第2節 -正刻印 〈スティグマ -ピュシス-〉-

* 1-2-1 *

 新たなる希望、道筋を得た夕べから二晩が明けた10月24日。

 丁度、午前のお茶を楽しむのに適した時間に、ロザリアとアシスタシアは星の教会内に新設された応接室の椅子に座り、ゆったりとしたくつろぎのひと時を満喫していた。


 来賓室の豪華さよりは幾分か地味にまとめられているものの、優雅さと気品を損なわないクラシカルな雰囲気を醸し出す室内は、確かに部屋の名前が示す通り、落ち着いて静かな話し合いをするのに適した趣だ。

 部屋の利用目的を考えるならば、華美さを抑えた一見地味に過ぎる設えも“これが正解”なのだと誰もが納得することだろう。


 あまり飾り気のない、白を基調としたモダンなテーブルクロスの敷かれたテーブルの上には早速というべきか、二人の好物であるチョコレートケーキと紅茶が並べられている。

 繊細な花柄の描かれた、洒落たデザインのカップからふわりとした湯気が昇ると、名もなき銘柄の紅茶から気品溢れる香りが広がった。

 砂糖をじっくりと溶かし終えたロザリアは、淡いオレンジ色が美しい紅茶の水面をじっと眺め、おもむろにカップを手に取って静かに顔へ近付ける。


「とても、良い香りですわね」

 本場であるイングランドの老舗、王室御用達の銘柄を想起させる香り。爽やかで甘酸っぱいフルーツのような、心地よい香りを楽しんでから彼女は言った。

 本心を滅多に見せない彼女が、心の底からの笑みを浮かべて本心を語る。

 まるで、大好きなデザートと紅茶を目の前にして、心をときめかせる少女のように。

 笑みを咲かせて至福のひと時を楽しむロザリアは、一口ほど紅茶を飲んでからゆったりとした所作でカップをソーサーへと置いた。


 カップとソーサーが重なる音が、部屋に心地よい音を響かせる。

 静かにはしゃぐ主君を目の前にしたアシスタシアも、自身のカップに注がれた紅茶の香りを楽しんでから一口程飲む。

 渋みは控えめで、深みのあるコクと香気がもたらす酸味が絶妙な逸品。

 優しい味わいの紅茶を楽しんだアシスタシアの表情は、いつも通りの無表情ではあるものの、日頃よりは穏やかであり、心なしか口元は少しだけ緩んでいるように見える。


 普段より柔らかな表情をした彼女を見てロザリアが言う。

「ゆっくりできる時に、羽根を伸ばしておくことも大事ですわ」

 彼女の言葉を聞いたアシスタシアは、自身の心が見透かされたのだと感じた。


 マリアの理想実現により、世界中が大変な事態に陥っている中で、自分達がこんなところでくつろいでいて良いものなのか。

 優雅なお茶の時間を楽しむ最中にあって、心の中にある呵責のようなものが顔に滲んでしまっていたのだろう。

 自分の主君はそうした感情の機微を見逃したりはしない。


 相手の記憶を読み取り、心を読み取る彼女を相手にして否定の言葉を並べたところで、それらは何の意味のない無駄な抵抗というものだ。

 アシスタシアは“いつも通り”、自身の素直な考えを口にした。

「私達の置かれている状況を思えば、このような時間を楽しむというのも少し気が咎めます」

 そう言っている間にも、ロザリアは小さなフォークを手に持って目の前にあるケーキ〈ザッハトルテ〉をひとかけらほど口に運び、濃厚な味わいを楽しんでいる最中にあった。

 ――とはいっても、目の前にあるそれは非常時用備蓄である“ケーキの缶詰”なのだが。


 まるで緊張感のない主君に対し、アシスタシアは続けて言う。

「紅茶だけでなく、このケーキなども本来であれば災害用に貯蔵された貴重な品だと推察します。それを、元々機構の隊員でもなく、本来食事すら必要としないはずの私達が何の見返りも用意できぬまま頂くなど。本当に頂いてしまっても良いものなのかどうかといった点も含めて――」


 と、アシスタシアがそこまで言った時。ロザリアが口元に人差し指を当てて『しー』っと口を閉ざすように促した。

 実に可愛らしく、朗らかな笑みを浮かべて。

 促されるがままに口を閉ざしたアシスタシアに、食べる手を止めてロザリアが言う。

「見返り、と言いましたか。確かに、今のわたくしどもにはそのようなものを彼らに与えることは出来ないでしょう。先々日の彼らとのお話においても、求められたものを“与えることは出来ない”と突き返してしまいましたから。しかし、その見返りとは何も“今すぐ”である必要はないはずですわ」

「どういう意味でしょうか?」

「言葉通り。時機にわかるときが来ます。とにもかくにも、今は焦っても仕方のない時分です。焦ることによって事態が好転するならいざ知らず。ですが、そのようなことは有り得ません。ただ少々、話を不穏な方向へもっていけば……」

