1.6 間取り刀

  6 《間取り刀》



 ときおり、夢を見る。

 夢というには不可解で、妙に現実味がある。

 風景を俯瞰ふかんして観ているような場合もあれば主観で捉えている印象も受ける。情景を全身で受け止めているような奇妙さだ。

 どれもこれも、瞬きのように短く映し出される。

 その夢が長くも感じると思えるのは、懐かしさという感覚が残るからだろうか。

 浸透していくようにそれが胸の中に広がるのを抱いて、この夢が昔の思い出から流れ出ているものだと感じ得たところでいつも目が覚める。

 耳に届いてはいないのに、頭に直接語りかけてくる父親の言葉。

 何を話していたのか何を言葉にしているのか、仕草やその表情で不思議と伝わってくるものがあった。

 そして、いつも心に温かさのような柔らかいものが広がり、穏やかな気持ちだけが残る。

 そこからじんわりと感覚が戻り、自身の温もりと感触が冴える。

 きまってそんな夢をみるときは目の前にが起きていた。

 

 

 ヒュウジは目を覚ます。小豆枕に横顔をうずめたまま横を向いている姿勢だ。

 半分開いたまぶたの視線の先には左手が映っている。

 身体からだの感覚を確かめるように掌をゆっくりと握っては開いてを繰り返す。

 浮いていたような軽さを感じていた体に重さを感じ、腕の感覚や布団の感触を肌で感じとると自身に何も異常が無いことを確信する。

 ただ、目の前に広がる視界だけを除いては――。

 

 ヒュウジは慣れた様子で特に驚きもせず落ちついていた。

 眼を見開き飛び起きるのでもなく、ゆっくり身を起こすのでもなく、ただ覚醒した状態のままその視界に広がる風景をじっと観察しているというものだった。

 視界に捉えているのは、脱力したように敷布団の端からはみ出る左腕とてのひら

 その視線の先には壁と横長の障子窓も映って入るが、そのすべての風景のが定まってはいない。

 

 七色――、ヒュウジはいつもそう呼んでいた。

 物心ついた頃からだろうか時折、このような現象が起きることは自覚していたし初めは驚いたことも鮮明に覚えている。

 まだ五つの歳かその前からか、記憶しているのはそのくらいのときだ。

 何の疑問も感じなかった。当然、両親も周りの人間も同じ風景が見えていると思っていたからだ。

 これが当たり前ではないと気づいたのは十の頃、そして確信を得たのは十代半ばの頃だろうか。

 二人の妹にも同じ風景が見えているのかと思い、ふとしたときにその話をしたところ訝しく首を傾げられた。

 その時に自覚したのもあるし、同じ長屋住まいの同世代の子供たちの反応を思い返せば遅いくらいだったと、今でも感じられる。

 

 この現象を両親に話したところ一番、驚いていたのは父親であった。

 表情を曇らせるのを今でも覚えている。そのあとで我に返ったかのように笑顔を振りまき、優しく頭を撫でられたことも。

 母親は不安の表情を浮かべ、父と夜な夜な話していることも知っていた。

 その日から、父に連れられ《お山の社》や《断崖寺》に足を運ぶことになった。

 なんてことは無い、ただとある人物に会い、祈祷をしきょうを読むだけという習慣めいたものを行っただけである。

 が、最後に行き着いたのが《寺社役》の建物だった。

 それ以来、町の義塾でなく寺社役所やくどころで学びを得ることとなった十六の頃である。


 この頃を境に不思議な現象が頻発した。自身もまた《七色》とよんでいた風景が次第にはっきりと現れるようになる。

 《丹術たんじゅつ》を学び会得したことによる弊害か、妖力が作用している所為か、いずれにしてもこの《七色》が以前より視界を遮るようになる。

 

 物が二重に観えたり、色をつけた衣が宙を舞うように風が吹けば気流を模して視界を流れてゆく。

 生き物は特に不自然で、残像のようにぶれたような輪郭の動きだけでなく、そのもの自体からそれぞれの色が、湯気のようにゆらゆらと立ち昇っていた。

 《七色》と言ってはいるが、実際に観てきたものはそれ以上の色彩があるのではないかとヒュウジは感じている。

 

 それがはっきりと知覚できるようになったのだから、身体に負担がかかるのは当然の事であった。

 眩暈めまいと吐き気を催し、十八の頃になったときにはすでに両目をまともに開けてはいられなかった。

 三半規管が異常をきたしたのだ。歩くことさえ、ままならなくなった。

 

 

 ヒュウジはゆっくりと布団から上半身を起こした。

 人差し指と親指で鼻筋を摘まみ目頭をこする。

 目を細めたまま振り返るように身体を捻り、枕元に置いた眼鏡を手に取った。

 唯一、自分で得た対処法が目を細めて視界を狭める、という何気ない仕草が癖になっていた。

 もともと視力が悪いわけではない。むしろ良い方だといえた。だがこの《七色》のせいで目を開けることに自然と躊躇するようになっていた。

 うっすらと目を細めれば視界がぼやけ色も滲んでいくぶんかマシになる。

 経験から得たものが何もないときにでも身につくようになっていたが、その必要性を唯一感じさせないものがこの眼鏡だった。

 

 ヒュウジは左手で髪を撫で上げると慣れた手つきで眼鏡をかけ、そこでようやく目を見開く仕草をみせた。

 きりっとした目元がいつものヒュウジを取り戻させたように感じる。

 

 視界は良好、、そこには《七色》の風景の色彩は無かった。

 当時、まともに立って歩けない自分自身を見かねてか、《遁甲とんこう衆》から手渡されたこの黒ぶち眼鏡は、研究を重ねられて造られた《妖具》の一種だった。

 度が入っておらず、透鏡とうきょうはただの厚い硝子といったところだろう。

 当初は自然に擬態化する妖魔、人間に紛れ込む半魔を探すために造られたものであったが遁甲衆曰くこれは失敗作であり扱える者がいないという話しであった。

 どんな原理なのか専門用語を並べられて説明されたが、今思い返しても何をいっているかさっぱりであったと懐かしさが浮かぶ。

 要は個人の妖力を用いて共鳴した反応を写し出す目的であったが、どうもうまく媒介できず意図した用途に相反する結果になったのだ。

 ともあれ、これがヒュウジにとっては無くてはならないものになった。

 

 

 いつもの調子を取り戻したヒュウジは窓辺に目をやった。

 横長の障子で締め切られているが、外はどうやら陽は沈みかけている。

 部屋の中も薄暗く窓辺以外、隅の方は色褪せていた。

 しばらく寝入ってしまったようだと自覚するのに時間はかからなかった。

 布団を捲り立ち上がろうとしたとき、廊下の床が軋む音が僅かに聴こえた。

 すぐさま、とんとん、とふすまから乾いた音が単調に鳴る。

 反射的に短くヒュウジは返事をした。

 布団を畳む動きをやめることなく襖が開くのを待った。

 襖は中途半端に一度あけられ、そのあと軽快に開け放たれた。

 

 「休んでいるところすまないな」

 聞き覚えのある声にヒュウジは戸惑いもせずに淡々と答える。

 「いえ、ちょうどいま起きた所です」

 敷布団を畳み部屋の隅に寄せてから振り返ると、入口にはジンザの姿があった。

 入口いっぱいに横幅をとるジンザは、敷居をまたいで部屋へ足を踏み入れた。

 「さっそくだが報告がある」

 言われてヒュウジは二、三度衣服の埃を払うような仕草をしてから衣紋掛いもんけに手を伸ばした。

 破魔役の目印ともなる白い羽織をさっと纏い袖を通す。

 衿幅えりはばをぴっと伸ばしたのを見計らってジンザは部屋の真ん中で腰を下ろした。

 ならってヒュウジもジンザの前に坐した。


 それで――、と声を発しようとしたとき、軽やかではあるが騒々しい足音が廊下の奥から響いてきた。

 その音を耳にしてすぐさまヒュウジは顔を顰めさせるよう眉を寄せた。

 顔を覆うように掌を当ててから息をついて入口に顔を向けた。

 ジンザも察して同じような行動をとる。二人とも息がぴったりという具合に。

 どうやら二人には音の元凶となる主を悟るように理解しているのだろう。

 足音が部屋の前で止む前に、投げるような声が部屋へと響いた。

 「ヒュウジ! 大変です!」

 息を荒くして襖の縁に手をかけるタツタの息は少し荒い。

 凝視するような二人の視線を感じてかジンザの姿を目にしてか、はっとなって目を見開いたところでジンザが厳しく指摘する。

 「騒々しいぞッ もっと落ち着いておれんのか!」

 背筋を伸ばし、タツタは冷やりとした気持ちを抑えるようにぐっと口を噤んだ。

 呆れたような面持ちでヒュウジは問う。

 「とりあえず中へ入れ。いったいどうした」

 言われてすっと襖を閉めるとタツタはすり足で二人へ近寄る。

 「しょ、笑福屋の女将だったんです!」

 両手で拳を作り訴えかけるようなタツタの声に、ヒュウジはどこか拍子抜けしているような呆気にとられたような表情を見せた。それもそうだ。その言葉だけでは何を意味しているか到底理解できない。

 だが、次の言葉で目を大きくさせた。


 タツタはヒュウジの様子を察してか言葉を足す。

 「今朝方の亡骸です! あれが笑福屋の女将だったんですよ!」

 訝しく眉根をよせてジンザに顔を向けると、固い表情でジンザは頷く。

 ジンザは告げるように言った。

 「実は俺もそれを報せにきた」

 ヒュウジは腕を組む仕草をみせ顔を俯かせる。ゆっくりと何かを考える素振りでもあった。ジンザは続けて話す。

 「検死の結果、お前らの見分通りでまず間違いないだろうといことで見解が一致した。これはギノキのおやっさんも含めてだ。笑福屋の女将――ヨマだが、たまたま検死に立ち会ったに顔を知る者がいてそれが判った。死因は刺し傷による即死、半魔に関しては出血死ということになっている」

