ほたるの甘い誘惑

元 蜜

上《冷光の女》

 6月の終わり頃、田舎にあるこの川沿いの道は、まるで星空の中に立っているかの様にホタルの光で溢れていた。

 ふと足元を見ると、一匹のホタルが弱々しい光を放ちながら、今にも息絶えようとしている。俺はそのホタルを近くの葉っぱの上に乗せた。別にいつもこんな慈悲の心があるわけではない。たまたま気が向いただけだ。

 

 その時、ふと俺の目の前に小さな女の子が立っていることに気がついた。その女の子は小学校低学年くらいで、こんな時間に一人でいるなんて不自然すぎる。周囲を見回しても親らしき人はいない。俺は不審者に思われないよう、気をつけながら声をかけた。

 近くで見るその女の子はとても格好をしていた。服は汚れ、髪はボサボサだ。警察に連れて行くために手を繋ぐと、とても痩せているのが確認できた。


「俺は樹。君の名前は?」

「……蛍」


 それが俺と蛍との出会いだった。


◇ ◇ ◇


――13年後


「はぁっ……蛍、気持ちいぃ……」


 息を荒らげ、男はベッドに横たわった。


「やっぱ蛍の身体は最高!」

「あっそ……」


 終わった直後だというのに、女は余韻を味わうことなく、すぐに服を整え帰り支度を始めた。


「ねぇ、また会える?」

「もう会わないわ。あなたじゃダメなの」


 呆然とする男を置いたまま、女は部屋を出ていった。


 女の身体からは、冷たく妖しい光が放たれている。その光にすれ違う男たちが思わず振り返った。

 女はスマホを開くと、リストの中から比較的身体の相性が良い男に電話をした。


「ねぇ、今すぐ会いに来て」


 電話の相手は飛んで来るそうだ。電話口で『美味しいお店に連れて行ってあげる』と意気込んでいた。

 女は大きな溜息をついて電話を切った。どうでもいい男はすぐ捕まるのに、一番欲しい相手がどうしても見つからない。

 早く彼を見つけないと。もうあまり時間がない……。


「ねぇ樹、一体どこにいるの?」


 女は夜空を見上げそう呟くと、ネオンが眩しい夜の街へと再び歩き出した。



◇ ◇ ◇


 俺は高木樹たかぎいつき、30歳。生まれ故郷の田舎から少し離れたこの街で、小さなカフェを営む冴えない男である。

 このカフェは、朝から昼過ぎまでのランチ営業と、夕方から夜のディナー営業をしている。看板メニューは、厳選した豆を使用したコーヒーと肉汁たっぷりのハンバーグだ。店は大盛況とは言えないが、固定客も一定数いて細々と経営している状況だ。


 19時を過ぎる頃、ドアベルがチリンチリンと鳴った。


「いらっしゃいませ」


 俺は他の客の対応をしながら入口の方に視線を向けた。

 客は男女二人組のようだ。女は男の後ろに隠れていて、俺からはよく見えない。男は店内の様子を確認しながら、俺にダメもとで聞いてきた。


「二人なんですけど、席空いてます?」

「すみません。今日は予約で満席なんですよ」

「そうですか……」


 男は大変ばつが悪そうな顔で、女の方を向いた。


「ごめんね、満席だってさ。もう一軒おすすめのお店があるから、そっちに行ってみよ?」

 

 女は下を向いたまま黙って頷いた。俺は申し訳ない気持ちになり、その客たちを入口まで見送ることにした。

 その時、バイトの子がカウンターから俺を呼んだ。


「樹さん! これお願いします!」


 その声を聞き、女が突然俺の方を向いた。その姿に俺は一瞬たじろいだ。なぜなら似ているのだ、俺のかつての恋人に……。いや、似ているどころではない。瓜二つだ。だが決して本人ではない。だって彼女はもうこの世にはいないのだから……。


「……いつき?」


 彼女は俺の名を復唱すると、徐ろに俺の手を握り、その感触を確かめているようだった。俺は困惑したが、なぜかその手を振り払えない。俺の手を見つめる女の瞳は海の底の様に真っ黒で、男を自然と惹きつけるような妖しい光を放っていた。


「やっと見つけた……」

「え? 今なんて?」


 だが女はそれ以上何も言わず、男を従え店を出て行ってしまった。

 


 翌朝、開店準備をしていると、ドアベルの音とともに店の扉が開いた。

 『まだ準備中――』と言いながら振り向くと、そこにはなんと昨日の女が立っているではないか。


「私のこと覚えてますか?」


 俺は、亡くなってしまったかつての恋人、あかりのことを思い浮かべたが、首を横に振った。


「私は13年前、ホタルがたくさんいた川沿いの道に一人でいたところをあなたに助けられた子どもです」

「13年前……。あぁ! あの時のひどく汚れた子か!」


 俺は今の今まであの少女のことを完全に忘れていた。この女があの少女だというのか? 俺は女の言葉を信じるべきか迷った。しかし、女は悩む俺のことには構わず再び話し始めた。


