ふれあい会

 引き続き姫とともにアトラクションで遊びながらも、わたしはうわの空だった。目の前の事象に対する集中力は一定程度確保されているが、ただ姫といっしょに遊びに参加しているだけで、姫といっしょに楽しめていない。

「ミニミニ機関車」に乗ってやって来るマジケンに、「マジケン!」と呼びかけようとしたが、呼びかけられなかった。その一件が尾を引いている。

 わたしがマジケンに向かって声を送ろうとしたのは、ひとえにそうしたかったからだ。

「マジモン」のマジケンは、わたしが子どものころに一番好きだったキャラクターだ。好きという気持ちは、心身の成長に反比例して薄れていき、いつしかわたしの心は彼から離れた。

「犬祭り。」なるイベントが、自宅からほど近い遊園地で催されると知った瞬間、わたしはマジケンが好きだった当時を思い出した。たまらなく彼に会いたくなった。運よく「ふれあい会」に参加できることになった。嬉しかった。思わず「きゃー!」と叫んでしまうくらい嬉しかった。

 好きだったのは子ども時代の話なのだから、マジケンが好きというよりも、懐かしく思う気持ちが強いのだろう。その感情が、わたしを遊園地まで行く気にさせたのだ。

 当初はそう考えていたが、彼を一目見た瞬間、想いが蜜のようにあふれ出した。想いに突き動かされるままに「マジケン!」と叫ぼうとした。

 しかし、叫ばなかった。

 姫がいたからだ。

 娘に等しい存在がそばにいながら、ゲームのキャラクターに我を失って叫ぶのは、恥ずかしいことだ。咄嗟にそう判断し、言葉を呑みこんだ。

 しかし――認めたくはないが――踏みとどまれたのは単なる偶然で、わたしに母親としての資質があったことが要因だとは言えないように思う。

 わたしが姫を購入したそもそもの動機は、広い意味で心の支えになってくれるパートナーが欲しかったからだ。

 パートナーに子どもを選んだのは、庇護するべき存在がそばにいれば、人間として成長できると考えたからだ。

 しかし、我を失って「マジケン!」と叫びかけた事実を思うと、その判断は間違っていたのではないか、という気がしてくる。

 子どもを家族にする覚悟、親になる覚悟、どちらもできていたつもりだ。

 しかし、果たして、覚悟は充分だっただろうか?

「ナツキ! ねえ、ナツキってば!」

 袖を引っ張られる感覚と呼ぶ声に、わたしは我に返った。注意が自分に向いたのを確認すると、姫は土産物店の外壁にかかった掛け時計を指差した。

「マジケンのところに行かなきゃいけないのって、三時からでしょ。あと十五分くらいしかないのに、行かなくていいの?」

「あ……ごめん。うっかりしていたよ。じゃあ、そろそろイベントホールに行こうか」

「うん!」

 袖を掴んでいた手を離し、わたしの手を握りしめて走り出す。

「こら、姫。走ると危ないよ」

 注意をしたが、姫は走るのをやめない。

 わたしはただただ引っ張られる。わたしよりもずっと体が小さく、ずっと体重が軽い姫に、なす術もなく引っ張られる。


「ふれあい会」が始まる十分あまり前。

 会場となるイベントホールの入口には、すでに長蛇の列ができていた。マジケンと触れ合えるのは、今回は百組限定という話だったが、わたしたち以外の九十九組全員が列を作っているような気がした。

「人、いっぱいならんでるね」

「そうだね。もう少し早く来たほうがよかったかもしれない」

 マジケンと触れ合える上限は、一組あたり二分。待ち時間はかなり長くなりそうだ。

 昼食をとったレストランで順番を待っているあいだ、姫は大人しかった。内心ではどうだったのかはともかく、いら立ちを露わにすることは一度もなかった。度を越した待ち時間でなければ、苦痛は訴えないはずだ。

 しかし、そうはいっても、子どもは飽きっぽい。なるべく早く、わたしたちの順番が来てくれればいいのだが。

 イベントホールはホールケーキのような外観の、小屋と呼んだほうがしっくりくるような小さな建物だった。正面に二枚のドアが設けられ、左側が入口、右側が出口になっている。

 二・三分ごとに右側のドアが開き、一人あるいは二人の人間が外に出てくる。みな一様に満足げに頬を上気させている。中には目を真っ赤にして、洟をすすっている者もいる。入れ替わりに、一人あるいは二人の人間が入口のドアを潜り、わたしたちとホールを隔てる距離がほんの少し縮まる。

