下《優しい男》

 それから数日考えてみた。俺が愛している人はすでにこの世にはいないし、別に蛍のことも嫌いではない……。そして俺は過去の後悔から、彼女に何かしてあげたいと思っている。考えた結果、要するに断る理由がないことに気づいてしまった。

 自分の心が決まってしまうと、今度は一刻も早く彼女に答えを告げたくなり、俺は急いで店を閉めて彼女の部屋へと向かった。


 コンコン……


 蛍の部屋のドアをノックすると、中から彼女の返事が聞こえた。

 俺は扉を開けて部屋の中へ入る。彼女の部屋は電気が消されたままで、窓から差し込む月明りに照らされた蛍がベッドの上に腰かけていた。月明りなのか、それとも彼女自身が放っているのか区別がつかない妖しい光に惹き込まれそうになるのをグッと堪えた。


「……決まりましたか?」


 彼女は、その穏やかな口調に反して挑戦的な目で俺のことを見ている。


「あぁ、決まったよ。俺がお前の餌になってやる。ただし、俺はその辺の男みたいに自分の欲望だけでお前を抱くことはしない。お前が “必要だ” と求めた時にだけ抱くことにする。それでもいいか?」


 蛍は俺の答えを聞くと、満足気な表情で微笑みながら俺に近づいてきた。


「それじゃあ樹さん、本当にいいんですね?」

「あぁ、もちろん……。お前こそ本当にいいんだな?」


 蛍は俺の首に腕を回すと、返事の代わりにキスをしてきた。風呂上りなのにも関わらず彼女の唇はとても冷たい。最初は様子見だったキスも段々と濃厚なものになっていく。


「んんっ……樹さん……」

「……っつ、蛍……」


 月夜の下、俺たちは激しく抱き合った。その行為はこれまで感じてきたものとは比べ物にならない。こんなにも快感を得られるのであれば、彼女にいくらでもエネルギーを吸い取られても構わないとまで思える程だ。

 そして俺は、蛍の本当の目的を知らないまま彼女の身体に溺れていくのだった。

 


 翌朝、朝日が眩しくて俺は目を覚ました。腕の中では蛍が裸のまま静かな寝息を立てて眠っている。


「んん……、樹さん、おはようございます」

「おはよう、蛍」


 間近で見る彼女の寝顔は “かつての恋人あかり” そのままだ。愛おしさが溢れ俺は蛍を抱き寄せた。


 一度抱き合ってしまえば、二度目、三度目はあっという間だった。『蛍が求める時にだけ』なんて約束はとっくに反故にされ、時間さえあればお互いを求めあった。

 抱き合う回数が増える度、俺たちのキョリは縮まっていくように思えた。それは身体だけではなく、心のキョリも同じ。俺は自分が利用されていることを忘れ、彼女と過ごす時間に幸せを感じるようになっていった。


 しかし最近になり、蛍の様子がおかしいことに気がついた。以前と比べ、黙っている時間や部屋に籠もる時間が増えたのだ。

 

「最近静かだな? どこか悪いのか?」

「いえ、大丈夫です」

「そういえば来月誕生日だろ? 一緒にお祝いしよう。プレゼントは何が欲しい?」

「誕生日を祝ってもらえるなんて初めてで嬉しいです……。でも物はいりません。それよりも樹さんとの思い出がほしいです」


  “思い出” という言葉が気にはなったが、俺はその意味を深く考えようとは思わなかった。


 その日の夜中、ふと目が覚めた俺は、隣で眠る彼女の寝顔を見つめた。その寝顔に今でもかつての恋人あかりを重ねて切なくなるが、最近では、それ以上に蛍のことを愛おしく思えるようになってきた。

 このまま彼女と一緒にいれば、過去のことはいつしか思い出になり、俺も前に進めるのではないだろうか。しかし、彼女には1年という期限がある。それも残りはあと1か月くらいしかないはずだ。

 どこぞの神様が決めたのか知らないが、このまま俺のエネルギーを渡し続けるから、彼女がずっとこの世に残れるようにしてもらうことはできないだろうか……。そんなことを考えていると、蛍が俺の名前を呼んだ。返事をしても反応がない。どうも寝言のようだ。

 暗くてよく見えなかったが、頬に触れ初めて彼女が涙を流しているのが分かった。



 それから1か月が経ち、誕生日を明日に控えたその夜、いつものように事が終わった後、俺の腕の中で蛍が衝撃的な一言を言った。


「樹さんからエネルギーをもらうのは今日で最後になります」


 突然のことに俺は動揺した。納得できず彼女にその理由を問い詰める。

 

「明日の誕生日以降、私はこの世に残る道を選ぶことができるようになります」

「えっ!? 残ることができるのか? それはどんな方法だ?」


 喜びで興奮する俺に対し、彼女は辛そうな表情をしている。


「私がこの世に残る方法はただ一つ。樹さんと身体の関係を持つことです」

「……ん? それなら今やったことと同じじゃないか」

「いえ、誕生日を境に全く違うものになります。……樹さんはホタルの幼虫って見たことありますか?」

「いや、ないけど?」

「ホタルの幼虫って、身体から毒みたいな成分の液体を出して、餌を溶かして食べちゃうそうです。そして私はそんなホタルの幼虫と一緒なんです」

「……それはどういうことだ?」

「今までは身体を維持するためだけのエネルギーをもらっていましたが、明日からは生きるための力をすべてもらうことになります。つまり、私が生きる代わりに樹さんが死にます」


 蛍が生き続けるためには俺が死なないといけないだと?