「あの時のお礼がしたいんです。どうか私を抱いてくれませんか?」


 この女、一体何を考えているんだ? 会ったばかりの見ず知らずの女を抱くわけないだろ。 


「はっ? よく分からないけど、お礼とかいいですから」


 女はそれでも引き下がらない。これでは埒が明かないので、俺は別の方法を考えた。


「じゃあさ、この店でバイトしてよ」

「えっ? バイトですか?」

「だって、俺にお礼がしたいんだろ? ちょうど人手が欲しかったんだ。同じ身体を差し出すなら、礼は働いて返してくれたらいいよ」


 女はしばらく考えたが、他に手がないと分かったのか、渋々俺の提案をのんだ。


「君の名前は、確か…… “蛍” だったよね? 今いくつ?」

「はい。清水蛍きよみず ほたるといいます。20歳はたちです。名前覚えてくれてたなんて嬉しいな」

「そっちこそ、小さかったのによく俺のこと覚えてたね。改めまして、俺は高木樹。この店のオーナーだ」


 男に連れられて来た昨夜の彼女は、人形のように無表情で、何の感情も抱いていないようだった。一方今日の彼女はというと、興味深そうに店内を見回している姿から、昨夜よりは年相応に見えた。


「そういえば、バイト始めるのにご家族の許可はいるかな?」


 面接もせず採用してしまう形になったので、通常であれば事前に確認しておくべきことを今さらになって聞いた。


「私、家族も家もないんです」

「じゃあ今はどうやって暮らしてるの?」

「色々な人の所を転々としてますけど?」


 それのどこに問題があるのかというかのごとく、蛍は堂々と答えた。

  “色々な人” とは、きっと昨日のような男の所を渡り歩いているのだろうと直感した。

 いつか危険な目に遭うかもしれない彼女の綱渡りのような暮らしぶりに、俺は大きなため息をついた。


「この店の二階が俺の家だけど、部屋が余ってるからここに住むか?」


 乗り掛かった舟とはいえ、俺もどうかしているとは思うが、蛍も迷うことなく二つ返事でそれを了承した。

 それから開店準備の手をいったん止めて、俺は蛍を二階に案内した。彼女に引っ越しはいつになるのか聞いたところ、『このカバン以外の荷物はないから』と、そのまま俺の家に来ることになったのだ。


「よしっ、まずは腹ごしらえだな」


 ホカホカと湯気を立てるお皿を二つ、テーブルに並べた。蛍が不思議そうな顔でそのお皿を覗き込む。


「これ、なんですか?」

「えっ? オムライスだけど……。まさか食べたことないとかないよね?」

「あー……、小さい頃、まともな育て方されてこなかったんで……」

 

 俺は初めて出会った時の蛍の姿を思い出し、何となくその言葉の意味を察した。


「変な同情はやめてくださいね」

 

 蛍はそう冷たく言い放った。そして、ふわっと仕上がった卵をスプーンですくい、それを恐る恐る口に入れた。


「……おいしい」


 その言葉とともに、彼女の目から涙がこぼれた。俺はそれに気づかないフリをして、黙々とオムライスを食べ続けた。


 蛍は一体どんな子ども時代を過ごしてきたのだろう……。汚れたままだったり、オムライスを食べたことがなかったり……きっと他にも辛いことがあったに違いない。これから先、俺と一緒に過ごすことで、少しでも幸せを感じてほしいと願った。



 こうして突然始まった同居生活だったが、案外と上手くいっていた。彼女が家にいることで、一人淋しく暮らしていた俺の日常はすっかりと明るくなった。

 ただ数日に一度、蛍が『友人と会ってくる』と言って出かける日があった。それも毎度朝方まで帰って来ない。同居人の行動を制限するつもりはないが、さすがに外泊頻度が多すぎて心配になり始めた。


「おいっ、昨日の夜どこに行ってたんだよ」


 俺は食器を洗う手を止め、今日何度目かになる質問を彼女に投げかけた。テーブルを拭いていた蛍は呆れた表情をしている。


「もうっ! 何度も説明したじゃないですか! ただの知り合いのとこですって!」


  “それは男か?” と格好悪い問いが喉元まで出かけたが、俺はそれをぐっと飲み込んだ。

 だが次第に、蛍が朝まで帰って来ない日は、彼女のことが気になりぐっすりと眠れなくなってしまった。そして、そのことでついに俺は蛍に怒りをぶつけてしまうことになる。


 その日、蛍は前の晩から出かけており、朝方ようやく帰ってきた。俺はその物音で彼女の帰宅に気づいたが、寝たフリを決め込んで自分のベッドで布団にくるまっていた。彼女が俺の部屋のドアをノックして起こしに来たが、俺はそれに答える気になれなかった。

