過去(前編)

 母親は美しく、生真面目で、精力的な人だった。一児の母親として、一家の大黒柱を支える妻として、申し分のない働きを見せると同時に、一人の女性としても魅力的だった。家族三人で、または母親と二人で街を歩いていて、同年代の親子とすれ違ったさいなどに、美貌や若々しさやファッションセンスなど、容姿の面で優越感を覚えることも少なくなった。母親の日ごろの言動からは、自らの若さと美しさに気をつかうと同時に、自信を持っているのが窺えた。母親が結婚したのは彼女がちょうど二十歳のときで、わたしを産んだのはその翌年だった。

 たった七年いっしょに暮しただけ、さらには母親の存在感が強かったせいで、父親の印象は薄い。平凡で面白味のない人だったが、よき父親ではあったと思う。なおかつ、夫婦仲は良好に見えた。

 しかし、わたしが小学校に入学した年に、二人は離婚した。父親が職場の同僚の女性と不倫をしたのが原因だったと聞いている。すったもんだの末、父親は家を出て行き、わたしと母親が残った。

 離婚を機に、母親は別人のように変わってしまった。わたしにあれこれ細かく指図するようになったのだ。神経質になった。口うるさくなった。非寛容的になった。束縛するようになった。そういった言い換えも可能だろう。

 家族が三人だったときは、娘に厳しい態度で臨む役回りは、どちらかといえば父親が受け持ってきた。不在になった夫の代わりを務めよう、という考えだったのかもしれない。しかし母親の厳しさには、父親とは明らかに違う点があった。

『もう! ナツキはどうしてそんな簡単なこともできないの! 何回同じことを説明すれば分かるの? もっとちゃんとしなさい!』

 少しでも己の意にそぐわない行動をわたしがとると、烈火のごとく怒るのだ。「遊んだあとは片づける」と約束しているお気に入りのぬいぐるみを、リビングに置き忘れていた。ただそれだけで、頬を紅潮させ、鼻息荒く、握りしめた拳で虚空を何度も殴りつけながら、家の外まで聞こえるような大声でわたしを罵倒するのだ。

 罪の重さのわりに怒りかたが激しすぎると、七歳のわたしも感じていた。ただ、違和感を言語化し、理路整然と抗議するだけの知能はまだなかった。母親が初めて見せる一面への戸惑いもあった。激怒する人間に歯向かうのが怖くもあった。母親が間違ったことをするはずがない、母親の言い分の正しさをわたしが理解できていないだけかもしれない、とも考えた。ようするに、ありとあらゆる意味で異議を唱えるのがためらわれた。だからわたしは、自らの過ちをただちに謝罪し、母親が望むような行動をとるように心がける、という対応に終始した。

 言うことさえ聞いておけば、激怒したのが嘘のように感情を鎮めるので、その意味では救いがあった。しかし、確実な救いを求めるあまり、怒られると盲目的に謝罪し、行動を改めるようになった。母親の言いなりになったわけだ。そして、解決策はあるといってもやはり怒られるのは怖いから、母親の顔色を窺いながら生活せざるを得ない。

 ささいなことにも激しく怒る、という傾向は把握していたが、わたしが生きる日常には、母親の怒りのスイッチとなり得る「ささいなこと」はあまりにも多すぎた。母親が怒り出す瞬間を先読みするのは、実質的に不可能。必然に、母親の動向に四六時中気を配る必要があった。常に怯え、顔色を窺っているせいで、気が休まるひとときを作れない。ろくに体を動かさないにもかかわらず、いつも酷く疲れていた。

 学校で友だちを作るのは至難の業だった。母親の顔色を気にする日々に慣れてしまった影響で、他人の目を過度に気にしてしまう。積極的になれない。そのせいで誤解を受け、不当な評価を受けることも少なくなかった。激しい暴力を伴うものではなかったが、いじめの標的にされたこともある。

 そんなわたしにも、家に遊びに行くくらい仲のいい友だちができた。親しい人間ができれば、世界も広がる。それが母親の異常性に気がつくきっかけとなった。

 小学四年生のときだった。秋晴れの日曜日に、Aさん、という同級生の女の子の家にわたしは遊びに行った。Aさんは料理が得意で、その日はおやつにホットケーキを作ってくれる約束になっていた。わたしの訪問に前後して完成する、という話だったのだが、直前になって食材の買い忘れが発覚したらしく、作業に遅れが生じていた。わたしが来宅した時点で、まだ生地を作る工程だった。キッチンには他にAさんの母親もいて、娘をサポートしていた。

 キッチンに隣接するダイニングのテーブルに着いたわたしに、Aさんの母親は気さくに話しかけてくる。Aさんとももちろん言葉を交わしていて、仲睦まじそうだった。ただ、Aさんはわたしに話しかけるさいに作業の手が止まるせいで、母親から注意されていた。そのたびにわたしは緊張した。やんわりとたしなめる程度ではあったが、それでも掌の汗を抑えられなかった。

 いよいよ生地を焼こうかというときになって、事件は起きた。Aさんの手元が狂い、ボウルからホットケーキの生地がこぼれたのだ。

 Aさんが咄嗟に器を押さえたので、中身をすべてぶちまける事態は免れた。それでも、掌サイズのホットケーキが作れるくらいの量がこぼれてしまった。わたしが座っている場所からは見えなかったが、ボウルが置かれた位置と傾いた方向から推測するに、いくらかは床に落ちたに違いない。