 

 ロザリアはそう言って微笑みを浮かべると、再び手元のザッハトルテを一口ほど口に運び、深みのある濃厚なチョコレートの味わいを楽しむのであった。

 アシスタシアが言う。

「不穏な方向とは、マリア様…… いえ、クリスティー局長のことを指しているのでしょうか。例えば、彼女が私達を殺しに来ないのであれば、それを良しとして時を待てばよいと?」

 フォークを皿に置いたロザリアは紅茶のカップを手に取って静かに飲んでから、うっとりとした表情を浮かべる。

 あくまでマイペースを崩さずにお茶を楽しむロザリアであるが、カップをソーサーに置いてすぐ、じっとアシスタシアの目を見つめて言った。


「要約してしまえば、そう。あの黒い影の怪物もこの島にはなぜか現れない。

 それがマリアの意思であるか否かに関わらず、つまりわたくし達には目前に迫った脅威というものが無いのです。この状況下で何を慌てる必要があるというのでしょう。

 心持ちが穏やかでないという貴女は、何をどうすれば満足だと言うのでしょうか? わたくしどもは未だその術を何も見つけてはいないというのに」


 穏やかに放たれた言葉ではあったが、これまでの口調とは違い、少しだけ〈窘める〉といったニュアンスが含まれているようにも感じられた。

 アシスタシアは真剣な面持ちで彼女を見つめ返す。

 しかし、当のロザリアはすぐに微笑みを浮かべて言い直した。


「待てば、海路の日和あり。確かそのような言葉がありましたわね。故に、今わたくし達に必要なことは、与えられた時間を有意義に過ごすことであると、そう思いませんか?

 言う通り、マリアが今の時点まで自分達を殺しに来ないのなら、今後も流れに身を委ねておけば良いのです」


 否定できない。

 ロザリアの言う通り、焦りを募らせたところで出来ることなど何も無いのだ。

 であれば、心に余裕をもって来たるべき時の為に英気を養うという時間も必要なのだろう。いいや、甘んじてそうするべきなのだ。


 ただ――


 アシスタシアは心から思った言葉を彼女に言う。

「ただ、少々くつろぎすぎでは?」

 その言葉に、ロザリアはにこりと微笑みを返すだけである。


 分からない程度に少しだけ呆れた表情を浮かべつつ、小さなフォークを手に取ったアシスタシアも、咎める気持ちを抑えて自身の前に置かれたザッハトルテを一口ほど口にした。




 そうして、静かな時が数分経過した後。

 ふとロザリアが言う。

「猊下のおっしゃること、貴女はどのように考えていまして?」

 アシスタシアのケーキを食べる手は硬直した。

 ローマ教皇の言葉に対し、自身の考えを述べるなど本来は言語道断ではあるが、主君からの求めであれば応じないわけにはいかない。

 僅かな間ほど思考し、差し障りのない程度の感想を述べる。

「言葉に従うのであれば、私達はここにいる彼らと思いを共有することが難しくなるかと」

「えぇ、きっとそうですわね。そもそも、マリアの実現させた理想の世界とは我らの信仰する聖典に書き記された世界の在り方そのものを具現化したようなもの」

「根本からして、否定することが出来ない」

「その通り。ですが、わたくしが今この場で問いたいのはその事実についてではありません。

 わたくしの立場でこう言うのも憚られますが、わたくしは本国の意志がどうであるかについて、さほど重要視しておりません。今後のわたくしたちの身の振り方に影響を及ぼすものでもないでしょうし。

 ですので、アシスタシア。わたくしは別の事柄を貴女に問うています。今、“貴女自身”はどのように考えているかを教えてくださいまし」

「私自身、ですか」


 躊躇いがちに言ったアシスタシアの言葉に、ロザリアは静かに頷いて見せた。

 少しだけ迷いの表情を見せながら、アシスタシアは言う。

「クリスティー局長のやり方は過ちであると。明確な理由を申し上げられるわけではありません。しかし、心の底からそう思うのです」

 本国の意志。つまりローマ教皇の意思とは真逆の回答をしたことに恐れを抱きつつ、しかして自身の中で嘘のない言葉を綴った。

 すると、ロザリアは非常に優しい口調で問いを返す。


「それは、なぜ?」


 彼女の表情はまるで、我が子の話を聞く母のような面持ちだ。

 アシスタシアは再び何を偽るわけでもなく、己の心の内にある考えを話す。

「私が生まれてからまだ数年しか経過していませんが、ロザリア様と色々な国へ渡り歩き、様々な人々と接する中で気付いたことがあるのです。

 人は、決して一人だけで生きることは出来ないということ。強き者も弱き者も、皆が共に誰かを支え合い、時に自身も誰かを支え、時に誰かに支えられながら生きている。

 人と人との繋がりが、この世界の在り方を形作っていくのだと。その中においては、決して良いことばかりではないでしょう。

 ですが、人の意志と想いが紡ぐ未来の在り方は、クリスティー局長が考えておられるほど歪で暗いものではないと思います。

 語弊を恐れずに申し上げるなら、彼女は先を見据えることなく、過去に縛られたまま生きているに過ぎません。

 未来視の異能を持つ御方であるというのに、真の意味では先を見通していない。いえ、自身の意思と反する未来を視通すことが恐ろしいのかもしれないと、そのようにすら感じてしまいます」