 すると、心配した蛍がそっとドアを開けて部屋に入ってきた。


「樹さん、おはよう」


 彼女がベッドに近づいた瞬間、フワッと柑橘系の香りがした。また同じ香水の匂い……。この匂いは知っている。だって俺も持っているから。俺と同じ男物の香水……。


「また同じ男の所か?」

「えっ?」  

「そいつとはどんな関係なんだ?」

「……その人とは必要にかられて会ってるだけ。彼には何の感情もない」

「蛍、そんな生き方もうやめろ! お前はもっと自分の身体を大事にしろ!」

「樹さんがダメって言うならもう他の男のところには行かない。でもその代わりに樹さんが私を抱いてくれる?」

「でもそれは……」

「私はいいよ? 誰かの代わりとして抱かれても」


 その甘い囁きに俺の心は葛藤した。蛍が俺の背中に腕を回して抱きつくと、ついにその誘惑に負けてしまった。二人の視線がぶつかり唇がそっと触れ合った。彼女の唇も肌も冷たく、俺はそれを俺自身で温めてあげたいという欲望に駆られ、彼女をベッドに押し倒した。

 しかし、すぐに冷静さを取り戻した俺は彼女の身体をそっと遠ざけた。


「……やっぱりダメだ」


 彼女は『どうして?』とすがるような瞳で俺を見つめ返す。


「そもそも、なんでこんなにも俺に固執するんだ? 本当はお礼するだけが目的じゃないだろ?」


 俺はその問いに対し、 “好きだから” とか “愛してる” など至極単純な答えを思い浮かべていた。だが、彼女の口から出てきたのは予想を裏切るものだった。


「……生きるため」

「生きるため? それはどういうことだ?」

「私がこの世に居続けるためには樹さんの力がどうしても必要なんです……」

「……この世?」

「私ね、もう死んでるの」

「死んでるって……。変な冗談はやめてくれ」

「冗談なんかじゃありませんよ? 初めて樹さんに会ってからしばらくして、私本当に死んだんです」


 蛍は身体を起こすと、自分の身の上に起きた出来事を静かに語りだした。



◇ ◇ ◇


 母が誰かと電話をしている。


『ねぇ、今から家に来ない? 会いたいんだけど~』


『えっ? 子ども? あぁ、それなら大丈夫! 外に出しとくから』


 母の甘ったるい声を聞きながら私は窓の外を眺めた。今から放り出されるであろう窓の外には雪がハラハラと舞い始めていた。私は自分の肩を抱いて小さく身体を丸めた。

 しばらくすると母の男がやって来て、私はすぐさま外に追い出されてしまった。厚着なんてさせてもらえないので身体がとても冷える。いや、それよりもお腹が空いて仕方がない。こうやって夜遅くに一人きりで外に出されるのは何度目だろう……。


 私は枯草だけになった川沿いの道に座り込んだ。夏に来た時にはホタルがたくさん飛んでいてとても綺麗だった。今は冬だからもちろん生き物の気配なんてしない。もうすぐ私もこの冬の景色の一部になるのだと予感した。幼いながらも自分の死を感じた私は、夏にここで出会ったあの優しい男の人のことを思い返した。

 

 夏の暑さで汗だくになってもお風呂に入れてもらえず、自分でも嫌になるほど汚れていた私に声をかけてくれた “樹” という男の人。あの人が繋いでくれた手の温かさを未だに忘れることができない。

 あの日、樹が連れて行った警察で私は保護され、『やっとあの親から解放される』と喜んだのも束の間、結局虐待認定されず、無情にも家に連れ戻された。それからの生活は、改善なんてされるはずもなく、淡々と同じような日々の繰り返しだった。そして季節は廻り、私の小さな身体は徐々に限界を迎えたのだった。

 

 寒いなぁ……。お腹空いたなぁ……。


 枯草の上で座ったまま、その幼い命の灯が消えた。

 朝になって近所の人に発見された時、私の身体はすでに冷たくなっていた。



◇ ◇ ◇ 


「私の死因は凍死です。ちゃんとご飯を食べさせてもらえなかったから、栄養失調も影響したみたいです」


 俺は溢れる涙をそのままに、つらい思い出のはずなのに、表情一つ変えずに淡々と語り続ける蛍を見つめた。

 あぁ、俺がもっと気にかけてやれば……。そうすれば蛍は死なずに済んだのかもしれない。そうは言っても、あの頃の俺に何か出来たとは思えない。じゃあ今の俺ならどうだ? 今なら蛍のために何かしてやれるのではないか?


「死んでしまったけど、私どうしても樹さんにあの時のお礼がしたかったんです。だから神様に頼み込んで、1年間という約束でこの世に戻ってきました。ただ、ここでこの身体を維持させるためには人間本来のエネルギー、すなわち性行為により発せられるエネルギーが必要なんです。これまでは別の人を頼ってたんですけど、それを止められるともうここでは生きていくことができないんです。だから、別の人に抱かれるのを許してくれるか、樹さん自身が抱くかどちらか選んでくれませんか?」


 この究極な選択に俺は頭を抱え、『しばらく考えさせてくれ』と彼女に頼んだ。すると蛍は無言で立ち上がり、ドアの方へと向かった。


「エネルギーが切れるのも時間の問題なので早めに決めてください。私はできれば樹さんに抱かれたいと思ってますから……」


 彼女はそう言い残すと、自分の部屋へと戻って行った。




 

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