白衣を着ない精神科医
伊藤 猫
また今日も彼女は診察に来る
椅子に座り、僕と彼女は対面していた。
リラックスできるように暖色系の薄い壁紙に囲まれた部屋に置かれたアンティーク調の机には彼女について書かれているカルテ。隣には小さな観葉植物が置いてある。
アルミサッシの大きな窓の近くには幾つもの植物が植えられたプランターが置かれており、タグにはハーブの名前が書かれている。おそらく傍から見れば診察室と言うには相応しいとは思えないだろうその場所は心を治療する為の病院の診察室だ。
彼女と対面しているのはいわゆるカウンセリングというやつをする為である。
彼女に出会ってこうして話をするのはかれこれ3年続けている。最初出会った時は彼女も黙りを決め、自分の心を開こうとしなかった。
だがその心を開いた瞬間彼女はここに来る度に泣き続け、僕は色んな関係の無い話を彼女に沢山した。
当時、彼女の腕にはリストカット、首には絞めた痕もあり、自傷行為をするくらい彼女には生きる意味を失っていた。
もう疲れたなら頑張らなくてもいい。誰かに嫌われても僕はいつでも話し相手になるとそう言い続けた。
最初はわずかに薬を処方していたが、今は薬も何もいらない。一般人と変わらない精神状態だ。
「さて、今日のお加減はどうかな」
その話から始まる。ここは病院のようで病院ではない。僕は医者のようで医者でなはいと思っている。お固い肩書きを貰っているけど僕はあえて白衣を着ないでこうして色んな人と話をする。
摘みたてのペパーミントのハーブティーを二人分淹れて一つを彼女に渡した。
「もう、彼とは7年経ちます…『あの子』の事があってもまだ…」
彼女は懐かしむ顔で他所を見る。僕も当時のことを思い出した。
「もうそんなに経つんだね。早いな〜…」
穏やかに笑を浮かべる彼女はあの泣き叫んでいたあの日とは別人のようだ。
『あの子』という存在は戸籍上存在しない人物だ。その子のために彼女とその恋人である彼は苦しんだ。
今の彼女はもう気持ちも穏やかになりこうして話をする必要はないと思うが、今も尚こうして診察料…お金を払って話をしに来てくれる。
僕と彼女はいわゆる医者と患者である。
別に友人としてここじゃない……例えば喫茶店にでもお茶をしながら話をしてもいいと思う。
けどあえてそうしない。お互い友人になるつもりもないし、はたまた恋人になるつもりもない。それに先ほど言った通り、彼女には『恋人』がいる。
そんな平行線のような関係を僕らは続けている。いつの間にか彼女も大人になり、就職をしたと聞いた時は驚いたし、かなり感激した。
「はい……ですが…実はもう彼のことは好きじゃないんです」
僕はハーブティーをすする。
彼女が彼についてたまにしか話さない。『あの子』のことについて色々あったのに未だに恋人として関係が続いていたのは不思議なくらいだったが、『あの子』のためだと言っていた。
やはり関係自体は冷めていたか。はっきりとそう言うのは潔いと感心する。
「それじゃあ別れることを考えているの?」
「いいえ、確かに彼も多分私のこと好きじゃないと思います…ですが…昨日婚約を交わしました」
彼女の左手の薬指を見ると、シンプルなシルバーの指輪が輝いている。
ここに来るのもこれで最後かもしれません。と左手のかざして彼女は言う。
「おめでとう……と言っていいのかな…君はそれでいいの?」
素直に僕は彼女のことを笑顔で讃えた。また僕はハーブティーをすする。
ペパーミントのハーブティーは流石に失敗だっただろうか。ペパーミントはシロップを混ぜて飲むとスッキリとした味で僕は好んで飲むことが多いが、彼女はすんとした匂いで分かったのか一度も口を付けていない。
「私はいつでもそうなる覚悟はできていましたから…彼がようやくその決断をしてくれたのはよかったです」
彼女の笑顔に僕は医者らしからぬ表情を浮かべる。
「前にも言ったけど、いくら同じ相手で同じ母胎でも次生まれるかもしれない子供は『あの子』じゃないよ?」
「わかってます。これはただの罪滅ぼしです」
「罪を下すのは君の両親でも法律でも神様でもないと思うんだけどな…」
彼女には罪がある。ただ彼女がそう言っているだけで、僕は罪とは思わない。彼女の罪を裁く法律も存在しないし、残念な事にむしろこれは『合法』だ。
自身に罪を下すのはどうぞご勝手にと僕は思うが、これで彼女は2年も苦しみ続けた。
僕は彼女のカルテを見る。一番上にその彼女が言う罪について書かれていた。もちろん僕の筆跡だ。
「それでも私は…彼と共に償わなければならない。だからちゃんとした収入を得て、欲しい物をあげたり、やりたいことを次授かる子供にさせてあげたいのです」
「それでいいんだね。まだ遊びたい気持ちもあるんじゃないの?」
彼女はまだ若い。彼も同い年だと言っていた。それくらい彼女達の意志は固いようだ。
「罪滅ぼしでもあるし、夢でもあるからいいの。先生、3年間ありがとうごさいました。これで私も前を向いて歩けそう」
最近になってようやくあの子のために素直に泣けるようになったと彼女は言っていた。
他の医者はまだ治療するべきだという人もいるが、それについて僕はなにも治療する意味はないと思っている。
おそらく彼女の恋人も彼女のように治療を受けているのかもしれない。
もう好意を持っていないだろう彼が彼女にプロポーズをしたのは今も尚彼自身にも罪の意識があったからだろう。
「そうか…もう二度とここに来ないことを祈るよ」
少しだけ怪訝な顔をした彼女は僕の言葉の意を理解したのか、僕に問う。
「今の私はどうですか?」
その問いはおそらく精神に関する事だろうと察した僕は医者らしくそのままの彼女の現状を口に出す。
「もう、君は大丈夫。前を向けることが出来るなら問題ないよ」
「はい」
彼女は会釈をして診察室を出ようとする。
最後だけと僕は彼女を引き止める。
僕は一瞬で何を話すか忘れてしまった。おそらくどうでもいい事なのだろう。流石に何でもないと答えるのは怪しまれると思い、少しだけ考えて彼女に問う。
「『あの子』の名前…お腹の中にいた時付けていたんだよね?何ていう名前だったか…教えてくれないかな」
彼女は困った顔をした。流石に行き過ぎた質問だっただろう。「答えたくなかったら言わなくていい」と付け足すように言うと彼女はまた会釈をして診察室を出た。
一度も口を付けていない冷めたハーブティーを残して。
「次の方を通しますか?」
後ろから看護師が声をかける。「最初見た時から見違えるように穏やかになりましたね、彼女」と付け足した。確かに僕もそう思う。彼女にはもう僕は要らない。
「――――そうだね。次のカルテをちょうだい」
あとこれもお願いと出ていった彼女のカルテと口を付けていないハーブティーを渡した。カルテには昨年辺りから全く書かれていない。だから今回も何も書かなかった。
ハーブティーはもったいないから飲んでくれと伝え、次の人が来るまで自分のハーブティーを飲む。
一人診察室に残った僕は顔を歪ませる。
さすがにペパーミントはキツ過ぎたかな…。
白衣を着ない精神科医 伊藤 猫 @1216nyanko
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