過去(後編)

「……うう」

 獣の唸り声にも似た声が漏れる。わたしの唇からだ。母親を殺せない悔しさ。そして、その悔しさを晴らせない悔しさ。漏れ出す唸り声の正体は、行き場のないその感情に他ならなかった。

「うう……。ううううう……!」

 ただ唸るだけでは、とてもではないが排出が追いつかない。鋏を握っていないほうの手で頭をかきむしる。髪の毛が、ふけが、眼前の虚空を舞う。頭皮をめちゃくちゃに破き、脳みそを撹拌するような激しさで頭髪を乱した。それでも、悔しさは後から後から湧いてくる。

「うああああっ!」

 絶叫しながら、鋏をテーブルの天板に突き立てた。しかし硬さに撥ね返され、右手に電流のような痺れが走った。わたしは母親に背を向け、唸るのと叫ぶのとの中間のような声を上げながら自室に駆けこんだ。

 手当たり次第物を破壊した。勉強机の上の日記帳も、枕元のマジケンのぬいぐるみも、小さな銀色のオルゴールも、みんなみんな壊した。わたしの部屋にあるものたちが、次から次へと醜悪なガラクタと化していく。壊しても、壊しても、気持ちは鎮まらない。叫びながら、壊して、壊して、壊しつづけた。

 手が止まったのは、肉体的な疲労が限界に達したからだった。

 肩で息をしながら、部屋の中の惨状を客観視した。多少なりとも愛情を持っていた私物たちは、今や見る影もない。

 すべて自分がやったのだ。

 母親を壊す勇気がないから、物言わぬ無機物に八つ当たりをしたのだ。

 右手から鋏が落ちる。力のない足取りでベッドへと向かい、俯せに倒れこむ。奇跡的に難を逃れた枕に顔を埋め、わたしは泣いた。嵐のような破壊とは打って変わった、静かな泣きかただった。込み上げる感情は、複数の感情が複雑に絡み合っていて、その猥雑さが悲しみを煽るようだった。洟をすすり上げ、雫を落としているあいだ、頭のすぐそばにある、頭部の傷口から綿をあふれさせたマジケンのぬいぐるみの存在を、常に意識していたような気がする。

 泣き疲れて、いつの間にか眠りに落ちていた。

 部屋のドアがノックされる音に呼び覚まされたのか、目覚めていたからこそノックの音を聞きとれたのかは、分からない。わたしは弾かれたように上体を起こし、ドアを見据えた。訪問者の正体は、ノックを聞いた瞬間に察していた。

 蝶番が軋む音を立てながら、ゆっくりとドアが開かれた。母親だった。その顔は一面無機質な無表情に染まり、右手に包丁を握りしめている。

「ナツキ、あなたは出来損ないの人形ね」

 その声には、感情と呼べるものは一切含まれていない。

「あなたを修理してあげる術を、残念ながらお母さんは持っていない。でも、放置しておくと、あなたはお母さんに危害を加える可能性がある。なぜなら、あなたは欠陥品だから」

 侮蔑されても怒りが微塵も湧かなかったのは、機械の音声に暴言を吐かれても腹が立たないのと同じ理屈なのか。それとも、暴れた直後で疲れていて、怒るだけの気力もなかったのか。

「当分のあいだ、いっしょに住むのはごめん被りたいところだけど、あなたはまだ成人していない。二十歳になるまでの四年間、猶予をあげる。過去に私の夫だった男が、不倫相手との密会に使っていた家が、B町というところにあるの。今は誰も使っていないから、今日からあなたが住みなさい。仕送りは多めに振りこむようにする。一人暮らしをするにあたって、困ったことや分からないことがあるなら、必要最低限であれば教える。ただし、サポートするのはあなたが成人するまでのあいだ。仕送りは二十歳の誕生日の前日で打ち切るから、それまでに独り立ちをしなさい。四年経っても一人で生きていくのは無理だとか、途中で一人暮らしが立ち行かなくなるだとかいうことになったら、そのときはこの家に帰ってくること。帰ってきた場合には、お母さんの人形として、お母さんの命令になんでも素直に従うように。分かった?」

 母親のもとを離れるという選択肢が存在することに、わたしはそのとき初めて気がついた。

 わたしは首を縦に振った。

 憎悪し、煙たく思いながらも、広い意味で母親に依存していたのはまぎれもない事実。なにもかも自らが主体となって動かなければならない一人暮らしは、慣れるまでが大変だった。母親から適時アドバイスを貰えるという話だったが、その手段には断固として頼らなかったのも、適応に時間がかかった要因だろう。

 救いだったのは、二人暮らし時代に家事を手伝っていた、もとい手伝わされていたおかげで、自分の身の回りのことは自分でできたことだろう。なにより、母親の束縛から逃れられたのは、精神的には絶大なプラスだった。

 ただ、一つだけ、明確なつまずきがあった。

 それは、労働によって賃金を得る機会を作れない、ということ。

 必要以上に他人の顔色を窺いながら生きてきたせいで、人間全般に対して恐怖心と拒絶感を覚えるのだ。

 もっとも、程度はそう深刻ではない。たとえば、コンビニで弁当を温めますかと問われれば、普通に受け答えができる。たとえば、スーパーマーケットで買う予定の商品が見つからないときは、陳列作業中の店員に尋ねられる。