 ふむ、とヒュウジは口の中で小さく頷く。

 「問題はここからなんだが――、」

 自然とヒュウジは俯かせていた顔をあげて視線を向けた。

 「笑福屋の女将と半魔はどうやら通じていたようだ」

 眉をひそめ次の言葉を待つ。

 「半魔を解剖し胃の中を調べた結果、笑福屋の角まんじゅうとの痕跡が発見された」

 「丸薬、ですか‥‥‥」

 タツタゆっくりと口を開き言葉を添えた。

 「角まんじゅうの中にあった飴玉のようなものです。遁甲衆がそう定めたました」

 うむ、とジンザも太い腕を組んだ。

 「お前らが持ち帰ったものを調べたところ遁甲衆ハクイの連中は、という答えをだした。解剖した半魔の体液からもその丸薬からも同じ成分が検出されたという報告がなされた。今は報せを受けた七番隊が笑福屋を抑えに向かっている所だ」

 「では、見分としての務めはこれにて?」

 喉を鳴らしながらジンザは深く唸った。

 「いやあ、まだ終わりではない。その例の丸薬がどこからもたらされどういった経緯なのか調べる必要がある」

 確かに――、とヒュウジは直感するように過らせる。

 誰が、何のために、どのようにして、理由と目的はいまだ不明である。

 

 「近年増え続ける半魔の厄事に繋がっている可能性がある。アシヤ隊士長とおやっさんから、二人にこのまま調べを続けさせるという意向で話が決まっている」

 ヒュウジの口元にどこか小さく、嬉しさのようなものが浮かんだ。

 「二人の目付けは執刀役のこの俺だ。何かあればすぐに声をかけろ」

 「解りました。ジンザさんなら頼りがいがあります」

 ふん、と少し照れを隠してジンザは鼻を鳴らす。

 次いで組んでいた太い腕をほどき、膝の辺りを掌で叩く。

 「では、これからの行動を教えてくれ。何か決まっていることはあるのか?」

 ヒュウジは顎先に指を添えた。

 「まず、色町へと赴き、丸薬のことを調べたいと思います。笑福屋の女将、ヨマはタカマエという名でその昔、遊女として座敷にあがっていたそうです」

 「なるほど……色町か、確かにあそこならきな臭い事情に詳しい奴や関りのある連中が多そうだ。しかしな――、」

 首をひねり傾げる仕草をみせた。ヒュウジは少しいぶかしく見る。

 「色町に関してはアシヤ隊士長に任せた方が良いと思う」

 じとっとした目元を浮かべながらタツタが唸るように低くぼやいた。

 「えぇ……隊士長どうせ座敷遊びしたいだけじゃないですかァ……」

 咳ばらいをしたあとジンザははっきりとした口調で答えた。

 「これ、タツタ。あの人はなあの人なりの人脈とやり方がある」

 「‥‥‥、ですか」

 うむ、とどこか自信に欠けるようにジンザは頷く。どうやらアシヤ隊士長の座敷遊びは古い連中の間では知られているようだった。

 さらに気を取り直して、という具合に短く咳払いするとジンザは話を続ける。

 「あそこは特殊だ。でもある。とくらべても治安は圧倒的に悪いうえにお前ら若い二人ではあしらわれるのが目に見えているぞ」

 確かに、若い男女が聞き込みで廻っても誰も相手にはしないだろう。夜は賑やかで昼間は閑散としている街だ。調べを行うにしても、どちらも難しいといえる。


 考えを巡らせるヒュウジをよそにジンザも同じような指摘を口にする。

 「それに、その身形みなりでは容易に歩けないぞ」

 太い指で交互にさししめすのは、破魔役の紋付羽織と装束だ。

 「かと言って町民のような恰好をしても立ち居振る舞いですぐに悟られる。人を見る目は奴らのほうが一枚も二枚も上手だからな。そこでだ――、」

 言葉を区切るとジンザは二人を見比べるように視線を送ると口を開く。

 「まずは遁甲衆を訪ねろ。簡単な結果という報せでしかこちらは受け取っていない。今取り急ぎとその効果を調べてもらっている。二人はハクイから意見を聴き、真相に繋がる手がかりをそこで探してもらう」

 言われてヒュウジは少し間を開けるように考えに更けたあと、返事をする。

 

 「わかりました。ではまず遁甲衆を、その後は結果次第で応変に」

 告げてヒュウジはすっと立ち上がる。窓辺に立つと経机の上から髪を束ねるかんざしを手に取り素早く髪を結い上げる。その後の身支度は慣れたものだった。

 几帳面な性格の現われか、すぐさまてるよう必要な物は綺麗に並べ整えられていた。革の胴当て帯を腰に巻き、壁に備えられた刀掛けから得物を帯刀するまで時間は要さなかった。

 その姿を見て少し困惑するような不安な表情をタツタは浮かべた。

 「・・・・・・ヒュウジ待ってください、まさか――、」

 さも当然だという具合にヒュウジは言ってのけた。

 「ああ、いまから五番町へ向かう」

 タツタは少し肩を落とす仕草をみせた。

 「そんなあ、今晩の夕餉ゆうげはアメイユの塩焼きなんですよ!」

 背を向けて準備を進めるヒュウジはそっけなく答える。

 「それがどうした。お前も早く支度をしろ」

 短く、濁ったような声を洩らしてタツタはうなだれる。

 呆れたような感心したような面持ちでジンザは訊く。

 「おまえ、隊舎の献立を確認したのか‥‥‥」

 「だって……今日泊まり込みだと思って、さっき台所までいったのに‥‥‥」

 落胆するタツタをよそに二人は深くため息を漏らした。

 

 

 夕刻、空は深く藍色が広がっていた。

 西の彼方に沈もうとするの光は、すじ雲を小麦色に染めている。

 どこもかしこも夕餉の支度か、竈に薪をくべて白い煙を立ち昇らせていた。

 都に住む人々は、今日の疲れを癒すために酒を呷り飯を喰らって談笑をする。

 喧騒な都も少しは、落ち着いた時間が流れようとしていた。

 多くの人間が労働という課せから解き放たれ、腰を伸ばす仕草を見せる中、ひとり幅の広い当て帯を叩いて丹田に力を込める者がいる。

 ヒュウジの心には火が灯っていた。

 滾らせるそれに、好奇心という薪をくべて自らの脚が動いてゆく。

 見分役としての責任感がそうさせるのか、単に探求心が溢れ出ているのか、今はどうにも気持ちを留められないでいる。

 その炎がゆらゆらと静かに、自分の足元から無数に、線のように広がってゆく様を、まだ自分自身でさえまだ気づいてはいなかった。

 青白いそれはじりじりと音を発て、真実へと突き進んでゆく。

 急駛きゅうしする炎は、次第に一つ一つ実態を浮かばせてくれるだろう。

 いままでの常識というものを焼き払いながら。

 すべてに焦がれるようそれは、とまることは無い。

 

 

 

          *

 

 


 五番町は別名、道場町と呼ばれている。

 他の町々と違う特徴的な所と言えば、名の通りが多いということだ。

 この五番町だけで大きな剣術道場が三つありどれもが名の通った流派だ。

 門下の派生流派も付随して増えてゆくにつれそういった場所となったというのが経緯であろうか。

 それ以外にも、武人にとって必要な学問を得る義塾も多い。

 故にこの五番町には官吏かんりである八帥司はちすいしの者達が多く通う。

 小さいながらも練兵場も設けられ、四帥しすい番刑役の官署もここにある。

 もちろん寺社役局侍、妖魔取締破魔役の詰め所も在り、因縁避けられぬ場所としても有名な所でもあった。

 理由としては毎度ながらの足並み揃わぬところではあるが、寺社役の官署はにあるという点だ。

 郭内には八帥司のほとんどが揃っている都の中枢といってもいい。だが番刑役だけはここ五番町に構えられていた。

 町民の身近に、有事の際はすぐさま駆け付けられる、といった思惑を逆手に取られその昔に文官方の四司ししからの議題で可決され、官署が移されたという因果がある。

 寺社は郭内にあるというのに、蚊帳の外といった形になった番刑はそれはそれは深い怨恨を抱いているに違いなかった。

 遭えば口論になること間違いなし、いつ火が付いてもおかしくはない、危険な場所だと陰で揶揄され囁かれるほどだ。

 

 それ故に破魔役の詰め所は《断崖寺》という寺院に設けられていた。

 寺社役の管理下にあることもさながら、聡明な住職や一門揃っている為、何かあっても大事には至らない、というのが一番の理由だった。

 さらに他の隊と決定的な、それも特徴的な違いというのは隊士の半数以上が仏門に身を置いている者が多いという点だ。

 慎ましく、心身ともに卓越した者達が多い。手が出るより先に説法で相手をいなすのが彼らの搦め手でもある。

 血の気の多い番刑達にとってはすこぶる、相性が悪く彼らの多くが相手にはしたくない、と口々に並べるほど五番町の破魔隊士達は嫌厭けんえんされている。

 

 その断崖寺に隣接するように《遁甲衆》の屋敷があった。

 正確に言えば寺院の敷地内にそれはある。

 したがって出入口となるのは、寺院や破魔役詰め所の正門になるということだ。

 

 その大きな門の前にヒュウジとタツタは立っていた。

 高い瓦屋根の壁に囲まれ、そこから観ると本堂の反り立ったような黒塗りの屋根は山のように顔をだしている。

 寺院の大屋根に圧巻しているのか、番刑役の連中に出くわさないか、というものが相まってか、緊張した面持ちで門の上に掲げられた扁額へんがくを二人はただ見上げている。

 ヤハト文字で達筆に書かれた《断崖寺》という太い文字を目に焼き付け少しだけ息を呑んだ。

 分厚い木製の両扉は開いており、中を覗き込めるように開放的ではあるが反面、どこかおごそかな気配が漂う。

 同じ隊士達が詰めているというのに、こうも他と違うものかと改めて感じてやまなかった。

 他の詰め所や隊舎は殺風景な所ばかりで、見慣れぬ風景に気圧されたという気持ちも正直ある。

 

 二人は顔を見合わせて小さくうなずき合うと同時に、という具合に踏み出す。

 すると開けた門の隅から突然、ひょこっと人影が現れた。

 「これはこれは、お若い方二人で」

 視線を向けると、そこには袈裟けさを下げた僧衣姿の老人が微笑んでいた。

 しわがれた声の老人の表情は穏やかで、年相応のしわと染みが目立ち、頭は禿げあがっていて髪の毛一本すら生えていない。

 反対に、長い筆先のような白い髭が、どれだけ生きてきたかを表しているようだ。

 猫背のように腰を曲げている所為か、とても小さく見える。

 

