無駄

 姫は最寄りのアンドロイド修理センターに搬送された。救急車の手配や救急隊員への指示は、すべて黒服の男女が行った。

 黒服の男女は沈着冷静に行動し、姫を助けるために必要な作業のすべてを迅速に完了させた。彼らは、あるいは大人型のアンドロイドだったのかもしれない。そう仮定した場合、保護者という立場にもかかわらず、一切の機能を停止した姫を前に、立ち尽くすばかりのわたしに注がれた彼らの眼差しは、いささか人間的すぎる気がしないでもなかったが。

「姫ちゃんは、人間でいえば脳に該当する部位が激しく損傷し、このままだとほぼ百パーセントの確率で、蓄積されたデータのすべてを失います」

 吐き気を催すほど清潔な診察室で、娼婦に白衣を着せたといった雰囲気の女性医師は、淡々とわたしに説明する。

「データを繋ぎ止めるには、手術をするしか方法はありません。成功率は九十パーセント前後でしょうか。ただし、手術には莫大な費用がかかります。姫ちゃんの場合だと――」

 女性医師は具体的な金額を告げた。わたしは黙っている。心の動きを読みとろうとするように、数秒にわたりわたしの顔を凝視してから、言葉を続ける。

「姫ちゃんは購入してまだ五日、でしたね。データを初期化するほうが安上がりですし、医者としてはそちらをおすすめします。もちろん、保護者のかたのご意向が最優先ですが」

 椅子から立ち上がり、本棚に平積みにされていた薄手の冊子をとってわたしに手渡す。細かな文字がひしめき合っていて、内容がまったく頭に入ってこない。表紙の中央で、古めかしい筆致で描かれた女の子が笑っている。

「手術に関するパンフレットですので、よく読んだうえでご判断ください。ただし、時間が経てば経つほどデータが失われる確率が増すので、早めに決断なさったほうがよろしいかと思います」

 この女の子のイラスト、あまりにも不細工すぎる。姫が描いた絵のほうがよっぽど上手だ。

 頭の片隅でそう思いながら、「分かりました」と答えた。


 姫を修理するか、しないか、だって?

 そんなもの、したいに決まっている。

 姫はわたしの大切な家族だ。

 姫の親として相応しいのか。子どもを持つ資格はあるのか。自分本位な動機から姫人形を家族にすることの是非。問題は様々あるが、購入が成立した時点で姫はわたしの家族だ。大切に決まっている。修理したいに決まっている。記憶を繋ぎ止めたいに決まっている。まだまだ姫といっしょに生きていたい。

 ただ、お金がない。

 わたしは働いていない。収入がない。生きていくために必要なお金はすべて、母親からの仕送りで賄っている。生活費や光熱費やその他諸々にかかる費用以外は、すべて貯金していたが、姫を購入したことでゼロになった。

 だから、手術にかかる費用を自力では捻出できない。

 頼める人間は、今現在のわたしの扶養者である母親、ただ一人。

 ――しかし。

「ああ……」

 一人きりの部屋で、わたしは頭を抱える。心臓の拍動が不安定だ。問題が解決されるまでこれが続くのだと思うと、気分はますます沈む。

 ひとえに憎悪している人間に頭を下げるのが嫌なのだと、最初は思っていた。しかし、やがて、憎悪している人間の援助を受けなければ生活していけない事実、それが受け入れがたいからでもあるのだと気がつく。

 さらに言えば、援助を認めてもらえる可能性は限りなく低い。

 生活費や光熱費ならばともかく、娘が勝手に購入し、勝手に壊した姫人形の手術費用を負担するなんて、とんでもない。あの女はきっとそう考えるはずだ。

 姫はもはや、失ってはならない存在だというのに。

 葛藤と煩悶は、日曜日の半日――姫が倒れてからの十数時間を易々と消費した。浅い眠りを何度か挟んだだけの夜が明けた。

 それでも結論は出なかった。


 腹の虫が空腹を訴えた。

 姫が不在、実際の面積よりも広く感じられる寝室で鳴ったその音は、音量のわりに耳障りに響いた。

 情けないような、哀れなような、滑稽なその音を聞いた瞬間、はたと気がつく。そういえば、遊園地内のレストランで食事をして以来、なにも食べていない。

 なにか胃に入れなければ。

 身内から発せられた警告に、わたしは半自動的に従おうとした。しかし、布団を出て、部屋のドアノブに手をかけた瞬間にフリーズしてしまう。

 食料を求めてキッチンへと足を運べば、姫といっしょに買った食料品が視界に映ってしまう。姫が選んだ、菓子パン。姫に喜んでほしくてこっそりかごに入れた、ハート形のホワイトチョコレート。姫と言葉を交わしながら陳列棚から手にとった、オレンジジュース。姫を想起させないものはなに一つないといっても過言ではない。

