* 1-1-7 *

 グラン・エトルアリアス共和国、エトルアリアス城塞アンヘリック・イーリオン内にあるテミスの一柱が支配する居城。サウスクワイア=ノトス。

 或いは、真偽の大聖堂と呼ばれる巨大な空間に三人の人間の姿と、1つの怪物の姿がある。

 赤く鬱蒼とした光に包まれた、怪しく不気味な雰囲気を醸成する研究施設。

 無機質なビープ音と、規則正しい明滅を繰り返す機械群に囲まれた部屋の中で、伸びきった赤髪を垂らした女性が真剣な眼差しをモニターに向けたまま、それをじっと見据えている。


 彼女の背後に立つ二人の人物もまた、彼女と同じようにまじまじとモニターを見つめ、映し出されるものを観察しようと視線を釘付けにしていた。

 年齢の割に、随分と若々しさを感じさせる眼光鋭い男性が言う。

「何にも見えませんな。先程から黒い映像を眺め続けるばかり! 画面に反射する己の顔を眺めて楽しいことなどありますまい! お美しい御二方と吾輩の顔は異なりますが故。 アビガイル殿、これを続けて本当に得られるものがあると?」

「相変わらずやかましいな、君は。そういう口数の多さは演説の時の為に取っておくと良い。自分の顔が不満なら、イザベルの可愛らしい顔を眺めていることだ。君の顔とは違って、絶大な癒しが得られるだろうさ」

「これはこれは! 手厳しい! いやはや、吾輩はこういったシチュエーションというものに不慣れであるが故! どうかお許しを。偉大なるテミスの一柱、アビガイル殿!」

「手厳しいも何も、自分から言い出したことだろうに。おい、アティリオ。冷やかしをするならここから叩き出すぞ」

 アビガイルと呼ばれた赤髪の少女はくるりと後ろを振り返り、先ほどから大きな声で喋り続ける男へ目を向けた。

「一国の大統領たる人物に、こうも落ち着きが無いのは如何なものか。アンジェリカはなぜこんな男をこんな立場に…… いや、違うな。君の選出にはアンジェリカの意思は関係なかった。共和国国民の意志の総意だったか。それでも解せないが」

 そう言ったアビガイルは右手をさっと掲げ、指先を弾く態勢を取る。

 すると、アティリオと呼ばれた男の後ろに佇む大きな黒い影が一歩前へ歩み出た。


 兵士の動きを察知した男は叫ぶように言う。

「ストップストップ! ノンノン! それだけはご勘弁願いたい! 自国の兵士に退場させられる大統領など、そのような不格好を晒したくはありませんからなっはっはっはっは!!」


 高笑いにも似た盛大な声を上げる男。

 グラン・エトルアリアス共和国大統領であるアティリオ・グスマン・ウルタードは全くもって反省の色など見せずに言うが、その様子を見たアビガイルは視線を男の傍らに佇む少女へ向け直して言った。

「大統領はどうやら、本当にここから叩き出してほしいようだ。君はどう思う、イザベル。この男を今すぐにここからつまみ出した方が物事がうまく運ぶと思わないかい?」


 大統領の隣には、緩やかなウェーブのかかった綺麗なダークブラウンの髪をセンターパートで分け、二つの三つ編みをおさげ風にした髪型の小柄な少女が立っている。

 光の反射によってブラウンにもグリーンにも、或いはゴールドにも見える珍しいヘーゼルの瞳を持つ可愛らしい少女は困り顔をして返事をした。

「いいえ、私は御二方に意見を具申するほど大層な身分ではありませんから。テミスの一柱たる貴女にも、公国の顔である大統領にも私個人の意見を申し伝えるなど恐れ多い」

「はぁ…… 優等生だねぇ? イザベル。立場の話を気にするなとボクは幾度となく伝えたはずだ。既に共和国自体も少し前とはまったく違うものになっているのだから、特に何を気にするようなこともないだろうに」

 感心するような、それでいて嘆息するような。中途半端な溜息を洩らしつつアビガイルが言うと、大袈裟に頷きながらアティリオが言った。

「左様、左様! その点で言えば、吾輩もアビガイル殿に同感ですな!」

「君、さっきから聞いたこともない一人称を使うが、前からそうだったかい?」

「ぬぅ! 話の腰を折られましたか。先程より何一つ進まぬ話の果てが、よもや私めの一人称に帰結するとは! これには吾輩も驚愕でございますればっはっはっは!」

「あぁ、やかましい。そして、どの口が言う……」

 アビガイルは呆れ果てた表情を浮かべ、もはや何も言うまいという様子を見せて再びモニターへと向き直った。


 二人のやり取りを眺めていたイザベルが言う。

「私は意見を申し上げることはしませんが、お二人がそのように楽し気に話をされているのは良いことだと思っています。以前は、このような雰囲気の中でお話されているところを見たことがありませんでしたから」