 老人は視線だけで、二人のつま先から頭のてっぺんを眺めると、微笑んで細めていた目を少しだけ開いて見せた。ぎろり、と眼光が走ったように思えた。それも隙のない、まだ活力あふれる瞳の輝きだ。

 風格からして寺の住職であろう老人は、二人の身なりを確認してから悟ったのかすっと手を差し伸べるように横へと流した。

 「どうぞどうぞ、こちらへ」

 それだけ告げるとくるりと踵を返し奥へと進んでゆく。

 二人はまたも顔を見合わせてから老人の後に続いた。

 

 「わたくしは、この寺の住職を務めております。ラクガンと申します」

 参道となる石畳の上を歩きながら老人はそう答えた。

 歩む速度と同じようなゆったりとした口調だ。

 腰を曲げてはいるがしっかりとした足取り、そして声音もはっきりとした口調で見た目だけで年相応とは思えないと感じる。

 ヒュウジは老人の小さな背中を眺めながらふとそう頭に過らせていた。

 

 「こんな時刻にぶしつけで申し訳ありません」

 背中越しにヒュウジが言葉を投げるとラクガンは小さく肩を揺らし笑う。

 「いえいえ、慣れております。それに火急の用なのでしょう?」

 「はい、急ぎ調べたいことがありまして」

 顔を向けず足を止めぬままラクガンは何度かうなずく。

 「ええ、そうでしょうとも。昼過ぎからどうも隊士達や遁甲衆も慌ただしい」

 

 正門を潜ってすぐに大きな本堂が視界いっぱいに広がる。

 本堂の入り口は開け放たれ、ひな壇のような広く設けられた高い階段の向こう側は薄暗く、よく見えないが僅かに燭台の明りが見て取れた。

 夕刻過ぎという条件もあるのだろう。寺院の敷地は粛々と時が流れている。

 

 二人を先導するラクガンは慣れた足取りで脇道にそれた。

 細い石畳が本堂の脇へ続いているようだった。

 石畳以外は白い綺麗なつぶてが一面に敷かれ、その所為かよどんだ景色が少し明るく見えた。遮るものがないためずっと奥の方まで景色が見通せる。

 本堂の壁に均等な幅で設けられた釣り鐘状の格子窓を見上げながら、ヒュウジは訊ねる。

 「住職、隊士長殿は?」

 「ええ、おります。ただゲンナン――、あやつは今瞑想中でしょうな」

 「そうですか。できればご一緒に話を、と思いまして」

 ラクガンは少し不敵に笑い洩らす。

 「くだんの事なら既に。そのことも相まって考え更けているのでしょうな。一通り用向きが済んだのちにお会いした方がよろしいかと思います」

 丁寧にそう告げるとラクガンはぴたりと足を止める。

 左手にくるりと向き直り一歩前へ進む。

 視線の方向にはただの木壁がある。脇道にそれてからずっと続く木壁ではあるが、そこだけ少し変わっていた。

 一か所だけ区切りが大きく設けられ、その木壁の表面には煤けた焼き印のような大きな模様が描かれている。

 翼の生えた鳥のような動物と火を模した曲線が描かれていた。

 「鬼喰い鶏です」

 いまにも壁から動き出してきそうな、躍動さを感じさせるその年季の入った焼き絵が妙に不気味さを漂わせる。

 ラクガンは口元に微笑みを浮かべながら、恐ろしいでしょう、と二人に訊ねる。

 タツタは壁の絵と住職の顔を見比べながら、緊張した面持ちで短く返事を返した。

 その反応が面白かったのか、嬉しそうに首を揺らしながら小さく笑いラクガンは壁に近づき右手を添えた。

 

 「ここから先はあなた様もはじめてでしょう。ヒュウジさん」

 はっとなってヒュウジは気づく、聡い住職にまかせるがまま自分達の素性を名乗っていなかったことに。

 反射的に、という具合でヒュウジは訊ねる。

 「なぜ、自分の名を――、」

 ほっほっほ、といままでとは違い小気味よく笑うとラクガンは長いひげを撫でる。

 それから右手に力を入れて木壁を押す仕草をみせた。

 ぎいっと軋む音が低く鳴り、壁が奥へと押し広げられてゆく。

 鬼喰い鶏が描かれたちょうど真ん中を割って、木壁だと思っていたその扉はゆっくりと開いてゆく。

 目の前にさらに道か続き、先ほどとは打って変わって緑が生い茂る細い道が目の前に現れた。

 色褪せた竹柵で囲まれ、さらに石畳は奥へと続く。

 こちらです、と静かに告げるとラクガンはまた二人の先を歩き始めた。

 どこかそわそわしているタツタの気配を感じ取ってか、ラクガンは肩を揺らす。

 

 ヒュウジは改めてという具合に挨拶を交わした。

 「申し遅れました。私は十番隊見分役、ヒュウジ」

 慌てて隣を歩くタツタも同じように名乗った。

 「ええ、ええ、存じています。特にヒュウジさん、あなたの事は」

 「自分を、ですか? 先ほども不思議に思いましたが、住職とは初対面のはず」

 ゆっくりとうなずきラクガンはいきさつを話す。

 

 「はい、わたくしもこうして直にお話しするのは初めてです。ですが、数年前にお父上と何度か足を運んでいましたね」

 言われて昔の断片的な記憶が蘇る。

 「確かに、以前お世話に――、しかしその時はラクガン殿はおられませでした」

 「ええ、もちろん。私は本山を行き来していましたから」

 告げたあと、思い出したかのように声を低く、一定に洩らし付け加える。

 「この寺の名はもうご存じでしょう?」

 少し、いぶかしくというような表情をヒュウジは浮かべる。

 タツタが代わりに、という具合で呟くように答えた。

 「断崖寺、ですよね?」

 「はい、その通りです。ですが崖なんて一つもありません」

 「あー、確かに」

 タツタは納得したような声を出すと辺りをきょろきょろと見渡す。

 「由来がありましてね、本当の寺は都より南西に位置した山奥に構えています。切り立った崖の、それはそれは険しい所にあります」

 理解したのか察してタツタはまた答える。

 「《断崖寺》ってそういうことですか」

 「はい。ここはいわば分寺わけでらでして、住職は持ち回りとなっています」

 ヒュウジはそこで察して言葉を出した。

 「なるほど、だから知っていてもおかしくないと」

 「ええ、あなた様のの事もよく知っています」

 告げられ、ヒュウジとタツタは互いに顔を傾け、視線を合わせる。

 「お父上の事もよく、存じていました。あのようなお人柄――、とても残念に思います。実に惜しい‥‥‥」

 ラクガンの寂しそうな声音が相まって、どこか哀愁漂う小さな背中をヒュウジは眺め、過去の記憶を頭の中で過らせた。

 自然と悲しくはなく、どこかほがらかな笑みを目元に浮かばせる。

 懐かしむ、そういった一瞬の表情をタツタは見逃さなかった。

 じっと見つめるようなタツタの視線に気づいたヒュウジは、訝しく眉をひそめて見せたあと、まるで訊くな、というような澄ました表情を見せた。

 

 その後、特に会話も無く細い道を奥へと進んだ。

 相変わらず静寂が包み、地面を踏みしめる音だけが小さく鳴るだけで時折、わずかな風に揺らめく草木のざわめきのみが耳へ届く。

 両脇の竹柵から向こうは鬱蒼と生い茂る草木だけが続いているが、本堂と同じよな造りの建物が木々の間からはっきり見えてくるとどうやら道の終わりを示していた。


 少し開けた場所に出ると目の前には一つの堂があった。

 本堂よりは小さいが造りはしっかりとしている。周辺は草木の多い場所だというのに蜘蛛の巣一つないところを見ると、手が行き届いているように感じられた。

 「ここはその昔、寝泊まりする僧堂として使われていました」

 律儀に説明するラクガンは、そのまますたすたと軽い足取りで進み始めた。

 

 大きく開けた一段高い入口の両脇には守衛である隊士の姿があった。

 夕刻過ぎとはいえまだ明るいというのに、均等に配置された石造りの灯篭とうろうには火が揺らめていていた。

 ラクガンの姿を確認して隊士達が掌を合わせ一礼する。

 同じ破魔役の装束ではあるが、その頭は綺麗に剃られていた。

 雰囲気といいその風貌といい、どこか見慣れぬものを見ている気分を抱く。

 「ささ、どうぞ。この中です。遁甲衆がお待ちです」

 左手で僧衣の袖を支えるとラクガンはすっと右手で指し示す。

 促されるまま二人は段差を上がって入口の中へと入ってゆく。

 「では、わたくしのお役目はここまで。後ほどお会いしましょう」

 背中越しにそう告げられ二人は振り向く。

 小さな姿のラクガンは合掌して深く礼拝し踵を返した。

 その背を見送ってから前を向き直り、薄暗い上がりがまちの先を見渡した。

 

 

 来客の報せを悟ってか一人、真っ白な装束を見に纏った者が静かな足取りで奥からやってくる。

 頭からつま先まで真っ白な布で包まれ顔は頭巾から垂れ下がる白い布一枚で覆われている。さしずめ黒子ならぬ、という出で立ちだった。

 これが、遁甲衆を皆が《白衣はくい》と呼ぶ理由だ。

 

 ヒュウジはやってきた遁甲衆の一人に用件を伝えるとすぐさま籠った声で、どうぞこちらです、とだけ簡潔に答えると二人を先導する。

 

 ラクガンが言っていた僧堂と言われるこの場所は少し変わっていた。

 それは本堂のような造りや一般的な屋敷の内装を想像していたからだろう。

 だがここは違う。上がり框があって座敷などはあると見て取れるが、玄関口から奥までずっと土間床が続いている。

 光一つはいらないと言ったような室内は締め切られとても暗く感じるが、均等に置かれた壁掛けの燭台の明りが小さく、なんとか行く先を示している。

 「こちらです」

 案内の遁甲衆がはっきりとしてはいるが小さく告げる。

 そこには地面にぽっかりと縦長に広く開いた穴があった。

 覗き込むと石が敷き詰められた階段が見える。

 ヒュウジは静かにつぶやく。

 「地下室‥‥‥?」

 「はい、この先から我ら遁甲衆のとなっております」

 地下へ続く縦穴から、風に乗って僅かに鼻を突く臭いを感じると、二人は凝視する目をより顰めさせた。

 


