第1章 -天の御座と地と海の獣-

第1節 -理想の中の異物-

* 1-1-1 *

 西暦2037年10月22日 夕刻

 リナリア島にて


 鮮やかな橙光が水平線の彼方に呑み込まれ、青き大海は黒色へと移ろう。

 澄み渡る空から太陽が沈みゆくにつれ、急速に失していく光の在り方は、まるで今の自分達から希望というものが潰えていく現状を表しているかのようだ。


 海風が凪ぐ丘の上に、一人立つ玲那斗は水平線の彼方を睨みつけ、感情の全てを押し殺し物思いに耽った。



 数年前。この島から同じ景色を見た。



 西暦2035年5月。イベリスの魂が、まだリナリア島に縛られていたあの頃。

 千年の呪縛を解き放ち、彼女の心が現世における“真なる自由”を得た日。

 あの日の落日は今日という日と違い、自分達の未来が希望に満ちたものであることを示すかの如く輝いて見えたものだ。


 事実として、それから1年、2年と彼女と共に過ごす中で、自身の心が感じ取った希望というものが嘘ではなかったということも実感した。


 彼女の名は、イベリス・ガルシア・イグレシアス。


 仲間に絶えず笑顔を向け、“人が生きる”とは如何なることなのかを身を以て示し続けてきた麗しき人。民を導く希望の象徴、光の王妃。

 誰にでも分け隔てなく与えられる彼女の優しさ、温かさ、笑みに魅せられた人々は、そこから実に多くの活力を、何より“希望”を見出した。

 時には、見知らぬ誰かの命を、死の淵から救い上げたことだってあるのかもしれない。

 少なくとも、自分を含めた世界特殊事象研究機構の隊員にとって、彼女という存在はまさしく光と呼ぶにふさわしき光輝であったのだから。



 地上は、ありとあらゆる災厄に満ちている。


 自然災害、差別、貧困、飢餓、疫病、紛争、難民問題――


 なぜ終わらない。なぜ解決しない。なぜ、人は同じ過ちを繰り返す。

 ――まるで大衆全てが、無意識下においてそれらの問題が存在することを“当たり前である”と許容しているかの如く。


 人類が抱える終わりなき問題に挑み続ける機構の人間は、知らず知らずの内に誰もが己が一人の無力さを抱き、見えない閉塞感に心を蝕まれていくことが常だ。

 こうした息苦しさは設立以後から現在に至るまで変わらずに存在していると聞く。人類が抱え持つ災厄に終わりが無いのだから、そうした袋小路に行き当たるのは当然の帰結でもあるのだが――