「……ごめんなさい。私、本当はそれが目的で樹さんに近づきました。

 私、幸せなんか感じることなく死んじゃって……。一度でいいから幸せになりたかったんです。それで神様と契約したんです。私の代わりにここに来る人を見つけるから生き返らせてって……。そして思い浮かんだのが樹さんの顔でした。あの川辺で声をかけてくれた優しい男の人なら、もしかして私を助けてくれるかもしれないって……。本当に子どもの浅知恵でごめんなさい」


 俺は話の内容に追いつくのが精一杯で何も言葉が出てこない。しかし、彼女は俺に構わず話しを続ける。


「私は数日のうちに消えることになると思います。黙って去ろうかと思いましたが、やはり正直に話せて良かったです。短い間でしたが、樹さんと過ごせて幸せでした」


 彼女は苦しそうだが、どこか穏やかな顔で笑ってみせた。その笑顔に胸が苦しくなる。

 優しさなのか、同情なのか、はたまた愛おしさなのか……。これから自分が選択する答えの理由になりそうな感情が入り混じる。


「……いいよ。俺が代わりになってやる」


 その答えに彼女の顔がショックで青ざめる。


「な、何言ってるんですか!? 冗談なんかじゃなく、本当に死ぬんですよ?」

「別にいいさ。どうせ独り身だし、あっちの世界に会いたい人もいるから」

「樹さんが良くても、私がダメです!」

「なんでだ? せっかくのチャンスが目の前にあるんだぞ?」

「私……、樹さんのことを好きになってしまったんです!」


 蛍の気持ちを知り、愛する人とずっと一緒にいられない自分の運命を恨んだ。


「それに樹さんを死なせたら、私、灯さんに怒られちゃいます……」

「……灯のこと知っていたのか?」


 彼女はその問いに小さく頷いた。

 蛍は服を整えると俺の方を向き、灯とのことを話し始めた。


「死んだ後、私は綺麗な川のそばを歩いていたんです。そうしたら、大きな樹の下で一人の女の人が泣いていました。だから私その人に声をかけたんです。その時出会ったのが “あかりさん” でした」


 その名前を聞き、俺は力いっぱい蛍の肩を掴んだ。


「灯に会ったのか!? 灯はなんて!?」


 蛍は俺の手にそっと触れ、灯の言葉を伝えた。


「灯さんは、『樹さんにもう一度だけ会いたい』と言っていました……」


 俺は灯の悲しむ様子を想像し、涙がこぼれた。


「……だから私、灯さんの気持ちを利用して騙したんです。『身体を貸してくれたら樹さんに会わせてあげる』って。……でも実際の契約は違いました。

 私は灯さんに瓜二つではなく、この身体はです。彼女の意識は身体の奥底で眠っています。灯さんのことも樹さんのことも騙してしまってごめんなさい……」


 俺は何と答えればよいのか分からず、ただ黙って彼女のことを見つめた。ただ一つはっきりしていることは、灯のことはもちろん大事だが、今は目の前にいる蛍のことを一番に考えてやりたいということ。


「もういいよ。結果、俺はまだ死んでないわけだし。でも、あっちの世界に戻って灯に会ったらちゃんと謝るんだぞ? それと『あと何十年かしたら必ず会いに行くから』と灯に伝えてくれ」

「樹さん……ありがとう……」



 それからは、一日一日があっという間に過ぎていった。日が経つにつれ、段々と蛍の体力もなくなっていく。

 その日の晩、蛍は『オムライスが食べたい』と願った。だから俺は、無駄な足掻きだと分かっていても、 “体力が戻れ” という思いでそれを目一杯食べさせた。

 満腹になった蛍はソファーに座ったままウトウトとし始めた。隣に座る俺の手を握ったままだったので、俺は蛍を抱きかかえベッドまで連れて行くと、二人でそのまま眠った。

 

 夜中、俺は視線を感じ目を覚ました。横を見ると、蛍が上半身を起こしてこちらを見つめているのが月明かりで分かった。


「どうした? 眠れないのか?」

「樹さん、最後に行きたい所があります」


 俺は “最後” という言葉に思わず反応してしまった。


「最後か……。で、どこに行きたいんだ?」

「私たちが初めて出会ったあの川辺です」



 次の日の夕方、俺たちはあの川辺に来た。

 まだ日が残っていたのでホタルの光は見えない。とりあえず日が暮れるまでそこに腰掛けて待つことにした。

 二人で横並びに座り、途中で買った飲み物を飲みながら川のせせらぎに耳を傾ける。とても静かな時間だった。


「ホタル見えますかね?」

「どうだろう……。ちょっと時期が早いからなぁ。でも少しは見えるだろう」


 日が落ち夜になった。目を凝らして川の方を見ると、一つ、また一つと淡い光が瞬き始めた。


「私、今幸せです」


 ホタルの淡い光の中、穏やかな顔で蛍はそう呟いた。そこにはもう出会った頃の、全身から冷たい光を放ち、人形の様な表情をした彼女の姿はなかった。

 いよいよお別れの時が来たのだと分かり、俺は彼女を抱き寄せた。


「樹さん……。思い出をたくさんありがとう。今度こそ本当にさようなら……」


 そう言い残すと、蛍は俺の腕の中でキラキラとした光を放ちながら消えていった。



◇ ◇ ◇


――3年後


 俺はあの日から毎年、ホタルが舞うこの時期になるとこの川辺に来ている。


「蛍、今年も会いに来たぞ」

 

 その時、一匹のホタルが偶然にも俺の腕に止まった。


「また来年も来るからな」


 そう語りかけると、そのホタルは淡い光を放ちながらたくさんの光の中へと飛び立っていった。

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ほたるの甘い誘惑 元 蜜 @motomitsu

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