 石造りの冷たい階段を、慎重な足取りで下ってゆくと開けた場所に降り立った。

 床や壁、天井など一面石で敷き詰められ圧迫感はあるものの、空気の流れがあるのかさほど息苦しさを感じはしなかった。

 さしずめ坑道といったような造りではあるが、天井や壁には燭台がもうけられ、先ほどの上の室内よりは明るくどれもはっきりと見て取れるという具合だ。

 

 「お待ちしておりました」

 すぐさま次の案内人が、と思いきやその人物は顔を覆う白い布を頭巾の上にたくし上げていた。

 瘦せこけたような表情が印象的でどこか病弱さを思わせる。

 目の下の隈は深く色濃く浮いていて、さらに目はぎょろっと大きく、顔を見合わせてから瞬き一つしていない。

 健康という言葉とは無縁でありそうなのにもかかわらず、この男はいやに身長が高く、顔色だけでは年齢すら読み取れない、なんとも異様な雰囲気の人物だった。


 「ヒュウジさんとタツタさんですね、私はヤクドウと申します。このを場を任されております」

 どこか弱々しい声音の男は深くお辞儀をする。

 一風変わった気配に、二人は少したじろぐ。

 「よ、よろしく頼む。それで例の丸薬の話しなのだが――、」

 と口にすると男は勢いよく頭を起こす。

 「ハイ! 実に素晴らしいです! いままで見たこともありません!」

 にかっと歯を見せるヤクドウと名乗る男の反応に二人は顔を見合わせた。

 「それにお二人の見分! ギノキさんから受け取りましたがこれも実に素晴らしい! すべて的を射ている見解。お見事としか言えません」

 声高なヤクドウに少し、ひきつったような表情をヒュウジは浮かべる。

 「そ、それはどうも。で、詳しい話をききたい」


 我に返ったのか、ヤクドウは短く咳払いをしたあとに二人についてくるよう促す。

 先へ進む最中、興奮気味のヤクドウは話を続けた。

 

 

 ヤクドウが言うには笑福屋の角まんじゅうに混入していた《丸薬》なるものは、どう調べても詳しいことがわからない、という簡潔なものだった。

 ただ一つだけ、特殊な薬液を煎じると妖魔や半魔などと同じ反応が観られ、以前捕えて解体した妖獣の肉片と比べても同じような変化が現れたという。


 この《変化》や《反応》というものは一体どういうものか、それは簡単に言えば《妖気》や《妖力》といった異様な痕跡、力によって起こる現象のことを指している。しかし、これもまた特殊であり、では反応しない。

 つまり、妖力の類を使う人間でも果ては動物でも反応はしないということだ。


 その代謝反応が示す条件は――、で決まる。

 

 これが妖魔の類を放ってはおけない最大の理由である。

 人をからかい困らせ、驚かせるなどという可愛い類ではないのだ。

 襲い、引き裂き、貪る、これが人々の妖獣妖魔に対する認識だ。

 

 「しかし本当に興味が湧いてくる反面、不可解でもあるのです」

 ヤクドウは歩き進みながら顔を向けることなく告げるように言う。

 「と、いうと?」

 顎先に指を添え考えるように短く唸るヤクドウ。

 「んー、いえ、例の丸薬を潰して甘団子の中に混ぜてネズミに食べさせたんです。そしたらネズミは一時もせずに死にました」

 平常心といった面持ちでさらりと言ってのける。

 「他にも、同じようにネズミより大きめな動物にも食べさせましたが結果は同じで皆一様に死に絶えましたね」

 言葉を聞き、タツタは嫌なものを見たというように顔を顰めさせた。

 短く唸ったように喉を鳴らせたあと反射的に呟くように言う。

 「それって、可哀想‥‥‥」

 ヤクドウは言葉を聞き不敵な笑みを口端に浮かべる。

 立ち止まり振り返るとタツタを直視した。

 「ここは、そういった場所です。そして我々もそういった務めがあります」

 両手を広げて見せるヤクドウの言葉には別段、怒りも苛立ちなども感情というものは乗っていなかった。ただ事実を答えたまで、そういった口ぶりだった。


 「我ら遁甲衆は簡単に、それも人に出来ぬ事をやるのが職務――、いえ責務。それが他からどう言われようが人間の世に必要であれば行うまで。我らはそうやって代々都に仕え、このヤハトという国の繁栄に貢献してきました。医術や薬学もその一つです――、とまあ言っても先代遁甲衆お歴々の功績なので、私にはあまり関係のないことですが、一応私も薬学の専門でもあります」

 どうにも、一つを言えば十通り言葉が返ってきそうな雰囲気を察してヒュウジは遮るように告げる。

 「ならば、タツタも何かしら学ぶところはあるという事だな」

 ヤクドウの、隈が目立つ目下にいぶかしさが浮かぶ。

 「こいつは見分役でもあるが、隊の中では医術や薬学に詳しい」

 口をとがらせ、ほー、とヤクドウは感心するような声を出す。

 「それはそれは! 良きお友達になれそうですね、タツタさん」

 「え、嫌です」

 露骨に、眉間にしわを寄せてからタツタは即答した。

 ヤクドウは似合わぬ笑顔を満面に浮かべると、踵を返し歩き始めた。

 気分をよくしたのか、かすかだが、鼻歌を刻んでいる。

 タツタはヒュウジの脇腹を自身の肘でぐっと押し付け、それから歩き始めた。

 

 「それでヤクドウ殿。先ほど話しですが、動物たちが死んだということでしたが、その丸薬自体が毒薬かなにか、ということだったのですか?」

 あー、と思い出したかのようにヤクドウは話を続けた。

 「いえ、そうでもないんですコレが」

 人差し指を立てみせるヤクドウに二人の視線が向く。

 「あまりにも異質なんです。毒なら、そうですね血を吐いたり、眠るように、というのが想像に容易いですが、はどれにも当てはまらない」

 「というと?」

 「はい、形を失っているんです」

 二人はその言葉に眉をひそめる。気配を察してかヤクドウは話し続けた。

 「言ってしまえばそのとしての本来あるべき姿ではなくなった、といえばいいでしょうか」

 「え……それはどういう‥‥‥」

 タツタが気後れしたように訊ねるとヤクドウは率直に答える。

 「肉の塊になったんです。こう、轢き潰したかのように。それでいて、これもまたんですが、筋肉や骨の形状まで異なるんです。進化の過程で得た生きるに最も必要とされる、我々人間でいえば手足や脳、動物たちでいえば爪や牙、そして四肢に至るまで、急激な変化がみられたのです!」

 言い終えると、どこか興奮気味に語ったせいか鼻から大きく息を吐く。

 

 ヤクドウは立ち止まり振り返る。一本道の広い坑道をある程度、進んだ頃合いだろうか。幾つも岐路はあったがどこも曲がらずただ真っ直ぐに歩いてきた。

 彼の背のすぐ向こうには横長の大きな格子が見える。それも大きく、木製の格子の一本一本が太く、分厚い鉄の蝶番ちょうばんや補強されたのか薄い金属板が格子に沿って一面に張られていた。

 同じ遁甲衆の装束を見に纏った者が二人、刺股さすまたを地面に突きたてるように構えて立っている。

 

 「ということで、解らないのならやってみる、これが遁甲衆の精神でして。今から一つ試してみようかと思います」

 言うと格子に近づき左腕を横へと大きく促すように開いた。

 「ご用意いたしました。で件の丸薬の効果を調べてみます」

 

 牢獄のそれと同じ格子の中を凝視するように目を細めると、二人は顔色を変えて驚愕した。

 目を大きく見開き、啞然とした面持ちだったが我に返ってタツタが声を上げる。

 「待ってください! これって、人じゃないですか!」

 平然とした様子でヤクドウは答える。

 「ええ、そうですよ。もちろん人間です」

 ヒュウジは格子の向こう側で磔のように、壁に鎖で繋がれた三人の男達から視線を外さなかった。

 義憤のような、何か言い表せられない怒りに似た熱いものが胸に滲んだ。

 「待ってくれ、ヤクドウ殿。さすがにそれは――、」

 彼の話でヒュウジはどこか、今朝方のの亡骸を思い返していた。

 異常に張り出た肩と腕、異形そのものといった様相、頭の中で何かが繋がる。

 怒りに満ちたタツタはヒュウジの言葉を遮って言ってのけた。

 「こんなの全然、もなんともないです!」

 ヤクドウは首をかしげて見せた。どこか、感性が二人とはズレていると、ここではっきりとヒュウジもタツタも理解した。

 理解してかヤクドウは明るく振る舞う。どこか落ち着かせるという物言いだった。

 「安心してください。この者達は罪人です。それも死を賜った者達です」

 やんわりと告げる言葉に、タツタは口をぽかりと開けていたがぎゅっと眉を寄せて睨みをきかせた。

 「そういうことを言っているんじゃないです! 人間なんですよ! 同じ! 動物とは違うんですよ! いくら死罪だからといって人として反しています!」

 腕を組んでヤクドウは、わざとらしく考えるような素振りをみせた。

 「それは――、つまり倫理観を私に問うてるということですか?」

 「そうです!」

 んー、と喉を鳴らせてからヤクドウは口を開く。

 「ヒュウジさんはどう思われます?」

 問われてヒュウジは、普段あまり見せることのない、激昂するようなタツタの姿に気後れするも素直に答えた。

 「自分も気が進まない。他に方法はないのか?」

 言葉通り、そして想像通りであろう。ヤクドウは件の丸薬を煎じてこの罪人たちでその症状を調べようとしているのだから、罪人とて人間だ。死罪だといっても人から受けた罰で人の手で刑が執行されこの世の役目を終える、そうであってほしいとどこかで願ってはいる。

 そう頭で考えていると、タツタも同じような事を訴えかける声が、考えに更ける耳に遠く籠って聴こえてきた。

 ヤクドウは言った、都の――、この国の繁栄、ひいては人々の安寧の為に、そして妖魔を討つという責務の下に、彼らも我々も、等しく時は流れてきた。

 だが、見過ごすことになるのでは――、という感情が一番強く湧いてはいた。

 