 強き者も、弱き者も。

 アシスタシアの脳裏にはグラン・エトルアリアス共和国を率いるアンジェリカの姿や、アイリスに導かれたミクロネシア連邦の人々の姿、ミュンスターで目撃した人々の姿が浮かんだ。


 彼女の言葉を聞き届けたロザリアは言う。


「そのことを指して、“人の可能性を信じたい”と言った者がおりました」

「はい。イベリス様がおっしゃったことが、今ならよく分かるのです。あの御方がおっしゃったように、人の世は人の力で築き、紡ぎあげていくべきだと。機械の正しさに従うだけの世の中でいいはずがないと、私はそう考えています」

「そう」


 強く、なりましたわね。


 内心で思いながらロザリアは目の前の少女の成長に目を細めた。

 アシスタシアの言葉を聞き終えたロザリアは、意を決したように言う。

「では、こう致します。やはり、猊下とお話した内容を彼らにお伝えするのは止しましょう。ヴァチカンは空に浮かぶ城の意志に協力的であると言えば、余計な感情の齟齬が起きかねませんから。

 ただ、わたくしとしてはマリアの今後の出方を窺いたいという気持ちもあります。本国の意志にも従わず、かといって彼らマークתの意志に全てが全て心を寄せるわけでもなく、わたくしたちはわたくしたちの道をゆく。

 突き詰めると、最終的にそのように振舞うことが彼らに“必要なものを与える”ことにも繋がります」

 結局のところ具体的なことを口にしないロザリアの言う言葉について、いまひとつ呑み込めないアシスタシアではあったが、行動を共にするマークתにこれからも付いて行こうという彼女の意思だけは読み取ることができた。


 しかし、言葉を言い終えたロザリアは少し遠い目線をして言う。

「“どこで道を違えたか思い起こし、最初の誓いを思い出せ。さもなくば燭台から取り除く。だが、貴方がたが分派である者達を憎んでいることを知っているし、私もそれを憎んでいる。故に耳のある者は教会の言うことを聞け。勝利者には命の木の実を食べることを許す”」


 アシスタシアははっとした表情を浮かべて言う。

「聖ヨハネの黙示録」

「はい。エフェソスの教会へ送られた手紙の内容ですが、これと同じ文章の手紙がイタリア政府へ空に浮かぶ城より送達されたと猊下はおっしゃっていました。

 ヴァチカンとは直接的に関係無いとはいえ、ごく身近な国へ送られたものとあって、イタリアという国の在り方について憂慮され、また危惧されていらっしゃいましたわ。

 しかして―― わたくしはその場で自身の考えを述べるような真似はしませんでしたが、本音を言えば猊下のお考えは杞憂であると断言できます。

 何故なら、この手紙の内容はイタリア政府へ向けられたものではないと考えているからですわ」

「イタリア政府へ送付した手紙の内容が、イタリア政府のことを指しているのではない?」

「その内容が“目的の人の耳”へ届けば良いのです。つまり、マリアはこの手紙の内容を誰かに伝えようとして、そうしようと考えた時にイタリア政府へ送ることがもっとも近道であると予言した」

「その誰かとは、一体?」

 アシスタシアが言うと、穏やかさの消えた不敵な笑みを湛えてロザリアが言う。


「分かりませんの? マリアは“わたくしたち”に伝えているのです。“道を違えることなく、最初の誓いである本国の意思に従え。そうしなければ命の灯を消すことになる”と」

「では、分派とは?」


 その質問には答えようとせず、ロザリアは紅茶のカップを手に取って小声で言った。


「玲那斗とアルビジアがイングランドへ向かったことだけが、運命を変えるきっかけとなるわけではありません。

 わたくしの予感が正しければ、ですが。本日、この島に来客が来るでしょう。マリアのような予言ではありませんし、あの子に付き従う姉妹の一人が見せる近未来予測の類でもありませんが、事実として来客は訪れる。

“彼ら”がわたくし達の見せた動きを見逃すはずがない。彼らの来訪、それこそが真なる運命の分かれ道。

 目の前に提示される究極の選択に対して、わたくし達ではなく、マークתがどういった未来を選び取るのか見守ることにいたしましょう」


 ロザリアの表情が紅茶の水面に反射するが、その表情は酷く強張っていた。

 まるで、未来の行方そのものを決定付ける瞬間が間近に迫っていることを悟ったかのように。

 


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