「そういうものかい? まぁ、そうかもしれないね。ヘタレ大統領はシルフィーには近付かなかったから、そもそもアンヘリック・イーリオンを訪れること自体珍しいことだった。

 ここを訪れるとしたら、そう。リカルドの酒の誘いに応じる時か、何かやらかして笑顔のアンジェリカに呼び出された時のどちらかだった」

「リカルド殿との晩酌は実に楽しきものでありましたからな。そこに加えて、あぁ、アンジェリカ様、アンジェリカ様…… 御二方と杯を交わした日のことは永劫忘れませぬ。

 しかして、おぉ……! 麗しきテミスの一柱! シルフィー殿。恐れ多くも、吾輩はあの御方にうまく話し掛けることもできませんでしたな。理由は明白! 気後れというもので」

「針小棒大な。いちいち大袈裟に言う。けれど、シルフィーは自身の容姿に関してどんな男が何を思っているかなんて気にしない質だったと思うが。慣れてただろうからね」

「否、否。美しい容姿のことを言っているのではありませぬ。あの方が身に纏う空気、常人とはまったく異なるオーラとも言うべき雰囲気に圧倒されていたまでのこと。それはアンジェリカ様が纏われる重圧とは異なものでありました。あの方を眺めていると、同じ人の身でありながら、自身が随分と矮小な存在に感じられたものです」

「そうか」


 アビガイルは囁くほど小さな声で言った。


 テミスの一柱。シルフィー・オレアド・マックバロン。

 彼女は既にこの世に存在しない。

 2週間前、アンヘリック・イーリオンにて機構、ヴァチカン、国連の一行と交えられた戦火の折、ヴァチカンと機構の三人を相手取って戦ったシルフィーは清廉なる蒼炎の狂気という異能の前に倒れ、殺害されたのである。

 彼女のことを友人、親友といった言葉を越え、自身にとって家族にも等しいかけがえない存在だと感じていたアビガイルにとっては、永劫消えることのない傷となって心に残り続ける出来事となった。

