* 1-1-8 *

 豪華であり、荘厳であり、神の御座という権威を象徴するものとしては比類無い。

 天空城塞内の廊下、聖堂といった空間はもちろん、そうした空間を仕切る扉だけをとって見ても、この印象が変わることは無かった。


 しかし、ただそれだけのことでもあったのだ。


 自身の心が湧き立てられるような、感動を与えてくれるようなものを初めて目にした時の驚きや新鮮さは“慣れ”という人間の性質によってやがては“平凡なもの”へと成り下がる。

 夕食の為、ダイニングルームへ向かうフロリアンは周囲の景色を横目にそのような考えを抱いていた。


 僅か2週間。されど2週間だ。どれほど豪華絢爛な内装も装飾も、それだけを毎日眺め続けていれば目も感覚も慣れる。

 どこまでも平凡な男には似つかわしくはない景色だって、それが当たり前のように思えてきてしまうのだ。


 とはいえ、そうした感情はあくまで物質的な景色に対するものであり、ここに精神的な要素が加わってくるとなれば話は異なものである。

 どれをとっても同じにしか見えない豪華な扉の中にいくつか、毎日眺め続けていたとしても変わらずに情熱を掻き立ててくれるものが存在するのだ。


 そして今。フロリアンはそうした自身の情熱を呼び覚ますひとつの扉の前に立っていた。

『この扉は、いつだって他の扉とは違う』

 ゆっくりと扉に手を掛けて一呼吸の内に開け放つ。すると、眩いばかりの黄金色の光が内側から差し込んできた。


 優雅な模様が描かれた壁面に囲まれた明るい室内。

 見渡してもせいぜい百平米ほどの部屋は、天空城塞の規模からいえば大した広さとはいえない。

 しかし、フロリアンにとって、この部屋には自身が求める全てが凝縮されているといっても過言ではなかった。


 黄金色の光が照らす室内の奥に用意された夕食用の丸テーブル。

 清潔な白いクロスの敷かれたテーブルの上には豪華な夕食が並べられ、この後に始まる魅惑の時間を今か今かと待ち構えているようでもある。

 同時に、その奥では煌びやかな金色の髪色をした赤い瞳の少女が静かに椅子に座り、待ち人が来るのを今か今かと待ち侘びている様子も窺えた。


 ……いや。今の彼女は少女というには少し大人びており、大人の女性というには少し若い。


 数年前、初めて出会った時と変わらぬ愛らしさを持ちつつも、それでいて言葉に尽くせぬ美しさを新たに身に纏った“最愛の人”。

 フロリアンは愛する人の姿を視界に捉えると、満面の笑みを湛えて言った。

「マリー、ごめん。待たせてしまった」

 シャワーを浴び、身支度を整えて早めに部屋を出たつもりではあったが、時計の針は指定された午後7時の少し前を指す頃合いになっていた。存外に時間が経過していたらしい。

 しかし、そんなことを気にする風でも無く、少女は非常に柔らかな笑みを浮かべたまま甘い声で応える。

「まだ予定の時間ではない。私が早くに足を運んでしまったというだけのことさ」


 そう言った少女が椅子から立ち上がると、両脇に控えていた二人の女性は深く腰を折り、彼女とフロリアンに頭を下げる。

 その所作を手で制止した赤い瞳の少女は、腰元まで伸びた金色の髪をふわりとなびかせてゆっくりとフロリアンに歩み寄った。

 女性らしい体のラインが見て取れる、気品溢れる黒いロングゴシックドレスが彼女の美しさを確固たるものとしてフロリアンの目を奪う。

 優雅な足取りでフロリアンの元まで辿り着いた彼女は、彼の目をじっと見つめて言葉を続けた。

「なぜなら、早く君に会いたかったからだ」


 囁くような甘美な言葉と共に、柑橘系を思わせる甘い花のような香りがフロリアンを包み蕩かす。

 思わず頬が緩み、少しばかりだらしない表情をしてしまいそうになる。