 わたしの顔は青ざめていたのではないだろうか。

 Aさんは母親の言いつけを破った。一度だけではなく、三度も四度も五度も。しかも、甚大ではないとはいえ、被害を出してしまった。Aさんのお母さんが落とす雷は、世にも恐ろしいものになるに違いない。

「あーあ。手元を留守にするから」

 娘を見据えるお母さんの眉根と眉根は接近している。わたしの呼吸は一瞬止まった。しかし、彼女の表情はすぐに和らぎ、

「後始末はお母さんがやっておくから、さっさと焼いちゃって。これ以上お友だちを待たせたら嫌われちゃうよ」

 Aさんは「はーい」と答えて作業を再開した。その顔には苦笑が浮かんでいた。緊張感とは無縁の柔らかな苦笑だった。

 一方のお母さんは、宣言どおり、ただちに後始末を取りかかった。舌打ちをしたり、いらいらしたように手を動かしたり、といった様子はまったく見られなかった。

 わたしは酷く滑稽な間抜け面をしていたに違いない。

 完成したホットケーキを、わたしはAさん親子といっしょに食べたが、親子は実に仲睦まじかった。絶えず笑顔で、盛んに冗談を言い合っていた。先週の日曜日には二人で買い物に行ったらしく、そのときの話をしてくれた。Aさんの初恋についてお母さんが言及したとき、Aさんはお母さんの二の腕をほんの軽く叩いた。叩いたほう、叩かれたほう、どちらも曇りなくほほ笑んでいた。

 二人は親子というよりも、歳が離れた姉妹のようだった。わたしと母親のあいだでは絶対に起こり得ない光景が目の前で展開していた。

「お母さんと仲、凄くいいんだね。びっくりしちゃった」

 帰りぎわ、玄関まで見送りに来てくれたAさんに、わたしはそんな言葉をかけた。Aさんの返答はこうだった。

「そう? たしかにいいほうだとは思うけど、びっくりするほどでもなくない? たぶん、普通くらいじゃないかな」

 標準的な母子関係のサンプルを目にしたのは、なにもAさんが初めてではない。Aさんの場合ほど詳細にではないにせよ、情報は断片的に得ていた。だから、ほんとうは薄々気がついていた。Aさんの家を訪問したのを機に、認めざるを得なくなった。

 わたしの母親は、異常だ。

 わたしと母親の関係は、歪んでいる。

 確固たるものとなったその認識は、母親に対するわたしの態度を、徐々に反抗的にさせた。

 臆病なまでに従順だった娘の態度の変化に、母親は少なからず戸惑っただろう。しかしそれ以上に、腹を立てた。わたしのささいな言動に対して、母親が苦言を呈する頻度は高まり、感情の表出の仕方は激しくなった。

 怯むこともあった。屈することもあった。しかし、母親は異常だ、間違っている、という認識が揺らぐことはなかった。断固とした抵抗であり、反抗ではなかったかもしれないが、わたしは戦いつづけた。

 願わくは、早く終わらせたかった。どのような形になるのかは想像もつかないが、とにもかくにも、こんな気が休まらない日々からは一刻も早くおさらばしたい。とても、とても、疲れていた。戦うわたしは、怒りではなく、泣きたいような気持ちを抱えていた。その感情は着実に育まれ、外界へと飛び出す機会を虎視眈々と窺っていた。

 芽吹く瞬間は、わたしが高校一年生のときに訪れた。場所が自宅のリビングだったことは記憶しているが、どのような経緯があって怒りを爆発させたのかは覚えていない。たぶん、爆発してからの展開が衝撃的すぎたせいで、吹き飛んでしまったのだろう。

「うるさいなぁ! いちいち指図しないで!」

 母親はきっと、つまらないことでわたしに難癖をつけたに違いない。それに対して、わたしは声を大にして抗議した。母親に向かって初めて声を荒らげた瞬間だった。母親を初めて睨みつけた瞬間でもあった。

「もっと自由にさせて。他の子はみんなそうなんだから。わたしはもっと楽に呼吸がしたい。わたしはあなたの――」

「うるさいっ!」

 怒声がわたしの声をかき消した。これまでとは違う行動をとることで、母親の攻撃的な発言を封じこめられるのではないか。無意識に抱いていたそんな淡い期待は、見事に裏切られた。母親はいつもにも増して怒り、怒り、怒っていた。

「口答えをするな! 人形に自由があるわけないだろ! お母さんの言うことを聞いていれば幸せになるんだから、黙って命令に従え! 分かったか!」

 わたしの中でなにかが切れた。

 体が見る見る熱くなる。その熱を解放する手段を探すべく、半ば無意識に、視線だけを動かして周囲の様子を探った。テーブルの上に置かれたペン立てが目に留まった。その中にあった鋏を手にとる。乱暴に掴み出したせいでペン立てが倒れ、入れてあったペン類が天板の上に広がった。怖いものはなにもない気がした。見据えた母親の顔は、こわばっていた。ますます腹が立った。プラスチック製の持ち手を握りしめ、一歩詰め寄る。母親は一歩後退した。

 視線をターゲットに据えたまま、母親を刺し殺すシミュレーションを脳内で行う。物理的に追い詰め、鋏を振り上げるところまでは上手くいった。しかし、振り下ろすことができない。言葉では説明できないなにかが邪魔をしている。

 わたしは一生、母親の支配から逃れられないの?

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