 今、わたしの隣に敷かれている布団だってそうだ。センターから帰宅した直後は精も根も尽き果てていて、意識することはなかったが――。

 歯を食いしばりながら姫の布団をクローゼットに押しこむ。極力、視界には映さないように。それにまつわる思い出を思い出さないように。

 作業を完了させたときには、肩で息をしていた。ふらつく体を叱咤しながら部屋を出て、トイレで排尿する。顔を洗い、水道水を口にする。部屋に戻って布団に潜りこむ。

「……どうしよう」

 他力本願にしばし待ってみたが、妙案は閃きそうにない。だからといって積極果敢に思索を巡らせれば、ままならない現実に行き当たって胸が苦しくなる。

 寝不足なのが悪いのだ。いったん眠って、目覚めたあとに脳がリフレッシュされていることを期待して――と言いたいところだが、姫の記憶が永遠に失われるまでの時間は、そう長くは残されていない。一分一秒たりとも無駄にはできない。

「母親に……」

 頭を下げるしかない、と口には出したくなかった。それほどまでに、その選択肢を選ぶことへの嫌悪感は激しい。

 そうは言っても、姫の記憶を諦めたくない。悪魔に魂を売り渡してでも死守したい。大切な命のために、死ぬほど嫌なことも我慢するしかない。

「……でも」

 でも、でも、でも。

「ああ、嫌だなぁ……」

 顔を歪めながらも、枕元に置かれた携帯電話を手にする。直後、昨日は母親から電話がかかってきていないことに気がついた。

 すっかり忘れていたが、わたしたちの力関係には微妙な変化が生じていたのだった。姫が我が家にやってきた日、バスルームでの通話で、わたしが母親を一方的に怒鳴りつけた一件がきっかけで。

 あふれんばかりに勇気が漲ったわけではない。母親よりもわたしのほうが力は上だ、という意識が芽生えたわけでもない。ただ、その認識が背中を押してくれたのは事実だ。

 着信履歴を開き、母親の番号をタップする。

 呼び出し音が鳴りはじめたとたん、かけるんじゃなかった、という後悔の念が忽然と芽生えた。

 二回目のコールを聞いたときは、やっぱりやめておこう、切ってしまおう、と思った。しかし、三回目のコールが鳴っても、わたしの指は一ミリも動かない。

 三回目と四回目のあいだで母親が出た。

「もしもし?」

 娘から電話をかけてくるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。なにかの間違いではないか。誰かに脅されて、無理矢理かけさせられているのではないか。そう勘ぐっている声だ。

「あの……。お願いが、あるんだけど」

「なに?」

 警戒感が漲っている。眉間にしわを寄せた顔が浮かぶようだ。

「お願いというのは、お金のこと。毎月振りこんでもらっているお金の他に、ちょっと必要になって」

 返事がない。さっき水を飲んだばかりなのに、なぜこうも喉が渇くのだろう。ミネラルウォーターとは違い、水道水には喉の渇きを促進する化学物質が含まれているとでもいうのだろうか? そんな馬鹿な。いや、馬鹿なのはわたし? ……なぜ母親が馬鹿だという発想を持てない?

「あのね、どうして必要かというと――」

 わたしは話しはじめた。

 姫を購入したこと。姫はわたしにとってかけがえのない家族であること。その姫が、トラブルが起きて壊れてしまったこと。記憶の喪失を阻止するためには大金が必要なこと。わたし一人の力では、とてもではないが期限までに用意できないこと。具体的にいくら必要なのか。

 語り終えても、母親は黙っている。

 全力疾走した直後のように動悸が激しい。わたしは判決が下されるのを待ち受ける哀れな被告人だ。

 あちら側の世界で、発声に備えて軽く息を吸いこんだ気配。

「やっぱり、あなたに自立は無理ね」

 胸を殴りつけられたかと思った。その瞬間だけ心臓は完全に機能を停止し、何事もなかったかのように規則的な拍動を再開する。駆け足で鼓動を刻みたいが、なにかに邪魔をされている。そんな脈打ちかただ。

「結論から先に言ったほうがよかった? お金は出しません。理由も言おうか? 無駄づかいだからよ。機械の人間なんかに高いお金を払って、しかも手術まで? 冗談も休み休み言いなさい」

 無駄。

 姫が、わたしの家族が、わたしの娘が、無駄。

 ……無駄。

「無理なものは仕方ないから、諦めましょう。というわけで、ナツキ、あなたの一人暮らしは今日でおしまい。明日迎えに行くから、それまでに引っ越しの準備を完了させておきなさい。どうせろくな私物はないだろうけど、いるものがあるなら明日の夕方までにまとめておくように。姫人形の廃棄の手続き、買ったくらいだからできるわよね? それも明日までに必ずやっておきなさい」

 通話が切られた。

 ……ああ。あああ……。

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