* 0-1-2 *
西暦2037年10月9日 正午過ぎ。
この日、この瞬間を以て、ありとあらゆる日常は遠い過去のものとなった。
『全世界の人々へ告げる。刻限は此処に。これより語られるは聖母マリアの御言葉である。全ての生きとし生ける者よ、心して耳に留めるが良い』
新世界の王に仕える少女は、全人類にそう語り掛けた。
この言葉と共に、人類は過ちの記憶を忘却し、あるべき理想を記憶し、新たなる道を歩み出すに至る。
世界連合とグラン・エトルアリアス共和国との間における第三次世界大戦の最終決戦の最中、正午の鐘が打ち鳴らされて間もなく、約90億の人々の前に“それ”は姿を現した。
天高く浮かぶ威容の城塞。
まさに天空城塞と呼ぶにふさわしき堂々たる神威の象徴は、背後にオーロラを輝かせ、星々の輝きの隙間から流星を落とし、暗き雲を断ち切って人々の前に降臨したのである。
これこそが雲の上に臨在する、神の聖所であると誇示するように。
少女の声に呼応し放たれた雷霆により、グラン・エトルアリアス共和国の保有する海上艦艇群は焼き払われ、瞬時に壊滅。
同時に、巨大な四騎士の幻影が大陸を横断した。
白い馬にまたがる騎士。
赤い馬にまたがる騎士。
黒い馬にまたがる騎士。
そして、青白い馬にまたがる騎士。
勝利の上に勝利を重ね、戦火を呼び起こし、食料の調和を乱し、獣を解き放ち、疫病を撒き散らす。
聖ヨハネの黙示録に語られた災厄の象徴。
この世の終わりを告げる封印が、解放されたことを誰もが予感する。
第一から第四の封印が解き放たれたと同時に、地上には黒い雹が注がれた。
黒い雹とは人間のような、花のような形をした黒い影である。
後に、人類選別機構フューカーシャと名乗る影は生命という生命の前に立ち塞がり、怯え慄く人々に何を思う様子でも無く、自らに課せられた使命を全うする為だけに行動した。
ある者は右手に刻印を施された。
ある者は額に刻印を施された。
そしてまたある者は―― 殺害された。
施された刻印を【正刻印 -スティグマ・ピュシス-】という。
天高きより注がれる少女の声曰く、これは人類が新たなる理想郷―― つまりは千年王国へ至る為に必要な道筋であるという。
差別、飢餓、紛争、疫病、貧困。
刻印を持つ者は人が持つ全ての苦しみから解き放たれる。
右手にこの刻印を持つ者は真なる人として。額に刻印を持つ者は咎人として。
刻印が与えられぬ者は、必要無いものとして歴史という記憶の中から抹消される。
かの預言書にはこう記されていた。
【勝利を得て、白い衣を着るものが命の書から名前を消されることはない】と。
少女の声は言った。
『サタンの滅びである。
人の子よ、見よ。これが天上の意志であると。
人の子よ、恐れよ。これが主の威光であると。
第三次世界大戦の悪夢を生み、驕りによって世界を混沌へと陥れた者達に神の怒り、神の雷霆は注がれ燃え尽きた。
贖罪無き者に、これより降誕する世界に居場所などないと知れ。
全ての人々よ、祈りましょう。祈りの継続によってのみこの奇跡は成し遂げられます。
偉大なる聖母への祈りは拡大し、天の意思に呼応して大いなる我らの神〈デウス・エクス・マキナ〉を目覚めさせる。
神の祝福が貴方がたに注がれますように。
全知全能の神の意志が、貴方がたを導く、“人類を導く希望の光”とならんことを』
前触れもなく人々の前に訪れた現実は、奇跡か、悪夢か。
幼い声が人々に語り掛けて以後から、およそ2週間。
花のような影、フューカーシャが人類を一定の規則に従って分別していくなか、人はその行為を甘んじて受け入れ、ただあるがままに見ていることしかできなかった。
たった2週間? いや、違う。
実に2週間もの間、全ての人々が、国々が、目の前で起きる事象について、ただ指をくわえて傍観することしかできなかったのだ。
およそ90億人といわれる地球人口全ての“選別”が終わるまで、ただひたすらに。
なぜなら既に、各国にはこの非常災害に立ち向かう力は残されていなかったのだから。
同年9月。グラン・エトルアリアス共和国が巻き起こした第三次世界大戦に投入された軍隊戦力は、軍事大国が保有していた戦力のほとんど全て。9割以上であった。