「ふれあい会」を終えた人々の、満足そうな顔つきを見たり、「凄かったね」などと連れの者と語り合う言葉を聞いたりしていると、本番への期待は否応にも高まる。

 一方で、「自分は姫の親失格かもしれない」という意識に邪魔をされて、まっさらな気持ちでマジケンを待ち侘びることができずにいる。行列が短くなる遅さも相俟って、酷くもどかしい。心模様も、順番待ちの時間も、基本的には気の持ちようでは改善できるものではないだけに、なおさら。

 行列の子どもたちの口から、不平不満が断続的に発信されるようになった。声を上げた者の中には、わたしたちが列に加わった当初、「マジケンと会えるのが楽しみ」という意味の発言をしていた者もいる。

 並んで十分ほどが経ったころから、姫の顔には退屈の色が滲んでいる。わたしとしても、飽きさせないように様々な話題を口にしているのだが、それにも限界がある。彼女はとうとう、わたしがしゃべっているさなかに、口元を掌で隠すという配慮を示しながらもあくびをした。

「ふれあい会」に参加したいと願っていた子どもたちでさえ苦痛なのだから、もともとさほど興味を持っていなかった姫は、そうとう退屈に違いない。

 わたしは姫に迷惑をかけている。

 わたしはほんとうに、この子の母親に値する人間なのだろうか?


 ふと気がつくと、わたしたちの前に並ぶ者は十人を下回っている。

「ナツキ、もうすぐだね」

「そうだね。もうすぐだ」

「『ふれあい会』ってどんなことをするの?」

 公式ウェブサイトに記載されていた情報をもとに、簡潔に説明する。してはいけないことは、体毛を汚す、飲食、時間が過ぎても部屋から出ていかない。できることは、記念撮影をする、体に触る、話をする。

「おはなし? マジケンってしゃべれるの? 犬なのに?」

「しゃべれるよ。普通にしゃべれる。獣じゃなくて獣人だから」

「なにをはなせばいいのかな。ぼく、マジケンのことはよく知らない……」

「話したいことを話せばいいよ。マジケンと対面するでしょ。そうしたら、姫はきっとなにかしらの感想を持つよね。『かっこいい』と思ったなら『かっこいいですね』って言えばいいし、好きな食べ物が気になったなら『好きな食べ物はなんですか?』って訊けばいい」

 内部からの声に呼ばれて、わたしたちの目の前に並んでいた若い女性二人組がドアを潜った。二分ほどが経ち、出口から先ほどの二人組が出てきた。頬を紅潮させ、「凄かったね」「かっこよかった」などと、早口に感想を述べ合っている。

 ――そして。

「次のかた、どうぞお入りください」

 ドアの向こう側から聞こえてきたのは、威厳に満ちた男性の声。姫と視線を交わし、ドアを開けて中に入る。

 天井も壁も床も白く塗りつぶされた、横方向に細長い空間。正面の壁の中央にドアがあり、両脇に男女が気をつけの姿勢で佇んでいる。サングラスに黒いスーツという出で立ちで、男性は屈強な体格、女性は長身痩躯。両者ともにそう若くはないが、中年には達していないように見え、唇を真一文字に結んでいる。

 あのドアを潜った先で、マジケンが待っている――。

 姫の手を引いて黒服の男女へと歩み寄る。タブレット端末を差し出され、当選メールに記載されているコードの入力を求められた。わたしは携帯電話を取り出し、二人からの指示どおりに操作を行う。画面に「送信完了」のメッセージが表示された。黒服の男女はうなずき合い、わたしを見据える。

「『ふれあい会』の正式な参加者であることが確認されました」

「それでは、お入りください」

 男性、女性の順番で述べて左右に退き、両者同時に片手でドアを示す。わたしは携帯電話をしまい、姫に「行こう」と眼差しで促し、手を引いてドアへと歩を進める。ドアノブを掴み、回し、開く。

 十畳ほどの立方体の空間だ。天井も壁紙も床板も、マジケンのイメージカラーであるオレンジ一色。突き当りの壁を背に、瀟洒な洋館に置かれていそうな肘掛け椅子が据えられ、マジケンが腰かけている。肘掛けに右肘をつき、右拳を右頬に宛がい、両脚を優雅に投げ出すという姿勢だ。

 部屋の中は静謐で、自分自身の心臓の音さえ聞こえる。平常よりも速いテンポで拍動している。

 わたしと目が合うと、マジケンは鷹揚なほほ笑みを口元に灯し、手招きをした。それに応じて、姫ともども入室し、後ろ手にドアを閉める。マジケンが立ち上がった。手を繋いだまま彼へと歩み寄る。