 しかし、そのような感情に少なからず心を支配されていた機構の隊員達は、イベリスという少女と接することによって大きな変化を得た。

 大袈裟に言うわけではない。彼女と接した人々は確かに、己の心の内に沸き上がる力を、希望を感じ取ったのである。


『変わらない世界が悪いのではない。変わらない自分自身が…… そうか。自分にはまだ、こんな力が残っていたのか。これが、彼女が言う“人の可能性”なのか』と。


 だからなのだろう。

 彼女が持つ人柄は、機構における大西洋方面司令 セントラル1のみならず、太平洋方面司令 セントラル2、及びミクロネシア連邦支部の人々までもを一瞬で虜にしたのだ。

 およそ1年前、彼女が初めて自分達マークתタヴの任務に同行してミクロネシア連邦を訪れた日、彼女が連邦支部へ到着した時の歓声は忘れられるものではない。


 風に揺れる白銀の美しく長い髪、輝くような笑顔と共に彼女から香る、キャンディーのような甘い花の香り。

 それらもまた、自分を含めた多くの人々の心に癒しをもたらしたのである。

 まるで野に咲き誇り、人々の心を癒す白き小さな“イベリスの花”と同じように。



 忘れられるわけがない。

 いつだって、常に考えるのは彼女のこと、思い浮かべるのは彼女の姿。

 だというのに…… どれほど彼女の姿を頭に描いても、どれほど彼女を愛しく恋しいと思っても、その姿は今―― ここには無い。





 丘の上に立つ玲那斗は、吸い込まれるかの如く海に落ちる陽の光を眺め、血が滲むほど強く唇を噛んだ。


 グラン・エトルアリアス共和国との最終決戦の日からおよそ2週間が経過した今も、イベリスを守ることができなかったという後悔が、無力さが絶えず心を苛む。

 マリアの手が彼女へ差し出され、彼女が暗い影の中に引きずり込まれていく悪夢のような光景は毎日のように夢にみる。

 あの時自分は、どうして何もすることが出来なかったのか。

 夢から目覚めた後に必ず襲ってくるものといえば、底知れぬ恐怖と虚無感であった。


 朝起きて、隣に彼女の姿が無い日常。

 当たり前の光景がそうではなくなった時、目が捉えるもの全てから色が奪われたかの如く、日々の景色は薄暗いものとなっていった。


 胸に沸き上がる絶望や悔しさを、声に出して叫びたい衝動が込み上げる。


 無念、無力、後悔、悔恨。

 そのような思考に苛まれる玲那斗が自らの拳を固く握り締め、肩を震わせながら自責の念に囚われていた時、ふいに後ろから名を呼ぶ声が大気を震わせた。


「玲那斗、戻って来い。ミーティングを始めるぞ」


 自身の名を呼ぶ男の声に、はっとして自己の深層心理に向けていた意識を現実に戻す。

 後ろを振り返るとそこにはジョシュアの姿があった。


「はい」

 とっさに出た言葉はそれだけである。


 俯きがちに短く返事をした玲那斗はジョシュアの元へと歩み寄り、しかし連れ立って歩こうとするわけでもなく足早に彼の脇を通り抜けた。

 ジョシュアは沈んだ表情を見せる玲那斗の後に続くと、落ち着かない様子で脚を進める彼の隣に並び立ち、敢えて厳しい口調で言った。

「一人きりで抱え込もうとするな。お前だけが先走って何をどう足掻いたところで、何が変わるわけでもない。フロリアンやイベリスが帰ってくるわけでもないんだ」

「わかっています」

 玲那斗は憮然とした物言いで言葉を返した。実にらしくないことだ。

 とはいえ、彼が周囲にではなく自分自身に苛立ちを募らせていることをジョシュアは知っている。

 だからこそ、上官に対し相応しくない物言いをする彼を咎めるでもなく諭すように言った。

「心の中にある感情だけでなく、現実に目を向けろ。空に浮かぶ城もな。二人を奪われて悔しい思いをしているのは全員同じだ。俺もルーカスも、アルビジアもな」


 その言葉に対する返事は無く、玲那斗は何かを言いかけたが、途中でその言葉を呑み込んだようだった。

 長年チームを組んでいれば、言葉を発さずとも互いに理解の及ぶことは多い。今のもそうした阿吽というもののひとつだ。

 ジョシュアもそれ以上に何を言うこともなく、二人は並び立って自分達が拠点としている場所、“今帰るべき場所”へ向かって歩みを進める。


 言いかけた言葉を捨て去り、無言で歩く玲那斗はジョシュアの発した言葉に対し、今から2週間前に自分達が目にした“現実”を思い起こした。


 西暦2037年10月9日 正午過ぎ。

 世界が、人類が大きな変革を遂げることとなった、あの日のことについて。




 第三次世界大戦によって国家という枠組みを滅ぼし、世界が作り上げてきた歴史を破却し、自らが頂点に立ち新たなる歴史の創造を開始すると宣言したアンジェリカ、そしてグラン・エトルアリアス共和国との最終決戦。

 人類史上初めて実現されるかに見えた、一国家による世界征服、独裁の完成。


 しかし――


 共和国が誇る戦略城塞、アンヘリック・イーリオンの頂上に位置する玉座の間にて彼女との最終決戦に挑んでいたマークתとヴァチカンの一行は、アンジェリカの圧倒的な力の前に為す術無く倒れることとなったが、途中でマリアが場に姿を見せたことによって、形勢はあらぬ方向に向け一気に傾くこととなったのだ。