 最後に見た光景を思い出す度、胸が締め付けられるような感覚に陥る。


 この2週間の間、彼女の名前が話題に出ようとも変わらず気丈に振舞い続けていたのだが……

 今の話を聞き、どうあっても埋めることの出来ない心に空いてしまった穴に、気持ちを呑み込まれそうな感覚に襲われた。

 そのことに気付いたイザベルが言う。

「アビー。シルフィー様はいつまでも私達の心の中に。私達が忘れさえしなければ、いつでも会うことができます」

「実に、実に科学的ではない空想の世界の話だ。夢の中で死者に会うなど、おとぎ話でしか有り得ない」

 天才的な頭脳を持つ、科学者相手に言う言葉ではなかったかもしれない。

 アビガイルの言葉を聞いたイザベルは、先の言葉が失言だったと思い詫びようとするが、当のアビガイル本人が先に口を開いて言った。

「でも、たまにはそうした言葉に縋るのも、ありだな」


 少し前なら、彼女の口からは絶対に出なかっただろう言葉。

 アンジェリカを失い、シルフィーを失い、これまで総統やテミスの背負ってきた使命を一身に背負うこととなった時から彼女は、アビガイルは変わった。

 これまでは、研究以外のことなどどうでもよいと言うのが彼女の口癖であったはずなのに、今ではそうした言葉を一切語ろうとはしない。

 イザベルは黙したまま心の中で思う。

『本当に、お優しい方。これまでも、決して他者の命や他人の背負うものを軽んじてこられたわけではなかったに違いない。ただきっと、不器用なだけなのね』


 アビガイルが消え入りそうな声で言い、やかましいほどに大声を張っていたアティリオも頭に手を置きながら何と言うべきか迷いを見せる静けさが研究室を包み込んだ。


 と、その時。


 先程まで黒い映像以外に何も映っていなかったモニターに突如として緑色の波形データが表示され始めた。

「おぉ、おぉ! ついに何かを捉えましたか! して、この蛇のような線は!?」

「しっ、静かに」

 感情を昂らせて言うアティリオを咄嗟に制止したアビガイルはそのまま沈黙を守るように促し、これ以上口を開けばノトスから叩き出すというジェスチャーを送った。


 波形データの表示されるモニターを、三人は息を呑んで見つめる。

 やがて、スピーカーから流れてきた音声に耳をそばだてて聞き入った。


『初めまして。姫埜玲那斗です。ロックフェルト議員、貴方とお話する機会が持てて光栄です』

『パーフェクトタイミング。いや、結構結構。それと、あまり畏まる必要もない。ラーニーの友人だというのなら、その時点で私の友人であるも同義。チャールズと呼んでくれて構わないよ』

『恐れ多い。今は先のように呼ばせてください』

『ふむ、それも構わない。ところで―― なるほど、そうか。今君達はリナリア島にいるわけか。行き先、潜伏先として妥当といったところだな』


 静かに耳を傾けていたアビガイルが小声で言う。

「彼らのスマートデバイスの通信傍受。ようやく掴んだぞ。彼らの所在を」


 そう。三人が目的としていたのは彼らマークתの所在を掴むことであった。

 アンヘリック・イーリオンを脱出した彼らがどこに向かったのか。

 調査した限りではセントラルに戻った様子は見受けられなかった。かといって、どこかの国へ入国したという形跡も見られない。

 そのように、忽然と姿を消した彼らを探し続けて2週間余り。探し出す為には彼ら自身が尻尾を出すのをひたすらに待つしか無かった。

 彼らがアンヘリック・イーリオンを訪れた際に発していたデバイスの情報を解析し、同一の通信シグナルが探知されるまで待ち続け―― ついにそれが叶った。

 待つ者には全てが与えられるとはよく言ったものだ。

 待ち続けた果てに、ようやく手に入れた情報に希望を見出したかの如く、先程まで消沈していた瞳に再び火を灯したアビガイルが言った。


「アティリオ、数日の間で構わない。共和国の統制をお願い出来るか?」

「お任せあれ。民衆の平穏を守り、彼らの安全を維持する役目であれば喜んで仰せつかりましょうぞ。して、リナリア島へ向かわれるので?」

「当然だ。彼らには何としてでもボク達に協力してもらわなければならない。でなければ、あの忌々しい空に浮かぶ城塞を叩き落とすことは叶わないだろうからね」

「なるほど、なるほど。それにしてもよく出来た話ですな。よもや、潜伏先が彼ら所縁の地であるリナリア島とは。おそらくはヴァチカンの二人もそこにおられるのでしょうな」

「その方が好都合だ」

「おやおや? あまり口の先に出したくはありませぬが、あのロザリアという総大司教はシルフィー殿の――」

 アティリオがそこまで言うと、アビガイルは感情を必死に押し込めるように言った。

「許せるはずがない。けれど、ボク個人の…… 私情を挟んでいる場合ではないんだ。例の四騎士や黒い化物。刻印や天空城塞そのものについての解析もしなければならないのだから。不死殺しの力を持つ奴らの力もある意味では有用だろう。このまま、あのゴスロリ女の理想を完遂などさせてやるものか」


 それは自身に苦汁を飲ませたマリアに対する復讐心からなのか。


 ――いや、違う。


 彼女の言葉に秘められた真の決意の重さを感じ取ったアティリオは、改めて深々と最敬礼をしながら言う。

「承知いたしました。このアティリオ・グスマン・ウルタード。グラン・エトルアリアス共和国国民の代表として、貴女様の留守をしっかり守るとお約束いたしましょう。

 付け加えるならば…… そう。そうでなければ、アンジェリカ様にも顔向けできませぬが故」

「言ってくれる」

 そう言ったアビガイルは椅子から立ち上がり、背後の二人に向き直って言った。


「アティリオ。共和国内に顕現させているアムブロシアーと、周辺海域に展開している艦船群の指揮権を君に預ける。そんな状況にならないことを祈るが、もしもの時はうまく使いこなして見せろ。

