるのは凄まじく億劫に感じる。訪問者がマツバさんでなければ、絶対に居留守を使っていたに違いないくらいに、今のわたしは精神的にまいっている。

 どういうつもりなのかは知らないけど、こんな大変な状況のときにわざわざ来なくてもいいのに。立っているだけでも正直つらいし、早く帰ってくれないかな。

 マツバさんには申しわけないが、それが偽りのない本音だ。

「なにか用?」と問うのも億劫で、唇を閉ざしたまま、状況に変化が生じるのをただ待ち受ける。沈黙は三十秒以上も続いたうえで破られた。

「ナツキさん、大丈夫ですか? 顔色、凄く悪いですけど」

 眉根を寄せ、眉尻を下げた顔で体調を案じられた瞬間、わたしの心境に変化が起きた。

 心配してくれて、嬉しい。

 助けに来てくれて、嬉しい。

 率直にそう思ったのだ。

 体の内側の大半は、依然として憂うつな闇が支配している。喜びはその中に突如として灯ったささやかな光のようなものであって、カードの表裏が一瞬にして入れ替わったわけではない。しかし、それは、まぎれもなく光だった。暗澹たる心境の底を脱し、立っているだけでも疲れる状態からも脱したような、そんな実感があった。

「遊びに行って以来、ナツキさんと姫ちゃんの姿を全然見かけないから、心配になって様子を見に来たんです。丸二日も経っていないですけど、胸騒ぎがしたっていうか。体調が悪かったんですか?」

 病気が原因で寝こんでいるわけではないが、寝こんでいるのだから病気の一種なのだろう。そう判断し、うなずく。

「そうだったんですか。どこが悪いんですか? ていうか姫ちゃん、一人で平気なんですか?」

「姫は壊れた」

「えっ?」

「言葉どおりの意味」

 事情を理解してもらうためには、姫が事故に遭った経緯を説明しなければならない。精神的に厳しい作業になると予想されたが、マツバさんは誠実な人だ。きっと、いや絶対に、辛抱強く聞いてくれる。

「昨日、二人で遊園地へ行ったの。それで――」

 途切れ途切れながらも、ありのままを話した。マジケンを悪人として語るのは気が進まなかったが、理路整然とした虚偽のストーリーを創作する気力がなかったので、「マジケンに突き飛ばされたわたしの下敷きになって壊れた」と正直に伝えた。もちろん、手術に多額の費用がかかることも。

 語り終えると同時に体力の限界が訪れ、わたしはドアにもたれかかった。脳内原稿は一行も用意できていなかったので、説明には時間がかかった。マツバさんがわたしの中に光を灯してくれていなかったら、話の途中でその場にうずくまっていたかもしれない。

 マツバさんは絶句している。お金の問題が大きくのしかかっているのだ、と容易に想像がついた。

 表情を見た限り、マツバさんは痛いくらいに理解している。アルバイトをしながら学生生活を送っている身では、どんな離れ業を使ったとしても、百万円単位のお金を今日明日中には工面できないことを。工面できない以上、どんな慰めの言葉もわたしを救済し得ないことを。

 昨日と今日、わたしが浮かべたどんな表情よりも狂おしげなのではと思えるほどに激しく、マツバさんの端正な顔は歪んでいる。入念にメイクを施したとしても、ヘアスタイルに工夫を凝らしたとしても、ブランドものの服で着飾ったとしても、どう足掻いても誤魔化せない歪みかただ。

 逆に言えば、きちんと理解してくれている。大切な人を失うつらさを。助けたいのに助けてあげられない苦しさを。

 そういえば、引っ越しのことをマツバさんにはまだ伝えていない。

 姫の問題に母親との確執が絡んだことで、事態は複雑化している。説明するのが億劫だったのと、無関係のマツバさんを巻きこみたくないのとで、無意識に避けていたのかもしれない。

 そうか。マツバさんともお別れなのだ。

 そう思ったとたん、俯きがちに思い悩んでいる目の前の女性が、見た目と精神年齢を考慮すれば少女と呼んでも間違いではない女性が、たまらなく愛おしく感じられた。別れるのは嫌だ、と強く思った。

 きっと姫のせいだ。

 姫との二人暮らしを経験したことで、わたしは一人きりでは生きていけない人間になってしまったのだ。

 金銭面では母親に頼りきっていたから、「一人で生きてきた」という評価は正確ではないかもしれない。それでも、やはり、隣に誰もいないというのは。

 姫は壊れてしまい、修理を出す金を捻出できずに死んでしまう。死なせたくないのに死んでしまう。のみならず、マツバさんとまで別れなければならない。そんな未来が現実と化したならば、きっとわたしは壊れてしまう。姫と同じように壊れてしまう。