 一方で、人通りの多い通りを一人で歩いていて、見知らぬ誰かに道を訊かれたとしたら、「ごめんなさい、分からないです」と逃げる。絶対に買わなければならないものがない限り、ショッピングモールのような人で賑わう場所には足を運ばない。そのレベルで人を怖がり、避けてきた。

 わたしとしては、働きたくても働けないのは人が怖いせいだ、その責任はひとえに母親にある、と思いこみたかった。しかし、実際は甘えていた。毎月銀行口座に振りこまれる仕送りの額が多く、働かなくとも生活には困らないどころか、意識して節約すれば貯金ができるくらいに金銭的に余裕があったから、働かなかった。

 ほんとうの意味で独り立ちをして、母親から決別したい。

 形の上では母親から独立した現在の環境で、気楽な生活を送りたい。

 わたしが選んだ生きかたは、後者だった。

 言いわけの言葉は様々思いつく。強いて一言で表すならば、わたしの心が弱いから、ということなのだろう。

 ただ、そんな暮らしが許されるのも、わたしが二十歳の誕生日を迎える前日まで。

 それは分かっている。ひとときも忘れたことがない。しかし、危機感を行動に結びつけられないまま、期限まで一年を切った。

 不安感が友人になった。憂うつな気分ではない時間のほうが短かった。

 ミクリヤ心療内科に通院するようになったのは、この時期からだ。

 母親との確執、働く意欲が湧かないこと、真の独り立ちに対する不安。それらの詳細を語る義務を怠けて、とにかく毎日が憂うつで仕方がない、言いようのない不安感に常に苛まれている、というふうにわたしは訴えた。大らかで優しいミクリヤ先生は、わたしが久しぶりに巡り合えた、話をしていて心安らげる人だった。週に一度、一定の時間だけ彼と言葉を交わすこと、それ自体が目的となり、抱えこんだ大問題は置き去りにされた。

 問題解決のヒントとなる言葉は、診察のさなかにミクリヤ先生の口から発せられた。

 不安感や憂うつさをまぎらわせる方法として、友人を作るという案は毎回のように挙がっていた。わたしはそのたびに、そもそも出会いがない、人付き合いは気疲れがして億劫だ、などと言いわけを並べ立ててきた。それに対して先生は、わたしの卑怯な弱さを責めるのではなく、それとなく話題を変えるのを常にしていた。しかし、その日、彼はひとり言のようにこうつぶやいた。

「今は家庭用アンドロイドの普及も進んでいますし、お財布との相談になりますが、購入を検討してみてもいいかもしれませんね。私は所有したことがないのですが、ここ数年で性能は飛躍的に向上したと聞きますし」

 アンドロイドの存在はもちろん知っていた。ただ、わたしがアンドロイド、特に家庭向けに販売されている愛玩用のそれに抱いていたイメージは、後ろめたい欲望の捌け口として誂え向きな、高性能な人形。乱暴な言いかたをすれば、公の場に連れ歩けるラブドールのようなもの。だから、友人の代替品になり得る、という評価にははっとさせられた。

 帰宅後、インターネットでアンドロイドについて調べてみた。様々なメディアから関連情報を得る中で、偏見は次第に払拭されていった。ユーザーから高い評価を受けている商品はかなりの高額になるが、貯金をつぎこめばなんとか手が届きそうだ。

 ハードルはむしろ、種類の豊富さにあった。老若男女、髪型、体型、さらには性格や口癖や嗜好まで。ありとあらゆる項目を購入者自ら指定でき、組み合わせは実質的に無限といってもいい。求めるパートナー像を明確にしない限り、いつまで経っても決められそうにない。

 わたしが欲するパートナー。

 最初は、大人の男性がいいかな、と漠然と考えていた。父親は幼いころに家を出て行き、現在は年上のミクリヤ先生に好意を寄せている。女性の異性愛者として、性的な欲望を満たしたい、という下心ももちろんある。ただ、肉欲のはけ口としての利用を前提に購入するのは後ろめたかったし、たとえアンドロイドだとしても、年上と生活をともにするのは不安がある。

 自分よりも年齢が下。

 その枠の中で候補を探しているうちに、友人としてだけではなく、もう一つの重要な意味を持たせられる存在がいることに、やがて気がついた。

 子どもだ。

 彼らは無垢なよき友人であると同時に、他者の庇護を必要とする存在だ。わたしは人間が怖いが、購入しなければならない商品のためなら店員に話しかけられる。人で賑わうショッピングモールに足を運ぶことも厭わない。子どものためなら、しなければいけないのにやらなかったことも、きっとできる。その積み重ねが、真の独り立ちのための糧になってくれるはずだ。独り立ちをしなければならない期限を迎えるまではそう長くないが、必ずや間に合わせられるはずだ。

 目鼻立ちはこんな感じがいい、性格はこうあるべきだと、あれこれ思いを巡らせている時間は楽しかった。まぎれもなく幸福だった。わたしのもとに届いた姫は、期待を裏切らなかった。紆余曲折あったが、彼女と過ごす時間はおおむね満足がいくものだった。

 しかし、姫は壊れた。

 彼女の手術費用を捻出する力は、わたしにはない。


 母親相手にいくら偉そうなことを言っても、暴言を吐いても、わたしは結局、一人ではなにもできない。

 そんな人間が、誰かの親になんて、なれるはずもなかった。

 姫とともに過ごした五日間には、いったいなんの意味があったのだろう。

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