 訴えるタツタ、考え更けるヒュウジを見比べ、落ち着いた面持ちのヤクドウはとても残念そうにため息をこぼした。

 「やはり、お二人ともまだまだお若い」

 言葉を投げようとするタツタを遮ってヤクドウは言ってのけた。

 「では、動物なら良いというのですか? 人ではなく、違うものならばそれもよし、ということなのですか?」

 諭され、タツタは口の中に含んだ言葉をぐっと飲み込む。

 「動物でも同じ生き物。無論、人間もそうです。私もこうして同じ人間に手を下すということは非常に胸が苦しい」

 「だったら、他の手段を考えるべきじゃ――、」

 タツタの訴えもここで終止符が打たれる。

 ヤクドウは目を細めた。先ほどとは漂わせる雰囲気が異なった。


 「これは私の業なのですよ。いえ、我々人間、のです」

 

 ただならぬ雰囲気と言葉にその場がしんと静まり返る。

 どこかで流れている空気の細い高鳴りが、辺りには小さく響いていた。

 

 押し黙った二人を見て、ヤクドウは表情を変えた。にっと笑みを見せる。

 「では、納得していただきましょう。それで駄目ならば、そうですね私も人の子です。しばらくの間は他の方法を考えましょう」

 言うと壁に磔にされ、拘束される男を右から順に指し示してゆく。

 

 「この者は、人を殺しました。怨恨てやつですね。そして財産を奪った」

 何かの力に促されるよう示す方に自然と視線が向いてゆく。

 「次にこの男、女を強姦しました。それも複数。中には小さな子供まで。そして最後は女たちを殺しては遺体を切断し、川や茂みに捨て置きました」

 タツタは掌で口を覆う。

 「で、最後はこの男。真天一刀流の使い手であるようですが、己の力に溺れて辻斬りを繰り返しました。それも相手は剣も握ったことのないような旅商人や女子供、老人まで。捕縛されるまで武人と一度も立ち会ったことはなかったそうです」

 

 唖然とした面持ちの二人は、ただただ、目隠しをされ縄で猿轡さるぐつわされた磔の男達を見ていることがやっとだった。

 

 「さて、別段残された遺族の感情はさておいても、獣以下のこの者たちの処遇は果たして人並みの罰で裁かれるだけでいいのか、それとも――、」

 ごくりと息を呑んだ。

 「人の世に役立つ死に方で、今生の別れとするか、ですかねえ」

 

 二人は気圧されたように押し黙り、思いあぐねている様子だった。

 答えを導き出せぬまま、自然と視線が俯くが、ようやく一つを絞る。

 それでも――、と言いかけたときヤクドウが畳みかけるように言葉を発する。

 

 「やはり償いは必要。そう、それも人に貢献してこその償い! 残された遺族もこの者たちの縁者達にもそうすることによってきっと償いとなるでしょう。これは決して報いなのではありません。正当な償いと言えます」

 自負したような面持ちで言葉を投げるとヤクドウは小さく呟いて付け加える。

 「いえ――、遁甲衆われわれにはといってもよい行いかもしれませんね」

 

 何も反論できず、二人はただヤクドウから視線を外さぬことだけが、訴えかける最後の手段でしかなかった。

 もちろん、頭の片隅では理解はしている。大昔から遁甲衆が何を行ってきたか、薬学がどう受け継がれてきたか、医術がどう試され広まってきたかを。

 だが実際に目の当たりにしたことで、培ってきた教養からなる道徳心が強く、胸の中で反発しているのが感じ取れた。

 ただ反面、罪人達が犯した罪の重さを耳にしてから、ではないのか、という自分がいることも認識しまってから正直、小さな葛藤は続いている。

 それはヒュウジ、タツタ二人とも同じ心境であった。

 怒りとは違う何かが頭と胸中に蠢いていて、気分が傾く思いだ。

 

 二人の様子を窺ってからヤクドウは、一息ついたような仕草で息を吐く。

 「お二人はこの件に関して何も罪悪感を抱くことはありません」

 二人の目が少し丸くなった。ヤクドウのあっけらかんとした態度にいよいよ理解が追い付かなくなった、訳ではない。

 次の言葉で喉に引っかかったわだかまりが僅かに、吐息とともに流れ出た。

 「もともと、この罪人たちは我々が手掛けた新薬を試そうと思いすでに用意されていただけです。たまたま今回件の事が舞い込んだため急遽」

 だが胸のつかえは取れてはいない。それでも、人が人を罰するにはあまりに禁忌じみた――、いや禁忌に他ならない行為ともいえるからだ。

 しかし、二人の道徳心も矜持も、抱いていた罪悪感や見過ごしてしまう負い目でさえも、掌握してしまう言葉をヤクドウは最後の一手とした。


 「加えて、これは四司である寺社役と我ら頭領、そして妖魔取締破魔役、あなた方の局長などの承認も得ていること、それはお忘れなく」

 

 安堵、したくはなかった。だが心のどこかで小さな、怒りに近いものが解消され緩やかに溶けてゆくのが感じられそれですらどこか、自身を責めるような蟠りに近いものが炭のように黒く残っている気がしてならなかった。

 自分達より遥か上の存在らが認めたから、といっても簡単に気持ちを切り替えられるほど二人には、まだ人生の経験は乏しいともいえた。

 ヒュウジはタツタに顔を向けるが、彼女は俯いて押し黙っている。

 ここでタツタに問いかけても酷だろうと察してから、なんとか肩で大きく呼吸をする仕草を見せたあとヒュウジは承諾する。

 「了解した。自分たちに止める権限はない。いかようにもしてくれ」

 ようやく理解を得られた、という具合でヤクドウは微笑みをみせる。

 

 「では、早速」

 ゆったりとした面持ちでそう告げたあと、胸元から小瓶を三本取り出す。

 細長い硝子の瓶を手に持ち牢番のもとへと歩み寄ると端の格子扉を開けさせる。

 金具が擦れ合う音が小さく何度か鳴ったあと、扉の軋む音を辺りに響かせてから、ヤクドウは腰を曲げくぐって中へと入っていった。

 鍵を開けた牢番も後ろからついてゆくと、順に罪人達の首すじから腕を回し、くつわの縄を小刀で切ってゆく。

 皆、息苦しかったのか、よだれを垂らしながら呼吸をしてからかぶりを振る。

 一人は弱々しく命乞いをし、己の過ちを悔いている言葉を出し、もう一人はなんの反省の色も無く、罵詈雑言を並べる。

 あらかじめ決まっていた死罪を認識してか、三人のやり取りを聴いていたからなのか、これから起こることは想像に容易く理解しているのだろう。

 当然の反応ともいえた。

 その中でも一番静かで一言も喋らなかったのは辻斬りを繰り返した者だろうか。

 面持ちはどこかいさぎよく、腐っても武人ということなのだろう。

 

 ヤクドウは罪人達の言葉に耳を傾けることなく淡々と事を進める。

 牢番に刺股で首を押さえつけさせ、鼻をつまんで薬液を口の中へと流し込む。

 こぼさぬ様に顎に掌を当ててぐっと押し込むように口を閉じさせた。

 気が立っているような荒い口調で唾をまき散らす者は、硝子瓶ごと口の中へと詰め込まれる。男の頑丈な力強い顎にどうやら手こずっている様子だ。

 「あなた、少し煩いですよ?」

 言ってのけるとヤクドウは押し込むように、唇の辺りを拳で一突きした。

 ぎょっと目を大きくさせ男はとたんに静かになった。

 じゃりっと口の中で硝子が砕ける音が小さく篭る。

 血が滴る口を閉じさせ、鼻を摘まみ上げるヤクドウは静かに男を見詰める。

 ごくり、と喉が動いたのをみてしばらくしてから最後の男へと歩み寄った。

 辻斬り魔の罪人はすんなりと受け入れ、喉を鳴らせて全て飲み込んで見せた。

 

 やれやれ、といった具合に大きく息を吐き出しヤクドウは牢から出た。

 ヒュウジ、タツタ、二人の下へと再度歩み寄ると軽快に踵を返して格子側へと向き直った。

 その場で佇んだように、繋がれた三人を眺めながら唐突に話し出した。

 「外に、ここへ来る道すがら面白い絵があったでしょう?」

 ヒュウジは思い出して訊ねるように答える。

 「壁の、ラクガン殿が言っていた《鬼喰い鶏》、のことか?」

 「ええ、ええ……それです、それ」

 「それが一体?」

 「益妖えきようなんて揶揄する者達もいるんですがね、あれは正真正銘、妖獣の一種でして稀に人をも襲うんですが、逸話がありまして」

 「それが、鬼を喰う、ということか」

 「はい。私も実際見たことは無く、人づての話や書物でしか知識はありませんが、鬼を喰うとき、鬼火を操りそれで焼いて喰うらしいですよ」

 何を意図しているのかさっぱり見当もつかずヒュウジはただいぶかしんだ。

 「は我らにとって戒めのようなものなんです」

 「‥‥‥戒め?」

 「以前、いえ、大昔にラクガン和尚自らが、わざわざ火箸を焼いて描いたそうです。我らの歴史と行いを報いて、なのでしょうね」

 「つまり、どういうことだ?」

 そこでヤクドウは少し笑って見せる。

 「我らの所業は鬼ともとれる。鬼と似つかわしい。さりとて人間である。だからこそ鬼となる者は喰われる、という意味が込められているそうです」

 「なるほど、確かにラクガン殿の想いが伝わる」

 「でしょう。まあ、幼き子に言い聞かせる類でもありますが、正直に言いますと私は恐れています」

 「・・・・・・鬼喰い鶏を」

 「はい。若い頃は人であるかどうか自問したことさえあります。だからこそ何か理由をつけては乗り越え、善行として受け止めてきました。ですが、今日ほど自分が恐ろしくそしてこれから何が起こるか楽しみで、仕方がないのですよ」

 そこで鋭い笑みが口端に浮かぶ。二人には表情が窺えぬまま。


 どうやら、ヤクドウのあくなき探求心というものを、止める術は無いとヒュウジは悟る。人であって人で無いもの、そう俄かに感じていた。

 これもまた、《異能者》や《才覚者》の類なのではないかと。

 様子を窺うように傍らに顔を向けると、タツタは会話に加わることも無く、ヤクドウからは顔を背けている姿勢を保ったままだった。

 

 「さて、

 

 ヤクドウが愉悦のような感情を乗せて小さく呟いた。

 どちらにしても凶兆と言えるその言葉に、ヒュウジはどこか寒気を感じた。

 期待を膨らませ、ヤクドウは唇を噛むようにぎゅっと噤み目を更に大きくさせる。

 合掌させたように絡ませた指をせわしなく動かし、今か今かと落ち着きがない。

 好奇心と欲求で自身の胸を高鳴らせる鼓動に応じたのか――、それは起こる。

 