 イザベルはボクと共にリナリア島へ来て欲しい。彼らと対話をし説得をするのなら、ボクよりも君の方が適任だ」

 アビガイルの頼みについて、不安げな面持ちでイザベルは言う。

「説得…… 私に、務まるのでしょうか」

 すると、アビガイルは伏し目がちに言う。

「この2週間、ずっと考えていたんだ。どうしてアンジェリカが君を“特別”扱いしていたのかを」

 その言葉を皮きりとして、アビガイルは自身の中にある考えの全てをイザベルへ打ち明けた。


「知っての通り、君がアンジェリカの特別であったからと言って、別に彼女が他の使用人達に冷たかったわけではない。

 むしろ使用人や兵士に対して、アンジェリカはボクらテミスより、あらゆる誰かよりも優しかっただろう。

 この言葉を言えばアンジェリカは怒るだろうが、自身の元に集まった者達に対して彼女は、まさしく慈愛をもって接していた。

 当然、アンヘリック・イーリオンの外で暮らす共和国国民に対しても分け隔てなく優しく接していたことも知っている。

 セキュリティシステムが捉える監視映像を何気なく見ていたから知っていることだが、お気に入りであるネメシス・アドラスティアを建造していた技師たちには、よくお菓子や飲み物の差し入れなんかを直接手渡していた。

 誰に命令し、誰に頼むでもなく、必ずいつも自分から、自分の意志で。

 唯一、アンジェリカがある程度厳しく接していたのはボクらテミスやアティリオのような、自身の直属の臣下という立場にある者だけだったんだ。

 あれでも、そういった点でいえばまさに理想の王というやつだったに違いない。

 けれど、傍目に見ていて君と君の飼い犬であるバニラに対する接し方だけは他の誰とも違うものであったことも明白だ」

 アビガイルは俯けた目をイザベルへ向け、真剣な眼差しで彼女の瞳を見つめながら、その小さな肩にそっと手を置いて言う。

「ボクは思うんだ。アンジェリカには―― いや、彼女の中にいたもう一人の彼女。アンジェリーナには今という未来がある程度視えていた。さらに、この先に起きる未来ですら視通していたに違いない。

 その中で、君という存在が何よりも重要だと分かっていたからこそ、君を守り通す為にありとあらゆる手段を講じてそれを実施した。

 君が教えてくれたメモリーチップに残された予言の映像など、まさにそうした行為の産物だろう」

「どうして、私なのでしょう?」

 敵対する者同士の対話を繋ぐ架け橋という役回り。

 突然背負うには余りにも大きすぎる役回りに、イザベルは肩をすくめて言った。

「明確な理由など知らない。ボク達にわかるはずもない。だが、その答えが間もなく示される時だと考えている」

 イザベルはアビガイルの言葉を聞き、イベリスというあの美しい女性が自身に残した言葉を思い出した。


『あの子は“意図的に”その話を誰にも打ち明けることもなく、むしろこれまで秘匿するように隠し通して来たのだと思う。それはきっと、今のような状況に陥った時に貴女達が最後に隠れることの出来る場所を守りたかったから』


 もし仮に、彼女の導き無く戦場の只中に留まっていたなら、自分はどうなっていたのだろうか。

 そう思った瞬間、ふいにアビガイルが言った。

「ボクは2週間前のあの日、ノトスに押し入った不届き者達から君の所在を尋ねられた。あの時はどうしてそんなことを聞くのか理解できなかったが、今ならはっきりと理由が分かる。