その内、世界連合と共和国が互いに停戦協定を結ぶ瞬間までに、連合から失われた戦力は延べ9割。
人類に残された抗う力は、総力を結集しても実に平時の1割にも満たない。
つまるところ、人の歴史が連綿と積み上げてきた“戦う為の力”はこの天変地異にも等しい奇跡が起こった瞬間には尽きていたのである。
静寂に満ちる地球全土。
対抗する術を見出せず、ありもしない結論を導くための国際連盟の議会は紛糾した。
前提として、グラン・エトルアリアス共和国の勧告に従い、主権を放棄し、武装を解除し、国際連盟をこの時点で脱退していた国家には発言権もなく、尚のこと抗する手段など残されてはいなかったのである。
議会において、ある者は抗うべきだと宣言し、またある者は理想を受け入れるべきだと言う。
中には論点をすり替え、天空城塞への対抗より早期に、戦争犯罪国としてグラン・エトルアリアス共和国の主権剥奪を行うべきであるとの意見も上がったが、突如として降臨した神の聖所を前に、そのような議論が加速するはずもなく、それらの言葉は虚しく宙に呑まれ黙殺されるだけであった。
“存在しない世界”
セクション6という絶対的主導者を失った国際連盟からは、物事を決断する力は失われていたのだ。
一方で、10月9日からそう期間を空けることなく、先進主要7か国には国連が醜態を晒すに先んじてある手紙が送られていた。
手紙を受け取った国々とは、イタリア、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ドイツ、日本であり、これらの国家元首に手紙を差し出した者とは、新世界の頂点に立つ存在。
元国際連盟 セクション6 機密保安局局長 マリア・オルティス・クリスティー、その人であった。
原初の愛を見捨てた教会〈イタリア〉
迫害を耐え忍んだ教会〈アメリカ〉
誤った先導者の改心を必要とする教会〈イギリス〉
誤った預言者の存在した教会〈フランス〉
未だ目覚めることなき教会〈カナダ〉
自制心を固く持ち続ける教会〈ドイツ〉
神に情熱を抱かぬ漫然とした教会〈日本〉
黙示録に語られた内容と、ほぼ同一の言葉をしたためた手紙が各国首脳の元へと差し出され、送り主であるマリアは教会を統治する者へ決断を迫った。
耳のある者は諸教会の言うことを聞け。
勝利者には命の木の実を食すことを許す。
勝利者は第二の死を迎えることは無い。
勝利者には神秘の根源から来る力と、白き石を授ける。
勝利者として待つ者には諸国民を支配する権利を授け、明けの明星を与える。
勝利者は白い衣を纏う権利を得て、命の書から名を消されることは無い。
勝利者は、私の神の聖所における柱にし、決して二度と外へ出ることはない。
勝利者は私と共に、私の座につかせよう。
七つの教会に見立てられた国家は、答えに迷うことは無かった。
迷うことが出来なかった。
予め決まった未来に対する答えを述べさせられているだけに過ぎない。
全てはあの日、あの時から既に結論付けられていた。
グラン・エトルアリアス共和国が第三次世界大戦を起こすよりも前に。
西暦2030年頃から7年の間続いた、患難期の最中に。
リナリア島の怪異が打ち払われた、あの日から――
こうして全人類が無抵抗のままに、静寂のままに、疑念を抱くことすら許されずに、天高くに浮かぶ奇跡の城塞が示した理想を受け入れていったのである。
――ただ一か国と、ひとつの集団を除いて。
忘れ難き遠き日の記憶。
王となった黒き花嫁と、神となった光の王妃はそれぞれの想いを胸に秘めたまま。
ここに天地創造は成った。
刻印を持つ者は言う。
“我らの主なる神よ。貴方こそが栄光と誉と力とを受けるに相応しき御方。
貴方は万物を造られた。御旨によって、万物は存在し、また造られたのです”
そして、刻印を持たぬ者もまた、新たなる脅威を前に言った。
“汝、この一事を忘れるな。千年は一日のようであり、一日もまた千年のようである”
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