「ミニミニ機関車」に乗っているときは気がつかなかったが、マジケンは背が高い。二メートル近くある。四十センチ近く高い位置から見下ろされる形となるが、圧迫感は覚えない。香水らしきミント系の芳香を、淡く、ごく淡く感じる。

 マジケンは姫ではなく、わたしを見ている。

 姫ではなく、わたしを。

「あの……。毛、触ってもいいですか?」

 恐る恐る、わたしは尋ねた。マジケンは口を開かない。しかしその青い瞳は、「触っても構わない」と明言している。

「姫、触ってもいいって。ふかふかの毛、触らせてもらおう」

 声をかけたが、姫は放心したような顔つきでマジケンを見上げるばかりだ。わたしが触るのを見れば、それに倣って触るだろう。姫の手から右手を離し、胸のあたりの毛へと近づける。

 ほんとうは分かっている。わたしが触りたいだけなのだと。

 指先で触れた毛は、柔らかかった。上から下へと弱い力で撫でると、柔らかさをいっそう実感できた。掌でくり返し体毛を感じ、十を数えたところで手を引っこめる。

 鼓動は着実に速まっている。このままマジケンと相対しつづけていては、耐えきれずに破裂してしまいそうだ。しかし、幸福であり不幸でもあることに、許された時間は二分しかない。

 どのくらいの時間が流れただろう。三十秒? 一分? 一分半?

 たしかなのは、まだ制限時間には達していないこと。そして、残された時間はそう長くはないこと。

「あの、わたし……」

 マジケンの目を見つめながら切り出したが、照れくささに言葉に詰まってしまう。それを見て彼は、口角をほんの少し引き上げた。

 ほほ笑みかけてくれたのだ。

 緊張は依然として続いているが、緊張しているなりに肩の力が抜けた。

「わたし、子どものころからマジケンのことが大好きで、ずっと、ずっと、会いたいと思っていました。だから、願いが叶ってとても嬉しいです。嬉しいので、ファンなので、だから、だから――わたしを抱きしめてくれませんか」

 マジケンは小さくうなずき、大きく両手を広げた。わたしは一歩彼へと近づく。

 マジケンは両手をわたしの背中に回し、抱きしめた。

 力強くて、でも優しくて、ふかふかした体毛が肌に心地いい。マジケンの腰に両手を添え、頬擦りをする。

 ああ、来てよかった。

 胸を張って断言できる。今、世界でもっとも幸福な人間はわたしだと。

 長いような短いような時間が流れ、マジケンはわたしから体を離した。そして、姫を見下ろす。

「どれ、この子も抱きしめてあげよう」

 凛とした声で宣言し、その場にしゃがむ。マジケンと姫の顔の高さがほぼ同じになった。わたしのときと同じく両手を広げ、姫と視線を合わせる。

 マジケンの双眸が見開かれた。

「マジケン……?」

 黒い鼻が盛んにうごめく。もう一度呼びかけようとした瞬間、マジケンは言った。

「この子どもはアンドロイドだな。人間ではない」

 思いがけない強い語気に、わたしは息を呑んだ。マジケンは立ち上がり、わたしを睨みつける。

「私は機械風情とは、獣人や人間のように触れ合うことをよしとしない。アンドロイドの幼さに免じて、私と同じ空間に身を置いたことに関しては不問に付してやる。失せろ」

「えっ……。なんで、ですか。アンドロイドだけが駄目なんて、そんなこと――」

「当選メールが有効なのは『一組二名』だぞ? アンドロイドの数えかたは一体、二体、三体――『体』だ。『名』ではない」

 頭が混乱している。返すべき言葉を懸命に模索したが、見つからない。マジケンは舌打ちし、叫んだ。

「失せろと言っているんだ……!」

 胸を強く突かれた。上体が後方に大きく傾く。背中になにかがぶつかった。そのなにかを巻きこむ形で倒れこみ、鈍い音が立った。素早く体を起こし、下敷きにしてしまったなにかを直視して、わたしは絶叫した。

「姫!」

 姫は仰向けに横たわっている。パステルピンクの瞳は灰色に濁り、左側頭部に生じた傷口から、体内に組みこまれた機械の一部が覗いている。

「姫! 姫!」

 身じろぎ一つしない姫にすがりつく。背後のドアが開く音が聞こえた。マジケンは肘掛け椅子に腰を下ろし、深々と息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る