 イザベル。もし仮に、アンジェリカが君を守る為の特別な手段を講じていなければ、君は今間違いなくここに立ってはいない。

 あの日、あの時に奴らの手によって殺されていただろう。

 なぜなら、君という存在が奴らにとってもそれほどの脅威であると認識されていたからだ」


 アビガイルの言葉を聞いた途端、背筋に悪寒が走った。

 先の自問に対する答えが示される。


 もしあの時、イベリスが導いてくれなければ――

 破壊された使用人宿舎の前で、バニラの死を悼んで立ち尽くしていたなら――


 マリアやアザミという者達の手によって自分は殺されていた。

 再び頭の中で、先ほどアビガイルへ言ったものと同じ言葉が繰り返される。


『どうして、私なの?』


 だが、その答えが分かるはずもない。

 アンジェリカが何を見て、何の為にそのようにしたのか。

 理由が示されるのは、アビガイルの言う通り“これから”なのだろう。


「だからイザベル、すまないが覚悟を決めてもらう。

 ボクと一緒にリナリア島へ来て欲しい。ボクからの頼みとしてだけではなく、これはきっとアンジェリカからの頼みでもあると思う」

「アンジェリカ様の……」

「そうだ。あの女は意味のないことや目的の無いことに拘りをもつ質ではない。そこには誰も否定できないだけの理由があって、誰もが納得するだけの根拠がある。

 君にしか出来ない何かを成し遂げてもらう為に、アンジェリカはその役回りを君に託した」

「アンジェリカ様が、私に……」

 消え入りそうなイザベルの声に、アビガイルは言葉なく頷いた。


 アビガイルはアティリオとイザベルの間を通り抜け、さらに後ろに控えていたアムブロシアーの目の前に立って言う。


「イザベル。そうは言っても、だ。誤解しないでほしい。

 アンジェリカはその役割の為だけに君を特別大切に扱っていたわけでは決してない。言葉の選択として正しくはないかもしれないが、ある意味で君は彼女に見初められていたのさ」

「私が?」

 イザベルはそう言葉にしつつ、彼女の言葉はむしろ逆であると考えていた。

 両親を失い、病室で何もかも失った意味の無い人生に悲観していた時に目の前に現れた彼女はとても美しかった。優しかった。

 突然目の前に現れた彼女の姿は天使のように愛らしく、美しく、目にした瞬間、同性であるのにまるで恋に落ちたかのように見惚れてしまっていた。

 そして、『自分のところへ来ないか』という彼女の言葉に促されるがまま、ついていくことに二つ返事で了承したのだから。


 黙り込むイザベルを後ろ目に見ながらアビガイルは言う。

「なぜ君が託されたのかと言えば、もしかするとアンジェリカが見た不幸な未来の中で、たまたまその役回りをこなせる人物が君しかいないというだけの話だったのかもしれない。

 もし仮にそうだとすれば、アンジェリカは柄にもなく随分と悩んだことだろう。

 奴はあぁ見えて繊細な女だ。気まぐれ猫のように振舞っているが、根は誰よりも真面目で融通が利かない。約束と目的の為なら自らの死すらも手段として差し出すような気真面目さの塊。

 最初から自分がその役回りを肩代わりできるのなら、わざわざ君に託したりはしないはずだ」

 その言葉を聞いたイザベルは柔らかな笑みを湛えてようやく返事をする。

「他人に興味が無い、人に興味が無い、研究以外のことはどうでもいいと。そうおっしゃっていた貴女の口から出る言葉とは思えませんね」

 本当は誰よりも優しい御方。口にこそ出さなかったが、言葉尻の笑みで勘付かれたか。

 アビガイルが気恥ずかし気に言った。

「そういうんじゃない。ボクは誰よりも薄情な人間だ」

「どうでしょう。私はその言葉を否定します」

 そう言ったイザベルはくるりと後ろへ振り返り、吹っ切れたようにアビガイルへ言った。


「アビー、行きましょう。彼らの元へ」

「ありがとう。君の決意に感謝する」

 同じく後ろを振り向いたアビガイルはイザベルの目を見つめて言った。


 その時である。

 イザベルの隣に立つアティリオが、今まで何か言い淀んでいたことを言い出せなかったという風に話し始めた。

「あー、話の腰を折るようで誠に申し訳ない。少し、吾輩にはなぜイザベル殿がその役回りを担う者であるかについて心当たりがありまして」

「どういうことだ?」

 イザベルよりも先にアビガイルが言う。

「イザベル殿。其方の出自に関わることかもしれませぬ。両親のことについて、今となっては知る術もありませぬが、残された“名”について読み解けば一つの答えも出ましょう」

「名前? イザベル…… という名前について?」

 イザベルが言うと、アティリオは首を振って言った。

「両親が其方に与えた、その素敵な名前は知っての通り“神は私の誓い”を示すヘブライ語でありましょう。しかして、ここで言うのは姓の方であり――」

 アティリオは再び言葉を濁して言い淀んだ。

 彼の言葉をヒントにアビガイルが言う。

「マスキール・パルシャー。マスキールとは同じくヘブライ語で〈黙想の詩〉、導く者という意味か。パルシャーはモーセ五書に関わりのある言葉だったと記憶しているが」

「アンジェリカ様は、其方に会う前から何かを直感していたのかもしれませんな。生まれながらにして、そういった使命のような…… 元々が凡夫である吾輩が言うのも憚られますが、運命を背負って生まれてきた者というのは存在すると思います」