 高鳴る鼓動に惑わされること無く、気を確かに持ったフロリアンは新世界の王、或いは女王となった彼女の前に手を差し出して言った。

「同じ気持ちだ。いつだってそうさ。いつだって、そうだった。初めて君に会った時からずっと変わらない。そして、今は毎日が夢のようだ」

「夢であってたまるものか。けれど、もし仮に今の全てが夢であったとしても、それが永劫に覚めること無き夢であれば良いと思う」

 差し出された手に自身の右手を重ねた少女、マリアは満面の笑みを浮かべて言ったのだった。


 手を取り合った二人は並び立って歩き、夕食の用意された丸テーブルへと向かう。

 フロリアンのエスコートを受け、元の席に座ったマリアは満足げな表情をして向かいに座ろうとする彼の様子をじっと見守った。


 二人が椅子に腰を掛けると、マリアの両脇に控えていたアザミとアキレアが夕食の最後の用意を整える為にテーブルへと近付き、それぞれのグラスにシャンパンを注いだ。

 メインディッシュに被せられた覆いを外し、完璧に食事の用意が整えられると、二人は何を言うでもなく深々と礼をしてテーブルを離れ、先ほどフロリアンが通り抜けた扉から静かに退室するのであった。

 彼女達の後ろ姿を見送り、扉が完全に閉まった頃合いを見てマリアは言う。


「アザミもアキレアも…… 2週間、毎日これだ。随分と気を使わせているようで、かえって申し訳ない気持ちになることがある。もう少し自我を出しても私は何も言わないというのに」

「当の本人達は気にしていないと思うよ。きっと、アザミさんやアキレアさんにとっては、君の幸せそうな表情を見ることが何よりの幸福なんだろうからさ」

「だから、自身の言葉によって私と君との時間が削がれることを避けたい、か。そうだね。実にあの二人らしい」

 湯気の立ち昇る温かな食事を囲み、そう言って笑い合った二人は早速互いにグラスを手に取り、宙に掲げて乾杯をした。


 上質なシャンパンを一口ほど飲んだフロリアンが囁き声で言う。

「本当に、夢みたいだ」

「一口目で酔ったのかい?」

「常に酔っているのかも。現実と非現実の境界は曖昧で、毎日が浮ついた気分だからね」

「君が幸せそうで何よりだ。ただ、そういう時は普段あまり気に留めないものに注意を向けてみると良い。今、自分が確かに夢ではない時を過ごしているという意識が少し明確になるかもしれないよ」

「例えば?」

 フロリアンが問うと、マリアはグラスをくるくると回しながら言った。

「テーブルの上に装花があるだろう? じっと目を凝らしてごらん」

 言われるがままに、フロリアンはテーブルの上に可愛らしく飾られた装花へ目を向けた。

 白とオレンジ色の花々と、鮮やかな緑色の葉でコーディネートされた装花は非常に上品で、それでいて愛らしさも感じさせる逸品である。

 確かに、いつもは景色の一部として目にしているだけで、特別気に留めて眺めたことは無かったものだ。

 見つめていると心が落ち着くような、不思議な感覚がある。しかし、だからといって装花自体に何か変わった様子が見受けられるわけでもない。

 眺めるだけではマリアが言う意図は掴み取れそうになかった。

 少しだけ困り顔をしたフロリアンを見て、マリアは笑いながら言う。

「その装花自体に変わったところがあるわけではないんだ。ちなみに、それをアレンジしたのは誰だと思う?」


 質問を受けたフロリアンは、再び装花へ目を向けて考えた。

 天空城塞の豪華な装飾と同じく、きっとアザミの持つ力で生み出された代物だとしか思っていなかったが、マリアの口ぶりからするとどうも違うらしい。

 ただ、彼女自身が作って飾ったということもないだろう。もし仮に、そうだとすれば“見た瞬間に気付く”。


 では、一体誰が?