 そんなのは、嫌だ。

「マツバさん」

 俯いていた顔が持ち上がる。マツバさんと視線を重ねたわたしは、ほぼ一日ぶりに顔に笑みを灯すことができた。

「最後に、マツバさんにしてほしいことがあるの。わたしの心を救済するために、ぜひともしてもらいたくて」

「協力したい気持ちはありますけど……。ていうか、えっ? 最後って、どういう――」

「来て」

 手を引っ張り、半ば無理矢理上がってもらう。そのさい、わたしが命じたわけではないのに、マツバさんはドアの鍵を閉めた。展開が読めないなりに察するものがあったのだろう。

 リビングまで導かれたマツバさんは、キッチンのほうを見ている。わたしがなにも食べていないようなので、食事の世話を依頼されるとでも思っているのかもしれない。わたしが想定している「してほしいこと」との乖離に、頬が熱くなる。

 それでも、母親に金銭を要求するのと比べれば、圧倒的に切り出しやすい。

「マツバさん。してほしいことというのはね――」

 手招きをし、耳打ちをする。

 すべてを聞きおえたマツバさんは、弾かれたように上体を遠ざけ、信じられない、という顔でわたしを見た。ただ、顔つきから真剣さを感じとってくれたらしく、表情は次第に軟化していく。ほほ笑んでいる、と形容しても差し支えない顔に変わるまでには、十秒もかからなかった。

「分かりました。恥ずかしいけど、女同士だし――うん、頑張ってみる」

 表情の微妙な変化から、わたしを子どもとして扱うつもりなのだ、と察しがついた。マツバさんは子どもが好きだから。子どもの扱いに長けているから。

 たった一年の差ではあるが、わたしのほうが年上だ。子どもっぽいところもある性格の持ち主だと、マツバさんのことを認識してもいる。本来であれば、屈辱感に近い感情を覚えてもおかしくない場面だったが、今のわたしは心身ともに弱っている。

「ありがとう。……それじゃあ」

 上着のボタンを外そうとした指が震えた。すると、その部位に温もりが触れた。マツバさんの手だ。わたしに向かって柔らかくほほ笑みかけ、外すのを手伝ってくれる。一つ、また一つ、上から順番に。

 あるかなしかの胸を見られるのは恥ずかしい。しかし、その感情が別の好ましいものにがらりと変わる予感も、同時に覚えている。

 わたしの上着を脱がせると、マツバさんは自らが着ているシャツを脱ぎ、ブラジャーを外した。


 経験の乏しさに起因する羞恥の念を除けば、不満は一つもなかった。

 その感情も、時間が経つにつれて気にならなくなっていった。

 柔らかくて、温かくて、優しい。

 それがマツバさん、というよりも、人間というものなのだろう。


 互いが着衣を終えたとたん、まるで魔法が解けたかのように、本来のわたしたちに戻った。視線を交わすよりも、言葉を交わすよりも先に、雰囲気でその変化が伝わった。

「ありがとう、マツバさん。心が少し楽になった、かな」

「面と向かって言われると恥ずかしいですね。私も気持ちよかったので、こちらこそありがとう、です」

 沈黙したまま、何秒のあいだ、わたしたちは見つめ合っただろう。にわかに、わずかながらも、マツバさんの表情が陰る。

「あの……。さっき言っていた、最後というのは?」

「はっきりとしたビジョンが見えているわけではないの。最後になるかもしれないし、ならないかもしれない。でも、残念ながら前者の可能性が高いと思う」

「ナツキさんとお別れしなくちゃいけない、ということですか?」

「一つの大きな区切りにはなるかな」

 俯き、考えこむような表情を見せていたが、すぐに目を合わせてきた。瞳は潤んでいるように見える。

「決意、固いんですね」

「そうだね。そうでなければ、あなたには頼まなかった」

「どう足掻いても、その決定を覆すことはできない、ということですね」

「うん、残念ながら」

「……分かりました。じゃあ、最後に一つ、お願いしたいんですけど」

「なに?」

「わたしを抱きしめてくれませんか?」

「もちろん」

 わたしは両手を広げる。マツバさんが抱きついてきたので、わたしも背中に両手を回す。彼女の抱擁する力は、思いのほか強い。背中をぽんぽんと叩いてやる。彼女の体から流れこんでくるものが、自らの体に浸透するのを待つようにたっぷりと間を置き、ゆっくりと体を離す。

「ナツキさん、今までありがとうございました」

「こちらこそ。これまでにマツバさんから受けた親切、どれもみんな、泣きたくなるくらい嬉しかった。……お別れのキスはしてくれないの?」

「だって、恥ずかしいじゃないですか。一回スイッチが入っちゃえば全然気にならないんですけど。分かります?」

「分かるよ。とてもよく分かる。マツバさん、さようなら。今までありがとう」

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