 燭台の火が小さく音を発てて揺らめいた。

 その空間にあるすべての灯が一斉に微動して皆の影をも歪にさせる。

 異様な気配が瞬時に張り詰めたかのようだ。

 流れる空気が、あからさまに変わったことを破魔士である二人は肌で感じる。

 じゃりじゃりと金属が小さく擦れ合うけたたましさが、牢の中から響いた。

 目を凝らし見ると、三人の罪人たちは痙攣したかのように身体を震えさせたと思いきや途端に、胸部を突き出すように大きく身体が波打つ。

 異常な光景にさすがの牢番二人も振り返りたじろいだ。

 罪人たちは声にならぬ呻きを洩らし、途端に叫ぶを繰り返す。

 四肢に繋いだかせが軋む音が聴こえ、留め具のびょうが弾け飛ぶ。

 

 ヤクドウは歓喜に満ちた想いを滲ませる表情で、一歩、また一歩と格子へとゆっくりと近づく。

 「こ、これは‥‥‥なんとも、異様な‥‥‥素晴らしい」

 僅かに震えた声でそう呟く。

 それからはっと我に返り、素早く胸元から薄い冊子と筆を取り出す。

 竹筆を握ると、もう一方の手で筆先を納めた先端を抜き取る。

 墨が浸されたその鞘部分の縁で筆先を整えようとしたが、あまりの興奮でぽろりと手元から零れ落ちる。

 ええい、と小さく苛立ちの声を洩らしながらも、ヤクドウは冊子を開いては折り曲げ、格子の中を観察しはじめた。

 ものすごい速さで綴り、挿絵を加え、すらすらと踊るように筆を滑らせる。

 牢屋の中も外も、それは異常ともいえる光景だった。

 

 「そうか、そういうことか、体内に巡る血流から、心の臓からそして動脈」

 なるほど、なるほど、と自問自答するように、ぶつぶつと口走る。

 背後で驚きの表情を浮かべる二人の呼び声にもまったく気づかないという様子でヤクドウは冊子と罪人たちを見比べ、熱心を通り越し無我夢中で書き記す。

 罪人たちを縛るかせが次々と太いびょうを弾かせ、外れてゆくそれすらも気づいていないようだった。

 

 異常な体内の活動で肉体的の変化が起こり、四肢や肩は異様なまでに太くそして張り出し、胸部からは肋骨が鋭く突き出ては血を吹き出す。

 あまりの苦しみに目隠しされた罪人たちの目下からは涙があふれ出ている。

 人間の口とは到底思えぬ大きく歪に変化したそこからは、野太い声を上げながら牛か馬ともとれぬ太く長い舌が、粘り気のある唾液とともに狂い踊る。

 模様のように赤く、肌の上に血管が浮かび上がり、皮膚の色も青黒く変色してはひび割れたような痕を形成してゆく。

 小さくぷちぷちと弾ける音と共に、肉が肥大してゆくのが見て取れた。

 一番変化が早かったのは真ん中の罪人。そして両脇の者達はまだ半身はをいまだ残している状態だった。

 

 気づけば、ヤクドウは格子の隙間の升目ますめから覗き込める位置まで近づいていた。

 くるりと首を振り向かせ両目を大きくさせたヤクドウは興奮気味に言う。

 「見てくださいお二人とも! これはすごい事になりましたぞ! 今朝方ここへと運ばれた半魔とほぼ同種! やはり私の考えは空論ではなかった!」

 「ヤクドウ殿!」

 ヒュウジは叫んだ。目の前の異変にではなくその迫り狂うに対して。

 低く軽快に笑うヤクドウは前を振り向くと、そこには人の手とは思えぬ大きく歪な掌が迫っていた。

 一つの轟音と共に太い格子も周辺を漂う空気も盛大に揺れる。

 甲高い驚きの叫びを短く上げると、ヤクドウは腰を抜かしたかのように後退りしたかと思えば尻餅をついた。

 既に化け物なった罪人が鎖と枷を断ち切り、ヤクドウへと襲い掛かったが、格子に阻まれ低く喉を鳴らしている。

 妖魔と化したそれは、大きな瞳で同じ方向に視線を合わせることはなく、左右が忙しく多方面に動いている。とても奇怪と言える光景だった。

 

 「は、はははは‥‥‥」

 震え笑うヤクドウはゆっくりと腕を上げ、目の前に指を向ける。

 「すごい、すごいですね、でも残念」

 化け物にそう告げると、腰の周りの土埃を払う仕草を見せながら立ち上がる。

 「格子は殺生鉄を両面に張った頑丈なものですよ。そう簡単には破れません」

 冷や汗を一筋、にやりと不敵に笑むと両脇の牢番に頷いて指示を出す。

 息の合った様子で牢番二人は頷き返し手近な格子に手を触れる。

 阻威そい――ッ、と一言、豪胆な、力強く腹から声を出す覇気を放つ。

 瞬時に、先ほど、妖魔が格子に肉迫したときと同じような轟音が鳴り響き、格子自らが衝撃を走らせたかのようだった。

 同時に妖魔となった者が大きく、物凄い勢いで格子から壁まで弾き飛ばされる。

 その威力なんたるか、肥大した妖魔の重さのせいか、弾き飛ばした力の所為か、妖魔は石壁にめり込み天井までひび割れが生じている。

 ごろり、と大きな石の欠片がひとつ壁から崩れ落ち、天井からもぱらぱらと破片が降り注ぐ。

 目の前の光景を見やるヒュウジとタツタは、唖然とした面持ちで立ち尽くした。

 丹術を練って妖力を引き出しそれを殺生鉄へと流し込んだ要領は頭ですぐに理解出来てはいた、がこれほどまでに凄まじいものかと目を疑う。

 遁甲衆を少し侮っていたこと、熟練の技を目の当たりにした事で言葉を失う。

 そんな二人をよそに、ヤクドウは格子の中を覗き込む。

 じっと観察するように、いや妖魔と化した者を舐めますように眺めていると、壁に埋もれた妖魔がゆっくりと動き出す。

 「ほお、やはりまだ動きますか」

 俄かにふらついた様に妖魔は立ち上がり、学習したのか格子を睨みつけてはどこか警戒している様子で間合いを保っていた。

 焦燥感を抑えきれず、喉を引き延ばしたかのように大きく叫ぶ。

 人間の仕草のように大きく鼻から息を吹き出すと、辺りを窺って両脇で蠢くものに目をつけた。

 いまだ人間の部分を残した罪人たちが、枷に繋がれたまま悶え苦しんでいた。

 妖魔は舌なめずりしながら近づくと、鋭い爪で罪人たちの腹を順に切り裂いていった。

 耳をつんざくような断末魔とともに、泥を弾くような音が響き渡る。

 はらわたを引きちぎっては大きな口へと運び、血を滴らせながら貪り、下品な咀嚼音が身震いを誘う。

 腹部を喰い破り、すぐにたいらげると次は四肢へと、そして最後は頭部を一口でかじっては低く、ぼりぼりと豪快な音を口の中で奏でさせた。

 

 その身の毛もよだつような光景を目の当たりにしてもまだ、ヤクドウは冷静な面持ちでじっと観察をし続けていた。

 「なるほど、やはり共食いもするということか、文献通りですね。これは、人だけではなく、あらゆる生き物全てを糧にする、まさに捕食者の域を超えている存在なのかもしれない‥‥‥ただの暴食なのか、それとも何か理由があるのか‥‥‥」

 顎を手で覆いヤクドウは考え唸る。

 

 周囲はおびただしい血が流れ、臓腑ぞうふがまき散らされた所為かむせ返るような異臭が漂い、今にも吐き気を催す寸前のタツタは、腕で口元を塞いでいる。

 その様子を窺ってからヒュウジはヤクドウの背に呼びかける。

 「それで‥‥‥ヤクドウ殿、この後どう見解を」

 耳を傾けるように、顔を横へと向け振り返る。

 「ああ、ええ。そうですね。一つはっきりしたことは、件の丸薬は人を妖魔へと変える力がある、ということが、観ての通り証明されました。あとはこのを解剖し、残った丸薬を比較しつつ研究を積み重ねるしかありません」

 ヒュウジは呆気にとられた。ここまでの事をしてたったそれだけか、という気持ちがぽつりと浮かんでいた。

 「実はこの妖魔に変わり果てた罪人へは、丸薬をそのまま一つを、残り二人にはその半分ずつを与えました。まだ半分ほど残ってはいますが、今後の比較の為に残しております。なので、頓挫しているわけでなくこれからが本格的に我らの務めが始まる、ということになります。ゆえに究明するには時を要する、としか今は」

 両方の掌を開いて見せると、ヤクドウは小さく肩をすくませた。

 

 少し落胆した面持ちでヒュウジは呟く。

 「では、手掛かりというものは無し、か‥‥‥」

 何かしら真相を追えるものが掴めるかもしれない、という期待が大きかったためか、どこか肩透かしをくらう気持ちが過る。

 渋い表情を浮かべているヒュウジに気づき、ヤクドウは告げるように言う。

 「いえ、無いということはありませんよヒュウジさん」

 「‥‥‥では教えてほしい。どうすればこの丸薬の経緯に遡れのか。自分たちはそれを追っている」

 

 危険極まりない代物だということは、十分理解に足る光景を目の当たりにしている。大きな《厄事》が起こる前に何としてでも突き止めたい、という真摯さが表情からも言葉の端々からも滲み出ていることを、ヤクドウは感じてはいた。

 だからこそ自身も、抑えられぬ探求心をも含め、気が急く行いをしたことはこの場にいる誰もが知る由もない。

 やり方は違えど、目指すところはお互い、さして変わりは無いのだ。


 ヤクドウは静かに告げるように言う。まるで自分に言い聞かせるかのように。

 「‥‥‥見た目にそぐわず、せっかちなのですね」

 よろしいでしょう、と言ってから咳ばらいをする。

 「では、、と名付けましょうか‥‥‥?」

 二人は黙って次の言葉を待った。

 「つまりこれは妖魔などを芽吹かせる種のようなもの。似たような言葉が《奉天史偏ほうてんしへん》に記されていました。我々遁甲衆は、国史でもあるそれらの文献をもとに研究を行ったものも数多く、それは破魔士であるあなた方も例外ではないはず。妖魔の生態、対処法、受け継がれてきたそれら、そしていまだに解明されていない数多くの《異能》と《才覚》、糸口となるのはやはりそれら文献にある、と私は感じます」