 にやにやと笑うマリアへ視線を向け、フロリアンは言う。

「見当がつかない。アザミさんが用意したものだと思っていたけど、そうじゃないんだろう?」

「その通り。この装花はね、毎日ホルス達が用意してくれているものなんだ。中でも特に、ホルスにとっては立派な日課のひとつなんだろう。他の姉妹やアイリスと一緒に装花を作っては嬉しそうに私にその話を聞かせてくれる」

 そう言ったマリアは柔らかな唇をグラスに押し当て、シャンパンを一口含んでから喉へと流し込んだ。

「ホルスが?」

「そうだよ。今日の装花はホワイトローズとマリーゴールド、トラデスカンチアやオリヅルランでアレンジしたと言っていたけれど、その中に少しだけいつもとは変わった花を混ぜたと言っていた」

「その花とは?」

 少し身を乗り出してフロリアンが尋ねると、マリアはほんの少しだけもったいぶってから言う。

「アネモネ・シルベストリスだ。別名、スノードロップ・アネモネ、或いはスノードロップ・ウィンドフラワーと呼ばれているらしい。私も花のことについてはそう詳しくなくてね、彼女が話した言葉の受け売りでしか話せないのだけれど」

 その名前を聞いてフロリアンはぴんときた。

「トリッシュの名前?」

「そう。姉の名の由来となった花を密かに混ぜたのはほんの遊び心だそうだ。ちなみに、人がこの花に与えた花言葉は“清純無垢”や“期待”といったものらしい」

「まさか、僕がそのことに気付くかどうかを――」

「期待した、のかもしれないね? 君が思う以上に、君は彼女達から慕われているらしい」


 マリアはそう言うと、皿の上に盛られた柔らかな肉をナイフで丁寧に切り取り、フォークで小さな口に運ぶと、美味しそうにその味わいを楽しんだ。

 改めて装花をじっと観察してフロリアンは言う。

「確かに、夢じゃないんだな。色々な人の気持ちが籠っている。それは決して幻なんかじゃない。きちんと、ここにあるものだ」

「目に見えるものだけが全てではない、という言葉はアヤメとアイリスがよく言うが、まさしくその通りだと私も思っている」

 微笑みながら言うマリアを見やりながら、フロリアンも彼女と同じように柔らかな肉にナイフを入れ、それを口に運び至極の味わいを楽しんだ。


 ゆったりとした時が流れる中、ふいにマリアが言う。

「しかして、フロリアン。少しやつれているように見える。何か気掛かりなことでもあるのかい? そう。今の現実が全て夢ではないかと思うほどに、君の心情を悩ませる何かが」

 この言葉を聞き、フロリアンは今まさに呑み込もうとしていた肉を思い切り呑み下すことになりむせかけた。

 とっさに水の注がれたグラスを手に取って喉に流し込む。

「慌てて食べなくても大丈夫だよ。料理は逃げたりしない」

 愛らしく笑いながら言うマリアであったが、次の瞬間には少し真剣みを帯びた表情をして言う。

「フロリアン、私の前で隠し事は通用しない。例え君が世界にたったひとりしか存在しない特別な“インヴィジブル”だとしても、私にとってはそう意味のあることではない。なぜなら、別の君の在り方からその心情を汲み取ることなど、私にはいくらでもできるのだから」

 実に彼女らしい言い回しだ。遠くて、近い。敢えて遠回しに言うようで、端的に局所を突くような物言いである。


 未来視や過去視といった異能が通じないという特異体質。

 グラン・エトルアリアス共和国でアンジェリカに指摘されて初めて知った事実だが、先にマリアが言ったことはそうした体質がどうという話ではない。

 単純に“愛する人のことで、わからないことなどあるものか”という彼女の言い分が口に出されただけなのだ。


 フロリアンはフォークを置いて言う。

「夢を、見るんだ。自分の夢ではない、他人の夢を」

 その言葉に、マリアはナイフとフォークを置いて静かに彼の話に耳を傾けた。

 シャンパングラスを手に持ったフロリアンは軽く回しながら続ける。

「他人だが、とても近い。僕にとってはかけがえのない人の夢。だけれど、それはとても悲しい夢だった。もし仮に、僕の見た景色の全てが現実に起きた出来事だったとすれば―― 僕はどういった言葉を口にすべきか見当もつかない」