 思い返すも何も無く、運命は既にあの時、全てが決していたと言って良い。


 マリアは玉座の間にて、ありとあらゆる計略を以て共和国総統であるアンジェリカを行動不能に追い込んだ後、国連と機構とヴァチカンを裏切り、挙句にプロヴィデンスとネットワークで接続されていたイベリスの意識を掌握した上で彼女を連れ去った。

 後に、天高くに浮遊する巨大な天空城塞へ至った彼女は、自身の配下とも言うべきアイリスの力を用い、全人類に対して奇跡の実現〈永遠なる理想郷、新天新地へ至る道筋、千年王国の樹立〉を宣言したのである。


 マリアが天空城塞へ立ち去る直前に、身動きができなくなったアンジェリカは臣下に連れられ行方を眩ませた。

 第三次世界大戦における最終決戦が誰も想像しないような思わぬ形で幕切れとなった後、玉座の間に取り残されたマークתとヴァチカンの一行は何とかアンヘリック・イーリオンから脱出を果たし、城塞を囲む巨大な防御壁、ラオメドン城壁まで辿り着くことに成功する。

 そして、サンダルフォンより差し向けられた帰還用の航空機ソニック・ホークに搭乗して共和国からの離脱を果たし、世界連合軍の艦隊旗艦であり、自分達の帰るべき場所であった調査艦艇サンダルフォンへと帰還しようとしたのだが――


 サンダルフォンへと接近してみれば、本来開かれているはずの第三航空格納庫ゲートは閉鎖され、ブリッジへ何度通信を試みても応答する気配がない。

 不審に思ったマークתの一行は幾度となく通信を試行し続け、結果としてようやく応答が得られると同時に、翻って信じられない現実を目の当たりにすることとなったのである。


『緊急伝令! マークתはサンダルフォンへ帰投するな! どこか安全な地域に、すぐに…… 我々に構うな! 今すぐに逃げろ! お前達は此処に帰って来てはいけない!』


 それは組織が流す伝令というものには程遠い、感情に支配された警告の言葉であった。

 この言葉は、繰り返す通信に対して未応答を継続するサンダルフォンに対し、マークתの一行が疑問を抱いていた時に突如として返って来た応答通信によるものだ。

 声の主はサンダルフォンの艦長を務めるフランクリン・ゼファート司監その人の声である。

 彼が感情を露わに言葉を叫ぶなど、日常風景ではまず有り得なかったことだ。

 そのことだけでもサンダルフォンが尋常ではない緊急事態に見舞われていることは明白であり、鬼気迫る声には悲痛さも感じ取ることは出来た。

 予想すらしていなかった返事に戸惑うマークתの一行であったが、しかし。

 彼の言葉に対して状況の確認を問うでもなく、むしろ彼の言葉を聞き届けることもせず、ただひたすらに通信モニターに映る光景に視線を釘付けにするしかなかった。

 悲鳴と絶叫の入り乱れる通信は映像付きのものであったが、そのモニターの向こう側に映し出されていた様子というものが想像を絶する光景であったからだ。


 サンダルフォンの艦橋を映し出した映像の内容とは、次のようなものであった。


 花のような、人の形をした無数の黒い影の化物が、隊員達へと襲い掛かっては無理矢理に右手や額に刻印を焼き付けていく。

 映像の中には、助けを乞う隊員を無慈悲に殺害する映像も収められていたが、その殺害の一連の流れというものが尋常では無かった。

 黒い影の化物の殺戮とは実に“細やか且つ丁寧”であったのだ。

 四肢を削ぎ、動きを封じて感覚器官を削ぎ、急所である心臓と脳を抉り、最後に胴体と首を綺麗に切り離す。

 まるで工業機械が流れ作業で行うかの如く効率的な殺人。 しかも、殺害された人々というものは“最初から存在自体が無かったもののように黒い塵となって消えていった”のである。

 ある者には右手に刻印を。ある者には額に刻印を。ある者には死を。

 影の化物はその場にいる全ての人間が捕捉されるまで同じ動作を何度も何度も、繰り返し繰り返し行ったのである。



 とても現実に起きた出来事とは思えなかった。



 だが、非現実的な光景はこれだけに留まらない。

 見るも無惨な光景に唖然とするマークתの一行に混じり、ソニック・ホークへ同乗していたヴァチカン教皇庁所属の二人の内、アシスタシアは自身が気付いたことを報告するべく皆へ言ったのだ。