 「では、それらを調べれば手掛かりを掴めると?」

 はい、とゆったりとした面持ちで返事をすると付け加える。

 「ですが、確実とは断言できません。有益な何かを得られる、というだけで気休めにもならない代物かもしれませんが、無駄ということは決してないでしょう。私も長年、取り組んできた経験上、得るものは多かった」

 そこでどこか懐かしむように目を細める。

 考えを巡らせヒュウジは静かに佇んむ。

 

 学問にも妖魔にも精通しているヤクドウが、この《種子》と名付けた丸薬がどういった原理で造られ、どういう経緯をもっているか、までは流石に知識として持ってはいなかったが、真相を探るには昔の書物に目を通す必要性があるとヤクドウの言葉に気づきを得た。

 そして問題はもう一つ、その出所だ。

 これら種子が危険であることは十分に解った。これらを影で流通させ暗躍している者にたどり着かねば解決とはいえない。

 心の中で、焦燥感の火がまた小さく灯る。

 難しい表情を浮かべるヒュウジにヤクドウはやんわりと声をかける。

 「何も一人で背負うことはないでしょう。私も協力する一人なのですから」

 はっとなったように表情を変え視線を向ける。

 「それはなんとも心強い。自分にはどうしても知識が及ばない所がある」

 ヤクドウは小さく軽快に笑う。

 「素直ですね。嫌いではないです。私もあなた方二人とは、どこか妙に馬が合う気がします」

 告げてからタツタの方へと顔を向けた。

 タツタ本人は視線を向けられると反射的に眼をそらす。

 何が面白かったのか、その反応を見てくすりと鼻で笑うと微笑みをみせた。

 

 ヤクドウは続けて話をした。

 「明日にでもすぐに、手持ちの知識をまとめた物を送らせましょう。何かお役に立てれば良いですが。それと種子で変異したこの妖魔に関する結果も――、」

 とそこで踵を返し、格子側へと向き直った。

 「早ければ――、」

 と言葉を口にした途端、ヤクドウの頭が消え去った。

 正確には、上顎から上部が無くなったと言えばいいか。

 突然、口にした言葉と共に頭部が昇華したように消え去る。

 二人は刹那の出来事にまだ何が起こったのかも理解できていない表情だった。

 瞬きを繰り返すと、ヤクドウの身体が崩れ去る姿がゆっくりと描写されてゆく。

 頭部があった場所から赤い霧が花弁のように開いてゆくさまを瞳で映し出していた。

 黒い影は物凄い速さで二人の頭上を越え、まるで蹴鞠のように軽々しく、天井や壁に鈍い音をまき散らしながら、拳で畳を叩いたかのような重い音を一つ最後に。

 ようやく我に返ったかのように、音の方へゆっくりと顔を向ける。

 そこにはまぎれもない、先ほどまで話をしていたヤクドウの頭部が転がっていた。

 

 唖然とした面持ちの二人は今起きているこの状況をすぐさま受け止めることができなかったが、瞬時に虚ろいだような意識をはっきりと目覚めさせたのは、耳が裂けるような妖魔の咆哮だった。

 牛とも羊とも近いが似て非なるその太い鳴き声が鼓膜を震わせる。

 

 いまだ信じられないと表情を浮かべながらも、格子の中で蠢くずんぐりとした黒い影に目をやる。

 何故、どうして、何が、という言葉が瞬時に過るが、身体は正直に反応しているようだった。

 関節という関節が小さく震えているようだ。腹部がきゅっと締め付けられ、鳥肌に近い何かが皮膚の表面を素早く這う。

 

 先に状況を把握して動いたのは牢番の二人だった。即座に身構えて刺股を突き出してはみたが既に遅かった。

 妖魔は牢番へと掌を向けて大きく開いて見せると、弾け飛ぶように牢番二人は交互に胴体を貫かれていった。

 升目のように等間隔の格子の間を狙ったのだろう、白い装束は胴体の傷口から赤黒く染められ色を侵食してゆく。

 地面に崩れ落ちてゆく牢番達はぴくりとも動かず、こと切れていると一瞥してもは解るほど傷口は凄惨さを表現してた。

 

 唐突に起こったヤクドウと牢番二人の死に対して、ヒュウジとタツタはただ茫然とする面持ちで目を見開いていることしかできなかった。

 嘔吐えずくような声で妖魔は醜く笑う。

 耳に残る汚らしい音でようやく目が覚めた様に身構えたのはタツタだった。

 「ヒュウジ、急いで皆に報せましょう!」

 妖魔から視線を外さぬまま顔を強張らせてはいたが、言葉にすぐさま反応しないヒュウジに目を向ける。

 ヒュウジは立ち尽くしていた。意識はあるしタツタの声も聞こえてはいた。だが、信じられないという気持ちが大きすぎてすぐさま行動に移れないでいた。

 半分は戦慄している、といっても良かったかもしれない。

 これまで、妖魔や妖獣と対峙してきたことはある、ががいてさらに数多くは事が終わった後、そういった凄惨な状況は目にしてきた。

 目の前で、それも先ほどまで会話していた者が、ほんのわずかな刹那といってもいい流れで消えていったのだ。

 ヒュウジにとって初めての事であったし、頭が追い付いていないというものと、自分をどれだけ過信し、このを見くびっていたかを改めて痛感していた。


 怒鳴るようなタツタの呼び声にようやく、声を洩らすように返事をする。

 そのあとでヤクドウの血と思われる一滴の飛沫しぶきを頬から拭い去さると、自身の震える手と血痕を見比べた。

 なんとも悍ましい――、とだけ感じ取る。

 その僅かな恐怖心をまくし立てるように妖魔は野太く叫ぶ。

 殺生鉄が張り巡らされた頑丈な格子に何度も拳を打ち付けては、身体を体当たりさせてを繰り返し、格子は脆くもあっというまにひしゃげてしまう。

 へし折れそうな格子を太い指で絡ませると、今にも弦が切れそうな、鉄が引きちぎられる歪な音が低く響いた。

 妖魔は太い腕にぐっと力を込めると、途端に筋肉がこれでもかというほど肥大し浮き出た青黒い血管が太くなる。そして大きな音を発てて格子を打ち破ったのだ。

 格子の破片は勢いよくばら撒かれ飛散してゆく。

 二人は反射的に両腕で顔を遮った姿勢で妖魔を見やると、その掌からは黒く鋭利なものが飛び出してるのを目にする。

 黒曜石のような光沢と歪な断面、妖魔は太い腕を後ろへと振るように引くとそれも同時に納まったかのように掌から消え去ってゆく。

 そして同じような物が肘の辺りから短く突き出した。

 ヒュウジはすぐさま理解する。

 どうやら、ヤクドウと牢番を仕留めたカラクリはにあったようだ。

 腕に納められた何かが槍のように突き出して物理的に行ったのだと。

 妖術の類でないことを悟って、どこか恐怖心が薄れる。

 だが、目の前の窮地からは逃れられていないことを改めて悟らされるのはタツタの威勢を耳にしてからだった。

 

 「――厄事やくじッ、抜刀!」


 傍らにいたタツタが端を発して大きく、力強く叫ぶ。

 すぐさま自身の得物を抜き去り、その殺生鉄で造られた間取り刀を構える。

 気後れしたがヒュウジも倣って柄を握りしめたが、急に違和感を感じた。

 妖魔に向けた視線を自身の利き手へと流す。柄の手が小刻みに震えている。

 ――おかしい、と言葉が過る。

 あれほど日々鍛錬を積んできたはずなのに、と悟るように思う。

 ただ単に、得物を抜き去ればいい話だ。流れるように、肘と肩を使い、そして手首に集中すればいいだけ、そう言い聞かせるような焦りを見せた瞳の色だった。

 こんな時に――、と焦れば焦るほど身体は思うように動いてはくれない。

 すらりと抜ける刀でさえ、鞘の鯉口と反りに阻まれ、かちかちと小さく音を鳴らせている。

 そんな状況を見かねてか、タツタがぐっと身を寄せてヒュウジの手から柄を荒っぽく振りほどく。

 それからヒュウジの代わりにという具合に間取り刀を左手で起用に抜き去ると、次いで革の帯当て目がけて腹を思い切り蹴り押した。

 素早く、あっという間の行動だった。

 蹴り飛ばされたヒュウジは大きく後ろに仰け反り、後ずさって地面に膝を付く。

 うなだれた様な姿勢で腹を抱えながら、顰めてタツタを見やると妖魔がすでに迫っていた。

 タツタは瞬時に悟ったかのように理解して意表を突くような行動にでたのだ。

 彼女には人より秀でた第六の感覚を持ち合わせていた。

 ただしそれは、相手と対峙したときのみ、才能というべき武術の天性からなるものともいえた。

 もちろん、ヒュウジは知る由もなかった。長年、職務を共にしてきたが彼女がこんなにも勇ましい姿を見せるとは、と。

 突拍子もなく腹を蹴られたことも忘れ、今では驚きで目を丸くする。

 