 すると、小声でマリアが言った。

「悲しいことは過去のものとして、これからは誰もが幸福に満ちた世界を生きることができるだろう。私の千年に渡る理想の果てに、“それ”は成った。

 君が夢に見た人物が味わったような悲しい出来事は、今後の世界では二度と起こらないはずだ」

「そうであるべきだ。そうでなくてはならないと思う」

「けれど、君の中には迷いがある」

 はっとした表情を見せるフロリアンを見つめたまま、少しの間を空けてマリアは言う。


「フロリアン。君は私の理想が間違っていると思うかい?」


 そう言ったマリアは椅子から立ち上がると、ゆっくりとフロリアンの元へ歩み寄り、彼の膝の上に腰を下ろす。

 彼女はおもむろにフロリアンの目の前にあるナイフとフォークを手に取り、柔らかな肉を綺麗に切り分けると、後ろに振り返ってその肉を彼の口へと運んで食べさせ、唇が頬に触れるほど顔を寄せて耳元で囁いた。


「君は自身の心に従えば良い。ここにはその決断を否定する者など、在りはしないのだから」


 しな垂れかかるように体を寄せるマリアの体温が伝わってくる。

 彼女の囁き声と、甘い香りに包まれたフロリアンは、目の前の状況をうまく頭で処理できないほどに心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。

 霞がかかったかのようにぼやける意識の中に、彼女の言葉がこだまする。

 同時にこの時ふと、この場にいない人々の姿が浮かんだ。


 アンヘリック・イーリオンで離れてしまった仲間達の姿。

 ジョシュア、玲那斗、ルーカス、アルビジア、ロザリア、アシスタシア……

 つい一時間ほど前に、自身にはもはや関係の無いことだと忘れようとした人々、事柄の全て。誰かが口にした“人の持つ可能性”を信じ続けた人々。


 この感情が迷いを生じさせているのだろうか。

 マリアには、この迷いの根源となるものが全て視通されているに違いない。



 分からなかった。

 最愛の彼女を目の前にして、理想の世界と理想の生活が目の前にあって、自分の人生にこれ以上の何を望むというのか。

 夢ではない現実がここにはある。戦争によってこの世が終わりを迎えたとしても“これだけがあれば良い”と願ったものがあるというのに。


 何を迷う必要があるのか。


 何を憂い、何を迷い、何を懸念する。


 分からない―― 分からない、分からない。


 そうした思考の中で、先ほどマリアが口にした言葉が思い起こされる。


『ちなみに、人がこの花に与えた花言葉は“清純無垢”や“期待”といったものらしい』


 期待? 何かに期待しているというのか? これ以上、何に?



 フロリアンが押し黙り、思考の迷宮へ囚われそうになっているとマリアが言った。

「正誤は他人が決めるものではない。最後は自身の心が決めることだ。何が間違っていて、何が正しいのか。いつかに話をした、善悪二元論の観念と同じようにね」

 そう言ったマリアはフロリアンの膝から立ち上がると、再び自身が座っていた席へと戻りながら続ける。


「12月25日。その日が真なる神の降誕日となる。四騎士とフューカーシャによる理想実現に向けた用意は着々と整い、今という時分においてもほとんど完璧に整え終わったと言っていいものだ。

 故にこそ、時間はまだある。じっくりと自身と向き合って考えてみると良い。先にも言ったけれど、私は君がどのような答えを己の中に見出したとしても、それを否定することはないよ」


 それまでの間は、君が大切にしてきたものを奪うつもりもない。


 心のどこかに、そのような声が聞こえた気がした。


 フロリアンがはっと意識を現実に引き戻すと、視線の先には言葉を言い終えたマリアが再び席へ座り、シャンパングラスを手に持つと最初と変わらぬ笑みを湛えてそれを口へと運ぶ様子が見て取れる。


『夢、現実。理想、現実。どこまでいっても交わるはずのないものが、今確かに――』


 言葉では言い表すことの出来ない、複雑な感情が再び頭の中を支配する。


 そして、この時。

 フロリアンの脳裏には先程は思い浮かばなかった一人の人物の姿が思い起こされた。


 かつて、光の王妃と呼ばれた美しき人の姿。

 しかして、今や漆黒の影に囚われ見るも無残な異形と成り果てた“機械の神”の姿が。



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