「お前が凡夫だと?」

 顔をしかめて言ったアビガイルを宥めるようにアティリオは言う。

「アビガイル殿、今気になさることではありますまい」

「あぁ、そうだった。すまない」


 アティリオはうまく言葉に出来ないことを詫びるように続ける。

「いずれにせよ、ただ其方に出番が巡ってきただけのことかもしれませぬ。吾輩から伝えられることは一つ。背負うものが重くとも、気を楽に持って臨みなさい。其方の周りには多くの人々の支えがあることを、ゆめ忘れぬよう」

 珍しく落ち着いた口調で言うアティリオに、イザベルは静かに頷いた。

 話を聞いていたアビガイルは気色の悪いものを見たとでも言うようにしかめっ面のまま言う。

「もっともらしいことを言う。普段からそのように落ち着いていれば、少しは周囲の尊敬も集められるだろうに」

「落ち着く? テミスというのはどうしてこう、いつもいつも無理難題を仰せなのか」

「テミスだからに決まっているだろう?」

「ご尤もで」

 言葉を交わすアビガイルとアティリオは互いを見やって軽く笑みを見せた。

 いつもにも増して軽快なやり取りをする二人を見たイザベルもそれは同じである。


 だが、笑みを見せたのは一瞬。

 次の瞬間にはアビガイルは後ろを振り返り言い放った。

「こちらも自衛戦力は用意しておきたい。彼らを共和国へ連れてくることも踏まえ、トリートーン、ロデー、ベンテシキューメーで出る。航空機で赴いて、空から撃ち落とされては適わないからな。ゆっくりとした足取りになったとしても、アイギスを常時展開した艦船の防御網程度は最低でも必要だろう。ただ、そうなると共和国の防衛はネーレーイデスのみとなる故、要塞のアルゴスを用いた警戒は常に厳としろ。カローンは常に発進待機させておけ」

「うまく使ってみせましょうぞ」

「それとアティリオ。コクマーに滞在しているアンジェリカの様子もそれとなく確認してほしい。本人はまだ無理でも、リカルドがある程度答えてくれるだろう」

「おぉ…… アンジェリカ様、アンジェリカ様。どうか、再び我らの元へ」

「ボクにではなく本人に言え。君が言うのなら、多少は喜んでくれるだろうさ。多少はな」


 そう言ったアビガイルはアムブロシアーとイザベルを連れ、トリートーン他二隻が収容されているドックへと歩み始めた。

 しかし、ふいに足を止めると言い忘れたことを思い出したかのように言う。

「万が一の時、どうしようもなくなればヘリオス・ランプスィを撃て。躊躇無く」

 アティリオは念の為、といった風に確認の言の葉を綴る。

「御意。それが天空の者達でなかったとしても、ですな?」

「連合が今、こちらに仕掛けて来るとは思えない。空だけに目を向けていれば良いはずだ。それと市街地は特に警戒するように。初日だけしか姿を見ていないとはいえ、フューカーシャとかいう黒い化物はいつどこから湧いて出て来るか分からないからな」


 振り返らずに言ったアビガイルはそのままノトスを後にし、イザベルとアムブロシアーも彼女の後に続いた。

 彼女達がノトスから立ち去った後、真偽の大聖堂に一人残されたアティリオは誰に言うでもない独り言をつぶやく。


「それでは、わたくしめも参りましょうか。いいえ、いいえ、吾輩も参りましょう」


 そうして後ろへと振り返ったアティリオは、自らの役目を果たす為に、彼女達とは真逆の方角へと向かって歩みを進める。

 振り向いて間もなく両手を頭上に掲げ、自らオーケストラの指揮を執るように腕を振りながら声高らかに歌う。


 偉大なる作曲家、モーツァルトがこの世に残した名曲に乗せ、聖務日課の賛歌である鎮魂歌〈レクイエム〉を。


Dies iræ,

〈怒りの日〉

dies illa solvet sæclum in favilla: teste David cum Sibylla

〈その日はダビデとシビュラの預言の通り、世界が灰燼に帰す日である〉

Quantus tremor est futurus,quando judex est venturus,cuncta stricte discussurus.

〈審判者が顕れ、全てが厳格に裁かれる時、その恐ろしさはどれほどのものであるだろうか〉


 彼から放たれるオペラ歌手のような太い歌声は、無機質な機械の立ち並ぶノトスの中で何重にも反響して鳴り渡った。

 それはまるで、この後に訪れる未来を予知するかのように、荘厳に。

 自らが、共和国こそが真の審判者であり、【共和国は未だ健在なり】と、今は視えぬ天高き城塞へ存在を誇示するかの如く。



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