 タツタは寸での所で、という具合に妖魔が繰り出した黒い槍のようなものを右手の得物で捌き、左手で握りしめた間取り刀で妖魔の胸部を突き刺していた。

 「‥‥‥浅いか」

 そう呟くように洩らすと、素早く後ろへと跳ね飛び妖魔と間合いを取る。

 顔を向けず続けざまに言う。

 「借りますよ! ヒュウジ」

 律儀にそう告げると、自身より大きな妖魔へと身を低くして素早く詰める。

 妖魔は何が起きたのか理解できないというように、青黒い血が流れる胸に手をやって首をかしげて見せた。

 痛みを感じてはいないようだが、自身を傷をつけられたことに対してなのか、大きく咆哮すると視点が定まらないその眼でタツタを見るが既にそこに姿は無かった。

 タツタは素早く相手の懐に潜り込んで死角に入ると大きく腕を振るう。

 放つように十字に刻んだかと思えば次いで右へ左へ、振り払うように太刀筋が素早く的確に流れる。

 妖魔も声をあげながら太い腕を、まとわりついたようなタツタの動きを振りほどかんとするように大きく抵抗する様をみせた。

 しかし、タツタの動きは止まることは無かった。

 ただ斬るのではなく、動きに合わせて、相手の肌に沿って、繰り出される力を利用して刃は滑るように走る。

 そんな芸当が出来るのも彼女の武芸の才だけではなく、《丹術》を用いて他ならない――。

 一時的に身体的能力を引き上げ、常人をも超える能力が備わる総称が丹術である。

 それらは人に初めから備わっている妖力との結び付けで初めて開花し効果が表れるものだといえた。

 それぞれ生まれ持っての才の有無と同様、妖力も丹術を身に着けるのも違いがでるものでもあった。

 加えて殺生鉄に妖力を流し込むことで、妖獣妖魔にとってさらに効力を発揮する。これらを俗に《阻術そじゅつ》、《阻魔術そまじゅつ》と言われていた。

 妖獣妖魔も人と同じように妖力を体内に巡らせている。その流動を乱す行いをするのが殺生鉄であり、筋肉の動きや細胞組織に大きな障害を齎す。

 妖術、丹術、阻術、この三つを《廻点かいてん》と言い破魔役や在野の破魔士には必要不可欠でもあるすべであった。

 このどれかを妖力と結び付けて習得していないことには、妖獣妖魔のような化け物とは到底、渡り合えないとはっきりと言える。


 だが利点だけでは無い。優れているようで欠点もまた同時についてまわる。

 それを今、タツタは体現している様を見せた。

 

 大きな壁のように対峙する目の前の妖魔に対し、揺れることもなく真っ直ぐに視線を定めたままでいる。

 表情からはいまだ気力は消え去ってはいない。むしろ一歩も退かぬという覚悟さえ窺える。

 だが、明らかにタツタの様子はおかしかった。

 全身で呼吸をするように大きく肩を揺らし、頬からは汗が一筋、顎先へと伝う。

 一見して妖魔の苛烈な猛攻をかわし、それ以上に攻め手を緩めることなく優勢に事が進んでいる様にも観えていた。

 現に妖魔の体のいたるところにタツタが繰り出した刃の痕がおびただしい。

 殺生鉄の間取り刀の功あって傷も深く、青黒い血が流れ短く噴き出す。

 それでもなお、妖魔は平然といった面持ちで立ちはだかっている。

 

 タツタの口元に僅かだが焦りが浮かぶ。

 それもそうだ。《丹術》を用いるということはそれだけ自身にも負荷をかけるということに繋がる。

 妖力を用いて身体能力を上げるということはそういうことだ。

 術を維持し続ければ体のどこかしら、異常を訴える。

 さしずめ、タツタの場合は呼吸と筋に負荷がかかっているのだろう。

 男とは違い、女性でそれも小柄で筋力や体力にも差がある。今はなんとか己の武術の技量で補ってはいるが、どうやらタツタの欠点がここで現れたようだった。

 

 勘が鋭いのか、妖魔はタツタの表情が一瞬変わったのを見逃さなかった。

 嘲笑するように低く喉を鳴らすと、血を流しながらも腕を振るった。

 まるで獣のように、いや獣とはかけ離れたような素早さと動きで、タツタに詰め寄っては爪をたて牙をむく。

 タツタは動きを見切っては紙一重でかわし刃を繰り出す。

 ――だが限界がきた。

 

 樹の幹のような太い腕を掻い潜った瞬間、がくりと右足から力が抜け崩れ落ちるように地面へと膝を付く。

 睨め付けるように眉間に皴を寄せているが、その表情は苦しい。

 先ほどとは比べ物にならないほど汗が流れ呼吸が乱れていた。

 

 ヒュウジは立ち上がる。妖魔が腕を大きく振りかぶるその様を見て。

 脚に力を入れて駆けだそうとしていた。

 タツタは次に何が来るかを予測し、両手に持つ間取り刀を額の前で交差させた。

 なんとか、一撃だけは防げる。そう瞬時に悟り身構えた姿勢だった。

 が、妖魔は予想に反して振りかぶった右手ではなく、左腕で薙ぎ払った。

 

 鈍い音が短く鳴ったかと思うとタツタの身体は撥ね飛び、衝撃とともに石壁に叩きつけられた。

 短く咳吐くような声を洩らし、タツタは身もだえする様に身体を縮めている。

 相当な痛みが体中に奔ったに違いない。ぎゅっと目を閉じ痛みに耐えている。

 

 妖魔は止め、と言わんばかりに横たわるタツタに向き直り左腕を向ける。

 を放つその仕草だった。

 だが、妖魔はがくりと揺れ動く。

 違和感を感じ妖魔は自身の左脇にその醜い顔を向けた。

 そこにはヒュウジの姿があった。

 タツタが弾き飛ばされた瞬間、ヒュウジの間取り刀が手元から離れ地面を滑っていた。それを拾い上げ間髪入れずにという具合で妖魔の巨躯に突き刺したのだ。


 ヒュウジは目を大きく、こわばった表情を保ったまま歯を噛み締める。

 これでもか、というほど柄を握る手に力を込め、意気んだ声を短く発する。

 柄を捻り、突き刺した刀身の反りを返すと、妖魔の横っ腹を搔っ捌いた。


 固い表皮の内側から瞬時に刃が姿を現すと同時に、勢いよく血がほとばしる。さすがの妖魔もこれには驚いたのか、咄嗟に自身の脇腹をその大きな手で押さえ、聞くに堪えない音で吠える。

 血の滴った刀身を構え、ヒュウジは大きく息を吐き口元に少し笑みを浮かべた。

 驕りという笑みを。

 悶え叫ぶ妖魔は力任せに右手を振りぬくとヒュウジを軽く弾き飛ばす。

 ヒュウジは見切れてはいなかった。有効打を見舞ったことで気を抜いたのだ。

 無理もない、彼にとってこれが始めてのであったのだから。

 なんとかして身体を動かし、一太刀浴びせたことで、自身が臆していたことを払拭した気でいたのだ。僅かな拍子で詰めの甘さが出た。

 

 タツタとは反対側の石壁に叩きつけられたヒュウジは、同じように身を縮めて痛みに耐えていた。

 丹術を用いて身体能力を上げているとはいっても、痛覚はあまり変わりはない。

 骨の芯や内臓の深くまで、痛みがじわじわと広がってゆく。

 軋むような身体を何とか、という具合に、よろよろと立ち上がる。

 すでに意識を保つのがやっとだ。視界が霞んでぼやけて見える。

 妖魔の姿がただの黒い影のようにしか捉えられていない。

 そしてが漂っていた。

 

 ヒュウジは訝しくしたあとに拍子抜けしたように目を丸くする。

 途端に体中の痛みと目の前の妖魔に対しての恐怖心が薄れた。

 帯のような色がいくつも宙を漂い、見慣れた景色を覗いている。

 弾かれた衝撃でどうやら眼鏡がどこかへ飛ばされたのだろう。

 

 溜息のような吐息が漏れた。

 どこか諦めたような、腹を括ったような息の長さだ。

 寒さは感じられないのに吐き出す息が青白く漂い宙に消えてゆく。

 覆いかぶさるような目の前の黒い影はぼやぼやと蠢いているが、とてつもなく動きが鈍い。

 どうやらタツタへの意識は薄れ、腹を斬り割いた自分を標的に構えたのだろう。

 ――なんとか時間を稼げれば。

 妖魔の向こう側にかろうじて見えるタツタはようやく半身を起こした所だった。

 せめて、一時的にでも動きを止められれば、判断力のあるタツタならばこの場を逃れることが出来るはず。

 身を挺する覚悟を決め、ヒュウジは自身の右手に握る間取り刀を見やる。

 刀も右手もぶれているように何重にもなっている残像のような光景が、耳の鼓膜をつんざく細長い音と共に集束し焦点が定まる。

 いよいよ死期を感じたか、と直感めいた。

 そして不意に、夢で見た父の言葉が風景と共に頭の中で木霊する。


 『魔を取り祓う、なんだ』と。


 幼いヒュウジの頭を優しくなでると、父親はにっと口元に笑みを浮かべ自身の腰に携えた得物の鞘を握ってみせた。

 

 一瞬で頭の中にそれらが過ぎ去るのを感じたあと、妖魔に向き直り、開眼した。

 ヒュウジの瞳は七色に煌き瞳孔の帯のひとつひとつに色が流れ込んでいる。

 光を放つわけではないがくっきりとその存在感が表れていた。

 

 黒い影でしかなかった妖魔の姿もはっきりと捉え、鈍い動きのそれは大きく腕を振るい叩き潰さんとしている刹那だった。

 視界に映る赤い帯のようなものが二つ、妖魔をすり抜けるように流れて行った。

 直感で、その現象に従った。

 ヒュウジは右手を振り抜き、手首を切り替えしさらに振りぬいた。

 赤い帯を追いかけるようそれに沿って、忠実に的確に、刃が宙を斬る。

 

 タツタは衝撃を受けた。

 ようやく身を起こしヒュウジの助けに入ろうとしたその時だった。

 信じられない光景が目に飛び込んできたからだ。

 ヒュウジに襲いかかる妖魔の腕は吹き飛び、天井へと血しぶきとともに肉片が飛散する。次いで間髪入れずに胸部から上の胴体が捻じれた様に回転しながら宙を舞う。

 そして水を含んだような重い音を発てて地面へと落ちた。

 残された半身は水が滾々と沸くように血を流し、崩れてゆく。

 

 いったい何が、と唖然とした面持ちだった。

 ヒュウジが追い詰められなんとか立ち上がる光景は目にしていた。

 どちらかが生き残らなくてはならない、と思考を巡らそうとした矢先だった。

 だがいまはその考えさえ頭に浮かばず、ただただ目の前の光景をじっと眺めるように見ていることしかできなかった。

 地面へと崩れ去る妖魔の肉体を見送ったあと、タツタはヒュウジの姿を目の当たりにする。

 

 妖魔の青黒い血を被ったその表情の奥から、七色に輝く二つのまなこが妖しく尾を引いて灯っていた。

 タツタは身震いするほどの寒気を感じたあと、息を呑む。

 

 

 そして同時に、ヒュウジは力なくその場で倒れ込んだ。

 

 

 

 

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凶の祓い手 ーまがをはらいてー くうねるあそぶ @Hachidog

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