『皆さん、外を見てください』

 声に促され、モニターから視線を外へと向けた一行が目にしたものとは、大陸をまたにかける程に巨大な“馬にまたがる騎士”の姿であった。


 白い馬に乗り、弓を掲げ王冠を被る騎士。

 赤い馬に乗り、手に大剣を携えた騎士。


 視線の向きを変えればその先にはまた別の騎士の姿が見て取れる。

 つまり、黒い馬に乗る騎士の姿と、青白い馬に乗る騎士の姿だ。

 それらがヨハネの黙示録に語られる四騎士の姿であると、全員が認識するまでに掛かった時間はさほどでもない。

 なぜなら、その悪夢のような光景を目の当たりにする前に、自分達のよく知った人物が“聖母の御言葉”として、そのことを示唆する言葉を発したことを、否が応でも聞かされていたのだから。


【サタンの滅びである。

 人の子よ、見よ。これが天上の意志であると。

 人の子よ、恐れよ。これが主の威光であると。

 第三次世界大戦の悪夢を生み、驕りによって世界を混沌へと陥れた者達に神の怒り、神の雷霆は注がれ燃え尽きた。

 贖罪無き者に、これより降誕する世界に居場所などないと知れ】



『サタンの滅び、だと?』


 アイリスの言葉を聞いた全員の気持ちを代弁するかのように、顔をしかめてジョシュアが言った。


 彼の言葉は虚しく機内に散り、ただ残されたのは行き場のない感情と行き場を失った自分達だけ。

 モニターの向こう側で起きている惨劇をどうにも出来ず、もはや自分達の帰る場所がなくなった事実を悟ったマークתの一行は路頭に迷う寸前に追い込まれたのである。

 そんな中、沈黙を破って言ったアルビジアの一言によって目的地は決まることとなった。


『リナリア島へ向かうべきだと思う』


 以外に向かう場所など無い。

 この意見にはロザリアもすぐ同調し、疑義を唱える余裕もなかった一向は彼女達の言葉に導かれるように、変革する世界から弾き出されるように、追われるようにしてリナリア島を目指し、辿り着いたというわけである。


 かつて自分達が、イベリスと初めて邂逅した島へ。



 偶然か必然か…… 結果としてリナリアを祖国とするアルビジアとロザリアの意見は正しかった。

 彼女達が何を根拠として〈リナリアへ向かうべきだ〉と言ったのかは定かではないが、リナリア島には自分達が必要とする全てが備わっていたのだから。

 共和国による第三次世界大戦が勃発するより以前から、新興リゾート地としての開発が進められていたこの島には、再生可能エネルギーを主とした発電施設や、建設中のホテルに加え、食料や航空機の燃料といった全てが存在した。

 加えて、マリアが人類に向けて解き放ったと思わしき、あの“黒い影の化物”が襲ってくるようなこともなかったのだ。




 それから2週間余り。

 世界が変貌を遂げる境界となった10月9日から時が経過して尚、幸か不幸か自分達だけはかつての日常とそう大差ない生活をしながら外界の情報収集を行うことが出来ている。


 日々の中でほんの少しずつ分かる情報を集め、事実を元に今後の対策を練っていく。

 たとえ、隔絶された環境の中で得られる情報が取るに足らぬものばかりであったとしても、何も出来ずにいるよりはずっとましだ。


 気の遠くなるような地道な毎日だが、今は状況を受け入れて出来ることを続けていくしかない。

 機構の信念を、己の信念を体現する為に。

 目指す目的を果たすべく、為すべきことを、為すために。





 遠い過去のような、僅か前の記憶の追想を終えた玲那斗は俯けていた顔を前に向け直し、心の中で誓う。


『待ってろよ。イベリス、フロリアン。俺達が必ず、二人を“こちら側”へ連れ戻してみせるからな』



 可能性の失墜を象徴するように、大空より沈みゆく夕陽を背に受ける玲那斗とジョシュアの表情にはそれぞれの固い決意が滲む。

 数十億の人口の中にたった数名だけ残された“希望”という名の異物として。



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